↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

勇者の剣が抜けないので、台座ごと持っていきます

掲載日:2026/09/19

 聖剣は抜けなかった。


 俺は台座の下へ指をかけ、石ごと持ち上げようとした。

 こちらも動かなかった。


 どうやら俺は、石にも選ばれていないらしい。


「何をしているんだ、トマ」

「抜けないので、台座ごと持っていこうかと」

「それは分かる。腰で持ち上げるな」


 神官様は、思いがけず実用的な心配をしてくれた。

 俺は腰をさすりながら立ち上がった。


「勇者って、腰を痛めるものですか」

「その持ち方なら、誰でも痛める」


 そこには、身分の区別がなかった。


 神殿の窓を、雨が叩いている。

 二日前から降り続いている雨だった。


 昨日、町へ豆を売りに来た俺は、今朝、宿へ飛び込んできた幼なじみに叩き起こされた。


「川があふれた。大橋も落ちた」


 ミナは、靴の片方をなくしていた。

 村の裏手の渡しを使い、山道を越えて、ここまで知らせに来たのだという。


 村の人たちは高台へ逃げた。けれど、そこにも水が迫っている。

 裏の渡しには小舟が残っているから、山側へ渡れば、まだ町へ逃げられる。


 水だけなら、それでよかった。


「泥犬が出たの。大人たちが農具で追い払ってる。でも、子供や年寄りを連れて逃げる余裕がないの」


 泥犬。沼地に棲む、犬に似た魔物だ。

 濡れた泥をまとった体に、不釣り合いに大きな口。群れで獲物を囲み、人にも噛みつく。大雨の後には、畑まで出てくることがある。

 大人でも、一匹を農具で追い払うのがやっとだ。それが、逃げ場のない村にいる。


 俺は、寝台の脇に置いた豆の代金をつかんだ。

 その足で神殿へ来て、聖剣に挑んだ。

 結果は、先ほどのとおりである。


 勇者の剣は、俺の胸ほどの高さがある、細身の黒い台座に刺さっていた。

 柄の下から少しだけのぞく刃が、白く光っている。

 子供のころ、祭りのたびに抜こうとした剣だ。十九歳になった今でも、自分の手で抜くところを想像する。


 想像の中では、抜いた瞬間に歓声が上がる。

 現実では、俺の鼻息だけが神殿によく響いた。こんなに響く建物だったとは知らなかった。


 今日くらい、気を利かせてくれてもよかったのに。


「これがあれば、泥犬は近づけないんですよね」

「光の届くところにはな。せいぜい二十歩ほどだが」

「抜かなくても?」

「抜かなくても」


 神官様は窓の外を見た。


「門前の兵にも話はした。だが、下流でも人が取り残されている。山を越えてそちらへ向かえる者が、すぐ集まるかどうか……」

「だったら、先にこれを持っていきます」


 俺は台座の側面を叩いた。

 硬かった。

 手も痛かった。


「叩いても返事はしないよ」


 ミナに言われた。

 知っている。返事をしたのは、俺のほうだ。小さく『痛っ』と。


「荷車なら、運べますよね」


 神官様が、俺の顔を見た。

 扉のところで濡れた髪を絞っていたミナも、こちらを見た。


「町の守りに必要なら、借りられませんけど」

「ここには城壁の結界がある。剣がなくても、守りは残る」

「じゃあ」

「神殿の荷車では、底が抜けるぞ」

「そっちが抜けるんですか」

「そっちは抜くな」


 ミナが、失った靴の代わりに借りてきた長靴を鳴らした。


「石運びのガンツさん。あの人の荷車なら」


 俺は頷いた。


 勇者になるには、まず荷車を借りなければならないらしかった。


     *


「嫌だ」


 ガンツさんは即答した。

 ただし、話を聞き終わる前から、仕事場の太い綱を肩へかけていた。


「俺の荷車を、おまえらだけに預けるのは嫌だ」


 続いて、鉄の棒と木のくさびを拾う。


「どんな石だ」

「勇者の剣が刺さってる台座です」

「飾りの話はいい。石の大きさを言え」


 勇者の剣が、飾りにされた。

 俺が両手を広げると、ミナがその間隔を少し狭めた。


「それは、さっき持ち上げられなかった悔しさの分」

「そこまで大げさにしてないだろ」

「指二本分くらい」


