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瑞穂島

ここはちょっとアブナイかも知れません。もっと書き込んだ方がいいかもしれません。

第二次世界大戦以前の日本の一部を残すということで書いてみたのですが、もっと軍国主義を前面に出すべきだったかもしれません。

「やれやれだ。これで諸外国に対する交渉も日本国主導で行うことができるようになった・・・・」外務省事務次官補大沢長一郎は調印式を終えた首相や上司の事務次官を見送って、ホッと一息ついていた。場所は宿舎に割り当てられた迎賓館であった。本来、彼ら官僚が宿泊することはあまりないが、今回に限っては日本国総理大臣の随員として滞在していた。あいにくと、調印式を終えた総理や事務次官は国内状況もあって帰国することとなったが、大沢は後処理のため、三日ほど滞在する予定であった。


 ここ瑞穂島は面積が八四○九〇平方kmというから、ほぼ北海道ほどの大きさの楕円形の島であった。移転前には史実の朝鮮半島の位置にあり、日本の皇室に繋がる皇族を君主としていた。というのも、明治帝のころに分家したといわれている。第二次世界大戦時に、大日本帝国と正反対の立場を取り、連合国側に立ったが、対大日本帝国に対しては中立を守った。そんなわけで、第二次世界大戦後に結成された国際連合では米英仏ソに続く最後の常任理事国として名を連ね、敗戦によって改革が実行された日本国とは険悪な関係にあった。


 その後、敗戦した日本国に感化された大和民族統一を謳った軍人によるクーデターが発生し、その終結後に移転したものであった。結果、移転時には史実の大日本帝国に近い状態であったようだ。さらに、移転においては中国東北部の満州国、台湾、南洋領を領有した状態であった。一部地域を除いた世界のほどんどがその所属世界であったとされる。残念ながら、西欧諸国が情報提供しないため、詳細は不明であった。


 つまり、所属世界が現れ、そこに日本国や他の日系国家、北米ユーラシア大陸北部が移転してきたといっても良かった。とはいえ、微妙な相違点、たとえば、英仏においては第二次世界大戦が発生していなかった、などが多数存在したということで、瑞穂日本帝国の所属世界に似た世界からの移転が相次いだのではないか、後年にはそう考えられる用になった。いずれにしても、他の日系国家よりももっとも近い世界であったといえる。それが証拠に、いくつかの国には瑞穂日本帝国の大使館が存在し、ほぼ違和感なく、連絡が取られている。


 そんなわけで、統一戦争終結後の世界に与えた影響は大きく、英仏両国が介入すらしようとしていたといえる。結局、それよりも早く戦争が終結したことで、介入されることはなかったのである。それがため、冒頭の調印式となった。つまるところ、在欧州大使館が瑞穂州ではなく、日本皇国の組織に組み込むための調印であった。むろん、英仏その他数ヶ国が外交官を派遣してもいた。


 これら世界の列強といわれた先進国は、瑞穂日本帝国を短時間で破り、制服(彼らにとってはそうなる)した日本国を当初は認めることはなかったという。その後の平和的な対応と速やかに形成された日本皇国の建国宣言により、しぶしぶと容認することとなったといえる。また、その後すぐに発生した大艦隊出現と始まった世界大戦により、日本皇国について深く詮索している暇がなかったこともあって、皇国とは奇妙な関係のまま推移することとなった、というのが正確なところであろうと思われた。


 だからこそ、日本国の対応は慎重にならざるを得なかったといえる。山城帝国のような強引な対応はその後の世界、皇国を取り巻く国際環境の悪化にも繋がりかねなかったからである。少なくとも、技術的アドバンテージから対応を誤らなければ、これまでの経済的悪化を一掃することが可能だったといえる。そして、瑞穂日本帝国に対する対応が日本国に幸運をもたらすこととなりえる最初で最後のチャンスだった。


 当初、政治的にはあまり関与しなかった日本国であったが、統一戦争後のこれら情報により、深く関与するほかなかった。仮に、各州と同年代の世界であったとすれば、四〇年から五〇年も進んだ技術を不用意に世界に公表するわけには行かなかったからである。もしも、無制限に公開されれば、より混乱を増すことになり、日本の進んだ技術を手に入れようと各国が襲来する可能性もあったからである。その当時の日本国の軍事力は総数二六万人、いくら技術があるとはいえ、到底対応できるものではなかった。


 統一戦争の結果、軍事施設はほぼ壊滅状態であり、一部の生産施設も破壊されていた。これは徹底抗戦がおこなわれたためであり、日本国としても仕方がないことであったといえる。クーデターによって皇室に属する人物の多くが殺害されたが、自ら以上に強大な敵に際して、唯一の請っていた人物を保護し、逃がすためにすべての軍人が戦った結果だった。結局、それがかなわなかったことで降伏したわけで、少なくとも、末期には軍人の多くは一致団結していたといえる。


 もちろん、現天皇とは直接関係のないことであったが、日本国はそれなりの対応を見せていた。件の瑞穂皇室最後の人物は自らラジオ放送で、身の振り方を決断したことを公表していた。結果として、それが瑞穂日本帝国の多くの住民の反発を抑える結果となった。そんなわけで、日本国の外州となることを受け入れたといえる。それに対して、宮内庁の意を受けた政府は十分な対応を取り、それは他の四州以上に大きいものであった。それが瑞穂州の復興を早めた原因であったといえるだろう。


