勇者の剣が抜けないので、台座ごと持っていきます
聖剣は抜けなかった。
俺は台座の下へ指をかけ、石ごと持ち上げようとした。
こちらも動かなかった。
どうやら俺は、石にも選ばれていないらしい。
「何をしているんだ、トマ」
「抜けないので、台座ごと持っていこうかと」
「それは分かる。腰で持ち上げるな」
神官様は、思いがけず実用的な心配をしてくれた。
俺は腰をさすりながら立ち上がった。
「勇者って、腰を痛めるものですか」
「その持ち方なら、誰でも痛める」
そこには、身分の区別がなかった。
神殿の窓を、雨が叩いている。
二日前から降り続いている雨だった。
昨日、町へ豆を売りに来た俺は、今朝、宿へ飛び込んできた幼なじみに叩き起こされた。
「川があふれた。大橋も落ちた」
ミナは、靴の片方をなくしていた。
村の裏手の渡しを使い、山道を越えて、ここまで知らせに来たのだという。
村の人たちは高台へ逃げた。けれど、そこにも水が迫っている。
裏の渡しには小舟が残っているから、山側へ渡れば、まだ町へ逃げられる。
水だけなら、それでよかった。
「泥犬が出たの。大人たちが農具で追い払ってる。でも、子供や年寄りを連れて逃げる余裕がないの」
泥犬。沼地に棲む、犬に似た魔物だ。
濡れた泥をまとった体に、不釣り合いに大きな口。群れで獲物を囲み、人にも噛みつく。大雨の後には、畑まで出てくることがある。
大人でも、一匹を農具で追い払うのがやっとだ。それが、逃げ場のない村にいる。
俺は、寝台の脇に置いた豆の代金をつかんだ。
その足で神殿へ来て、聖剣に挑んだ。
結果は、先ほどのとおりである。
勇者の剣は、俺の胸ほどの高さがある、細身の黒い台座に刺さっていた。
柄の下から少しだけのぞく刃が、白く光っている。
子供のころ、祭りのたびに抜こうとした剣だ。十九歳になった今でも、自分の手で抜くところを想像する。
想像の中では、抜いた瞬間に歓声が上がる。
現実では、俺の鼻息だけが神殿によく響いた。こんなに響く建物だったとは知らなかった。
今日くらい、気を利かせてくれてもよかったのに。
「これがあれば、泥犬は近づけないんですよね」
「光の届くところにはな。せいぜい二十歩ほどだが」
「抜かなくても?」
「抜かなくても」
神官様は窓の外を見た。
「門前の兵にも話はした。だが、下流でも人が取り残されている。山を越えてそちらへ向かえる者が、すぐ集まるかどうか……」
「だったら、先にこれを持っていきます」
俺は台座の側面を叩いた。
硬かった。
手も痛かった。
「叩いても返事はしないよ」
ミナに言われた。
知っている。返事をしたのは、俺のほうだ。小さく『痛っ』と。
「荷車なら、運べますよね」
神官様が、俺の顔を見た。
扉のところで濡れた髪を絞っていたミナも、こちらを見た。
「町の守りに必要なら、借りられませんけど」
「ここには城壁の結界がある。剣がなくても、守りは残る」
「じゃあ」
「神殿の荷車では、底が抜けるぞ」
「そっちが抜けるんですか」
「そっちは抜くな」
ミナが、失った靴の代わりに借りてきた長靴を鳴らした。
「石運びのガンツさん。あの人の荷車なら」
俺は頷いた。
勇者になるには、まず荷車を借りなければならないらしかった。
*
「嫌だ」
ガンツさんは即答した。
ただし、話を聞き終わる前から、仕事場の太い綱を肩へかけていた。
「俺の荷車を、おまえらだけに預けるのは嫌だ」
続いて、鉄の棒と木のくさびを拾う。
「どんな石だ」
「勇者の剣が刺さってる台座です」
「飾りの話はいい。石の大きさを言え」
勇者の剣が、飾りにされた。
俺が両手を広げると、ミナがその間隔を少し狭めた。
「それは、さっき持ち上げられなかった悔しさの分」
「そこまで大げさにしてないだろ」
