蒼い罪 前
序章
「夕陽が掛かると、空は溶けて無に変わっていく」
そう言ったのは彼女だっただろうか。
二匹の金魚が数センチの距離を保ったまま、水草の奥に入っていった。ポンプから出てくる泡が、ガラスをなぞるように上がっていく。
思えば、くだらない文章ばかり綴ってきた。何を書いても印象に残る作品など生み出せなかった。自分が手掛けた舞台に観客が沸き立っていても、遠い場所からガラス越しに眺めているようなのだ。
何がいいのかもわからず、何に喜ぶ価値があるのかわからない。自分が脚本を書くことで表現したかった芸術は、数十年前にとうに掴み損ねてしまっているのだ。芸術は人が脳に記憶できる数秒しか留まることはできないにも関わらず、若い頃の自分は思い上がっていて、そのことに気づいていなかった。
文章に齧りつき、世間から認められるようになった今になっても、心に色を塗るような感覚は見つからなかった。この先数十年地上を彷徨ったとしても、見つかることはないだろう。きっと、私の精神はあのときに一度死んでいるのだ。
潰れたセブンスターの箱から煙草を取り出す。パソコンの横に灰皿を寄せて、ライターを付けた。低い天井の木の木目に、煙が溜まっていくのが見える。トラックのエンジン音が聞こえると、窓枠が震えた。
濁った息を吐く。とても長い時間、のらりくらりと生き延びてしまった。ご飯を食べ、脚本を書き、就寝していると一日を生きてしまう。特に意識しなくても心臓が鼓動を続けてしまうのだ。生きようとしなくても、死のうとしない限り、生きてしまうのだ。人の恨みを背負うようなことがあっても、殺されることはなかった。ただ、モノトーンで覆われた毎日を生きていくことが、必ずしも死ぬことよりも幸福というわけではないのだろう。
六十年間生きてきた私にとっては、あの頃の時間は一瞬だった。鏡に映る皺の増えた顔を見ると、誰が映っているのかわからなくなる。数十年間誰かの人生を生きてしまったのではないかとさえ思えた。滑稽だろうが、白髪が増えて小さな字が見づらくなっても、歳を取っている気がしないのだ。目を瞑れば、今でも鮮明に彼女の顔が思い浮かぶ。自分が老いていくにも関わらず、彼女は少女のような表情と、猫のように研いだ爪を煌めかせたまま、記憶の中で止まっていた。
これから私が綴ろうとしているのは、ぼんやりとした男の記憶だ。気が狂ってしまうか、棺桶に入ってしまう前に、書き記しておこうと思う。万が一、これを見つけてしまった者は、どうかこの文章を土に埋めて、二度と掘り起こさないでほしい。
そして、最後まで読んでくれるのなら、見下げ果てた男だと存分に笑ってくれ。
第一章
開演
パンフレットを開いて、瑞穂の名前を確認する。
「瑞穂、顔写真入りで載ってるね。写り方のせいか、ちょっと地味に見えるよな」
「あ、父さん」
弟の当真が荷物をずらしていた。父さん脱いだがジャケットを丸めていた。
「あれ? 母さんは?」
「お茶買いに行った。あ、ほら、今戻ってきた」
開演のブザーが鳴り響く。母さんが小走りでこちらに向かってくるのが見えた。
「兄ちゃん、ちょっと悔しいんじゃない? 瑞穂に先を越されて」
「別にいいさ」
「本当にすごいよな。劇団Tの主役だよ? もう女優になったようなもんでしょ?」
顔を上げると、ほとんどの客席が埋まっていた。
「たまたまじゃない?」
当真がにやにやしていた。逸らすようにして、パンフレットのストーリー欄を眺める。
「本日は劇団T公演ギリシャ神話『アフロディーテ』にお越しくださり、真に有難うございます。本公演のマリア役の蓮見瑞穂さんが休演のため、代役は・・・」
「・・・?」
家族が無言のまま顔を見合わせた。
「・・・言い間違いじゃない?」
場内が暗くなり、重々しく幕が開いていった。舞台のほうに顔を向ける。照明が舞台の真ん中を照らして、一人の女の子がこちらにお辞儀していた。
『みなさん、マリアという女性を知っていますか? 貴族に生まれた、美しくて可憐な十七歳の女の子。彼女はこの町ではアフロディーテと呼ばれているの。なぜって? それは彼女が海からやってきたから・・・』
『もう、舞踏会始まっちゃうわよ。早く行きましょう』
当真が耳元で何かを話してきたが、首を振って舞台を眺めていた。
『あら、大変。すぐに・・・』
舞台裏にいる団員の小さな叫び声が聞こえた。
「止めろ、止めろ」
『・・・・・・・・・』
「早く」
壇上の女の子たちがきょろきょろと周りを見渡していた。客席がどよめき始めた。
「何? どうしたの?」
母さんが首を伸ばしながら呟く。
「演出じゃない?」
「開演早々、粋な演出だね」
腕を組みながら座り直した。
「え・・・あれ、何?」
当真が前の席の背凭れに手を掛けて、身を乗り出していた。前列に座っていた女性が悲鳴を上げた瞬間・・・。
「・・・瑞穂・・・」
舞台中央に首にロープを巻きつけた妹がぶらさがっていた。
二か月前
大学に入って二年目の夏休みは、気怠さが部屋中を覆っていた。扇風機が首を回して、ルーズリーフを捲り上げている。バイトと部活動に通って、脚本を書いていてもまだ時間が余るほどだった。
「隆司、いつまでもごろごろしてないでどこか行って来たら?」
母さんが襖の前に立っていた。二つに折った座布団を抑えて、頭の位置をずらす。
「明日、バイトだからいいや」
「暇なら家の掃除くらい手伝ってよね」
「掃除ってどこを?」
「お風呂とか」
図書館で借りた伊坂幸太郎の『重力ピエロ』を腹の上に載せて、目だけ動かした。
「これ読み終わったら、部活の脚本のプロット書かなきゃいけないんだよね。来週時間あったらやっとくよ」
「・・・っとにもう・・・そんなんばっかりじゃない。いつまでも脚本何て書いてないで、ちゃんと手に職を付けるような勉強しなさい」
「別に・・・・・・」
畳から足音が聞こえてくる。
「ねぇ、お母さん聞いて」
「どうしたの? そんなに走ると・・・」
「劇団Tのヒロイン役のオーディションに受かったの。劇団員でもないのにいきなり主役よ」
瑞穂が興奮しながら母さんにはがきを見せていた。ゆっくりと身体を起こして、本に指を挟んだまま座布団に手を付く。
「もうさっきから手が震えて・・・まだ入って数カ月しか経ってないのに」
「えぇ・・・」
「何かの手違いじゃねぇの?」
「違うわよ」
「そういった夢見る女の子をターゲットにした新手の詐欺とか」
意地悪く言った。
「ちゃんと、K劇場で審査して監督と脚本家の人が決めてくれたもん」
目を吊り上げて、ふんと鼻を鳴らしていた。
「ねぇ、すごいでしょう? あのK劇場の大きな舞台を独り占めにするのよ」
「あら・・・そう・・・。でも、本当なの?」
エプロンで手を拭って、はがきを抓んでいた。
「ほら、このはがきちゃんと見て。主役として迎え入れたいって書いてあるでしょう? 劇団の中でも優秀な人が受けてて、他からも受けに来たりして物凄く倍率高かったんだから」
母さんが小さな目を何度も瞬きしていた。
「でも・・・何で・・・」
「二次審査のバレエが評価されたみたい。コッペリアのスワルニダのヴァリエーションの一部を踊ったの」
「ん? 別にソロで踊ったこと無かったじゃん」
「いちいち煩いな。隆兄は黙ってて」
高く縛った髪が大きく揺れた。
「何役なの?」
「ギリシャ神話のアフロディーテに当たるマリアっていう女性。この劇団の脚本を担当している先生がギリシャ神話を元に、脚本家がアレンジした作品なんだって。あぁ、あたし本当に女優になれるのね」
「ふうん。ま、いいけど」
たった一つの劇団のオーディションに受かったというだけで女優になれるのは甘い気がした。ただ、全身で喜びを表現する妹を見ると、母さんも何も言えないのだと思う。反射的に開いた口を噤んで、畳の目に本の角を当てた。
「父さんにも教えなきゃね」
「お父さん今日何時に帰ってくるの?」
「そうね・・・今日は会議が長引きそうだって・・・」
「えぇ、待てない。メールしとこ。絶対びっくりするよ。お父さん舞台の仕事に戻っちゃうかも」
網戸に止まっていた小虫が遠くのほうへ飛んでいくのが見えた。扇風機の風がこちらに向くと、額の汗が少し引いていく。座布団の横に置いた団扇で仰ぎながら、甲高く響く瑞穂の声を聞いていた。
瑞穂は三歳年下の妹だった。頬と唇のあたりは母さんに似ていたが、涼しげな目つきと融通の利かないところは父さんにそっくりだと思う。物心ついた頃から、女優になりたいと口にしていた。バレエを始めたのもその頃だったかもしれない。毎年発表会に駆り出されたが、瑞穂の演技はほとんど目に入らなかった。手足が長くて見栄えはしたが、今一つ突き抜けるものが無かったのだと思う。丁寧に踊ろうとするあまり、個性が欠けてしまったのだろう。でも、隣に座っていた弟の当真は、贔屓目もあるのか瑞穂が一番だと絶賛していた。
「ただいま」
「あ、当真兄お帰り。お隣さんから貰ったスイカ美味しいよ」
当真が団扇をテーブルに置いて席に付いた。切り分けられたスイカに被りつくと、汁が皿に滴り落ちた。
「瑞穂、母さんから聞いたよ。すごいじゃない」
「でしょう? この舞台が終わったら、シェイクスピアの作品とかやってみたいの。ロミオとジュリエットのジュリエットがいいな」
種を抓んで皿に出した。
「気が早すぎるだろ」
「ねぇ、当真兄、隆兄ったらずっとこんな感じなの。ひどくない?」
食卓テーブルに三つのグラスが透明な影を落としていた。ペットボトルを凹ませて、ウーロン茶を注いでいく。
「兄ちゃんは悔しいんだよ。妹に先を越されてね」
「なるほどね」
当真が八重歯を突き出してこちらを向く。すぐに否定はできなかった。
「兄ちゃんも行って勉強させてもらったら? 瑞穂の後ろにくっついて、劇団にこっそり入れてもらってさ。いい刺激になるんじゃない?」
「そんなのあたしが嫌よ」
「ま、そりゃそうだな」
ティッシュで赤い唇を拭いていた。
「まぁ、俺がそれなりのもの書けるようになったらね。瑞穂に頭下げて演じてもらうよ」
「いいものだったら演じてあげる」
「はいはい。よろしくね」
ベランダに干した靴下が日差しの間を揺れている。クーラーの風で右肩がひんやりとしてきた。スイカの皮をボールに入れて、ウーロン茶を飲み干す。付けっぱなしにしたテレビの音がカフェのBGMのようだった。
「来週から、練習なの。っていっても、顔合わせと読み合わせかな。どんな俳役なんだろう、まだ劇団の子がどれくらい入ってるのかも聞いてないのよね」
絹糸のような髪が肩を流れていった。
「そうだ。ねぇね、本格的な練習始まったらちょっと見に来ない? 一般開放の日もあるんだよ」
「俺はパス。当真だって模試あるだろ?」
窓の外で、母さんがお隣さんと何か話しているのが見えた。
「いいよ。別に一日くらいサボっても進路には響かないよ」
「さすが当真兄」
サッカーで日に焼けた頬を掻いていた。当真は都内で有名な進学校に通っていた。現文と古文しかできなかった自分とは違い、全教科の成績も常に上位をキープしているようだった。年頃なのにも関わらず彼女の気配が無かったが、妹には何か相談していたのかもしれない。スイカの種を吐き出す。優秀な弟を見ていると、だらだらと大学生活を送っていることで、少し肩身が狭かった。
「蓮見君、棚入れ終わったらレジ入ってもらっていい? あたしちょっと出るから」
店長のおばさんが声を掛けてきた。
「はい」
賞味期限切れのパンを抜いて、新商品の菓子パンや惣菜パンを敷き詰めていく。ファミリーマートのマークの入ったトラックが、駐車場から出て行くのが見えた。自動ドアが開く度に、聞きなれたチャイムが鳴っていた。
「お疲れ。今、お客さん居ないし手伝う?」
「あぁ、でもこれでもう終了」
「あ、じゃ、これ持ちますね」
コンテナを持って、立ち上がった。東条は大学でアメフトをやっているらしく、同じコンテナを持っていたが、彼の持っているほうが一回り小さく感じた。
「蓮見さんってもう就職先決まったんですか?」
「ん、まぁね。舞台関係の裏方」
「マジで? あぁ、そういや部活もそんな感じでしたよね?」
コンテナを置いて、こちらを見降ろしていた。スタッフルームのドアを押して、180センチある筋肉質な身体から距離を置く。
「・・・演劇部」
「演劇? 何それ。何か演じてるんでしたっけ?」
腹の立つ言い方だった。
「いやいや、俺は演じないよ。脚本書いてるんだよ」
「脚本?」
蛇口を出しっぱなしにしたまま、手首で洗剤のポンプを押した。
「そ」
「へぇ・・・。なんか頭良さそうですね」
「妹も女優を目指しててね。一昨日、有名な劇団の主役を勝ち取ったみたいで、今家で大騒ぎしてるよ」
「何てところなんですか?」
「劇団T」
「T?」
声色が変わった。
「マジで。それって、すごいじゃないですか」
改めて他人の口から聞くと、瑞穂の態度に納得がいった。近くに居るから実感がないだけで、本当は驚くほど名誉なことなのかもしれない。
「じゃあ、ずっと劇団に?」
「いや、最近入ってオーディションに受かったらしくてさ。誰もが、まさか妹が受かると思ってなかっただろうね」
レジ前に立って、フライドポテトを出している東条の背中を見ていた。
「そりゃ、周囲の恨みかいますね」
「え? あぁ、うん・・・・・・」
雑誌コーナーで立ち読みしていたお客さんが、ドアを引いて出て行った。包装を開けて、レジの10円玉を揃える。
「恨みねぇ・・・そりゃそうだよな」
「あぁ・・・ちょっと違うかもしれないけど、はチア部の子で居ましたよ。トライアウトでダンスのセンター選ばれた子とか、壮絶な虐めにあってたみたいでね。表は仲良くしても裏が・・・とか多いらしいっすよ」
「ふうん・・・」