 ガンツさんは、俺の手ではなくミナの手の幅を見て頷いた。


 神殿へ来たガンツさんは、台座の周囲を一周した。

 小さな金槌で石を叩き、首を振る。


「削るより運ぶほうが早いな」

「運べますか」

「道による」


 嫌な答えだった。

 重さなら石のせいにできるが、道は俺たちが選ばなくてはいけない。


 台座は床へ埋まっているわけではなかった。

 それでも、荷車に載せるまでに、神官様と神殿の下働き二人の手を借りた。


 少し浮かせては木を差し込み、止めて、持ち直す。

 俺は何度も「いけます」と言い、ガンツさんに「口よりそっちを持て」と言われた。


 ようやく荷台に収まったとき、聖剣は相変わらず、すました顔で光っていた。

 俺はすでに、一日働いたくらい汗をかいていた。


「せめて軽くなったりしないのか、これ」

「しないな」


 神官様の返事は、剣より頼もしいくらい揺るがなかった。


「せめて自分で歩くとか」

「歩かないな」

「光るほうは、もう十分なので……」


 祈りが届いたのか、刃がきらりと光った。

 そっちじゃない。


 俺たちは台座に綱を回し、荷台に縛りつけた。

 俺の結び目を見て、ガンツさんが黙ってほどいた。


「豆の袋なら、それでいい」

「石だと駄目ですか」

「豆は転がっても、拾えば済む」


 俺は素直に、結び方を見た。

 予備の綱も、棒も、くさびも積んだ。ミナは弓を肩にかけ、山道を描いた紙を上着の内側へ押し込んだ。


 出発のとき、神官様が見送ってくれた。


「剣を頼む」

「返せるかどうかは――」

「返すことは、村の人を助けてから考えなさい」


 俺は一度、頭を下げた。

 それから、荷車の引き手を握った。


 石運び用の頑丈な二輪荷車は、町の石畳を、ゆっくりと進み始めた。

 車輪が、ぎい、と鳴った。


「今の音、大丈夫ですか」

「いつもの音だ」


 次に、俺の口から同じような音が出た。

 こっちは、いつもの音ではなかった。


     *


 最初の問題は、町を出てすぐに現れた。


 山裾の沢を渡る木橋だった。

 ここを通れば、尾根を一つ越すだけで、村の裏の渡し場へ出られる。


 先へ行っていたミナが、橋の向こうから戻ってきた。


「人は通れる。私が来たときより、水は増えてるけど」


 ガンツさんが橋板を踏み、下の梁をのぞいた。

 俺は荷台から予備の綱を取った。


「俺たちが先に渡って、向こうから荷車だけ引けば――」

「石だけでも、この橋には重すぎる」


 荷台の台座を指される。

 俺たちの分を減らせば済む重さではなかった。


「落ちるかもしれませんか」

「渡れたら驚く」

「驚かせるのは、やめておきます」

「そうしてくれ。俺の荷車は泳げん」


 俺は橋の向こうを見た。

 木々の間に、村へ続く道が見えている。

 人間だけなら、すぐそこへ行ける。


 荷車の前へ戻り、聖剣の柄に手をかけた。

 力を入れる。

 剣は動かなかった。


「……ちょっとくらいは、試したくなるだろ」


 誰も何も言っていないのに、言い訳をした。


「抜けたら教えて。地図を畳むから」

「……広げてくれ」


 ミナは上着から紙を出した。


「沢の上まで回れば、橋を使わずに尾根へ出られる。遠いけど」

「どのくらい?」

「この荷物で歩いたこと、ないから」


 もっともだった。

 俺だって、初めて運ぶ。


「荷車で来た人の道案内は、ないのか」

「少なくとも、私の知り合いにはいない」

「今日から一人増えたな」

「無事に着いたらね」


 遠回りを選んだ。


 荷車を曲げるだけで、三人がかりだった。


     *


 山道に入って、俺は分かった。

 町の石畳は、たいへん親切な地面だったのだ。


 土は車輪を捕まえる。

 石は車輪を跳ね上げる。

 根っこは、その両方をする。


「木って、こんなに邪魔だったか」

「向こうは、先にここにいたから」


 ミナは木の肩を持った。

 できれば今は、荷車の横を持ってほしい。


 俺が前で引き、ガンツさんが後ろから押す。

 ミナは先の足場を見ては戻り、横から車輪を押した。