「指二本分くらい」
ガンツさんは、俺の手ではなくミナの手の幅を見て頷いた。
神殿へ来たガンツさんは、台座の周囲を一周した。
小さな金槌で石を叩き、首を振る。
「削るより運ぶほうが早いな」
「運べますか」
「道による」
嫌な答えだった。
重さなら石のせいにできるが、道は俺たちが選ばなくてはいけない。
台座は床へ埋まっているわけではなかった。
それでも、荷車に載せるまでに、神官様と神殿の下働き二人の手を借りた。
少し浮かせては木を差し込み、止めて、持ち直す。
俺は何度も「いけます」と言い、ガンツさんに「口よりそっちを持て」と言われた。
ようやく荷台に収まったとき、聖剣は相変わらず、すました顔で光っていた。
俺はすでに、一日働いたくらい汗をかいていた。
「せめて軽くなったりしないのか、これ」
「しないな」
神官様の返事は、剣より頼もしいくらい揺るがなかった。
「せめて自分で歩くとか」
「歩かないな」
「光るほうは、もう十分なので……」
祈りが届いたのか、刃がきらりと光った。
そっちじゃない。
俺たちは台座に綱を回し、荷台に縛りつけた。
俺の結び目を見て、ガンツさんが黙ってほどいた。
「豆の袋なら、それでいい」
「石だと駄目ですか」
「豆は転がっても、拾えば済む」
俺は素直に、結び方を見た。
予備の綱も、棒も、くさびも積んだ。ミナは弓を肩にかけ、山道を描いた紙を上着の内側へ押し込んだ。
出発のとき、神官様が見送ってくれた。
「剣を頼む」
「返せるかどうかは――」
「返すことは、村の人を助けてから考えなさい」
俺は一度、頭を下げた。
それから、荷車の引き手を握った。
石運び用の頑丈な二輪荷車は、町の石畳を、ゆっくりと進み始めた。
車輪が、ぎい、と鳴った。
「今の音、大丈夫ですか」
「いつもの音だ」
次に、俺の口から同じような音が出た。
こっちは、いつもの音ではなかった。
*
最初の問題は、町を出てすぐに現れた。
山裾の沢を渡る木橋だった。
ここを通れば、尾根を一つ越すだけで、村の裏の渡し場へ出られる。
先へ行っていたミナが、橋の向こうから戻ってきた。
「人は通れる。私が来たときより、水は増えてるけど」
ガンツさんが橋板を踏み、下の梁をのぞいた。
俺は荷台から予備の綱を取った。
「俺たちが先に渡って、向こうから荷車だけ引けば――」
「石だけでも、この橋には重すぎる」
荷台の台座を指される。
俺たちの分を減らせば済む重さではなかった。
「落ちるかもしれませんか」
「渡れたら驚く」
「驚かせるのは、やめておきます」
「そうしてくれ。俺の荷車は泳げん」
俺は橋の向こうを見た。
木々の間に、村へ続く道が見えている。
人間だけなら、すぐそこへ行ける。
荷車の前へ戻り、聖剣の柄に手をかけた。
力を入れる。
剣は動かなかった。
「……ちょっとくらいは、試したくなるだろ」
誰も何も言っていないのに、言い訳をした。
「抜けたら教えて。地図を畳むから」
「……広げてくれ」
ミナは上着から紙を出した。
「沢の上まで回れば、橋を使わずに尾根へ出られる。遠いけど」
「どのくらい?」
「この荷物で歩いたこと、ないから」
もっともだった。
俺だって、初めて運ぶ。
「荷車で来た人の道案内は、ないのか」
「少なくとも、私の知り合いにはいない」
「今日から一人増えたな」
「無事に着いたらね」
遠回りを選んだ。
荷車を曲げるだけで、三人がかりだった。
*
山道に入って、俺は分かった。
町の石畳は、たいへん親切な地面だったのだ。
土は車輪を捕まえる。
石は車輪を跳ね上げる。
根っこは、その両方をする。
「木って、こんなに邪魔だったか」
「向こうは、先にここにいたから」
ミナは木の肩を持った。
