秋津島
ちらりと彼らの世界の日本の状況を出してみました。
現実では考えたくもない状況です。可能性があったかもしれない世界ですね。
私、三田順二がこの地に入ったのはこの年の一月であった。職業はしがないフリーのライターである。今回、外務省に勤める友人の伝をたどってこの地に入っていた。目的は、内情や文化などあらゆる面での情報をその友人に報告するためだった。一応、外務省の嘱託員としての身分を名乗っている。とはいえ、最初は受け入れられるかどうか判らず、最悪の場合、追放も覚悟していた。
しかし、外務省嘱託という身分が幸を表したのか、ほぼすべての場所に入ることが許され、民衆もそれを受け入れてくれた。ちなみに、最初に取材したのは当時の主席(大統領に相当)であった。彼はクーデター派に監禁されていたというが、私が会ったときは衰弱していたものの、快く応じてくれた。その他にも国防大臣や軍の最高司令官とも会っている。少なくとも、彼らは情報を正確に日本国に伝えるよう要請していたといえる。
私としても、今後のためにも、また、外務省の友人のためにもできるだけ正確に伝えることを約束していた。むろん、侵攻した陸上自衛隊を通じて日本国とのチャンネルは開かれていたが、あくまでも、軍を通じてのものであり、民意が報告されるとは考えていなかったようで、それが私に対する優遇処置へと現れていたのかもしれない。
移転暦三年四月、新国家誕生が約束され、新憲法が制定されつつある今、ここ秋津島は一応の安定化がなされ、復興に向けての準備が着々と進められていた。紀伊半島沖の南一〇〇kmにあるこの島は、大きさは四三六○○平方kmというから九州ほどの大きさで、緯度もあって暖かいといえる。さらに、紀伊海峡と太平洋側を流れる暖流の黒潮の影響もあり、九州の太平洋岸よりも沖縄に近い気候であったといわれる。
他の四州と異なり、日本国に直接侵攻したわけではないし、どちらかといえば、日本国が侵攻したといえる。ために、日本国国民の感情も他の四州に比較して良好であった。むしろ、依頼によるとはいえ、日本国が侵攻をしたことで、逆に引け目を感じているといえた。そうして、その内情を知るにつけて、日本国国民の感情が多く入ることとなる。他の四州以上に民間企業が多く進出を考えていた地域といえた。
事実、既にいくつかの企業が進出してもいた。これは、他の四州と異なり、統一戦争終結後、日本国の思惑とは別に民間が先に動いたという結果である。また、秋津州側も行政は別として、民間企業はそれを受け入れ、民衆も日本国の風習や文化を受け入れてもいた。実際、もっとも復興が早く、旧日本国の技術に追いついたことがそれを証明している。
移転前の彼らの世界の地図を見せてもらったが、ほとんどわれわれの世界と変わらない。しいて言えば、沖縄の位置に秋津島があったということが最大の違いであっただろう。だから、この移転により、この島は幾分か寒冷地化しているという。とはいえ、極端に寒冷地化したわけではなく、農作物もそれなりに生産できそうな状況であった。後に各州を回って思ったことであるが、移転した五州のうち、もっとも恵まれていたかもしれない。
島内に縦貫鉄道が整備されており、道路網も整備中であった。とはいえ、やはり車は右側通行であり、その点も沖縄に似ていたといえる。電機やガス、水道といったライフラインも整備中であり、おそらく、第二次世界大戦後の日本国と同様の状態だといえたかもしれない。史実の沖縄の面積がもっと大きければ、あるいは、アメリカの統治下ではなく、日本の統治下にあれば、鉄道は敷設されていた可能性が高いと思われる。
つまり、私が言いたいのは、文化的にも沖縄に近い、そういうことであった。むろん、歴史的に見た場合、沖縄とは異なり、琉球という国は存在していなかったといわれる。それでも、建築物など似ていると思われる部分があるといえよう。島の大きさが異なるため、まったく同じというわけではないが、沿岸部は良く似ていると感じた。
もうひとつ、アメリカが秋津島に軍事基地を置いていない理由であるが、秋津島の西北五〇kmほどのところに、沖縄本島の半分ほどの大きさの島が存在し、その島全島がアメリカ軍に接収、住民も秋津島に強制移住させられ、米軍基地化されていたためだという。だからこそ、多くの住民が存在する秋津島を放棄したのではないか、そう考えられている。ともあれ、各種法律や行政システムなどはアメリカの影響を強く受けており、日本国とは大きく異なるため、日本の法律や行政システムを導入するのはかなり難しいといえるだろう。
件の友人の話では、当初は良き隣国として接することを考えており、日本国の行政システムに組み入れることは考えていなかったらしいが、結局、先に述べたように、連邦国家として成立することになり、皇国の行政システムの構築には秋津島の行政システムを参考にしたといえる。つまるところ、アメリカと同じ、二元代表制、簡単に言えば、日本国の地方行政と似たシステム、にならざるを得なくなったという。そういう意味で、日本国も政治的に混乱しているといえた。
統一戦争において、日本国は反乱軍や軍の施設は攻撃したものの、造船所や工業地帯には攻撃を加えなかったため、産業基盤はほどんど破壊されなかったこともあり、民衆の生活はそれほど圧迫されていない。逆に、余剰農産物、米や小麦といった、は日本国や他の四州に輸出されることになり、皇国の食料事情の改善に大きく貢献していた。皇国の中でもっともバランスの取れた地域として発展することになった。島内だけで自給自足が可能で、かつ、工業生産も可能だったからである。
民間企業では日本国の規格、日本工業規格など既に情報収集を始めており、その導入に向かっていた。これは行政指導ではなく、民意で自発的に始められていたといえる。さらに、テレビやラジオなど各種メディアの導入もいち早く検討されていた。つまり、どこの州よりも早く、日本に溶け込もうとしているかのようであった。