「右、少し上げて」

「少しって、どのくらい」

「それ以上は上がらないって顔をする手前まで」

「もうその顔だよ!」


 ガンツさんが声をかける。

 三人で力を合わせる。

 車輪が根を越えた。


 俺たちは喜びかけ、三歩先に、次の根を見つけた。


 いちいち喜んでいたら、日が暮れる。


「次も、せーのでいくよ」

「さっきの分の息がまだ戻ってない」

「じゃあ、息を吸って。せーの」

「準備が早い!」


 途中から、引く役と押す役を交代するようになった。

 俺は後ろへ回れば楽かと思った。

 違った。

 前へ戻れば少しはましかと思った。

 それも違った。


「楽な持ち場はないんですか」

「荷台の上だな」


 ガンツさんが顎で示した。

 そこには、朝から一度も交代してくれないやつがいた。


 上り坂の半ばで、左の車輪が泥にはまった。

 車輪に当てたくさびまで、柔らかな泥に沈んでしまう。

 ミナが、もっと大きな石を探しに行く。

 俺とガンツさんで荷車を支えていると、足元がずるりと滑った。


 車輪が、逆に回り始める。


「止まれ!」


 俺が言っても、石は止まらなかった。

 ガンツさんが荷台につないであった綱をつかみ、道脇の木へ回す。

 綱が張り、幹がきしんだ。

 ようやく、荷車が止まった。


 俺は引き手を握ったまま、膝をついた。

 ほんの少し下っただけなのに、胸の中が冷たくなっていた。


「重いやつは、止めるほうが怖いんだ」


 ガンツさんが、息を吐きながら言った。

 綱を握る手が震えていた。


 ミナが車輪の後ろへ石を入れた。

 俺はそれを見てから、ようやく手を緩めた。


「……悪い」

「謝るときは、息が戻ってからにしろ」


 ガンツさんは木の根元へ腰を下ろした。


「そのほうが、長く謝れる」


 俺は笑おうとして、咳き込んだ。


 ミナが干し肉を三つに分けた。

 枝の下で雨を避けながら、それを噛んだ。

 顎まで疲れているのかと思うくらい、硬かった。


「これも、石運び屋さんで買った?」

「肉屋。文句があるなら返して」


 俺は首を横に振り、急いで噛んだ。

 口を開く余裕がなくなった。ミナは買い物が上手だ。


 俺は自分の手を見た。

 指のつけ根に、まめができていた。

 朝、剣を握ったときにはなかったものだ。


「抜けてたらな」


 つい、言葉が漏れた。


「走って行けた。二人に、こんなことさせなくてよかった」


 ミナが、口の中の肉を飲み込んだ。


「抜けたら、剣を持つ係を交代でやったよ」

「一人で持てるだろ」

「私だって持ちたいもの。勇者の剣」


 それはそうかもしれない。


「私、抜いたら一度、肩に担いでみたかった」

「危ないだろ」

「さっき腰を痛めかけた人に言われたくない」


 俺は干し肉に専念した。


「でも、抜けないから」


 ミナは立ち上がり、荷車の後ろへ回った。


「次、私が押す」


 ガンツさんも、膝に手をついて立った。


「俺は横だ。腰を伸ばしたい」


 前の引き手が空いていた。

 俺は干し肉の最後を飲み込み、そこへ戻った。


 その先の曲がり角で、初めて泥犬を見た。


 犬というには、口が大きすぎた。

 木陰から、濡れた土を落としながら出てくる。喉の奥で、水の泡が弾けるような音がした。


 ミナが弓を構えるより先に、そいつの前脚が止まった。


 聖剣の白い光が、雨に濡れた落ち葉を照らしていた。

 その縁を、泥犬は越えなかった。


 横へ回る。

 俺たちも止まる。ガンツさんが車輪に石を噛ませた。

 そいつが一歩踏み込もうとして、口から泥を吐いた。


 やがて、木々の奥へ退いた。


 俺はずっと、息を止めていたらしい。

 ミナも、弓を下ろすのに少しかかった。


 俺は聖剣を見た。

 さっきまで、光るだけだと文句を言ってすみませんでした。

 できれば重さのほうも、引き続きご検討ください。


「……効くんだ」


 俺が言うと、ガンツさんは、車輪に噛ませた石を外した。


「だったら、早く持っていってやろう」


 車輪が回る。

 光も、その分だけ先へ進んだ。


     *