精神に霧が掛かってくるようだった。
「あ、でもその子は気が強くて、そうゆうの全部跳ね返してましたけどね。言いたきゃ言わせとけって、男前になってましたよ」
フライドポテトを揚げながら、額に汗を滲ませていた。
「いらっしゃいませ、こちら温めいたします・・・」
弁当に付いた醤油をレンジに張り付けながら、瑞穂のことを考えていた。嫉妬されることも飲み込んで女優になろうとしているのだから、少しくらい陰口の標的になることは仕方がないことだと思うのだ。
開いた窓にカーテンが張り付いている。演劇部で使用する次回作の脚本をパソコンに打ち込んでいた。立体的な芸術を想像して、文章を組み立てていくのは心踊るような作業だった。当真に言わせると、自分は変わっているらしい。でも、具現化されていない芸術に自分の感性だけが触れることができるというのは、真新しい雪に足を付けるような心地になれるのだ。きっと、気づかないで生涯を終える人は、人生の八割を損して過ごすことになってしまうのだろうと思っていた。
「兄ちゃん、ちょっといい?」
「・・・あぁ」
文章に漢字変換を掛けて手を止めた。当真が背中でドアを閉めていた。
「何?」
「瑞穂が演じるアフロディーテって知ってる?」
「あぁ、ギリシャの女神だろう?」
英語ではヴィーナスと読むらしい。ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』では海から生まれる愛の女神が表現されているが、愛が故になのか男性遍歴が華やかだった。
「昨日学校の図書室で調べて来てさ。瑞穂はさ、アフロディーテって感じじゃないよな」
「当真までそんなこと言ったら、瑞穂に怒られるよ」
「そうかもね」
当真が漫画を避けてベッドに座り込んだ。
「すごいよね。でも、本読んでみたら、正直、高校生でアフロディーテなんて演じられるのかって思ってさ。結婚してるにも関わらず、男をとっかえひっかえ弄ぶんでしょ? そんな役、瑞穂ができるのかって思って」
「アフロディーテって言うけど、元になってるってだけで、ギリシャ神話をそのまま脚本にしたわけじゃないって言ってただろう? 監督や脚本家の感性だって混ざってるだろうし・・・」
「わかってるけどさ・・・」
「心配し過ぎだよ」
「小さなホールの発表会とかとは訳が違うよ」
瑞穂が選ばれた理由を考えると、アレクサンドル・カパネルの『ヴィーナスの誕生』をイメージしているのかもしれないと思っていた。瑞穂の空中に重量感のあるバレエでの舞い方は、『ヴィーナスの誕生』に描かれる女性らしさに近いものがある気がしていた。
「大丈夫なのかなってさ」
椅子を回す。
「脚本家はきっとこう考えて、作品を書いたんだ。どろどろとした愛憎劇じゃなく、ヒロインに『ロミオとジュリエット』のジュリエットみたいな無邪気さを出したいってね。確かにアフロディーテの描かれた絵画も、魔女のような女には見えないしね」
「・・・・・・・・・」
「だから、きっと監督なりの考えがあるんだよ。お前が心配するようなことじゃない」
キーボードに手を載せたまま、足を組み直した。
「なるほどね。兄ちゃんがそうゆうなら、納得だね」
頬のニキビを摩っていた。
「心配性なんだよ。そんな心配ばっかしてたら、爺ちゃんみたいに禿げるよ」
「兄ちゃんってさ、やっぱり脚本の才能あると思う」
「は? なんだよ急に」
おでこを出して、口角を持ち上げていた。
「兄ちゃんが作る脚本に、瑞穂が出ればいいのにね」
「・・・・・・・・・」
美術書の並んだ本棚を眺める。
「・・・当真は何やんの? その時」
「・・・俺? 俺は何にも才能がないからね」
「ま、俺だって才能あるって言ってくれるのは当真くらいだよ。演劇部の部員なんて、自分のことばっかだし」
「そのうちみんなが兄ちゃんの才能に気づくよ」
「はいはい。どうも」
適当に相槌を打った。部員は良い脚本を求めているのではなく、各々にスポットライトを浴びるシーンを求めていた。きっと、口には出さないにしても、観劇に来た誰かがスカウトしてくれないかと思っているのだろう。
「じゃ、俺勉強して来るわ」
「大変だな。受験生」
「これから解放されたら、遊びまくるよ。おやすみ」
「・・・あぁ」
学生はいい職業だな、とつくづく思う。いつまでも終わらない夢を追い続けることができた。両足を床に降ろして、文章の中に心を沈めていく。僕もいつまで文章の中に身を潜めていられるのだろう。精神が肉体から離れて、白い原稿用紙の上をふよふよ漂っていた。
瑞穂の雰囲気から創り上げるアフロディーテのマリアを想像していた。監督や脚本家は、舞台上でどんな演出をするつもりなのだろう。
「蓮見さん、ここの台詞なんかもうちょっと感情的なほうがいいんじゃない?」
パイプ椅子を離れて、教室の真ん中のほうに向かう。
「そう? ここは緩やかな怒りを溜めて、短い台詞に含ませてほしいんだけど」
「ん・・・そう?」
部活のために書いた脚本は、ほとんどが実験的なものだった。今回は高校のときに童話として書いたものを、脚本に書き直していた。普通に暮らしていた少年が、公園で遊ぶ友達が欲しいと考え、目の前に居る男の子に段々派手になる自分の服と顔を自慢するうちに、ピエロになってしまったという話だ。童話としても気に入っていたが、鼻をオレンジに塗り、目を黒く縁取り、唇を真っ赤にする異常性を表現するには、文章だけでは限界があった。
「聡も公園に居るにも関わらず、僕は他の友達を求めておかしくなっていくんだよ。怒りや失望の混じった感情を抱いている、けど言えないっていうのを表現してほしいんだ」
「ねぇ、あたしは? 僕から遠く離れた場所で監視してるって書いてあるけど、台詞とかこんなになくていいの?」
「そこは、表情で見せてほしいんだよ。僕のことを何か知っているような装いで、あえて近づかないという不気味さを表現してほしいんだ」
「ふうん」
「確かに、そうすればこの場面にインパクトが出るかもね」
「そうね。あたし個人としては、もっと会話を入れたかったんだけど・・・」
「場面4から雅さんの存在感を出していって。もし足りなかったら、来週までに会話を追加していくから」
「はぁい」
A4用紙に書かれた脚本を丸めながら、何て読解力がないのだろうと思っていた。一つ一つに説明を入れなければいけないほど、自分の脚本は完成されてないのだろうか。
「じゃあ、二時半まで休憩したら、場面2でお願いします」
「はい」
溜息が漏れる。瑞穂が劇団Tに入ったことにより、自分の中で焦りが出てきていた。深呼吸をして、大袈裟に演技を始める部員を眺める。
部員は一、二年生で構成され、真面目に練習に来る人も十人程度だった。顧問の先生も居たが、ほとんど練習を見に来たことはなかった。瑞穂の居る場所とは比べものにならないほど劣っているのだろう。劇団に居るどの人を当てはめても、脚本が望んだ形にはならないのだ。
「蓮見君、あのさ・・・」
主役の久保が台本を持って走ってきた。
「蓮見君の妹さんって劇団Tの主役やるって本当?」
「あぁ、よく知ってるね」
「演劇関係に友達が居てね。その子は確か、ギリシャ神話でアドニスにあたる人物のオーディションを受けたけど、落ちたって言ってたよ」
「ふうん」
クリップを弄りながら、ペンを回す。
「主役なんてかなりの倍率だったんじゃないかな」
「別に、たまたまオーディションに受かっただけでしょ。あぁゆうのって運もあると思うんだよね」
「そうかな?」
「そうさ」
脚本と演じるべき人の縁が繋がることは稀なのだと思う。妹だけが特別なのではなく、運が悪かったがためにエキストラに埋もれてしまった人もいるのだろう。
「僕もオーディション受けてみようかな」
そばかすの多い頬を摩っていた。
「いいんじゃないかな。あ、特技とかあったらいいかもね。妹は演技の他にバレエも踊ったらしいから」
「バレエ?」
「そう。舞台の表現力を見たかったんだと思うよ」
「そうか・・・たとえ演出に踊りが無くても、バレエは身体能力を見るのにいいのかもね。主役級なら特に」
「あぁ」
窓際に寄せた机に日差しが降りている。
「それにしても、すごいよな。K劇場でやるんだもんな」
瑞穂が劇団Tの主役になると、自分の夢もそんなに遠いものではないように思えてしまう。
「公演始まったら見に行くよ」
「ありがとう」
久保は背が低く、容姿も淡麗というわけではなかったので、主役は難しいかもしれないが、個性派の脇役としてなら伸び白があるような気がしていた。
狭い教室を見渡す。この空間と、部員を最大限に活かせるような脚本を書けるなら、創造力の幅を広げられるのかもしれない。瑞穂の居る環境とは雲泥の差だが、いつかは自分も舞台という大きなキャンバスに向かって感性を表現できるようになりたいと思っていた。
「ごちそうさま」
「あら? 瑞穂、もう食べないの?」
「うん。もうお腹いっぱい」
皿に盛られたパスタのミートソースがほとんど残っている。当真が箸と止めて、立ち上がる瑞穂を目で追っていた。
「体調でも悪いの?」
「ううん。大丈夫」
母さんの心配そうな表情に背を向けて、リビングのソファーを横切っていった。しばらくして、階段を上る足音が聞こえた。
「ん? 何かあったのか?」
「舞台のプレッシャーかしら。昨日も夜遅くまで台本読んでたみたいだし」
「・・・そうか」
父さんがビールを一口飲んだ。
「最近瑞穂痩せたような気がするんだけど。ちゃんと食べてんの?」
「やっぱり、当真もそう思う?」
気づかなかった。少しほっそりしているとは思ったが、私服のせいではないだろうか。
「舞台は九月だけど、本当に大丈夫なのかしら。夏休みが終わってもぼうっとしてるし。劇団Tの主役なんて、瑞穂には荷が重すぎたのよ」
「周りも年上が多いらしいしね。窮屈にやってるのは確かだと思うよ」
「ほら、言ったじゃない。やっぱり、辞退させたほうがよかったか・・・」
「母さん・・・」
胸の奥が疼いていた。
「・・・ちょっと大袈裟じゃないか? 大舞台でのプレッシャーなんて当然のことだろう? 父さんだって・・・」
「そうだよ。母さんと当真は心配しすぎなんだよ。瑞穂だってもう高校生なんだし、誰に言われようが自分で掴み取ったチャンスを手放したくないだろ」
父さんの声に被せた。当真が眉間に皺を寄せながら、口をもごもごさせている。
「それは・・・そうかもしれないけど・・・」
「ごちそうさま。俺、後でコンビニ行ってくるけど、何か買ってくるもんある?」
食べ終わった皿を、洗い桶に浸していく。
「・・・あ、じゃあ牛乳買ってきて。丁度切らしちゃった」
「いいよ」
ソファーに置いた携帯を持って、リビングを出て行く。久保から二回着信が入っていた。脚本のことで電話が掛かってくることは無かったので、夏休みの部活の日程か、舞台のチケットのことだろうか。
パソコンを立ち上げて、携帯を肩に挟む。
「もしもし、何か電話あったみたいだけど」
『蓮見君、妹さん大丈夫だった?』
「ん? 何が?」
修正途中の脚本を画面に映した。卓上扇風機のコンセントを差し込んで、風向きを固定する。
『何って・・・劇団Tの練習中に照明が落ちたって』
「え?」
『聞いてないの?』
「・・・・・・いや・・・・・・」
背中がすっと冷たくなっていった。
『俺も友達から聞いた話なんだけど・・・・・・』
久保の話によると、今日の練習中、劇団Tの練習中に舞台前方に吊り下げられたスポットライトが突然落ちてきたそうだ。火事にはならなかったが、レンズの破片が散らばって怪我をした人もいるらしい。アフロディーテが海から生まれて、小さな島に上がる場面だったので、瑞穂と花の妖精役の子たち数名が被害にあったと話していた。
『そっか。妹さんも怪我したのかと思って・・・』
「いや、さっきまでご飯食べてたけど何とも・・・」
『よかった』
「何が原因なの? それって」
『俺も詳しいことはわからないんだけど。吊り下げてるハンガーのネジが、緩んでたみたいだよ。意図的なものかもしれないってのはある』
「意図的?」
声が上ずった。
『・・・あくまで可能性だよ。誰を狙ってなのかはわからないけどね。一応はネジの老朽化ってことになってるよ』
「照明ってワイヤーが付いてるだろう? 何で」
『それがワイヤーは緩んでた照明の部分だけぷっつりと切られていたんだよ』
「警察が・・・そう言ったの?」
『いや、警察には話してないらしい』
「何で・・・?」
心臓の音が早くなっていった。瑞穂はどこか怪我をしているのだろうか。なぜ、何も言わないのだろう。家族に心配をかけたくないからだろうか。
『劇団側は今後の舞台公演を考えて隠したいみたいだよ。あまり大事にしないようにね。特に大きな怪我を負った人もいなかったみたいだし・・・』
「は? いいのかよ、それ」
『だって、その話が広まったら舞台の話自体なくなっちゃうんだよ』
握り締めた手に爪が食い込んだ。
『妹さんも主役から降りたくないから、黙ってるんじゃないの?』
「・・・・・・・・・」
本棚に敷き詰められた脚本や美術書に視線を向ける。
「そうだな・・・・・・久保、教えてくれてありがとう」
『うん・・・じゃあ、一応また何かわかったら伝えるわ』
「あぁ、よろしく・・・」
携帯を切って、ベッドのほうへ放り投げる。劇団に潜む誰かが、舞台を中止させようと意図的にやったのかもしれない。きちんと警察に調べて貰えば、安心するのだろう。でも、やっと掴みかけた瑞穂の夢を壊してしまう可能性もあった。
画面のスクロールを下げていく。自分の書いた脚本を見ても、内容が頭に入ってこなかった。両親には隠すにしても、当真に話すべきなのか迷っていた。否、瑞穂が黙っている以上、誰にも言わないほうがいいのだろう。