事実として、その発展振りは五州で群を抜いて高く、もっとも早く、日本国の技術レベルに達しており、移転暦一五年ごろにはほぼ日本と同一のレベルのものが製造されるに至っていたという。私が滞在していた二年間でも急速に技術を我が物としていたように思う。後年、私は懇意になった旧政府関係者から聞いたのであるが、当時は元に戻る可能性も秋津島内で考えられており、それに備えての技術導入を急いでいたという。結局、もとの世界に戻ることはなかったが、それがあったればこそ、現在の発展があるという人物が多い。
言語的には当然として日本語が話されていたが、方言はかなりきつく、秋津島の側で標準語を使わなければ、日本国の誰もが理解しづらいといえた。例外的に、沖縄地方ではそれほど違和感なく、話されるようだった。また、アメリカ支配下に一〇年あったこともあり、若い世代では米語の普及が進んでいたといえる。もっとも、日本国の教育に近いといえた。
いずれにしても、秋津島の住民は日本国をそれほど問題なく受け入れていたといえるだろう。陸上自衛隊が侵攻したにもかかわらずである。もっとも、それには当時の秋津島の内政状態が大きく影響していたともいえる。秋津島の外務官僚の話によれば、当時は親米派と独自派に分かれており、独自派が大勢を占めていたが、親米派はそれを嫌って暴走した、ということだった。要するに、第二次世界大戦において、アメリカ軍の侵攻を許し、自らの力のなさを痛感した一部の政治家や軍人が早期の独自路線は早すぎる、としてアメリカの支援による国力充実を図ろうとした、ということが根本にあったようだった。
僅か一〇年とはいえ、西垣島(アメリカが軍事基地化した島)との格差を見せ付けられていたことが、その原因であったようだ。ちなみに、アメリカは日本を占領統治していたわけではなく、日米安全保障条約の締結もしていなかった。なぜなら、日本はソ連に占領され、共産主義化していたからである。当然として、秋津島が赤化した日本と対峙しなければならず、国の安全のためには軍備の増強が急務とされていた。
移転前には、ようやく九州を反共産で纏められるまでになっていた、という。これは九州だけではなく、各地で浸透しつつあり、日本列島では、暴動や紛争が日常的に起きていたといわれる。秋津島は列島開放、という目的に向かって対ソ連の軍備を増強していた、そういえるのである。しかし、親米派はそれを急ぎすぎた、というのが独自派の見方であったという。
そういうこともあり、親米派がクーデターにおよんだものと思われていたのである。移転後すぐは、われわれ日本国を赤化した日本だと考えていたようだったが、日本の電波、ラジオや民間無線の傍受により、そうでないと知ったがゆえに、島内の沈静化のために助力を願い出てきた、というのが実情のようであった。だからこそ、われわれ日本国の技術を一刻も早く我が物としたかったのかもしれない。
これらのことは当初は国家機密として公表されることはなかったが、移転暦五年には国内で公表されている。むろん、私は統一戦争後すぐにこの情報を得ることができたが、件の友人に知らせるに留めていた。自衛隊から政府上層部には知らされていたと思うが、官僚でも、局長クラス以下は知らされていなかったようである。だからこそ、それを慕った多くの官僚および国民は対共産という態度を明確にしたといえる。これが、北の二国について徹底的に思想教育が行われた理由なのかもしれない。そう思うのは私だけではないはずである。
とにかく、秋津島においては当初から反共産が強い地域であった。日本国の共産党議員の来島すら拒絶していたほどだったのだから。対ソ連に対しては強硬論が上がっていたのは常に秋津島だった。だが、北の二国への支援に関しては他の二州や日本国に比べて非常に協力的であったというが、それは皇国構成州の中に共産主義的思想を持ち込まれたくない、その意識が強かったためかもしれない。私にとっては赤化した日本など想像もできないが、彼らは相当に辛い経験をした、と想像するしかない。
私は移転暦五年にこの地を離れることとなったが、そのときには日本国の一九七〇年代とそれほど変わらなかったと思う。そうして私が次にこの地を訪れたのは一〇年後のことであったが、そのときには既に旧日本国となんら変わらない状況であったと思った。街にはコンビニがあふれ、ファーストフードの店が立ち並び、携帯電話が普通に使われていたからである。もちろん、時間をかけて熟成された旧日本国と異なり、どこか歪みを生じている部分もあったが、それでも、大都市では東京の下町となんら変わらなかったように思える。
ちなみに、その当時、テレビや冷蔵庫、洗濯機といった家電製品は普通に各家庭にあり、自動車も軽自動車を中心に増加傾向にあったといえる。たしかに、戦時中ではあったが、特需により、その購買力が他の四州に比べて遥かに高かったといえる。それほどに、州内は発展しており、まだ発展の余地は十分に残されていたといえる。これは僅か一〇年とはいえ、アメリカに支配されていた名残ではなかろうか、私はそう思うのである。
世界が一応の安定化をみた移転暦二〇年には旧日本国となんら変わらず、パソコンによるネットワークが普及し、真の意味で変わらない環境であったとされる。南秋津市は世界的に貨物集積地として発展し、ここから皇国内やアメリカ大陸、満州、東エルサレム、東ロシアへと運ばれていったといわれる。これはすぐ近くに黒潮が流れており、それが影響していたといわれるが、それ以外にも地形的な状況がそうさせたのかもしれない。いってみれば、移転前のUAEドバイがこの南秋津市であったといえ、太平洋の物流を支配していたともいえる。