由古丹島
思いつきで書いたので本編とリンクしていない部分があるかもしれません。後に加筆修正する可能盛大です。しばらく、外州について書きます。
とはいえ、相当こじつけが多いです。何せ、プロットも何もありませんから。なお、気候的要因については創作ですので実際と異なると思われますし、日本列島の緯度経度が変わらないとしたらこうなるかも、という設定です。本格的に新しい世界を作るのは難しいです。
「この島は混乱が酷いな、統一戦争終結後間もないから仕方がないが・・・」外務省特別審議官の松井聡一郎は尻古丹の港を見てそう呟いた。
松井が派遣されたのは由古丹島という聞きなれない島であった。位置的には根室半島の東南五〇kmにあり、面積は一八四〇〇平方kmというから、ほぼ四国と同じほどであった。統一戦争当時は日本民主共和国と名乗っていたが、今後は由古丹州となるだろうと聞いている。この一ヶ月の間、島の各地をめぐってきたが、その生活ぶりは酷いものであった。
移転前の赤い半島に似ていなくもないが、あれよりはましであった。少なくとも、食料配給はなされており、餓死する心配はないことが救いであった。しかし、今後の日本国の対応次第では多量に発生する可能性が高かった。島の南部では稲作が可能だと思われるが、現状では栽培、否、農地として開拓すらされていない。理由は明白で、移転前は北東に向かって伸びていたため、寒冷地であり、あらゆる農作物が作付けできなかったらしい。
今は北海道からの食料支援で何とかなっているが、それもあまり長続きしないだろう。少なくとも、北海道よりも平均気温が高いはずであり、今後は食料の自給が可能だと思われた。しかし、農業すらされていなかった現状では、日本国の支援がなければ、何もできないと考えられる。七月の今から作付けできる農産物は限られているが、農水省から人員を派遣して調査しなければならないと思われた。北部はともかくとして、中南部は暖かいし、年間を通じて収穫できる作物、それも主食になりうるものが必要だと思われた。専門家ではないが、漁獲はそれなりにあるようだし、何とかなるだろう、というのが松井の考えであった。
行政は移転前のソ連や中華中央と同じ共産党による一党独裁政治であったようで、こちらも改革が必要であるが、一朝一夕では難しいと思われた。救いは共産党による一党独裁政権になって一〇年しか過ぎていないことだと思われた。それ以前は第二次世界大戦のころの大日本帝国とほぼ同じであったというから、比較的早い時期に達成できる可能性があることだった。
ちなみに、松井のこの島での地位といえば、日本国総理大臣の全権ということになる。つまり、この島の復興が彼の肩にかかっているといえた。だからこそ、彼は強権発動も辞さない構えでこの地にきたのである。部下は今のところ、三人の外務省の若手だけであるが、必要であれば、各省庁から人員が派遣されることになっていた。残念ながら、日本からは陸上自衛隊一個大隊しか派遣されていないが、これは仕方がないことであった。まだ、南では戦闘が続いていたからである。
そうして、彼は既に手を打っていた。何よりも優先されるのが治安の維持と食料支援など人道的な支援であり、住民の生活保障であった。彼は当初、警察機構をそのまま利用するつもりであったが、住民の評判が良くないということで、軍、それも戦争の当事者ではなかった軍人主体の軍、をそれに充てていた。むろん、派遣されている陸上自衛隊も多くはそれに充てている。指揮官の今城幸一三佐はそれなりに有用な軍人で、松井は信頼していた。
島を一巡りして感じられたのは、建物はソ連の影響をほとんど受けていないといえた。ソ連による占領は約二年と短いためであろうと思われた。独立後はソ連の影響を強く受けていたようだが、建築物に関してはそれほど影響を受けていないと思われた。思想的にはソ連の占領から一二年と短いが、かなりの影響を受けているように思われた。秘密警察の存在がそれを表しているといえただろう。
ただ、住民の生活環境は劣悪だといわざるを得なかった。まず、電気や水道、ガスといったライフラインは完備されておらず、未だランタンを利用している地域が多く、調理に使用されるのは薪や石炭という有様だった。水道も極寒地であったのか、ほとんど整備されていないことがあった。また、電話といった通信手段は尻古丹など一部で整備されていたが、それは第二次世界大戦前の日本国と同程度であった。
行政はいうまでもないが、軍はそれほどでもなかった。一部、主に択捉島や国後島に侵攻した、は特殊軍とも言えるのがそうであるが、その他はそうでもなかった。再編途上ということもあったといえた。どちらかといえば、大日本帝国軍がそのまま残っているという状態であったかもしれない。少なくとも、一〇年で全軍を再編することは不可能だったということになる。これが、松井が治安維持に軍を利用している最大の理由であった。
むろん、秘密警察や特殊軍の解体は既に実施されており、共産党も解体されている。現状では、日本国が第二次世界大戦敗北後にGHQの占領政策を受けたの同様の体制にあった。これは議会もなく、いきなり議員政治に移行することが不可能ということもあるが、最大の原因は官僚に問題があったことによる。敗戦後の日本国ほど官僚が目的意識を持っていたらまた違うことであったといえる。