「兄ちゃん、今いい?」
ドア越しに当真の声が聞こえた。腕の筋肉が引き締まった。
「ん・・・あぁ・・・・・・」
マウスを動かして、画面を明るくする。
「この前借りたレオナルドダヴィンチの美術書返すよ」
「そこの本棚に入れておいて」
「はいはい」
額がひんやりとしていた。
「ん、感想聞かないの?」
「あ、うん。今、脚本がクライマックスで手が離せなくて」
「あ、そ」
当真から視線を逸らした。瑞穂が危ない目にあったことを言うべきだろうか。
「瑞穂といい、兄ちゃんといい、才能があるっていいね。俺も何かないかな」
「・・・・・・・・・」
「ま、とりあえず、目先の受験に全力注ぐよ」
細い目を柔らかくして頬を上げていた。ドアが空気を抜いたように、バタンと閉まる。普通の兄ちゃんだったら警察に届け出て、原因が確定するまで舞台に出すことを望まないのだろう。ただ、自分の夢と重ねてしまうと、どうしても言い出せないのだ。
当真は塾、母さんは買い物、瑞穂は舞台の稽古に行き、家には自分と窓際の金魚しか居なかった。
空が夕焼けに溶けていく。窓の外を眺めながら、ギリシャ神話の絵画集を捲った。ギリシャ神話の女神の中では、ピュグマリオンの話が好きだった。自分で創作した彫刻に恋をするようになり、彫刻が人間になることを祈り、衰弱していくピュグマリオンを見かねて、アフロディーテが彫刻に生命を与えたという。ピュグマリオンの感覚がよくわかるのだ。いつか舞台にすることができるだろうか。想像を膨らませていくと、脳が張り詰めて脈が熱くなってくるのを感じた。
「ただいま」
「・・・おかえり・・・」
「隆兄しかいないの?」
「そろそろ、母さん帰ってくるんじゃないかな」
瑞穂が帰ってくるなり冷蔵庫を開けていた。
「やだ、昨日買ってきたアイスもう無いじゃん」
「食べちゃったよ。そんなん」
「もう」
絵画集を降ろして、身体を起こす。
「何? ギリシャ神話読んでるの?」
「そ」
「アフロディーテのこと載ってる?」
「ボッティチェリの作品が載ってるよ。教科書にも載ってただろ?」
ぺたぺたと音を立てて、フローリングを歩いていた。
「見せて見せて」
開いたまま、瑞穂の前に突き出した。あどけない顔を赤くして、絵の横に書かれた解説を読んでいた。内心、ほっとしていた。もしかしたら、照明が落下したことも本当に偶然が重なった出来事なのかもしれない。少し、過敏になり過ぎていたのだろうか。
「今日は練習どうだったの?」
「ん・・・求婚してきた蒼を誘う場面・・・とか」
「マジ? 瑞穂が、誘うの?」
吹き出しそうになるのを必死に堪えた。僕から見ると、瑞穂は未だに赤白帽子を被っていた小学校の頃の面影を残しているように見えるのだ。
「笑ってる?」
「いいや。いいんじゃないかな?」
心が柔らかくなっていく。
「・・・なぁ、瑞穂」
「ん?」
「そんなに女優になりたいか?」
透き通るような視線でこちらを見つめる。
「うん」
「どうして舞台照明落ちたって言わなかったんだ?」
「・・・それは・・・」
瑞穂の表情が青くなっていくのがわかった。
「危ないじゃないか。誰かが意図的にやったかもしれないんだろう?」
「どうして・・・誰から聞いたの」
「部活の友達からね」
「そう」
空気にびりびりとした亀裂が入っていく。
「・・・お父さんには?」
「話してないよ」
「そっか。よかった」
「どうして黙ってんの?」
長い睫毛を瞬かせていた。
「だって、せっかく掴んだ主役だもん。たかが照明落ちたくらいで変にごたごたさせたくないんだよね。ぼろい小屋だもん、ただの老朽化なんだから」
言葉の端に影があるのを感じた。嘘が下手だと思う。でも、きっと気づかないふりをしたほうがいいのだろう。
「・・・本当に偶然なんだな?」
「もちろん。監督もそう言ってたから確かよ」
何度も首を縦に振っていた。
「・・・あ、そ」
「だから、事を大袈裟にしないよう絶対に黙ってて」
「あぁ」
「当真兄にもだよ」
「わかってるって。じゃあ、貸しにしとくよ」
本をソファーの背凭れに置いた。
「貸し?」
「俺が脚本家になったら、瑞穂も舞台に出演して」
約束を埋め込むようにして、猫のような瞳に焦点を合わせた。
「いい作品だったらね」
「あぁ」
花を散らすように微笑んでソファーを離れていった。胸を撫で下ろして本を閉じたが、数日後、気丈に振舞う瑞穂の態度は嘘だったのだと気づく。自分が思っていたよりもずっと女優だったのだ。僕はこのときの選択を一生後悔するだろう。
家族全員で見に行った初日舞台公演で、瑞穂を見かけたときには、もう女優ではなくなっていたのだから。
泡
瑞穂が亡くなった後のことは覚えていない。当真とは違い、僕はすぐに瑞穂だとは認識できなかった。すぐに幕が下り、公演中止のアナウンスが流れていた。父さんが帰る人を掻き分けて舞台へ近寄っていったが、僕と当真は呆然と見ているだけだった。母さんはハンカチも使わずにひたすら涙を流していた。
連日のように家の前にパトカーが停まり、警察官が朝からずっと居間に入り浸っていた。テレビの報道関係者の車も数台見えたが、父さんがカーテンを閉めてしまったため、外で何が起きているのかわからなかった。
「何も今日じゃなくていいのにな」
当真が部屋に入ってきた。
「そうだよな・・・」
「・・・会った?」
「いや」
「俺も」
妹は昨日まで司法解剖され、今朝帰宅して畳部屋に横になっていた。二階に上がるとき足だけ視界に入ったが、避けるようにして自分の部屋に閉じ籠っていた。
「・・・あまりにも非現実的で、実感がないんだよ」
「・・・・・・」
「どうしたんだろうな」
ベッドに並んで座りながら、部屋の角を眺めていた。
「兄ちゃんはどうする?」
「どうするって・・・」
当真が家に帰った後、何度も嘔吐していたのは知っていた。身を切り裂かれるようだった。白い布を被った遺体が帰ってきたにも関わらず、まだ受け止めきれていなかった。目を閉じると、先週に時間が巻き戻って、瑞穂を劇団から引きはがすことができるのではないかと思ってしまう。
「夢じゃないみたいだね・・・・・・」
「そうだな」
司法解剖の結果、瑞穂の死因はロープで首を絞められたことによる窒息死だった。僕たちが見かけたときには、死後三、四時間が経過していたのだ。
「娘が・・・どうしてこんな・・・」
「落ち着いて・・・」
「そんな、どうして・・・あたしには、どうしてなのか」
母さんが取り乱しながら泣き叫んでいる声が聞こえた。目覚まし時計の秒針が刻々と時を刻んでいる。地獄にも時間が流れるのだろうか。
「本当に、お前は見たか? あれは本当に瑞穂だったのか?」
「・・・・・あぁ」
当真が赤く腫れた目を擦っていた。
「独りで部屋に居ると発狂しそうになるんだ。もう、気が狂ってしまったほうがいっそのこと楽になれるんじゃないかって思うよ。目を閉じると生気のない瑞穂の顔が・・・」
「止めろって」
「ごめん」
情けない兄ちゃんだと思う。
「・・・あのとき、舞台のオーディションなんかに受からなければよかったのにね」
「・・・・・・・・」
「何言っても、もう取り返しが付かないよね」
心が空白になっていく。
「あぁ・・・そうだな」
立ち上がって、窓のほうに手を伸ばす。カーテンの端を捲るようにして、家の前を覗いた。
「人が多いな」
「話題になるんだよ。劇団Tの有名な監督が手掛ける舞台だしさ。それであんな・・・」
当真が声を詰まらせた。
「瑞穂は見世物みたいだな」
「兄ちゃん・・・・」
「あんな殺され方、普通じゃない」
「・・・・・・」
「だって、そう思わないか?」
壁を蹴った。
「・・・首を吊って・・・あんな状態で、突然舞台に現れるなんて、見世物みたいじゃないか。何の演出だよ? ありえないだろ」
「・・・・・・」
「本当、どうなってるんだ。色んな情報が奇怪で、何が何だかわからないよ」
奥歯をギリギリと噛んだ。被害者遺族なのだという認識が、輪をかけて精神を痛めつけていく。
「隆司君、当真君」
母さんが足元のおぼつかない状態で、警察に両脇を抱えられて部屋の前に歩いてきた。
「君たちからも、最近の妹さんについて、どんな小さいことでもいいから教えてもらえるかな」
スーツを着た体格のいい男が片足を部屋に入れてきた。
「・・・はい、今行きます・・・」
当真が先にベッドから離れた。
「当真、先に俺から・・・」
「いいよ。兄ちゃんも、何か有力な情報が無いか思い出しておいて」
「・・・・・有力って・・・」
血走った目でこちらを見降ろす。
「犯人なんてすぐに捕まる。あれだけの人があの場に居たんだから、誰かが何かを見てるはずだ」
「・・・・・・」
「絶対に犯人を炙り出してやる」
神経に電流が走るのを感じた。背筋が震えている。刃を突き刺すように、艶のないフローリングを踏み付けていた。
事情聴取にきた芹沢刑事は、真意に僕の話を聞いていた。ウーロン茶の入ったグラスを掌で転がしながら、何を話していたかはあまり覚えていない。二週間前、瑞穂が主役について嬉々として語っていたことや、夜中まで台詞を練習していたことを話していると、悲しみが増して、何をどう伝えればいいのかわからなくなっていった。
「母さんは?」
「さぁ。寝室で寝てるんじゃない?」
当真が瑞穂の亡骸の前に座っていた。電気の紐を避けて、当真と瑞穂の隣に座る。
「兄ちゃんは? 警察から何聞かれた?」
「多分同じことだと思うよ。最近の様子とか交友関係とか家族のこととか・・・」
「全く同じだね」
警察が出て行ってから、人の声がしなくなっていた。七畳半の部屋に自分と当真の声が響いていた。
「・・・事件性よりも自殺じゃないか・・・ってこと疑うような聞き方だと思わなかったか?」
「そんなわけないじゃん」
「俺だってそう思うよ。でも・・・」
五百人が劇場で、あの瞬間を見ていたのだ。団員が声を上げるまでは、舞台上に不自然な動きは無かった。
「・・・・・・・・」
顔を覆った布が、瑞穂の形のまま沈黙している。
「・・・でも、瑞穂は絶対自殺なんかしない。理由がないじゃないか。やっと劇団Tの主役に抜擢されて、これからってときなんだから。膨らんできた夢を自ら割るようなことなんてするわけない」
「・・・・・うん・・・・」
自分の憶測を口にする。
「・・・だからさ、俺は舞台関係者の誰かが嘘ついてるんじゃないかって思ってるよ。本当は何か知っているのに、知らないふりをしているとか・・・」
「・・・どうゆうこと?」
「瑞穂を殺そうとした人がいる・・・とか」
「・・・・・・」
「だって、それしか考えられないだろ」
畳に手を付いた。
「聞いたんだよ。練習中、照明が落ちてきたって・・・」
「何それ?」
当真の目が大きく見開いた。
「瑞穂が黙っててほしいって言ったから、家族には言わなかったんだ」
「どうしてそんな重要なことを・・・」
当真が声を荒くした。
「・・・・・・・・・」
「その時点で行動を起こしていれば瑞穂は助かったかもしれないじゃないか」
心臓が握りつぶされそうだった。
「・・・ネジが緩んでて落ちたんだ。ワイヤーはたまたま掛かって無かったらしい。確かに人が意図的に落としたものではないかもしれないって思ったよ」
思い込もうとしていたのだ。
「でも・・・じゃあ、警察には行ったの?」
床を見ながら首を振った。
「・・・いや・・・・・・」
「どうして・・・」
「もし警察が入ってしまったら、せっかくの舞台が無くなってしまうかもしれないだろ? 瑞穂もそれを気にしていたんだよ。俺だってこんなことになるとは・・・」
声を絞り上げた。
「でもさ・・・本当、もう、終わってしまったことだけど、もし通報していればこんなことにならずに済んだかもしれないって・・・」
目を合わせることができなかった。
「・・・そうだな。俺は兄ちゃん失格だよ」
「いや・・・ごめん。違うんだ。悪いのは犯人で、兄ちゃんを責めるつもりはないんだ。たださ・・・」
布から出たほっそりした手に触れていた。
「兄ちゃんはもし、自分が過って罪を犯してしまったときも、守るべき夢があるなら、罪を償うことよりも夢を守ることを優先させてしまうのかい?」
「どうしてそんなこと聞くんだよ?」
「・・・・・・」
当真の視線がぎろりとこちらを見ている。息が詰まりそうだった。
「・・・それは・・・俺だって・・・その時になってみないとわからないよ。想像もしたくない」
「そりゃそうだよね」
ねっとりとしたものが心の裏側に張り付いた。
「犯人って・・・どんな奴なんだろう」
「さぁ、ただ今この時点でも、のうのうと生きていることだけは間違いない」
畳に爪を立てる。
「会ったら殺してやりたいくらいだね」
「あぁ。やっぱりこのままじっとしていられない。俺たちの妹なんだから。当真、絶対に犯人を見つけてやろう」
自分が背負った罪悪感を拭い去りたくて必死だった。
「法の下に裁かせてやる」
「うん」
「・・・・・・」
顔に掛かった布を静かに剥がす。瑞穂は穏やかに目を閉じていた。
「・・・瑞穂、誰がこんな目に合わせたんだ?」
「・・・・・・」
「瑞穂・・・・・・」
窓から月の光が入り込む。壁の縁が霞んでいき、目頭から水滴が伝っていくのがわかった。
花
瑞穂の葬式は近親者だけで行われた。母さんの意向もあり、劇団関係者は一切訪問を断っていた。悪い人ばかりではないのはわかっていたが、劇団の一員というだけで虫唾が走った。咳払い一つで、罪の有無に関わらず、掴みかかってしまってもおかしくなかったと思う。肉が燃やされ骨だけになった妹を見ると、悔しさで心が砕けてしまいそうだった。否、思い返してみると、いっそのこと砕けてしまったほうが楽になれたのかもしれない。