できれば今は、荷車の横を持ってほしい。
俺が前で引き、ガンツさんが後ろから押す。
ミナは先の足場を見ては戻り、横から車輪を押した。
「右、少し上げて」
「少しって、どのくらい」
「それ以上は上がらないって顔をする手前まで」
「もうその顔だよ!」
ガンツさんが声をかける。
三人で力を合わせる。
車輪が根を越えた。
俺たちは喜びかけ、三歩先に、次の根を見つけた。
いちいち喜んでいたら、日が暮れる。
「次も、せーのでいくよ」
「さっきの分の息がまだ戻ってない」
「じゃあ、息を吸って。せーの」
「準備が早い!」
途中から、引く役と押す役を交代するようになった。
俺は後ろへ回れば楽かと思った。
違った。
前へ戻れば少しはましかと思った。
それも違った。
「楽な持ち場はないんですか」
「荷台の上だな」
ガンツさんが顎で示した。
そこには、朝から一度も交代してくれないやつがいた。
上り坂の半ばで、左の車輪が泥にはまった。
車輪に当てたくさびまで、柔らかな泥に沈んでしまう。
ミナが、もっと大きな石を探しに行く。
俺とガンツさんで荷車を支えていると、足元がずるりと滑った。
車輪が、逆に回り始める。
「止まれ!」
俺が言っても、石は止まらなかった。
ガンツさんが荷台につないであった綱をつかみ、道脇の木へ回す。
綱が張り、幹がきしんだ。
ようやく、荷車が止まった。
俺は引き手を握ったまま、膝をついた。
ほんの少し下っただけなのに、胸の中が冷たくなっていた。
「重いやつは、止めるほうが怖いんだ」
ガンツさんが、息を吐きながら言った。
綱を握る手が震えていた。
ミナが車輪の後ろへ石を入れた。
俺はそれを見てから、ようやく手を緩めた。
「……悪い」
「謝るときは、息が戻ってからにしろ」
ガンツさんは木の根元へ腰を下ろした。
「そのほうが、長く謝れる」
俺は笑おうとして、咳き込んだ。
ミナが干し肉を三つに分けた。
枝の下で雨を避けながら、それを噛んだ。
顎まで疲れているのかと思うくらい、硬かった。
「これも、石運び屋さんで買った?」
「肉屋。文句があるなら返して」
俺は首を横に振り、急いで噛んだ。
口を開く余裕がなくなった。ミナは買い物が上手だ。
俺は自分の手を見た。
指のつけ根に、まめができていた。
朝、剣を握ったときにはなかったものだ。
「抜けてたらな」
つい、言葉が漏れた。
「走って行けた。二人に、こんなことさせなくてよかった」
ミナが、口の中の肉を飲み込んだ。
「抜けたら、剣を持つ係を交代でやったよ」
「一人で持てるだろ」
「私だって持ちたいもの。勇者の剣」
それはそうかもしれない。
「私、抜いたら一度、肩に担いでみたかった」
「危ないだろ」
「さっき腰を痛めかけた人に言われたくない」
俺は干し肉に専念した。
「でも、抜けないから」
ミナは立ち上がり、荷車の後ろへ回った。
「次、私が押す」
ガンツさんも、膝に手をついて立った。
「俺は横だ。腰を伸ばしたい」
前の引き手が空いていた。
俺は干し肉の最後を飲み込み、そこへ戻った。
その先の曲がり角で、初めて泥犬を見た。
犬というには、口が大きすぎた。
木陰から、濡れた土を落としながら出てくる。喉の奥で、水の泡が弾けるような音がした。
ミナが弓を構えるより先に、そいつの前脚が止まった。
聖剣の白い光が、雨に濡れた落ち葉を照らしていた。
その縁を、泥犬は越えなかった。
横へ回る。
俺たちも止まる。ガンツさんが車輪に石を噛ませた。
そいつが一歩踏み込もうとして、口から泥を吐いた。
やがて、木々の奥へ退いた。
俺はずっと、息を止めていたらしい。
ミナも、弓を下ろすのに少しかかった。
俺は聖剣を見た。
さっきまで、光るだけだと文句を言ってすみませんでした。