 木々の間から村が見えたとき、畑がなくなっていた。


 水の上に、屋根が浮かんでいるように見えた。

 実際には、家の下のほうが沈んでいるのだ。

 豆を干していた広場も、母がいつも洗濯物を広げる柵も、見えなかった。


 俺は足を速めかけた。

 引き手が両手に食い込み、止められる。


 ここまで来ても、石は重かった。


「裏の渡しへ下りるよ」


 ミナの声がした。

 俺は頷き、もう一度足元を見た。


 村の高台と山の裾の間には、ふだんは小さな流れがある。

 そこへ川からあふれた水が回り込み、今は濁って膨れ上がっていた。

 ただ、大きな岩の陰になる渡し口では、流れが少し緩んでいた。


 水の幅は十歩あまり。そのすぐ向こうの石段に、人がいた。

 家から逃げてきた人たちだ。剣を水際まで運べば、あの石段にも光が届きそうだった。

 俺の妹もいた。

 こちらを見つけ、手を振りかけた。


 その後ろで、黒いものが動いた。


 泥犬だった。

 一匹ではない。


 石段の上で、村の大人たちが農具を振っている。

 泥犬は離れ、また近づく。

 誰かが、子供を抱え直した。


 すぐに、荷車を水際へ向けた。

 ミナが前へ回り、俺とガンツさんで押した。


 車輪が半回転する。

 白い光の縁が、水面を渡った。


 対岸で、泥犬が跳び退いた。


「もう少し!」


 ミナが叫ぶ。

 俺は歯を食いしばった。


 車輪が石に当たる。

 一度戻し、角度を変える。

 押す。


 対岸の石段が、白い光に包まれた。

 泥犬たちが上へ逃げた。

 農具を握った人たちが、初めてこちらを向いた。


「そこから出るな! 光の中にいて!」


 俺は叫んだ。

 ガンツさんが車輪にくさびを噛ませた。


 水は、白い光の中を、変わらず流れていた。

 剣に頼めるのは、ここまでだった。


「トマ!」


 渡し守の爺さんが叫んだ。


「こっちの綱は生きとる! そっちの杭が抜けた!」


 向こう岸の太い樫には、渡し綱が結ばれていた。

 舟も残っている。

 けれど、こちら岸にあるはずの杭は、岸の土ごとなくなっていた。

 外れた綱の端が、水際の岩に引っかかっている。


 ミナが棒で綱を引き寄せた。

 ガンツさんが周りを見た。


「ここには、杭を打ち直す土がない」


 濡れた岩盤が、むき出しになっていた。

 流れを弱めている大岩は、ほとんど水の中だ。岸の岩も地面と一続きで、綱を回せる出っ張りがない。

 近くに綱を結べる木もなかった。


「人が持ってたら?」

「舟が流れに押されたら、人の腕じゃ支えきれん」


 俺は、さっきの山道を思い出した。

 荷車がほんの少し下がっただけで、止められなくなった手の感触を。


 台座を見た。


「これを使いましょう」


 ガンツさんが、俺の指した石を見る。


「ここへ下ろして、綱をかけられませんか」

「……岩のくぼみに据えりゃ、踏ん張るな」


 ガンツさんが頷いた。

 それから、荷車の下へかがんだ。


「ただし、荷台はばらす。のんびり下ろせる場所じゃない」


 町で、この荷車を借りるときの顔を思い出した。


「修理代、豆の代金じゃ足りませんか」

「全然足りん」


 ガンツさんは即答した。


「残りは、また豆を運べ」


 俺は頷いた。


 ガンツさんが金槌を振るった。

 外した厚板を、荷台から岩のくぼみまで斜めに渡す。

 台座に予備の綱を回し、その綱を荷車の軸へ一巻きした。

 俺とミナがその端を握ってから、ガンツさんは台座を荷台に縛りつけていた綱を解いた。

 台座の下へ鉄棒を差し込み、押し下げると、石がわずかに浮いた。

 俺たちは合図に合わせ、軸に回した綱を少しずつ送り出した。

 石が厚板の上を滑っていく。


 最後の一押しで、台座が地面へ収まった。


 腹の底に響く音がした。

 俺は泥の上に尻もちをついた。


 聖剣は、抜けなかった。

 台座ごと、渡し場へ着いた。


 ガンツさんが石と岩の隙間を確かめ、くさびを入れる。

 ミナが渡し綱を台座の根元へ回す。


 今朝は荷車へ載せるために石を動かした。

 今度は、何があっても動かないように据えた。