「なんか懐かしいな。こうやって、兄ちゃんと協力するの」
「そうか?」
「子供の頃、一度だけ、ちっちゃな瑞穂を連れて父さんの働いてる劇場に遊びに行ったことあったじゃん。裏口から入って、こそこそ隠れながらさ。そういや、いつも一番最初に見つかって怒られるのは兄ちゃんだったよね?」
「そうだった?」
「あれ、本当は俺たちを庇ってたの?」
報道関係者の車を避けながら、ラーメン屋の日陰に入った。
「さぁ、もう忘れたよ」
脳の血管がぴんと張り詰めている。緊張と憎しみで胃液が逆流してしまいそうだった。
「今、お昼なのかな。人通りが少ないね」
「あぁ」
下北沢の商店街から50メートルほど離れた位置にあるK劇場は、劇団Tが舞台公演用に所有している劇場だった。桑原財閥の三男だった監督が、父親が亡くなった際に遺産で買い取ったらしい。
「警察たちちゃんとやってくれてるのかな」
「だからテープ張って入れないようになってるんだろ」
劇団には普段役者が出入りする裏口があると聞いていた。正面には報道関係者の車とパトカーが停まっていたので、関係者は裏口から出入りしているのだと思う。
レストランと劇場の間をすり抜けるようにして、裏口を目指す。小さなドアに近づくと、立ち入り禁止のテープの前で警察官が立っているのが見えた。
「すみません」
「なんだい? ここは関係者以外立ち入り禁止だよ」
砂利を避けて、警察官の帽子を眺める。
「先日ここの事故で亡くなった、蓮見瑞穂の兄です」
当真が俯いていた。
「あ・・・・・・」
「妹の様子について気がかりなことを思い出したんです。現場検証に立ち会いたいのですがいいですか? 芹沢刑事には一応許可を頂いているのですが・・・」
すらすらと嘘を付いていた。
「・・・いいよ。ただし、邪魔にならないように。角に人がいるから聞いてみるといい。具体的なことをやってるから、無理はしないようにね」
「はい」
「でも、君たち入って大丈夫かい? 心理カウンセラーに・・・」
「僕たちなら大丈夫ですから」
自分に言い聞かせているようだった。
「・・・そうか・・・無理しないようにね」
「はい」
適当に返事をして、テープを持ち上げて中に入り込む。当真は『遺族』という扱いに、まだ慣れてないようだった。腫れ物にでも触るような周囲の態度に、口を曲げて顔を顰めていた。気持ちはわからないでもなかった。未だに、家に帰ると瑞穂が冷蔵庫の前に立っているのではないかと、どこかで期待してしまうのだ。
劇場の空気がひんやりと肌を刺激してくる。真っ白に続く廊下の向こうから、警察官らしき人たちの声がしていた。
「・・・ねぇ、兄ちゃんは瑞穂がこんなふうになった今でも脚本家を目指そうとするの?」
「あぁ・・・こうなったから、さらになりたいと思うようになったよ」
「どうして?」
木材の匂いが鼻を突く。
「悔しいのかもな。こんな奴のせいで、全てが台無しになってしまうのが」
「・・そうだね・・・・」
「当真はまだ高校生だもんな。進路は?」
「俺、警察官になろうと思う」
「え?」
スニーカーがじりっと音を立てる。
「それって・・・この事件がきっかけで?」
「いや、ずっと前から考えてたんだけどね。心を固めたのは、この確かに事件があったからだよ」
「だって前は照明の仕事したいって言ってなかった?」
「あぁ、父さんの仕事を見て、確かにそう思ったときもあったよ・・・。兄ちゃんと瑞穂が舞台の仕事を目指してるなら、俺もってね」
父さんは専門学校を卒業して舞台照明に携わっていたが、数年で辞めて、今は精密機械工場に勤めていた。給料が低くて、三人の子供を育てられないからと、飲みの席で聞いたことがあった。
「でも、今は警察官になって、俺たちのような被害者を作らないようにしていきたいんだ」
「・・・そうか・・・」
時折、当真の正義は目が潰れそうなほど眩しく感じるのだ。
「・・・父さんは?」
「もう話してる。最初はもっと考えたほうがいいって言われたけど、俺の意思は変わらない」
木の柱に手を付きながら話を続ける。
「勉強は受験生と同じように、続けていくけどね」
湿った空気を吸い込む。
「そっか。いつか兄弟で舞台作りたいと思ってたんだけどな。俺と当真が脚本兼演出家で、主役は・・・」
口に出してはっとした。当真が辛辣な表情をこちらに向けていた。
「・・・・・・・・・」
「ねぇ、そこで何してるの?」
クリーム色のワンピースを着た女性が柱の裏から現れた。
「あ、俺たち、蓮見瑞穂の兄で・・・」
髪を耳に掛けると、桜貝のような爪が艶めいていた。十代だろうか。瑞穂と同い年くらいに見えた。
「どうしてこんなところに居るの?」
「犯人を捕まえるためだよ。この劇団に居る、ね」
当真がすっと前に出る。
「・・・そう、でも素人の貴方たちがこんなところに来ても、事件は何にも進展しないと思うわ。却って、警察の捜査の邪魔になるんじゃない?」
大人びた口調で話す。
「でも妹があんな姿で落ちてくるところを見せられて・・・。このまま黙って家に居て、犯人が捕まるのを待っているだけじゃ、気が狂ってしまうよ。どうして、あんなに人が見ていたのに、一週間経っても犯人が捕まらないんだってね」
「・・・だからって、こんなところで何をするの? 人が亡くなった現場をわざわざ物色しにきて」
「君のような劇団の人たちが信じられないからさ。妹がどんな場所で亡くなったのか・・・否、どんな環境に居て殺されたのか自分の目で確認したかったんだよ」
「当真、落ち着けって」
耳を真っ赤にしていた。
「あの、舞台関係者の人だよね?」
「・・・そう。あたし、秋葉涼花っていうの。瑞穂ちゃ・・・妹さんとは同じ舞台に立つはずだったのよ」
「ふうん」
当真が口を曲げていた。
「今舞台関係者の人たちはみんな現場検証に立ち会ってるの」
「君は・・・いいの?」
子犬のような瞳が潤んでいく。
「あたしは・・・今は、まだちょっと辛いから・・・」
「少し話を聞きたいんだけど、いい?」
「・・・えぇ・・・」
筋の張った拳を握り締めながら詰め寄っていた。自分の身体が舞台の空気に怯えているのがわかった。当真は何かを知ることが怖くないのだろうか。
「・・・あ、ちょっとそこのソファーに座ってもいい? 警察の話聞いてたら、疲れちゃって・・・」
「あぁ・・・はい」
長い黒髪を後ろにやって、楽屋前のソファーに腰を掛けた。廊下の角に立っていた警察官が振り向いたが、隣の人と何かを話した後、こちらに軽く頭を下げて視線を逸らした。
「・・・涼花さんは何役だったの?」
「あたしは花の妖精役。ほとんどエキストラに近いから台詞もそんなに無いの。騒ぎがあった時には裏のほうで衣装チェックしていたから、あんまり妹さんのためになるような情報は提供できないかもしれないわ・・・」
「・・・そ・・・」
項垂れる当真の横で顔を出した。
「踊りって?」
「ちょっとしたステップを踏むだけよ。監督が瑞穂ちゃんの踊りを気に入ってね、花の妖精役の子たちにも軽くバレエの要素を取り入れたいって」
「踊れるの?」
「十五歳までバレエやってたから」
疲れ切った表情で口角を上げた。
「何で、あの事件の日に瑞穂が現れないのに公演を続行しようとしたの?」
「この劇団には主要な役には必ず代役が居るの。誰かが体調不良とか、止むをえない理由で舞台に出れなくなったときには、その子がやるようになってる。今回は・・・」
「でも、変じゃないか。理由なしに来なかったら、普通家族に連絡しようとするだろ? でも、俺たち家族はそんな連絡誰も受けてない」
「そう・・・あたしも詳しいことはわからないんだけど・・・。連絡先を書いた名簿が無くなってたって話は聞いたわ」
誰かが意図的に連絡を取らないようにしていたのだろうか。
「・・・瑞穂は、劇団員とは仲良くやってたの?」
「そうね・・・」
頬に手を当てていた。蛍光灯に雪から生まれたような肌が照らし出される。
「中には良く思ってなかった人も居たみたいだけど・・・」
「誰?」
当真が噛み付くような声を上げた。
「おい、当真」
「・・・その人たちが今回の事件に関わってるってわけじゃ・・・」
「でも、教えてほしい。瑞穂に関するどんなことでもいいんだ。じゃなきゃ俺たちは・・・今現実に起きてることが、数週間前に瑞穂が生きていた頃と繋がっていかないんだよ」
舞台のほうから、木を打ち付けるような音が聞こえた。
「・・・三美人を演じてた子たちとペルセポネに当たるリン役の子。この劇団ではね、その一人の子が今回の主役だろうって言われていて、あたしたちはみんなそうだろうって思ってたの。でも、突然監督が外部からもオーディションに参加させて競わせたいって・・・。結局、瑞穂ちゃんの表現力に負けたのよ」
「それで? その子が虐めてたの?」
喉が痙攣していた。
「うん・・・。あたしはずっとエキストラの立場だったから、あんまり詳しいわけじゃないんだけど、役付の子たちからは結構虐められてたみたい。陰口を叩いたり、着替えを八つ裂きにしたり、練習靴をゴミ箱に入れたり・・・裏ではもっとひどいことをされてたのかも・・・」
「何で、そんなこと」
勘付いてはいたが、どうすることもできなかった。
「監督は気づいてなかったの?」
「気づいてたけど、そのままにしてたわ。あたしもあの監督が何考えてるかわからなかった。彼女がわざと足を引っ掻けて演技中に転ばせても、瑞穂ちゃんの不注意を叱るだけで知らん顔するんだから」
「・・・・・・」
「ずっと演技もしにくかったと思う・・・」
「何だよ。それ」
当真が床を蹴った。
「何て名前なの? その主犯格の子」
「・・・高塚菜々美・・・って子が主犯格よ。この劇団には十二歳のときから所属してるみたい。今年で二十三歳だから、就職も合って今回の舞台は最後のチャンスだって思ってたみたいよ」
「え・・・十二歳のとき?」
「あぁ、この劇団って所属人数は老若男女八十人くらいいるのよ。今回は例外で主役級の役を外部からもオーディションで募ったけど、劇団の人がなるって暗黙の了解みたいなものはあったの」
「じゃあ、今回は・・・」
「そう。他の役は違ったけど、マリアだけは外部オーディション枠の瑞穂ちゃんが選ばれたの。本当にすごいことなのよ。監督が求める雰囲気にぴったりだし、劇団に入団した後も主役級の役を狙えるって噂になってたの」
「・・・そんなに・・・」
死んでしまってから褒められても、無念さしかなかった。
「瑞穂ちゃんは本当に綺麗だった。あたしも・・・こんなことになるなんて・・・・・・」
「でも、涼花さんも瑞穂のこと知っててほっておいたんだよね?」
岩を投げつけるようだった。
「・・・お前」
「当真君、そうよ。貴方の言う通りよ」
「・・・・・・・・・」
「黙って見ていたの。瑞穂ちゃんが虐められているところを、助けもせず見ていた。あたしだけじゃない。団員全員がそうやって見て見ぬふりをしていた」
当真は顔を上げなかった。瑞穂は開きかけた花の蕾だったのかもしれない。涼花が目頭にそっとハンカチを当てて息を震わせている。
「・・・もういいかしら・・・」
「あぁ、うん・・・」
鞄を持って立ち上がったが、当真はソファーにへばりついたままだった。
「当真」
「だって・・・・・・」
手帳の切れ端を千切って、メールアドレスと電話番号を書いた。
「またこの連絡先に連絡してもらえるかな?」
「・・・えぇ」
「事件のこと以外にも、劇団の様子が知りたいんだ。瑞穂がどんな演技をしていたか、どんなふうに見えたか・・・。実は僕、脚本家を目指していてこの劇団自体にも興味があるんだ」
当真が怪訝そうな顔でこちらを見た。
「そうなの・・・わかったわ。落ち着いたらまた連絡する」
「当真、今日はもう帰るぞ」
「・・・・・・」
舞台へと続く廊下を睨みつけて、重たい腰を浮かせていた。楽屋前の、この廊下を、瑞穂はどんな気持ちで通っていたのだろう。
「あれ? 芹沢刑事なら向こうに居るけど、もう話した?」
警察官が突っ切ろうとした廊下に立ちふさがった。
「すみません。妹のことを聞いてると、具合悪くなってしまって。今度家に来ていただいたときに話します」
大袈裟に腹を抑えてみせた。
「お・・・そうか」
「・・・はい」
「お大事にな」
当真はすたすたと自分だけ出口のテープを潜っていた。手負いの獣のように神経を毛羽立たせていた。精神的に不安定な当真を、連れ回すのは良くないことなのだろう。十八歳の瞳に一つしか変わらない妹の死は、自分の感じる怒りとは、また違った感じ方で捉えているのかもしれない。
雫
「まだ、マスコミ居るんだな」
窓から家の前に停められた車を眺める。
「・・・・・・」
「これじゃあ、裏口からじゃなきゃコンビニにも行けないよ。まぁ、時間が経てばすぐ飽きるだろうけどね」
当真の部屋は、ドアが開きっ放しになっていた。机には模試の対策本が並んでいたが、それ以外は物の少ない殺風景な部屋だった。
「兄ちゃん、どうゆうことだよ?」
シャーペンを突き立てたまま口を開けた。
「何が?」
「あの劇団に興味があるだなんて・・・あんな、妹が・・・」
「落ち着けって。もちろん俺だってあんな劇団信用していないよ。でも、あからさまに詮索すると、誰も何も情報を提供してくれないかもしれないじゃないか?」
背中でドアを閉める。
「・・・そっか・・・ごめん」
「いや、いいよ。混乱して当然だし・・・」
ぼさぼさの髪を掻いていた。
「兄ちゃんはさ、あの劇団に居る人の話って信用できる?」
「・・・いや」
「涼花さんも含めて?」
「あぁ・・・」
「・・・・・・・・・」
短い息を吐く。黒雲のような感情に振り回されて、お互い疲れていた。
「・・・色々考えたんだけどさ、一旦は警察に任せないか?」
「・・・・・・」