できれば重さのほうも、引き続きご検討ください。
「……効くんだ」
俺が言うと、ガンツさんは、車輪に噛ませた石を外した。
「だったら、早く持っていってやろう」
車輪が回る。
光も、その分だけ先へ進んだ。
*
木々の間から村が見えたとき、畑がなくなっていた。
水の上に、屋根が浮かんでいるように見えた。
実際には、家の下のほうが沈んでいるのだ。
豆を干していた広場も、母がいつも洗濯物を広げる柵も、見えなかった。
俺は足を速めかけた。
引き手が両手に食い込み、止められる。
ここまで来ても、石は重かった。
「裏の渡しへ下りるよ」
ミナの声がした。
俺は頷き、もう一度足元を見た。
村の高台と山の裾の間には、ふだんは小さな流れがある。
そこへ川からあふれた水が回り込み、今は濁って膨れ上がっていた。
ただ、大きな岩の陰になる渡し口では、流れが少し緩んでいた。
水の幅は十歩あまり。そのすぐ向こうの石段に、人がいた。
家から逃げてきた人たちだ。剣を水際まで運べば、あの石段にも光が届きそうだった。
俺の妹もいた。
こちらを見つけ、手を振りかけた。
その後ろで、黒いものが動いた。
泥犬だった。
一匹ではない。
石段の上で、村の大人たちが農具を振っている。
泥犬は離れ、また近づく。
誰かが、子供を抱え直した。
すぐに、荷車を水際へ向けた。
ミナが前へ回り、俺とガンツさんで押した。
車輪が半回転する。
白い光の縁が、水面を渡った。
対岸で、泥犬が跳び退いた。
「もう少し!」
ミナが叫ぶ。
俺は歯を食いしばった。
車輪が石に当たる。
一度戻し、角度を変える。
押す。
対岸の石段が、白い光に包まれた。
泥犬たちが上へ逃げた。
農具を握った人たちが、初めてこちらを向いた。
「そこから出るな! 光の中にいて!」
俺は叫んだ。
ガンツさんが車輪にくさびを噛ませた。
水は、白い光の中を、変わらず流れていた。
剣に頼めるのは、ここまでだった。
「トマ!」
渡し守の爺さんが叫んだ。
「こっちの綱は生きとる! そっちの杭が抜けた!」
向こう岸の太い樫には、渡し綱が結ばれていた。
舟も残っている。
けれど、こちら岸にあるはずの杭は、岸の土ごとなくなっていた。
外れた綱の端が、水際の岩に引っかかっている。
ミナが棒で綱を引き寄せた。
ガンツさんが周りを見た。
「ここには、杭を打ち直す土がない」
濡れた岩盤が、むき出しになっていた。
流れを弱めている大岩は、ほとんど水の中だ。岸の岩も地面と一続きで、綱を回せる出っ張りがない。
近くに綱を結べる木もなかった。
「人が持ってたら?」
「舟が流れに押されたら、人の腕じゃ支えきれん」
俺は、さっきの山道を思い出した。
荷車がほんの少し下がっただけで、止められなくなった手の感触を。
台座を見た。
「これを使いましょう」
ガンツさんが、俺の指した石を見る。
「ここへ下ろして、綱をかけられませんか」
「……岩のくぼみに据えりゃ、踏ん張るな」
ガンツさんが頷いた。
それから、荷車の下へかがんだ。
「ただし、荷台はばらす。のんびり下ろせる場所じゃない」
町で、この荷車を借りるときの顔を思い出した。
「修理代、豆の代金じゃ足りませんか」
「全然足りん」
ガンツさんは即答した。
「残りは、また豆を運べ」
俺は頷いた。
ガンツさんが金槌を振るった。
外した厚板を、荷台から岩のくぼみまで斜めに渡す。
台座に予備の綱を回し、その綱を荷車の軸へ一巻きした。
俺とミナがその端を握ってから、ガンツさんは台座を荷台に縛りつけていた綱を解いた。
台座の下へ鉄棒を差し込み、押し下げると、石がわずかに浮いた。
俺たちは合図に合わせ、軸に回した綱を少しずつ送り出した。
石が厚板の上を滑っていく。
最後の一押しで、台座が地面へ収まった。