 その例として挙げられるのが、外州ではもっとも面積があり、かつ、人口が多いにも関わらず、ライフラインの整備がもっとも早かったことが挙げられる。僅か三年でそれがなされたのである。むろん、人口が多く、全島一致団結してその工事に当たったこともあるが、それでも異例の早さであった。ちなみに、秋津島で四年、山城島や北の二島では六年を要している。つまり、日本国からの技術者派遣がもっとも多かったといえる。


 そして、多くの軍需工場があったが、それを民需に切り替えるよう指示し、その面でも介入がなされている。これは秋津島でも山城島でも同様であった。総人口がほぼ三倍になり、未開拓の領土が増えたことで転換しても十分利益を上げることが可能だった、そういえるのである。ちなみに、北の二州では造船など一部を除いてそれほど軍需工場は建設されていなかった。その多くは輸入に頼っていたからである。


 ただし、軍人教育に関しては徹底して行われた。当初、各州とも国としての存続を前提にしていたため、軍の存続を考えていた日本国であったが、連邦制を敷くにあたり、士官教育は日本国のみで実施され、各州には下士官養成学校、一般兵養成学校がおかれるに留まった。また、各州の士官はそれぞれ再教育を受けなければならないとされた。それでも、八〇万人の常備兵力に対して、瑞穂州だけで五〇万人の兵が志願していた。各州合計で二五○万人にも及んでいたのである。結局、技術的な観点から日本国三○万人、残る五○万人を各州から選抜することとなった。これらは移転暦五年には一応の解決を見ていた。


 件の瑞穂皇室最後の人物が旧日本国皇室に名を連ねたこともあると思われるが、外州ではもっとも天皇崇拝意識が強く、極一部の軍民には天皇親政などという集団もあったという。毎年年頭にはツアーで大集団が皇居を訪れており、年に一度は天皇が訪問し、皇室関係者も含めれば、毎月だれかしらが訪問しているといえた。つまり、後に出現する聨合艦隊将兵と瑞穂州では政治家の訪問による説得よりも天皇のお言葉のほうが効果があったといわれる所以でもあった。


 移転前に比較すれば、南に現れたことで、気候など環境的に変わっていたが、日本の農業技術導入で食料自給は可能であった。島の大きさもあるが、人口が五〇〇〇万人であったことから、島民の一致団結による開発で復興が進んだ。ちなみに、ほぼ同じ大きさの北海道は人口五〇〇万人、一〇倍近い開きがあり、環境的にも北海道よりも暖かいとはいえ、その発展振りが判ることであった。


 政治的には、秋津島や山城島とともに日本国政府に与えた影響は大きいといえた。特に外交では常に強硬であり、日本国の押しの弱さを補うという立場にあった。つまり、日本国の押しの弱さが解決されることとなった。日本国は常にブレーキ役であり、ひいては日本国の外交下手を若干なりとも解消することとなったといえる。彼ら三島のバックにいる国民数は日本国よりも多く、政府としても無視するわけにはいかなかったのである。さらに、統合を機に、二元代表制(内閣総理大臣も国会議員も国民が選ぶ)に移行したことで、アメリカの指導によって二元代表制を敷いていた秋津島の影響が強くなると考えられていた。が、瑞穂州の影響もそれなりに強かったといえる。その結果が政府閣僚の最大五人までを国会議員から選出することが可能、という結果に現れている。とはいえ、現役議員を選出する総理大臣は移転暦二〇年時点で現れることはなく、今後も現れないだろうという意見が多かった。もちろん、選出され、就任した議員は国会議員たる資格を消失することになる。


 さらに、後に変わったとはいえ、当初、各地に派遣されている大使館の人員のほとんどが瑞穂州からの人員であったということにある。この世界の国際的な状況把握が行われるには、瑞穂州のデータが必要であったことにも現れている。微妙な相違があるにせよ、その多くがこの世界に当てはまったからである。


 大沢は調印後、一度は日本国に帰るものの、半年後には再びこの地を訪れ、移転暦一五年まで滞在することとなった。いくら日本国主導で外交交渉を行えるとはいえ、何も知らずには対応が難しいため、ここに保管されているデータが必要だった。さらに、一年や二年で官僚システムが更新されるはずもなく、日本国と瑞穂州とのパイプ役ともいえる地位についていた。もちろん、瑞穂島に対する日本国の関与の多くは彼を通すことになる。その意味で、瑞穂島の開発が早かった一因として彼の存在があった。


 瑞穂島が真の意味で旧日本国主導の皇国政治に移行したのはこの移転暦一五年であったといわれる。これは秋津島でも同じであったが、他の三州では移転暦一〇年までに組みこまれていたといえる。後に外州に派遣された外務官僚や閣僚経験者が集まったおり、世界大戦と第三次南北戦争がなければ、日本皇国がここまで短期間でまとまることはなかっただろう、そういわれている。なぜなら、移転前の日本国を考えれば、このような短期間で主義主張の異なる地域を纏めることなど不可能であると思われるからである。


 移転暦一五年にはほぼ日本となんら変わらない状況までになっていた。秋津州と並んでもっとも短期間で、日本国の技術レベルまで達した地域といえる。経済的にも、それなりに大きい油田が発見されたことにより、後に瑞穂ドリームと称される立身出世が話題になることとなった。


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