「だって、俺ら精神的にもボロボロじゃないか。現場検証なんて立ち会う勇気もないし、あの劇団を出入りするだけで足が震えてるし。今は妹の死を受け入れるので精一杯だよ」
「・・・・・・」
頭を下げたまま固まっていた。
「警察に任せよう。犯人はきっとあの劇団の中にいるんだから、すぐ見つかるよ」
言いながら情けなくて目頭が熱くなった。
「・・・兄ちゃんは最近泣いてばっかだね」
「うるせぇよ」
腕で目を擦る。
「・・・わかったよ。しばらくそうしよう」
闇雲に何かを掴もうと足掻いていただけなのかもしれない。涼花の言うとおり、子供の自分たちが何をやっても事件が進展することなどないのだ。怒りの矛先を向ける場所を必死に探していた。
「無力だな・・・」
「・・・人は元々そんなに万能にはできてないよ」
ギリシャ神話の絵画集に視線を向ける。
「神様でさえ、感情を抑えきれないんだから」
家の呼び出し音が響いた。
「すみません。芹沢です」
部屋を出て、階段の手摺を掴んだ。父さんが覗き窓から確認して、ドアを開けるのが見えた。
「本日舞台の現場検証を行ったところ、隆司君から気がかりな情報を思い出したと伺ったもので」
「隆司」
付いてこようとする当真を止めて、玄関に近づいていった。芹沢刑事の横に居た若い刑事がドアを抑えている。
「すみません。俺が勘違いしていたみたいで・・・」
「独りで劇団に行ったのか?」
「ん・・・まぁ」
父さんが呆れた顔をしていた。
「お前はこんなときにいつまで子供みたいなことやってるんだ。全く」
「ごめん、父さん。本当にすみませんでした。わざわざ来ていただいたのに」
芹沢刑事が頬を緩めて首を振っていた。
「いやいや。他にもお話したいことがあってね」
「・・・といいますと・・・」
「犯人がわかったんですか?」
胃の奥が引き締まった。
「・・・まぁ・・・立ち話も長くなるので、家に上がってもよろしいでしょうか」
「はい」
母さんが襖を閉めるのが見えた。思い返してみると、瑞穂が亡くなってから葬式のとき以外、母さんの顔をまともに見ていない気がした。
警察の調査によると、首を絞める際に使われていたロープは照明用バトンを降ろすために使用していた2センチ幅のものだった。死亡推定時刻は午前八時から九時半頃。劇場のスタッフが午前八時に舞台を確認したときには人影なかったという。
不可解な点は多い。一つ目はなぜ舞台上を行き来していた劇団員が誰一人として死体を見ていないのか。午前八時半に照明スタッフが機材を確認しにキャットウォークに上がったときにも死体らしきものなど見かけなかったという。二つ目に舞台から離れたのは、裏方が打ち合わせをしていた八時五十分から九時の間の十分だった。たった十分で抵抗する人を殺害し、首をロープに巻いて、バトンに括り付けることなどできるのだろうか。三つ目に、なぜ公演時間に合わせたように死体が落ちてきたのか。ただの偶然で片付くことなのだろうか。
「我々は、自殺の線もあるかと考えてます。抵抗の跡はなく、キャットウォークには瑞穂さんが使用するはずだった舞台衣装の手袋の繊維が付着していました」
「待ってください・・・。だって八時半頃死体らしきものを見た人はいないんですよね?」
足の指を折り曲げた。
「あくまで一つの可能性です。死亡推定時刻で誰も人が居なかった時間・・・八時五十分から九時の間に自らロープを首に巻き付けて飛び降りたということも考えられます」
若手の三好刑事が口を挟んだ。
「そんな・・・・・・」
「現時点での我々のご報告は以上になります」
「では・・・自殺ではないかという話でしょうか?」
父さんが一通りの説明を聞いて、重たい口を開けた。
「なぜ公演時間に落下したのか・・・まだ不明な点が残っている限りは断言できません。ただ、その可能性も十分考えられると思っています」
首の後ろを殴られたようだった。
「・・・瑞穂は自殺なんてしないよな? 父さん」
父さんは岩のように黙っていた。
「お兄さん、妹さんの様子で何か心当たりはありませんか?」
「何もありません。理由が・・・どうして」
頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。
「隆司、落ち着きなさい」
「だって・・・」
瑞穂を殺した犯人の策略に乗ってしまっている気がしてならなかった。
「瑞穂さんは劇団員から虐めを受けていたらしいですね」
「・・・・・・・・・」
「お兄さんは何か御存知でしたか?」
「いえ・・・」
「そうですか・・・」
奥歯を噛んだ。
「でも、妹が自殺するなんて思えないんです」
「私も恐れながら息子と同じ意見です。娘は舞台の主役を演じることを楽しみにしていました。前日も夜遅くまで台詞の練習をしていたのは知っています。そんな娘が、自らの命を絶つなんて考えられません」
眼鏡の奥に静かな怒りが籠っていた。
「わかりました・・・」
締め切ったカーテンに車のヘッドライトが流れていく。一瞬、弟がこの会話に突き刺さってくるのではないかとドアのほうを見た。会話は聞こえているのかもしれないが、物音ひとつしなかった。
「・・・死亡推定時刻に不審な人物が劇場に入った形跡はありませんでした。もし、殺害されたとするなら、犯人は舞台関係者ということになるでしょう。単独犯ではなく二人以上の複数犯・・・」
三好刑事が諭すように話した。
「事件が起きたと推定される時刻は、団員たちの集合時間よりも一時間前。だから、劇場スタッフ、裏方の打ち合わせに出ていた人以外ほとんどの人は、アリバイが無いということになります」
「じゃあ・・・」
「ただ、聞き取りしたところ、妹さんを殺害するほどの動機を持った人物はいません。確かに一部の団員からは虐められていたようですが、彼女たちは家に居たため事件当時のアリバイは成立しています」
三好刑事が重々しく話した。
「・・・・・・・・」
沈黙が降り落ちて、台所の蛇口から水滴の音が聞こえた。
「・・・三好が申しあげたとおり、事件だとしても今のところ犯人の目星はありません」
麦茶の氷が音を立てた。芹沢刑事の浅黒い肌に、グラスの模様が揺らいでいる。
「でも・・・ご家族がそこまでおっしゃるなら、自殺の可能性は低いのかもしれません。引き続き、事件と自殺の両面を考えて調査したいと思います」
「お願いします」
「もちろんです・・・・・・・・」
テーブルに張り付いていた影がゆっくりと動いた。
「我々も真相の解明に全力を尽くします・・・でも、現時点では有力な情報が上がってこない限り、難しいかもしれません・・・」
芹沢刑事の低い声が、頭の裏側まで鐘のように響いていた。なぜ、犯人の手掛かりすら見つからないのだろう。話は理解できたが、真実の裏側に仕込んだ架空のストーリーを聞いているようだった。瑞穂は絶対に自殺なんてしない。何者かに殺害されたのだ。腕に爪を食い込ませて、叫びたい衝動を噛み殺す。犯人が、この先何の裁きも受けずにのうのうと生きていると思うと、腸が煮えくり返りそうになった。
二人の刑事を交互に見つめると、目を背けるようにテーブルの脚に視線を落としていた。父さんが何かを言いかけて、言葉を飲み込んでいるのがわかった。この席にいる誰もが、犯人の掌に転がされているような違和感に気づいているのかもしれない。
瑞穂は今の状況をどう思っているのだろう。父さんが「わかりました」と一言だけ口にすると、グラスの表面に付いた水滴が、すっと流れ落ちていくのが見えた。
衣装
「母さん見た?」
「いや、買い物でも行ってるんじゃない?」
畳部屋には瑞穂が最後に着ていた真っ青なドレスが飾られていた。一昨年、同様の舞台を上演したときにマリアが纏っていたもので、瑞穂がリハーサル中に着ていたものだった。
「綺麗な衣装だな」
「うん。兄ちゃん着てみたら? 瑞穂と似てるから、案外大丈夫かもよ?」
「馬鹿言え。俺が着たら捕まるよ」
「そうだね」
くくっと笑いを抑えていた。
「昨日、遅くまで話してたんでしょ?」
「あぁ・・・」
芹沢刑事が帰るまで、ドアの向こうで聞き耳を立てていると思っていたが、実際は部屋で先に寝てしまっていた。枕元には模試の解答用紙が置いてあるのが見えた。
「刑事さんたちの話どうだった?」
窓を開けて、網戸に張り付いた小虫を弾く。当真の視線がじっとりと背中を見据えていた。
「・・・自殺じゃないかって」
「そ」
扇風機の横の座布団に腰を下ろす。当真が単行本に栞を挟んで、こちらを見上げていた。
「だろうと思ったよ」
「そうか」
夜風が頭の天辺を通り過ぎていく。
「兄ちゃんはどうする?」
「どうするって・・・」
「決まってるじゃないか、真相の解明だよ。俺は絶対に諦めない。このまま逃げ切るつもりなら、絶対犯人に復讐してやる」
研がれた精神がぎらぎらとしていた。
「当真、もう警察に任せようって昨日言ったじゃ・・・」
「わかってるよ」
舞台衣装に目を向けながら、当真の声を避けようとしていた。深海のような色をしたワンピースに、水飛沫を表現したスパンコールが煌めいている。白い手袋が瑞穂の写真の下に添えられていた。
「でも警察に任せた結果がこれじゃないか。何年掛かっても引き摺り出してやる。そうだ、俺が警察官になって犯人を・・・」
「当真・・・・・・・・・」
「ねぇ、兄ちゃんも協力するよね?」
目が奇妙なくらいに落ち着いていた。
「あ・・・あぁ。もちろんだよ」
「よかった」
「ん・・・あぁ」
当真の精神に触れると、息を呑むような感覚になるのだ。丁度、ハンガーに掛かった衣装のような青く揺らめく感情に・・・。
「母さん」
母さんがふらふらとしながら廊下を歩いていた。部屋を飛び出して、近くに駆け寄る。
「・・・どうしたの?」
寝ていないのだろうか。目の下に隈ができていた。
「ん? あぁね。ちょっと体調が悪くて」
「大丈夫?」
よろけて壁に凭れかかった。
「ありがとう・・・大丈夫よ。さっき、病院行ってきて薬飲んだから」
腕を肩に回す。木の棒を掴むように軽くなっていた。
「・・・ご飯、食べてないよね?」
瑞穂が居なくなってから、家族で食卓を囲むことがなかった。各々が部屋に引き籠るか、外出するかして、リビングに集まることが無くなっていた。
「・・・そうね・・・作らなきゃね」
「・・・・・・・・・」
家族がバラバラになっているにも関わらず、お互いが顔を合わせないことに安堵していた部分もあった。一つ席の空いた食卓を囲むことが怖いのだろうか。
「今日はちゃんと作るわ。二人とも、来週から学校だもんね。しっかりした食事をとらなきゃ」
「いいよ。買ってくるから」
「ありがとう」
寝室の前で腕を離した。目に力はなく、口だけがもごもごと動いていた。
「・・・でも一休みしたら、降りるわ」
「ねぇ、父さん知らない?」
「知らない」
静かにドアを閉めた。母さんは父さんとも距離を取っているのだろうか。夫婦の会話すら、部屋のどこからも聞こえてこなくなっていた。
「・・・・・・母さん、本当に大丈夫?」
「・・・・・・」
母さんは青白い顔をこちらに向けて、口角を引き攣らせた。
犯人は満足しただろうか。絵に描いたような家族の形に入り込んだ亀裂は、ぐらぐらと家全体を傾けていた。寝室の前に座り込む。胃の内側から無数の針で刺されている心地がしていた。尻から背骨を這いあがるようにして、影が自分ごと覆い尽くしていく。なぜ、こんなことになっているのだろう。押し殺した慟哭が、腹の奥深くに食い込んでいくのを感じていた。
第二章
チャンス
小雨が降り続いていた。濡れた段ボールに紐を巻き付けて、ベランダに立て掛ける。窓に手を当てると、京王線の電車が流れていくのが見えた。
「もしもし、蓮見です」
『お疲れさま。U株式会社の堺だけど、今、いいかな』
「はい」
『今回のイベント向けの広告の文章なんだけど、クライアントからもう少しインパクトのあるものをって言われててさ。明日までに書き直してもらえる?』
ガムテープを転がす。ビニールの掛かった本棚に当たると、ガムテープの部分だけ凹んだ。
「わかりました」
『後で、メール送っておくから。よろしくね』
「はい」
段ボールの上にパソコンを置いた。電源コードを伸ばして差し込む。天井が低く、壁にはうっすらと亀裂が走っていたが、独り暮らしの生活を始めるには十分だった。
大学を卒業して、五年間小さな編集プロダクションに在籍していた。演劇、ドラマ、ラジオ、ゲームのシナリオコンペに何度か応募したが、依頼が来たのは携帯ミニゲームのシナリオだけだった。クリップ留めのA4用紙を捲る。自分の表現したい芸術は、小さな画面ではなく生身の肉体が動かなければいけないのだ。生活していくためには仕事を選べなかったが、脚本家としてデビューしたにも関わらず、夢が削られていくような心地がしていた。
本棚の上のほうに、擦り切れたギリシャ神話の美術本が置いてある。ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』に栞を挟んだまま、もう、しばらく開いていなかった。
瑞穂が亡くなってから、八年が経っていた。
事件は主役の重圧に耐えられなくなったことによる自殺として収束していた。最初はマスコミも事件として取り上げて週刊誌に憶測を書き綴っていたが、世間の話題が芸能人の熱愛報道に向かうと、波が引いていくように僕たちの前から姿を消していった。
父さんが自殺として認めたことにより、家族の溝が広がっていった。母さんが笑わなくなると、父さんも仕事から帰るのが遅くなり、お互いが顔を合わせることもなくなった。事実上、家庭内別居のような形になっていた。半年間、捜査が続いたが、唯一公演時間に落ちてきたという謎を残して、他殺に結び付けられるような証拠が出てくることはなかった。父さんも認めざるを得なかったのかもしれない。でも、精神的に限界だった家族にとっては、やり切れない感情を其々が処理することで精一杯で、誰かを気遣うという余裕はなかった。