腹の底に響く音がした。
俺は泥の上に尻もちをついた。
聖剣は、抜けなかった。
台座ごと、渡し場へ着いた。
ガンツさんが石と岩の隙間を確かめ、くさびを入れる。
ミナが渡し綱を台座の根元へ回す。
今朝は荷車へ載せるために石を動かした。
今度は、何があっても動かないように据えた。
剣が低くなっても、対岸の石段は白い光の中にあった。
*
最初の舟には、小さな子供たちが乗った。
渡し綱を張り直すと、舟についた輪が、綱に沿って動けるようになった。
舟に乗った爺さんが、両岸に渡した綱をたぐる。
舟は流れに押されながらも、少しずつこちらへ近づいてきた。
俺は岸へ腹ばいになり、差し出された手をつかんだ。
子供の手は、冷たかった。
村でいちばんよく走り回る子が、俺の袖を握ったまま離さなかった。
「着いたぞ」
そう言っても、離さない。
結局、抱えて舟から降ろした。
次の子も、その次の子も、同じように降ろした。
ミナは荷台の残りもばらし、板を岸の足場に並べた。
ガンツさんは綱と台座を見ていた。
舟が戻る。
また来る。
対岸の石段が、また一段、濁った水に隠れた。
白い光の向こうで、泥犬たちがうろついていた。
入ってはこない。
ただ、いなくなりもしない。
妹が渡ってきたとき、俺はようやく母の姿を確かめられた。
母は向こう岸で、足を悪くした隣家の婆さんを支えていた。
「母さん、次で来いよ!」
叫ぶと、片手が上がった。
妹は俺の手のひらを見た。
「血、出てる」
「ちょっとむけただけだ」
「ちょっとじゃない」
ミナが妹を抱くようにして、岸の奥の岩棚へ連れていった。
俺は引き続き、舟から伸びてくる手を取った。
最後に、母と婆さんが乗った。
爺さんが岸を見回し、忘れている人がいないか声をかける。
石段には、もう誰もいなかった。
空になった石段から、舟が離れた。
そのとき、上流から流れてきた枝の塊が、舟の横腹に当たった。
舟が傾いた。
母の肩が、濁った水へ近づく。
爺さんが叫ぶ。
綱が水を跳ね上げ、一直線に張った。
俺は駆け寄りかけた。
「水へ入るな!」
ガンツさんの声で、足が止まった。
台座に巻かれた綱が鳴った。
石と岩の間から、泥水が押し出された。
石は、動かなかった。
朝から俺を困らせ続けた重さが、濁った水の中で傾く舟を、つなぎとめていた。
爺さんが棹で枝を押し離した。
舟が揺れ、元の姿勢に戻る。
母が婆さんを抱え直した。
俺は岸の足場へ下り、身を低くした。
「こっちだ!」
爺さんが、もう一度綱をたぐった。
ミナが隣へ来た。
舟が寄る。
俺たちは婆さんの両脇を抱え、板の上へ引き上げた。
母が続き、最後に爺さんが上がる。
向こう岸は、空だった。
村長が家ごとに名前を呼んだ。
返事が上がる。
何度か数え直して、最後に、村長が頷いた。
「みんな、おる」
俺はその場に座り込んだ。
しばらく、誰の顔も見られなかった。
膝と、泥と、むけた自分の手のひらだけを見ていた。
頭の上で、ガンツさんが言った。
「荷物は届いたな」
俺は頷いた。
声が出なかった。
ミナも隣へ座った。
しばらくして、肩が触れた。
「今度は、帰る道だね」
「……帰りも、あの山道か」
「でも、今度は石を運ばなくていいでしょ」
二人で、車輪と板になったものを見た。
ガンツさんが、長いため息をついた。
「帰りは、荷車を運ぶんだぞ」
今度は、笑えた。
「荷車って、荷物を運ぶものですよね」
「今日はよく働いた。帰りくらい運んでやれ」
ガンツさんが車輪についた泥をぬぐった。
俺もよく働いたつもりだったが、誰も担いでくれそうになかった。
*
その夜は、台座のすぐ後ろにある、一段高い岩棚で過ごした。
白い光は、そこまで届いていた。