 剣が低くなっても、対岸の石段は白い光の中にあった。


     *


 最初の舟には、小さな子供たちが乗った。


 渡し綱を張り直すと、舟についた輪が、綱に沿って動けるようになった。

 舟に乗った爺さんが、両岸に渡した綱をたぐる。

 舟は流れに押されながらも、少しずつこちらへ近づいてきた。


 俺は岸へ腹ばいになり、差し出された手をつかんだ。


 子供の手は、冷たかった。

 村でいちばんよく走り回る子が、俺の袖を握ったまま離さなかった。


「着いたぞ」


 そう言っても、離さない。

 結局、抱えて舟から降ろした。


 次の子も、その次の子も、同じように降ろした。


 ミナは荷台の残りもばらし、板を岸の足場に並べた。

 ガンツさんは綱と台座を見ていた。


 舟が戻る。

 また来る。

 対岸の石段が、また一段、濁った水に隠れた。


 白い光の向こうで、泥犬たちがうろついていた。

 入ってはこない。

 ただ、いなくなりもしない。


 妹が渡ってきたとき、俺はようやく母の姿を確かめられた。

 母は向こう岸で、足を悪くした隣家の婆さんを支えていた。


「母さん、次で来いよ!」


 叫ぶと、片手が上がった。


 妹は俺の手のひらを見た。


「血、出てる」

「ちょっとむけただけだ」

「ちょっとじゃない」


 ミナが妹を抱くようにして、岸の奥の岩棚へ連れていった。

 俺は引き続き、舟から伸びてくる手を取った。


 最後に、母と婆さんが乗った。

 爺さんが岸を見回し、忘れている人がいないか声をかける。

 石段には、もう誰もいなかった。


 空になった石段から、舟が離れた。


 そのとき、上流から流れてきた枝の塊が、舟の横腹に当たった。


 舟が傾いた。


 母の肩が、濁った水へ近づく。

 爺さんが叫ぶ。

 綱が水を跳ね上げ、一直線に張った。


 俺は駆け寄りかけた。


「水へ入るな!」


 ガンツさんの声で、足が止まった。


 台座に巻かれた綱が鳴った。

 石と岩の間から、泥水が押し出された。


 石は、動かなかった。


 朝から俺を困らせ続けた重さが、濁った水の中で傾く舟を、つなぎとめていた。


 爺さんが棹で枝を押し離した。

 舟が揺れ、元の姿勢に戻る。

 母が婆さんを抱え直した。


 俺は岸の足場へ下り、身を低くした。


「こっちだ!」


 爺さんが、もう一度綱をたぐった。

 ミナが隣へ来た。

 舟が寄る。


 俺たちは婆さんの両脇を抱え、板の上へ引き上げた。

 母が続き、最後に爺さんが上がる。


 向こう岸は、空だった。


 村長が家ごとに名前を呼んだ。

 返事が上がる。

 何度か数え直して、最後に、村長が頷いた。


「みんな、おる」


 俺はその場に座り込んだ。


 しばらく、誰の顔も見られなかった。

 膝と、泥と、むけた自分の手のひらだけを見ていた。


 頭の上で、ガンツさんが言った。


「荷物は届いたな」


 俺は頷いた。

 声が出なかった。


 ミナも隣へ座った。

 しばらくして、肩が触れた。


「今度は、帰る道だね」

「……帰りも、あの山道か」

「でも、今度は石を運ばなくていいでしょ」


 二人で、車輪と板になったものを見た。

 ガンツさんが、長いため息をついた。


「帰りは、荷車を運ぶんだぞ」


 今度は、笑えた。


「荷車って、荷物を運ぶものですよね」

「今日はよく働いた。帰りくらい運んでやれ」


 ガンツさんが車輪についた泥をぬぐった。

 俺もよく働いたつもりだったが、誰も担いでくれそうになかった。


     *


 その夜は、台座のすぐ後ろにある、一段高い岩棚で過ごした。

 白い光は、そこまで届いていた。


 暗い山道を、子供や怪我人を連れて進むわけにはいかなかった。

 村の人たちが舟に積んだ布を広げ、荷台の板を使い、雨をしのぐ場所を作った。

 夕方には雨が弱まり、水かさも増えなくなった。

 それでも、大人たちは交代で川を見張ることにした。


 白い光は、焚き火ほど温かくはなかった。

 それでも、光の外をうろつく泥犬を見るたび、ここまで運んできてよかったと思った。