段ボールに灰皿を置く。独り暮らしを始めたのは、家族から逃げるという意味もあった。ぽっかり空いた瑞穂の部屋に花を飾る母さんや、酒を浴びるように飲んで寝室に入る父さんや、黙々と刑法や犯罪履歴を読み漁る当真を見ていると、背中に圧し掛かる罪の意識から逃れることができなかった。朦朧とした当真の怒りが、いつか瑞穂を止めなかった自分に向けられるような気がして、心休まる場所が見つからなかったのだ。
携帯を手に取る。当真の名前を表示して、点滅していた。
「・・・もしもし」
『あ、兄ちゃん?』
「ん・・・どうした?」
画用紙のような雲から落ちた雨が、ベランダの手摺を弾いていた。
『・・・引っ越しは順調?』
「まぁね」
『仕事は?』
「・・・ぼちぼちだよ」
順調とは言えないような気がした。
「そっちは?」
『M警察署の刑事課に配属が決まったよ』
「すごいじゃん。よかったね」
『ありがと。入社当初からずっと希望出してたからね、執念って感じだよ』
「・・・・・・」
潰れた箱から煙草を取り出す。
「・・・で、何かあったの?」
『昨日の夜、実家に桑原監督から電話があったんだ』
「え?」
腕の筋に力が走った。
「それって・・・あの事件に何かあったのか?」
『いや・・・そうじゃない』
「じゃあ何で今更・・・」
『兄ちゃんの脚本を、使いたいって言ってきたんだ。以前コンペに出した作品が目に留まったらしい』
「あ・・・・・・」
手が痺れていく。
『あの劇団に脚本を提供するかは、兄ちゃんが決めることだから、一応携帯番号は伝えといたよ。携帯に掛かってくると思う』
「・・・ちょっと待っ・・・・あの劇団の監督から直接連絡が来たのか?」
『そうだよ』
「それって・・・何のつもりだよ」
『否、そうじゃないと思うよ。監督は、何か裏があるわけではなく、兄ちゃんの脚本を使いたいだけだって言ってたし』
舞台の脚本は、喉から手が出るほど書きたかった。でも・・・・・・。
「妹が亡くなった劇団なんかに・・・」
『いいよ。兄ちゃん』
「何がだよ・・・・・・」
煙草の先に火を当てる。
『もしかしたら、兄ちゃんが劇団に入ることで、あの事件を解決する何か手がかりを見いだせるかもしれないって思うんだ』
「・・・・・・」
『俺はあの事件から八年経った今も、全く憎しみが薄れていないんだ。それどころが、時間が経過するごとに増してくんだよ。家族をめちゃくちゃにした犯人に復讐してやるって、夜も寝苦しくなるくらいだ。このまま犯人だけ何の罪を償うことも無く生き延びるなんて許せない』
「・・・それは俺も同じだよ」
『だからさ、もし俺があの劇団に潜り込めるなら兄ちゃんと代わりたいくらいだよ』
真っ直ぐな声が脳を貫いた。
「・・・あぁ・・・でも、監督は俺があの事件の遺族だって知ってるんだろう? 何で今更俺なんだろう。正直、気味が悪いな」
『でも、どうだろう。もしかしたら、この話は神様がくれたチャンスなのかもしれないよ』
「神様って・・・」
喉に息が閊えた。
『ま、兄ちゃんが決めることだからさ』
「・・・とりあえず話聞いて考えるよ。また、連絡する」
『うん。よろしくね』
携帯を切って、パソコンの横に置く。
自分の将来にしても、八年前の事件の犯人を捜すにしてもチャンスなのだと思う。でも、神様は居ないのだ。当真は何時まで神様の存在を信じているのだろう。ただ、身に降りかかる不幸を受け入れられず、見えない何かに恐れているだけではないだろうか。
煙草を銜えながら、前回書いた脚本のフォルダを開く。この文章を劇団Tに渡せば、夢から逸れた道を模索しなくても、脚本家として生きていけるかもしれない。でも、殺人者が居る劇団に脚本を渡してしまったら、文章が穢れてしまうような気がした。
窓に背中を丸めた自分の姿が映っている。瑞穂が誘い込んでいるのだろうか。こんな時にも自分のことしか考えられなかった。塞がらない傷を抉るのが怖いのだ。息を吸い込むと、張り詰めた神経に、風が吹き込んでくるのがわかった。
しばらくすると、携帯に桑原監督から連絡が来た。淡々と、「以前君がK賞脚本部門に投稿した『うみひめ』を上演したい」と言ってきた。声を聞いたのは初めてだったかもしれない。想像していた以上に、人の声をしていたことに驚いていた。瑞穂の名前が出ると、逆上しそうになったが、「遺族であることは関係なく、純粋に脚本に惹かれた」と言われると、溜めていた言葉がふっと消えていった。昏々と綴ってきた文章の一部が、芸術に変わっていくのだと思うと、弾けるような動悸に、一瞬だけ家族のことを忘れてしまいそうになってしまった。
父さんの携帯番号を表示して、ボタンを押す。
『もしもし』
「・・・父さん。今大丈夫・・・?」
『あぁ。今、ちょうど家に帰ってきたとこだよ』
事件のことをまともに触れられるのは、父さんしか居ないと思っていた。
『引っ越しはどうだい?』
「ぼちぼち。まだ全然片付いてないけどね」
『まぁ、仕事も休みなんだろう? ゆっくりやればいいよ』
「うん・・・」
カーテンを引っ張った。雨音が薄れていく。
『で? どうした?』
「・・・あのさ、当真から聞いたかもしれないけど、俺、劇団Tの舞台の脚本を手掛けないかって言われてるんだ」
『そうか・・・』
「初めて桑原監督と話したよ。劇団の個性を生かすために、じっくりと吟味した結果、芸術性とエンターテイメント性のバランスが取れた俺の作品を選んだって」
『・・・・・・・・・』
「一応有名な劇団だから、観客の反応次第で次のオファーもすぐに来るかもしれない。ずっと夢だった脚本家としてやっていけるかもしれないんだよ」
携帯の向こうでドアの閉まる音が聞こえた。
「だから、俺はこの仕事を受けたいと思う」
『・・・・・・・・・そうか』
電波が途切れたように、一瞬の間があった。
『用はそれだけか?』
「うん・・・まぁ」
鎖がちゃりんと鳴ったようだった。
『お前もわかっていると思うが・・・』
「・・・・・・」
『父さんは反対だ』
木の根のように太い声だった。
「どうして?」
『あの劇団だからだ。何もあの劇団じゃなくてもいいじゃないか』
呼吸を整える。
「父さん、もう俺はガキじゃないんだ。自分のことくらい、自分で決めるよ。こんなチャンス二度とないかもしれないんだ」
『・・・そうか・・・じゃあ、仕方ないな』
元々決めていたような言い方だった。
「・・・そうするよ」
『気を付けろよ』
「何がだよ」
『・・・・・・』
「何が・・・?」
不協和音のように、父さんと自分がずれているような気がした。
『・・・いや・・・』
「・・・・・・・・・」
父さんもあの劇団の誰かが瑞穂を殺したと思っているのだろう。でも、口に出してしまうと、僕が犯人捜しに執着してしまうから言えないのだろうと思った。
「・・・ほどほどにやるよ」
『あぁ。あんま無理しないようにな』
「わかってるって」
電話越しのほうが、父さんとの距離が近く感じられた。
「・・・あと、母さんにもよろしく伝えといて」
『会ったら伝えとくよ』
嘘だと思った。
「あ、そ。じゃあ」
携帯を耳から離して、腕を下げる。相変わらず別居が続いているのだろう。離婚しないことが不思議なくらいに、何もかも通じ合えなくなっていた。でも、犯人が見つかれば、厚さを増していく壁も少しずつ壊していけるような気がするのだ。
再会
白髪交じりの髪を掻きながら、桑原監督はこじんまりとした劇場の客席の真ん中に座っていた。垂れた目蓋を広げて、役者を目で追っている。舞台に少しの間ができると、擦り切れたノートに何かを書き殴っていた。全体の流れからはみ出す一瞬の違和感を見逃さないようにしているようだった。
僕は話しかけられることなく、ただ自分の書いた脚本を捲りながら三つ後ろの席に座っていた。本当にここで瑞穂が亡くなったのだろうか。止まったと思っていた舞台は、別の役者を立てて生きていた。僕は人の感情を失ってしまったのかもしれない。憎らしい舞台を見ているのに、ステージに感性を広げることを考え始めていた。
「そこまで」
鋭い一言で、舞台が止まった。
「中橋、全然声が通ってない。前も言っただろう」
「はい」
そばかすの男性が顔を強張らせている。
「あんなので聞こえるわけないだろう。この場面はお前のせいで台無しだ」
「はい。すみません」
「あと、立石。声が高すぎて、役のイメージじゃない」
「はい」
中央に居た高校生くらいの女の子が顔を出した。監督がノートを持って席を立ち、舞台のほうへ歩いていく。
「立ち位置はここじゃなく、少し右のほう。そうだな、この辺かな。リカが出てくるときは、謎めいた感じで・・・もっと表現力を付けてくれ。できなかったら、配役を変える」
「はい」
持ってきた脚本を読んでいく。『うみひめ』のヒロインは、海から生まれるギリシャ神話のアフロディーテのような容姿をイメージしていた。否、人魚といったほうが正しいだろうか。僕の中に居た神はとうの昔に死んでいるのだから。
「ねぇ、隆司さん」
後ろを振り向く。
「あたしのこと、覚えてる?」
「あ・・・」
「涼花よ」
栗色の長い髪を後ろにやって微笑んだ。化粧のせいか、艶っぽくなっていた。
「久しぶりね。結局連絡くれなかったから」
「・・・あぁ」
黒いワンピースの裾がひらりと揺れる。
「ずっとここに居ても退屈でしょう? この劇場、案内してあげる」
「・・・ありがとう」
鞄と脚本を椅子に置いて、席から離れていく。監督がちらっとこちらを見たが、すぐに逸らした。
細い指を真っ直ぐ向ける。
「ここが楽屋。その先に行くと、事務所になるわ。この劇場自体もう劇場として開放していないから、監督の部屋になっているけど」
「そうなんだ」
白い廊下に、二つの足音が響く。楽屋の前を通ると、団員たちのはしゃぐ声が聞こえた。
「次の演目の脚本家として来てるんだってね? あのとき言ってたの本当だったのね」
「・・・・・・」
剥げたドアを見つめる。
「・・・あぁ、驚いた?」
「ん・・・まぁ」
拍子抜けしていた。
「瑞穂ちゃんが亡くなった場所なのにね。この劇場は、何も無かったように生き続けているんだなって・・・」
当真に見せたらどう思うのだろう。事件が風化するには早過ぎるような気がした。瑞穂がここに居たことさえわからなくなるほど、何も残っていなかった。
「・・・俺ら家族だけだったのかって思って」
ロビーの椅子に腰掛ける。破れた皮が掌に当たった。
「・・・この劇団も、あの事件から半年くらいは全く機能してなかった。マスコミが注目していたのもあるかもしれないけど、見えない何かに怯えていたの。辞めていった人もいるわ。半年が過ぎると、監督が新しい舞台を上演するってことで、忙しくなるうちに、人が亡くなったって事実が薄れていったのよ」
「たったの半年?」
奥歯がぎりっと音を鳴らした。
「そうね・・・警察に自殺だって断定されると、みんなどこかでほっとしてた。犯人がこの劇団に居るって思いたくなかったから」
「自殺じゃない」
「・・・わかってる」
「・・・・・・?」
星が瞬くように、瞳が潤んでいた。
「あたしもね、瑞穂ちゃんは自殺じゃないって思うの」
「え・・・・・・」
「きっとこの劇団にまだ犯人が居るわ。口には出さないけどね、8年前から残っている団員たちはみんなそんな気がしているの」
心臓が詰まるようだった。
「それって・・・」
「涼花、ここで何してるの? 二幕目の読み合わせやるみたいだよ」
後ろから三十代くらいの女の人が話しかけてきた。
「蓮見さんに劇団を案内してたの」
「・・・蓮見・・・って」
赤い唇を開けたまま、何ともいえない表情でこちらを見ていた。
「次回作の脚本家よ」
「そう・・・ですか。私、櫻井って言います」
右足を一歩引いていた。
「・・・よろしく」
「はい」
ソファーに座り直す。
「じゃあ、先行ってるね」
「うん」
自分がどんなふうに彼女を見ているか気づいてしまったのだろうか。獣に睨まれた人間が、逃げ出すように見えた。
「ごめん、そろそろ行かなきゃ。また来たときに案内するね」
「え、うん」
掌に汗が滲んでいく。
「今やってる劇は、あたしはエキストラなんだけどね」
「あ・・・」
「隆司さんが書いた脚本はヒロインになるの」
目を細めて頬を上げていた。
「楽しみ」
「あの、さっき言いかけた、瑞穂は自殺じゃないってどうゆう・・・」
髪が胸元でたおやかに揺れた。
「・・・そう思うの」
少しだけこちらとじっと見つめて、櫻井の来た方向へ歩いて行った。
監督が団員たちの前で自分のことを紹介すると、闇に蠢く木々のようにざわめいていた。集まっていた四十人ほどの中に、瑞穂を殺した犯人はいるのだろうか。舐めまわすように見たが、みんな人の顔をしているため、区別がつかなかった。
舞台への階段に足を掛ける。事件の記憶が頭を掠めると、途端に胃を圧迫されるような吐き気に襲われた。
瑞穂が飛び降りたとされているキャットウォークには、警察の言うとおり幅も狭く、抵抗する人にロープを縛り付けることはできないと思った。よろけながら段差に座り込む。確かに、表向きは自殺と言ってしまえば綺麗に纏まってしまうのかもしれない。
「あの、蓮見さん」
客席の段差を降りながら、中橋が話しかけてきた。
「ん・・・?」
「今日はもうこの劇場閉めるそうです」
舞台で見るよりも、十歳くらい老けているように見えた。
「早いね。もうそんな時間なのか」
「えぇ、あの事故以来、劇場を開けている時間が決まっているんです」