暗い山道を、子供や怪我人を連れて進むわけにはいかなかった。
村の人たちが舟に積んだ布を広げ、荷台の板を使い、雨をしのぐ場所を作った。
夕方には雨が弱まり、水かさも増えなくなった。
それでも、大人たちは交代で川を見張ることにした。
白い光は、焚き火ほど温かくはなかった。
それでも、光の外をうろつく泥犬を見るたび、ここまで運んできてよかったと思った。
俺は疲れすぎて眠れないと思っていた。
母に手のひらを布で包んでもらった。
妹が俺の肩に頭を預けたところまでは覚えている。
次に気づいたときには、朝だった。
山道の上から、人を呼ぶ声がした。
「神殿から話を聞いて来た! 村の者はいるか!」
神官様が頼んでくれた兵たちだった。
ミナが光の届くところから大きく手を振り、渡し場へ下りる道を教えた。
食べ物と毛布が届いた。
差し出されたパンを受け取ると、指で押したところがへこんだ。
「柔らかい……」
「昨日焼いたものだが」
兵の人は、少し申し訳なさそうだった。
隣でミナが、自分のパンを隠すように引き寄せた。
「私の分まで、そんな目で見ないで」
兵たちは山道に残る泥犬を追い払い、安全を確かめ、子供たちから順に、町まで付き添っていった。
俺が神殿へ戻れたのは、その次の日だった。
ガンツさんと二人で、荷車だったものを担いでいった。
「剣は?」
神官様に聞かれた。
「抜けませんでした」
「それは知っている。今、どこにある」
「裏の渡し場です。人が休める場所にしました。まだ、いるんです。泥犬が」
神官様は、俺の手の包帯を見た。
ガンツさんの肩に載った車輪も見た。
「では、そこに置いておこう」
「神殿に、剣を抜きに来る人がいたら?」
「場所を教える」
ガンツさんが、肩の車輪を持ち直した。
「台座ごと返すと言い出したら、俺を呼ぶ前に止めてくれ」
それから、剣の返却を求める代わりに、村の人たちの様子を尋ねた。
俺は、一人ひとりの様子を話した。
水が引くには時間がかかった。
泥をかき出し、畑を直すのには、もっとかかった。
渡し場の台座は、そのまま残った。
周りには屋根がつき、腰かけが置かれた。
向こう岸から荷物を運び出す人も、町から食べ物を届ける人も、そこで足を休めた。
ガンツさんの荷車は、村の人たちと修理した。
俺はその荷車で、麦と板を運んだ。
石の台座が載っていない荷車は、嘘みたいに軽かった。
「これなら、もう一往復いけそうです」
「そうか。頼む」
俺は口を閉じた。
ミナが隣で頷いた。
「今のは、自分で言ったからね」
あの日から、ひと月ほどたった昼下がり、俺たち三人が渡し場で休んでいると、子供たちが小さな手押し車を持ってきた。
荷台には、木の棒を突き刺した土の塊が載っていた。
「何だ、それ」
「勇者の剣!」
得意そうな返事があった。
「抜けるのか?」
「抜いちゃ駄目なの。向こうに困ってる人がいるから、持っていくの」
丘の木陰で、妹が大げさに手を振っていた。
助けを待つ役らしい。
「お兄ちゃんも、入る?」
「じゃあ、助けを待つ役を――」
「もういるから、押す人ね!」
勇者の剣には選ばれなかったが、押す人にはすぐ選ばれた。
子供たちは、車の前と後ろに回った。
一人が石につまずき、もう一人が荷台を支えた。
進み始めたところで、ミナが笑いながら声をかけた。
「下り坂は、気をつけてね!」
俺は、日陰に立つ聖剣を見た。
相変わらず、台座に刺さっている。
その日、村の勇者ごっこには、荷車が必要になった。
お読みいただき、ありがとうございました。
剣の切れ味より、荷車の頑丈さが大切になる冒険でした。
トマたち三人の旅を楽しんでいただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。