とにかく、あらゆる面で日本国とは違っていたといえる。むろん、移転によって環境が変わったこともあるが、それを差し引いても、日本国と同程度まで環境を整えるには少なくとも三〇年は要するのではないか、そう松井に思わせるほどであった。もっとも、逆に言えば、ゼロから始めることで環境は整えやすい、という意見もあった。
とはいえ、企業はそれなりに存在し、工業も発展していたことが救いといえた。しかし、いずれも国営企業として存在していたということに問題があったといえる。もとは民間企業であったが、ソ連の指導(という名の介入)により、国営とされていた。ただし、一〇年という短い期間であったこと、半数近くの従業員は民間企業時代を経験していることにより、民間企業として最出発してもやっていけるはずであった。
そして、娯楽や情報を知るためにラジオしかない地域に松井はいきなり映像メディアを持ち込んだのである。住民の教育(子供ではなく成人を対象)にテレビを利用している。むろん、北海道での放送がそのまま流されることになるが、これが、住民に与えた影響は限りなく大きいものであったようだ。思想的に大きく影響を与えたと思われるが、急速に日本国の情報が与えられたことで、心身症を発生するものも多くいたといわれる。日本国の利器は諸刃の剣であったということになる。
いろいろと問題はあったが、治安維持と食料や日常品、医薬品の補給もあって、住民の生活はある程度確保されているといえた。国後や択捉、根室に上陸していた兵たちも武装解除された上で送還されてきていた。このころには、松井の元に各種の書類が回されてきており、その中には秘密警察の人員名簿や特殊軍の人員名簿といったものが含まれていた。朗報といえるのは、反共産党書記長グループといわれ、監禁されていた共産党員数名が確保されたことであろう。
松井は彼らに当面の指揮を執らせることとし、同地の安定化を図ることとした。むろん、直接に面談し、その人となりを見極めたうえでのことである。少なくとも、その多くは侵攻に反対したものであり、それがゆえに監禁されていたといえた。内心はともかく、彼らは松井の言うとおりに動いていたといえるだろう。
尻古丹は島の北部オホーツク海側、移転前はもっとも南の太平洋側にあったという、にある港湾都市で、最大の都市でもあった。いわば、政治の中心であったといえる。ただし、現在ではそれほどいい場所とは言えず、新たな地域の開発を考えなければならない、と思われる場所であった、最大の軍港はここではなく、尻古丹の東に位置していたが、そこは既に廃墟ともいえる荒れようだった。しかし、現状では、尻古丹ほど軍港としての最適地はないと考えられている。北に脅威が存在するためで、オホーツク海と北太平洋に容易に進出が可能だからである。
そのため、松井の頭の中では、尻古丹を新しい軍港として開発し、首都(州都になるがこの時点では決定していなかった)をやや南よりの太平洋側の地域に移転させるつもりであった。南部に移動させないのは、それら地域では農業を定着させるつもりであったからである。島の内海側(日本列島より)は砂浜が多く、港湾として、開発するには向いていないが、太平洋側はリアス式の海岸が認められ、それなりに港湾として開発が可能だという点もあった。
とにかく、移転前とあまりにも環境が変わったせいか、多くの地域で混乱が続いていたといえる。先に述べたように、島の位置が北東に伸びる位置から南に伸びる位置に変わり、気候すら変わっていたのである。だからこそ、本当の意味でゼロからのスタートだといえたのである。彼らが日本国に侵略を働いた理由は、移転によって食料輸入が途絶えたこと、環境が変わったことだとされているが、それも頷けるものであった。
ちなみに、由古丹島の出現により、日本国にも大きな影響が出ている。特に、東北、北海道の平均気温が下がり、北海道の内海側では稲作が不可能とはいわないものの、かなり難しくなっていたのである。これは紀伊半島沖に弧状列島が出現したため、暖流である黒潮が二分されてその勢いが削がれ、逆に寒流の親潮が勢いを増したため、東北や北海道の太平洋側沿岸の温度を下げていると考えられていた。むろん、未だ海上自衛隊による調査が続けられている段階であり、本当のところは不明であった。
今後はおそらく、由古丹島の中南部が大規模な穀倉地帯となりうる可能性があり、農業開発が最重要となるかもしれない、そう松井に告げたのは農水省から派遣されてきた技官の弁であった。これがあったからこそ、松井は中南部を農業地域とする決定をした、と後に公言している。さらに、北部を工業中心で開発することもそのときに決めたのだといっている。
こうして、五年を経た移転暦七年には中南部では皇国有数の稲作地帯となり、ここでの収穫量が皇国の食料事情に影響を与えるまでになっていた。また、工業においても、これまでの工業地域を更地にするほどのゼロからの開発により、それなりの発展を見せていた。特に松井が力を入れたのは造船業であり、これは三年後、移転暦五年には中小型艦艇の建造が可能なまでに再生、結果として、聨合艦隊用の駆逐艦など多数の建造が行われている。むろん、旧日本国で建造するよりも費用が抑えられた、という最大の理由も存在するが、移転暦二〇年には旧日本国とほぼ変わらないまでに発展していた。僅か一三年でそこまでになりえたのは、再生に当たった松井の功績もあるが、やはり、民族性ともいえた。ちなみに、松井は移転暦八年三月をもって中央、外務省に戻っている。