「あ、そ」
鞄のファスナーを引いて、ノートと脚本を入れる。
「あの、8年前の舞台で、アドニス役をやってた男は居ないんですか? 今日は見かけなかったけど」
「あぁ、相馬さんですね。六年前に退団しましたよ。デザイナーの仕事をするってことで」
「ふうん」
「探してたんですか?」
「・・・別に・・・ちょっと、妹のこととか・・・ね」
「・・・そうですか」
事件当初、まだ少年のように見えていた。
「じゃあ、あの舞台に出演したけどいなくなった人もいるんだ」
「まぁ・・・そうですね。正直なところ、一部の人を除いて生活するにはきつい部分もありますし・・・。年齢にもよりますが、ほとんどの人は五年くらいで役を貰えなくて辞めていきます」
「中橋さんは何役で出てましたか?」
「僕なんかいつでもエキストラですよ」
ニキビの多い頬が、学生時代に部活をしていた久保と似ている気がしていた。
「エキストラは重要ですよ。舞台を盛り上げますからね」
「・・・・・・」
客席の向こうを眺める。
「・・・蓮見さん、よくこの仕事引き受けましたね」
「ん、まぁ」
「団員の誰もが、そう思ってますよ」
僕が怖いのだろうか。声の語尾が少し震えていた。
「そうですか。僕はただ、脚本家になりたいだけなんですけどね」
「・・・でも、あの事故の起きた場所ですし」
「そんなに疑いますか?」
鼻で笑った。
「きっと、今の僕は瑞穂の兄として正しくない。でも、何をすれば、瑞穂の兄として正しいんだろうって思います」
「・・・・・・」
「本当にただ、いい舞台を創りたいだけですよ。それが、人として正しいことなのかは別にして」
「・・・そうですか」
鞄を持って立ち上がる。中橋の後に続いて、舞台階段を上がる。
「あ、監督が事務所によってくれって。話があるとのことでした」
「はいはい」
カーテン裏から電気を消すと、非常灯の緑が浮き上がった。鞄の中のペットボトルがたぷんと鳴った。
ロビー横の黄ばんだドアをノックした。中橋がこちらに軽く一礼して出て行くのが見えた。
「失礼します」
事務所は木の机が三つ並んだ小さな部屋だった。戸棚には本や紙切れが乱雑している。コーヒーと煙草の匂いが入り混じって、むせ返りそうになった。
「お疲れ」
「どうだい? この劇団気に入った?」
「・・・ま・・・そうですね」
「よかった。個性的な役者ばかり集まってるからね。才能の有無はともかく、みんな根は一生懸命ないいやつらだよ」
灰皿に煙草を押し付けていた。ドアが閉まると、緊張の糸が張っていった。
「本当に、よく来てくれたと思ってるよ。あんなこともあったからね・・・」
「・・・・・・」
「今回の・・・その、君の持っている作品は2時間の上演時間の中でやりたいと思ってる。多分、それをそのまま上演すると、1時間半くらいになるかな。あと一場面くらい追加してほしい」
「はぁ・・・」
「できれば、この劇場の復帰作にしたいと思ってる」
「え?」
足に力が走った。
「僕の脚本で・・・ですか? だってこの劇場は瑞・・・妹が・・・」
「もちろん、君さえ良ければね。どちらにしろ、この劇場は準備も整ったし、今年中に復活させることには変わらない。君が条件を呑まなければ、別の作品を上演させる」
「・・・・・・」
雨雲のような髭を突いていた。監督は何を考えているのだろう。ただ劇団の脚本を書いてほしいというだけには、とても思えないのだ。
「君には才能があるよ。この劇団で存分に発揮するといい。台詞まだ荒削りな部分が目立つけど、生きた劇団を動かしていくうちに自然と無くなっていく。私もたくさんの脚本家と出会ってきたけど、君には独特の表現力が備わってると思う。御世辞じゃなくてね」
「そうですか」
鯰のような口で褒められても、騙そうとしているようにしか見えなかった。
「・・・なぜ、僕なんですか?」
「なぜって?」
肺を膨らませる。
「・・・監督は・・・瑞穂のことで、何か隠してることがあるんですか?」
「・・・・・・・・・」
「あの日のことで・・・」
急に頬の肉が落ちていった。ポケットから煙草を取り出して、火を付ける。
「・・・誰か何か言ってたのか?」
垂れた目でこちらを睨む。仮面が剥がれていくように見えた。
「いえ」
「そうか」
ふっと煙を吐く。
「あれは自殺だって、警察に断定されたはずだ」
「でも・・・」
「もし、昔のことを蒸し返すためにこの仕事を引き受けたなら、辞めてもらいたい。妙な詮索をして、劇団の雰囲気を壊さないでくれ。団員たちも、それぞれトラウマになってるからね」
「・・・・・・すみません」
沸々と湧き出る怒りを押し殺す。なぜ、死んだ者より生きている人の人権が守られているのだろう。
「私は、純粋に君の書いた話が気に入っただけだ。誰の兄妹とかは関係ない」
「・・・・・・」
「蓮見君」
「・・・はい」
「君も脚本家になりたいんだろう?」
蛍光灯の明かりが台本を照らしている。
「・・・・そう・・ですね・・・・」
情けない声になった。
「私も感性を小まめに表現しなければ、生きていけない人間だ。君もそうだろう? 同じ舞台を創る人間として、お互い良いものを創り上げられたらと思っただけだ」
「・・・・・はい・・・・」
「芸術って人の心が現れるんだ。君が何かを疑いながら書いた脚本は、例え表現する人が役者だとしても、意図しているものと違った形で表現されてしまうと思うよ。ま、私としては、良い作品であれば誰を疑おうが、誰を憎もうが、誰を苦しめようが、何でもいいんだけどね」
「・・・・・・・・」
「よく考えるといい。あと、これよろしくね」
机の引き出しから、契約内容の書かれた紙を差し出してきた。頭を真っ白にして、片手で受け取る。
「・・・監督、その写真は?」
浮腫んだ手の甲に火傷の痕が見えた。
「あぁ・・・これか」
監督の机に、オレンジの着物を着た女性の写真が飾られていた。クリアファイルに契約書を挟みながら、監督の表情を伺う。
「劇団設立当初に一緒に舞台を創った女性だよ。私も元々俳優でね」
「そうですか」
「なかなかの美人だろう? ヒロインだったんだ」
恋人だろうか。写真立ての縁には英語で文字が書かれている。扇子を指に挟んで、こちらに向かって微笑んでいた。
「君は僕の若い頃に似ている。あの『うみひめ』って脚本を見たとき、そう思ったんだ」
「・・・・・・」
背を向ける。
「・・・失礼します」
「・・・あぁ・・・」
六月のカレンダーを見ながら、ドアのほうへ向かう。煙草の煙が肺に落ちていた。脳の空洞が広がって、ぐらぐらしているのがわかった。欲望と理性が混在していて、何が正しいことなのかわからなくなってしまいそうだった。
コンビニの袋から冷やしそばと空揚げを並べた。缶ビールの蓋を開けて、簡易テーブルの前に座る。
「もしもし」
ビールの泡が唇に当たった。
『あぁ、兄ちゃん』
「・・・今日から劇団行っててね。二回電話あったみたいだけど、何かあった?」
片手で割り箸を割った。
「見つけたんだよ」
『ん?』
興奮しているのか、感情が制御できていないようだった。
『・・・動機』
「は? 何のことだよ?」
『犯人が瑞穂を殺した動機だよ。職場で資料を漁って、見つけたんだ』
当真の声が二重に聴こえていた。頭の天辺から稲妻が流れるようだった。
「な・・・何・・・言ってるんだよ。急に・・・」
『見つけたんだ』
「・・・・・・・・・」
『でも、今電話では言えない』
心臓が小刻みに脈を打っている。段々早くなり、喉元を締め付けていった。
「・・・・・犯人って・・・」
『周りの警察官には話してない。今はまだ推測だけどね・・・とりあえず、兄ちゃんに伝えようと思って』
「・・・そ・・・・・・」
劇団のために書いた脚本が視界に映る。
『・・・今日はもう遅いから、兄ちゃんの空いてる時間に家に来て』
「家?」
『そう』
掠れるような声になっていく。
『家に来て。明日は? 来れる?』
「・・・わかった。午後一で行くよ」
『待ってる』
携帯を置いて、缶ビールに口を付ける。舌が乾いて、味がしなかった。家に事件に関わるような何かがあるとは思えないが、当真が狂ってしまったわけでもないのだろう。足が諤々としていた。真実に迫らなければいけなかったが、知ることを恐れている部分もあった。
窓に映った道路の明かりを眺める。赤信号に重なるようにして、車のヘッドライトが流れていった。
刃
玄関に飾られた朝顔は、瑞穂が小学生の頃植えたものだった。毎年種を撒いて育てていたため、鉢から水彩画のような朝顔がなくなることはなかった。瑞穂が亡くなってからは、母さんが育ててきたらしい。去年、種を撒きながらハンカチで目を抑えている姿を見かけたことがあった。
「ただいま」
日中だからか、父さんと母さんの靴は無かった。棚に傘を立て掛ける。しばらくすると、階段を降りてくる足音が聞こえた。
「外、雨降ってなかった?」
「いや、電車乗ってるときぱらぱら降ってたけどね」
「ごめん。急に」
当真がジャージの袖を捲っていた。
「今日仕事ないの?」
「半休」
「ふうん。慣れた?」
「大きな事件は抱えてないから、平和だよ。あ、芹沢刑事と今度飲みに行くことになってさ」
「二人で?」
「そ。課は違うんだけど、話す機会があって・・・色々聞きたいからね」
へへっと、ぎこちなく八重歯を見せていた。
「兄ちゃんは・・・?」
「あぁ・・・この前、劇団見てきたよ」
「・・・そうなんだ」
足の裏にフローリングが張り付く。
「・・・様子、聞かないの? 俺に会ったら真っ先に聞いてくると思ってたんだけど」
「・・・・・・後で聞こうかな・・・とりあえず、俺の部屋に来て」
「そ・・・・・・」
波が引いていくような心地がした。
当真の部屋の本棚には照明の参考書に加えて法律の本が増えていた。机には聖書とギリシャ神話が置いてある。
「聖書なんて読んでるの?」
「ん? あぁ、最近興味があってね」
ふっと短い息を漏らした。
「兄ちゃんは無神論者だもんね」
「まぁね。ギリシャ神話の神は確かによくできた話だと思うよ。キリスト教はわからないね。キリストが実在していたとしても、キリストが父と呼ぶ神は実在しないと思うよ」
「そういうと思ったよ」
当真は宗教に縋らなければいけないほど、弱い者の表情をしていた。
「・・・それでさ・・・犯人の動機って?」
「これだよ」
当真はコピーした新聞記事をこちらに突き出してきた。
「昭和の記事じゃないか」
「よく見て」
昭和六十一年六月二十日、M劇場の照明落下による火災で、二週間後に公演を控えた劇団員複数名が顔や手に火傷負ったと書いてあった。幸い、死者は居なかったが原因は・・・。
「え、これって・・・」
紙の端が震えていた。
「休み時間に許可を貰って資料を集めてみたんだ。これって、父さんが少しの期間、働いてたっていう劇場だよね。ほんの数日間の臨時アルバイトだって言うから、あまり深くは聞いたこと無かったけど」
「・・・あぁ・・・俺もよくは知らない・・・」
「この事件の資料に、父さんの名前があったよ」
後ずさりしながら、ベッドに座り込む。
「ちょっと待って。じゃあ」
「あの劇団と全く関係が無いわけじゃないってこと」
「・・・・・・」
「桑原監督って、昔、俳優だったんだってね? 関係者の間でも態度がでかいから有名だったらしいよ。ほら、これを見て。T劇場で上演するはずだった『ファウスト』の俳優の中に・・・」
頭を抱えながら、白黒のチラシを眺める。
「桑原達也・・・」
「そう・・・。捜査記録でも確認したから、確かだよ」
「・・・・・・」
監督の手の甲にある火傷の痕を思い出していた。
「きっと監督はこの舞台の上演が白紙になったことへの・・・否、これは俺の推測だけど、監督はこの怪我をした役者の中に想い人が居た。彼女は照明落下によって、顔に火傷を負い、二度と舞台に立つことはできなくなった、とかかな」
「ちょ・・・・・・」
事務所で見た写真は彼女だったのだろうか。
「で・・・でも、父さんにそんな罪があるなんて、聞いたことないじゃないか。家族なんだから、もしそうゆう過去があるなら、何らかの形でわかるだろう? 損害賠償で借金を抱えているとか・・・」
鳥肌が立っていく。
「父さんが、もし瑞穂が照明落下したときのような理由で罪に問われていなかったら? もしくは、焼けてしまって確実な証拠が見つからなかったとしたら?」
「・・・・・・・・・」
曇り空から差し込む光が、部屋に落ちてくる。
「監督が恨む気持ち、兄ちゃんなら特にわかるだろう?」
「でも、殺すほどでは・・・」
「そうかい?」
喉が詰まった。
「もし、瑞穂に火傷を負わせ、二度と舞台に立てない苦しみを与えた人の娘が、のうのうと女優を目指していたとしたら、兄ちゃんは殺したいほど憎んだと思うよ」
「・・・・・・」
当真の髪が茶色く透けていく。
「じゃあ・・・監督は意図的に、瑞穂と俺を劇団に引き込んでいるってことになるのか」
「・・・そうなるかもね」
「復讐のために・・・あんな・・・」
紙をベッドに落とす。
「といっても、証拠がない限り想像でしかない。警察だってここから見つけられなかったんだ。でも、監督には動機があるって絞り込めただけでも、俺たちにとっては進歩だと思うよ」
「・・・・・・そうだな・・・まだ、断定はできないけどね」
「だから、兄ちゃんにはあの劇団で監督だと裏付ける何かを見つけてほしいんだ。危険なのはわかってるけど・・・」
「芹沢刑事には聞かないのか?」
「タイミングを見て聞いておくよ。世間が注目した事件だったから、極秘に調べていたんだな。とにかく、兄ちゃんはせっかく神様からチャンスを貰っているんだから、それを生かしてほしい。警察にはそんなことできないからね」
