表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/19

沿海島

急いだのでちょっと違和感があるかも。いずれにしても、落ち着いたら加筆修正する可能盛大です。

「この国は日本と同じレベルに達するには時間がかかるだろうな。二〇年では難しいだろうが、何とかするしかないだろう・・・」外務省特別審議官の大田竜太郎はソファに腰掛けながら先ほど届けられた資料を見ながらそう思った。


 大田がこの沿海島に派遣されたのは移転暦二年八月のことであった。戦争が終結して一月後のことである。島の大きさは一八二六〇平方kmというから四国ほどの大きさであろうと思われる。そして、大田は進駐している陸上自衛隊の一部とともに全島を巡り歩いた。その結果が冒頭の言葉であった。


 島内は戦火のおよんだところ以外は平穏といえたが、もとの暮らしぶりから見て史実の第二次世界大戦後の日本のようであると大田には思われた。都市部以外では食糧事情が最悪で、電気はともかくとして、ガスや水道といったライフラインも第二次世界大戦直後の日本よりも劣っていたといえるだろう。


 建築物はロシアの影響を受けているせいか、ロシア調のものが多かった。しかし、その多くは移転による地震で損傷しているものが多く見られた。そうして、復興には衣食住すべてがゼロからのスタートとなることが確実であった。共産党一党独裁が長かったため、単なる食料支援だけでは、各地の住民にまで回らない可能性があったし、ライフラインの整備も進まない可能性があった。


 現在の状況として簡単に言えば、移転前の中華人民共和国に似ているともいえた。たしかに、資本主義に向かっていると思われるが、それも一部の人間だけで、地方に行くと、政府の支援がなければ、何もできないという状況なのである。復興のためには強力な指導力を持つ指導者が必要だと思われた。それも、既存の政治家を一掃するくらいの人物が必要であると思われた。大田は当初、島内からその指導者を選ぶつもりであった。しかし、そのような人物が存在するとは思われなかったのである。結果、自らがすべてを行わなければならない、そう決断するに至ったのである。ちなみに、大田は首相からの全権を得ていたため、それが可能だと思われたのである。


 まず手をつけたのが、ライフラインの整備と港湾の整備であった。これは日本から技術者を派遣してもらい、島民をその労働力とすることで早期の完成が見込まれた。ちなみに、日本国では経済不況のため、多くの人材が余剰人員として待機していたからこその計算であった。これらの公共事業により、幾分なりとも経済が良化すると思われた。


 住居建設も同様に考えられた。それまでの生活の場として、不自由ではあろうが、大型の体育館を思わせる建物を建設し、その中を仕切っただけの建物を多数建築、そこで生活させることとなった。仮設住宅などといっていられる数ではなかったからである。また、耐震技術もないゆえ、現地の建設業者には任せられなかったから、住居を建設することが不可能だったのである。


 とにかく、暖かいうちに何とかしなければならず、作業は急がれることとなった。特に、住居施設は仮設であるため、それほどの耐震構造を導入せず、耐寒を主目的に、現地の建設業者を総動員して建設されていった。これは、共産党員であろうが一般市民であろうが強力に推し進められた。確実に北海道よりも寒いと思われ、凍死者を出さないためであった。もっとも、後に判ったことであるが、彼ら自身は寒さに強く、ソ連の支配下にあったこともあり、我慢強い住民であったことも手伝って凍死者の発生はなかった。


 次に手をつけたのが、食料生産の可能性の調査と農業技術の導入であった。この島は移転前より南にあることがわかっていた。とはいえ、北海道よりも北にあるがゆえ、寒冷地であるため、作付け可能な農産物はそう多くない。幸いにして寒流であるリマン海流が移転前よりも北を流れていること、暖流の対馬海流の影響が強く、予想以上に暖かいと思われた。少なくとも、小麦などは作付け可能だと考えられた。北海道側ではより多くの農作物の栽培が可能であろうと思われた。専門家のアドバイスを元に農地開発を進めることとした。


 そして、破壊されつくした首都秋塩の復興であった。やはり大和民族の性なのか、多くの住民たちが参加していた。軍は解体され、行政システムも解体された上で、新しい行政システムが導入されることとなったが、大田はここで各種メディアを導入しての教育と指導にあてている。娯楽といえるものはほとんどなかったこの地では驚きをもって迎えられた。ラジオ放送があったものの、政府に統制されたもの以外は放送されることはなかったからであろう。


 しかし、大田の計画は翌三年の講和会議によって若干の変更を余儀なくされることとなった。この講和会議には、当然として大田は出席していない。彼の元に有能な政治家が現れたからである。前年暮、大田の前に現れた地方の市長が共産党独裁の中では稀ともいえるリベラルな考え方を持つ人物であったため、以後、大田はこの人物を中心に沿海島の復興を進めることとなった。つまり、彼にすべてを任せ、日本の政治システムや経済構造を教育していったのである。


 そうして、移転暦五年には一応の改革が終わることとなり、一部を除いて大田の手から離れて運営されることとなった。一部とは、外交面、日本国や他の州に対する対応であった。実際、この方面では、外交下手といわれる日本国よりも幼稚な対応しかできなかったためである。とはいえ、島内は順調に開発され、復興も進んでいった。幸運だったのは、港湾の整備とともに、既存の造船設備を更新していたことであった。これが結果として発展のきっかけとなりえたのである。


 もっとも、由古丹島ほど食料自給率は高くはならず、漁業以外は外州(日本を含む)からの購入に頼らざるを得なかった。そのため、工業生産や加工生産に力を入れざるを得なかった。もっとも、当初はお荷物州といわれるほどであったが、移転暦一五年には由古丹島を抜き、その成長ぶりを示している。


 地方政治的には、反共産を強め、第二次日ソ戦争のおりには、軍民あげて強硬に対応していたといえる。それはソ連の領土占領を主張していたことに現れている。これは、ソ連の支配を受けていたことで日本皇国の中で最低ランクのインフラ整備しかなされていなかったこと、技術力が低かったことの裏返しともいえた。


 しかし、東ロシア誕生後はその語学力、多くはロシア語を読み書きすることができていた、が生かされ、貿易の最前線にたつこととなった。旧日本国では貿易の仲介を求める企業も少なくなかったといわれる。いずれにしても、対ロシア語圏貿易には欠かせない地域となっていた。それは、移転前と同じく、東ロシア国東部地域は地下資源が豊富であり、原料から精製して各地へ輸送するというのがひとつの形となっていたからである。


 東ロシア国にとっては強大な影響力を持っていたが、それ以外の世界にはたいした影響を与えてはいなかった。僅かに、資源の精製に優れているということで北米に与えた影響があるが、それも、米国が本格的に工業生産を開始するまでであった。結局、世界には対して影響を与えることはなかった。しかし、皇国にとってはなくてはならない地域になり、旧日本国ではその存在が大きくなっていたといえるだろう。


 由古丹島と同じく、世界大戦中および第三次南北戦争期間中、もっとも発展した地域といえ、移転暦二〇年にはほぼ旧日本国と同等のレベルまでに発展し、旧日本国住民が違和感なく入っていけるまでになっていた。むろん、熟成された旧日本国とことなり、いろいろな歪は生じていたが、それでも、実質一五年で成し遂げられたとは考えられないほどであった。


 ちなみに、復興に大きな役割を果たした大田は移転暦一五年にはこの地を後にしている。もっとも、一〇年には大田はほとんどすることがなかったといわれているが、州知事がそれを許さず、参与としての滞在を強く望んだといわれる。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