 俺は疲れすぎて眠れないと思っていた。

 母に手のひらを布で包んでもらった。

 妹が俺の肩に頭を預けたところまでは覚えている。

 次に気づいたときには、朝だった。


 山道の上から、人を呼ぶ声がした。


「神殿から話を聞いて来た! 村の者はいるか!」


 神官様が頼んでくれた兵たちだった。

 ミナが光の届くところから大きく手を振り、渡し場へ下りる道を教えた。

 食べ物と毛布が届いた。

 差し出されたパンを受け取ると、指で押したところがへこんだ。


「柔らかい……」

「昨日焼いたものだが」


 兵の人は、少し申し訳なさそうだった。

 隣でミナが、自分のパンを隠すように引き寄せた。


「私の分まで、そんな目で見ないで」

 兵たちは山道に残る泥犬を追い払い、安全を確かめ、子供たちから順に、町まで付き添っていった。


 俺が神殿へ戻れたのは、その次の日だった。

 ガンツさんと二人で、荷車だったものを担いでいった。


「剣は?」


 神官様に聞かれた。


「抜けませんでした」

「それは知っている。今、どこにある」

「裏の渡し場です。人が休める場所にしました。まだ、いるんです。泥犬が」


 神官様は、俺の手の包帯を見た。

 ガンツさんの肩に載った車輪も見た。


「では、そこに置いておこう」

「神殿に、剣を抜きに来る人がいたら?」

「場所を教える」


 ガンツさんが、肩の車輪を持ち直した。


「台座ごと返すと言い出したら、俺を呼ぶ前に止めてくれ」


 それから、剣の返却を求める代わりに、村の人たちの様子を尋ねた。

 俺は、一人ひとりの様子を話した。


 水が引くには時間がかかった。

 泥をかき出し、畑を直すのには、もっとかかった。


 渡し場の台座は、そのまま残った。

 周りには屋根がつき、腰かけが置かれた。

 向こう岸から荷物を運び出す人も、町から食べ物を届ける人も、そこで足を休めた。


 ガンツさんの荷車は、村の人たちと修理した。

 俺はその荷車で、麦と板を運んだ。

 石の台座が載っていない荷車は、嘘みたいに軽かった。


「これなら、もう一往復いけそうです」

「そうか。頼む」


 俺は口を閉じた。

 ミナが隣で頷いた。


「今のは、自分で言ったからね」


 あの日から、ひと月ほどたった昼下がり、俺たち三人が渡し場で休んでいると、子供たちが小さな手押し車を持ってきた。


 荷台には、木の棒を突き刺した土の塊が載っていた。


「何だ、それ」

「勇者の剣!」


 得意そうな返事があった。


「抜けるのか?」

「抜いちゃ駄目なの。向こうに困ってる人がいるから、持っていくの」


 丘の木陰で、妹が大げさに手を振っていた。

 助けを待つ役らしい。


「お兄ちゃんも、入る?」

「じゃあ、助けを待つ役を――」

「もういるから、押す人ね!」


 勇者の剣には選ばれなかったが、押す人にはすぐ選ばれた。


 子供たちは、車の前と後ろに回った。

 一人が石につまずき、もう一人が荷台を支えた。

 進み始めたところで、ミナが笑いながら声をかけた。


「下り坂は、気をつけてね!」


 俺は、日陰に立つ聖剣を見た。

 相変わらず、台座に刺さっている。


 その日、村の勇者ごっこには、荷車が必要になった。


お読みいただき、ありがとうございました。


剣の切れ味より、荷車の頑丈さが大切になる冒険でした。


トマたち三人の旅を楽しんでいただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
剣が抜けなくてもそこでトマが諦めなかったから沢山の大事な命が救えた訳で、村の子供達にはトマは十分に勇者でしょ! 剣じゃなくて荷車だって立派な聖具、トマ、ミナ、ガンツは勇者パーティですね! 聖剣の勇者…
台座ごと持っていく! 素晴らしい発想です。 勇者ではくてもできることを探してやる。 なかなかできない・・・かえって勇者なんかよりすごい。 神官さんもわかっていらっしゃる。 勇者なんかいなくても平和に回…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。