聖書に手を置いていた。父さんは、気づいていて黙っていたのだろうか。
「きっと、監督は俺たちがこの記事を見たってことは知らない。知っていたら、兄ちゃんはこのオファーを受けるとは思えないからね」
「・・・そうだな・・・」
「劇団内の裏付けが必要なんだ。もう時間も経ってるし、かなり難しいかもしれないけど、きっと何かあるはず」
「あぁ」
真実に近づこうとしているのかもしれないが、思っていたよりも喜びはなかった。
「・・・なぁ、当真」
「ん?」
「どうしてお前はそんなに残酷なことを平然と受け止められるんだ。父さんが原因かもしれないっていうのに」
父さんと母さんが、瑞穂の事件をきっかけに家庭内別居を始めたのも、母さんだけが家族の中でこのことを知っていたからなのだろうか。
「何でだろうな・・・」
「・・・・・・」
「でも、兄ちゃん。俺と兄ちゃんには決定的に違う点があるんだよ」
「どんな?」
黒水晶のような目をしていた。
「ミケランジェロの『最後の審判』のように、悪しきものは神に裁かれると信じている点だよ。正義は神によって救われるんだ」
「それじゃあ・・・父さんも・・・・・」
「・・・だろうね。でも、何らかの罪があるのなら、しょうがないことだよ」
「・・・・・・・・・」
でも、当真。正義とは刃よりも残酷に思えるときがあるのだ。一瞬の感情も神に見透かされているとするなら、ただ一片の欲を抱いたというだけでも、刃は自分を貫いてしまうのではないだろうか。当真は、ぶれない正義を維持し、一片の欲も持たないと言い切れるのだろうか。
涼花
劇団では明日の公演を控えた舞台『ファウスト』のリハーサルが行われていた。座席に深く座り直す。桑原監督は、この舞台が初日を過ぎた頃から次回の『うみひめ』の舞台稽古に取り掛かると言っていた。
「ねぇ、何でそんなに暗い表情をしてるの?」
切り揃えた前髪をふわっと揺らして、涼花がこちらに歩いてきた。
「そんなことないよ」
「そうかしら」
ペットボトルに口を付ける。
「この劇団に慣れないの?」
「そうゆうわけじゃないよ」
声が掠れた。
「ねぇ・・・このシーンいつまで続くのかな。もう飽きちゃった。同じシーンばかりやってるんだもの」
「そうだね」
前のほうの客席には監督と、出演する劇団員が座っていた。僕は後ろから二つ目の席に居た。クーラーが効いているのもあったが、当真から聞いたことが頭にこびり付いて、監督のそばに近づくことができなかった。
「じゃあ、ちょっと出ようか」
「ん?」
「案内してよ、劇団」
気乗りはしなかったが、足の裏に力を入れて立ち上がった。
「いいわよ」
きゅっと頬を窪ませた。
「じゃあ、代わりに次の舞台のヒロインってどんな役か教えてね。脚本家さん」
「あぁ」
適当な返事をして、舞台のほうを振り返った。ファウストがグレートヒェンを牢獄から連れ出そうとする場面だった。
「どうしたの? 早く、行きましょう」
「うん」
当真の言うように調査したかったが、彼女以外からは事件について聞くことはできないと思っていた。瑞穂を虐めていたという高塚菜々美にもすれ違ったが、顔を見るなり挨拶もせずに逃げ出してしまった。他の劇団員も、何となく自分を遠ざけていた。自分だけが異質の存在のように思えていた。
「涼花さんはこの劇団に入ってどれくらい?」
「中学生の頃から在籍はしてたの。でも、本格的に役を貰えたのは高校生だったかな」
「学校行きながら?」
「そう。稽古は学校終わってから、公演は先生に行って早退させてもらってた」
ふわっと、フローラルの香りがした。鉛のようなものを頭に抱えているにも関わらず、なぜか涼花の近くは心地よく感じられた。
「あ、ここが楽屋」
「どうゆう割り振り?」
「特に決まってないの。楽屋と言っても女子更衣室と男子更衣室みたいになってるよ」
「ふうん」
「ここは劇場の跡地で、ただの稽古場だからね」
白い廊下を向い合わせに六つのドアが並んでいた。
「ここは? 楽屋じゃないの?」
正面突き当りのドアは、他のドアよりも少し高さがあった。
「あ、そこは衣装とか入ってるところ」
「入れるの?」
ドアに触れようと手を伸ばした。
「駄目。そこは今、入れないようになってるの」
「どうして?」
「『ファウスト』の衣装の最終チェックをしているからよ」
瑞穂の衣装もこの場所から持ち出したものなのだろうか。
「・・・・・・そっか」
「瑞穂ちゃんの衣装って貰ったんでしょう?」
「あ・・・あぁ、実家にあるよ」
衣装は瑞穂の遺体を纏っていたにも関わらず、ほとんど綺麗なままだった。
「へぇ、よく監督がオーケー出したね。あの衣装は代々アフロディーテ役の子が着用してたものだから、絶対手放さないと思ったのに」
「瑞穂が亡くなったんだから、次の子は着たくないでしょう」
「・・・ごめんなさい」
静かに目を伏せていた。
「別にいいよ」
「ねぇ・・・瑞穂ちゃんが亡くなった次の週のこと、覚えてる?」
「あぁ、無理やりここに入ってきたことだろう?」
「何しに来てたの?」
「犯人の手掛かり探しだよ兄弟で勝手に突っ走って、案の定帰ってから親父に相当怒られたよ」
「そう・・・手掛かりは見つかった?」
「見つかってたらここにはいないよ」
壁に寄り掛かる。
「連絡、くれなかったでしょう? 私にできること、何も無かった?」
「いや・・・」
「・・・・・・・・・」
涼花には八年前連絡先を聞いていたが、結局一度も連絡することはなかった。彼女なら事件について何か知っているのかもしれない。でも、口に出すとガラスのような関係に亀裂が入ってしまうような気がしたのだ。
「それより、涼花さんはどうしてこの劇団に入ったの?」
「・・・え・・・」
くるんと上がった睫毛で、こちらを見上げた。
「・・・やっぱり、みんなと同じ。女優になりたいからよ。この劇団はこうやって劇場も持ってるし、常に公演はあるからチャンスもたくさんある」
「女優かぁ」
「そう、舞台だけじゃなく、ドラマや映画にも出演して注目を浴びる女優」
壁際のソファーに座って、顔を上げる。
「そんな魅力的な仕事なのか?」
「もちろんよ」
「俺にはよくわからないんだ。脚本を書きたいために、舞台に上がるならわかるんだけどさ。注目を浴びたいからとかなの?」
なぜ瑞穂が女優に拘っているのかも、理解できないままだった。
「自分が芸術の作品になるからよ」
「芸術の作品?」
「そう」
ペットボトルを掴んだまま手を降ろした。
「絵画や彫刻は時の止まった芸術でしょう? でも、舞台は時間の流れる芸術なの。だから、女優はね、ほんの一瞬でもその空間の一部になれるのよ」
「・・・・・・」
「そんな幸せなことはないでしょう?」
目の奥まできらきらしていた。
「・・・なるほどね」
頭を掻いた。ピュグマリオンの話を思い出していた。監督が『うみひめ』のヒロインに彼女を抜擢した理由が理解できた気がした。
「君は俺が書いた次の作品のヒロインにぴったりだよ」
うわごとのように話していた。見惚れているのだろうか。
「君しかいない」
「そう?」
「あぁ」
感性が吸い込まれていくのを感じていた。ほっそりした指先が頬を伝う。
「よかった」
「・・・・・・・・・」
咲き始めた桜のような頬に笑窪を作る。オレンジに染まった爪が、目の先で艶めいていた。
アルバイト先の編集プロダクションから電話が来ていたが、『ファウスト』のリハーサルを見ていたため気づかなかった。きっと、先週書いたネット関連広告の文章の確認だろう。
「失礼します」
「おぉ、お疲れさん」
「契約書、持ってきました」
机に置いた灰皿から煙が上っていく。
「ありがとう」
作り笑いの裏側には何が隠されているのだろう。平然としている姿が、妙に胡散臭かった。当真の言うように監督が犯人だとしたら、このまま首を絞めてやりたかった。
「よろしくお願いします。今日の『ファウスト』素晴らしかったですね。監督と他にも色々話したいと思いまして・・・。この劇団には他にも脚本家は・・・」
狭い事務所をさり気なく見渡したが、机の上の写真以上のものは見つからない。可能な限り長い時間、監督の近くで情報を収集したかった。
「今日はこの後用事があるから、帰ってくれないか」
「・・・・あ・・・・はい」
ぐっと身を引いた。
「すまないね」
「・・・いえ」
何かに警戒されてしまったのだろうか。
「では、またの機会に」
「あぁ、お疲れ」
「失礼します」
鞄の持ち手を擦るように握り締めた。時間はまだある。慎重に探っていかなければいけないと思った。監督に背を向けて、事務所のドアを引く。
肩を落として、身体の力を抜いた。心臓がどくどく鳴っている。事務所を出て、手が震えていることに気付いた。監督は父さんの子である自分に対しても、殺意を持って見ているのかもしれない。でも、もし瑞穂のような状況になったら、刺し違えるくらいの覚悟はあった。ただ、敵を目の前にすると、森に迷い込んだ羊のように全身が委縮してしまうのだ。
壁を伝って、出口のほうへ歩いていく。団員の声が遠くのほうで聞こえていた。当真に何て言おうか考えていた。ペットボトルをゴミ箱に放り込む。
ふと、ヒールが床を突くような足音が聞こえた。振り返ると、事務所の前に女性が立っていた。パーカーのフードを深く被って、背中を丸めるようにしてドアの取手に手を置いている。
「あ・・・」
女性が暗闇からこちらを振り向いた。彼女の右目は眼帯に隠れて、頬は時間が経った蝋燭のように爛れていた。背筋がぞくっとした。足が貼りついたように動けずにいると、彼女はこちらの視線をかわすように、すぐに事務所の中へ入っていってしまった。
歪
喫茶店の窓に雨が流れて、停留所に止まったバスが歪んで見えた。アイスコーヒーの上からシロップを半分垂らす。
「兄ちゃん」
「あぁ、当真。こんな遠くまで来てもらって悪いね。今日休み?」
「午後半休貰ってね。劇場のスケジュール入ってなかったからちょうどよかったよ」
当真が鞄を降ろして、椅子を引いた。
「アイスコーヒーお願いします」
「かしこまりました」
「すごい雨だな」
「あぁ。通り雨だから、すぐに止むと思うけどね」
ハンカチで腕を拭いていた。
「それで・・・」
グラスの氷を避けてストローを差す。
「あぁ、T劇団の話だよ」
百均で買ったノートを捲る。昨日の夜に、劇団についてわかったことを走り書きしていた。事務所の机には白黒の女性の写真があり、夜遅く女性が監督の部屋に入っていくのを見かけたことを話した。事件についてわかったことはすぐに共有するというのが、兄弟のルールになっていた。
「・・・その見かけた女性って何歳くらい? 今の恋人とかじゃないの?」
「顔が爛れていてわからなかった」
声を潜める。
「え?」
「あぁ、右目は眼帯で隠れていた。暗くてよく見えなかったけど、おそらく火傷だと思うよ」
「じゃあ、やっぱり」
「当真の推測したとおりじゃないかって思うよ。事故にあったのは監督の恋人なんだろう。堅物の監督が部屋に写真を飾ってるんだよ? しかも、舞台が終わってからこそこそ呼ぶなんて・・・絶対そうに決まってる」
「・・・とりあえず、整理しよう。兄ちゃん、劇団の中で他にもその女を見かけた人はいるの?」
「いや・・・わからない」
闇を這うような容姿に、誰かを待つことなく、その場から逃げ出してしまった。顔は人間の形をしていなかった。冷静に思い返してみると、見間違いだったのではないかとさえ思えた。
「聞けるような人はいないの?」
「・・・・・・いないこともない・・・」
「涼花さん?」
「あぁ。彼女くらいだな。あとの人は、俺に警戒して中々近づいてこないから」
「そっか」
店員が当真の前にアイスコーヒーを置いた。
「今度行ったときに聞いてみるよ」
「兄ちゃん、彼女のこと好きなの?」
「いや・・・俺の脚本を上演するときの主役になるからさ。だから、よく話すだけだよ」
ストローに口を付ける。
「ふうん。涼花さんもオーディションで決まったの?」
「どうなんだろう。聞いてないや」
「気にならないの?」
「別に。あの脚本のヒロインは彼女しかいないからさ。どっちでもいいよ」
「・・・そっか」
視線を窓のほうに向ける。車が歩道に水飛沫を上げていた。
「俺は、彼女があんま好きじゃないよ」
「どうして?」
「何となく」
御手拭の袋を抓んだ。
「あ、そ」
雨がどんどん激しくなり、外が白くなっていった。タクシーから降りた人が調布駅のほうへ走って行くのが見える。
「・・・一気に犯人に近づいたよね。あと一歩って感じ」
「あぁ」
「不思議だよね。八年間、見えない犯人への憎しみが募るのにどうにもならなくて、ずっともがき苦しんできたのに、今頃になって兄ちゃんが劇団に呼ばれ、俺が刑事課に配属されて情報を入手することができて、トントン拍子に色んなことが見えてきてさ。怖いくらいだよ」
当真が頬杖を付きながら、自分と同じ方向を眺めていた。
「きっと、時期なんだよ。滞っていたものが、何かのきっかけで流れ出すのと同じだと思うよ」
「そうかな」
「そうさ」
息を吐くように答えた。
「今の両親を瑞穂が見たら悲しむだろうな」
窓越しに話していた。
「そうだな。でも、父さんに罪があって恨みをかった結果の事件だとしたら、瑞穂も父さんのこと恨んだんじゃない?」
「そんなことないよ。瑞穂はきっと許してくれる」
語気を強めていた。
「何を根拠にそう思うんだ?」
「瑞穂の肉体は今世での役目を終えて、神様のもとへ行ったんだ。神の国では、弱くても徳の積んだ者ほど大きなものを与えられる。だから、きっと瑞穂は神の愛によって人を許す心も与えられてると思うよ」
曇りのない目を見ていると、脛を撫でられるようにぞわっとした。
「それは、お前がそう思いたいだけだろう?」
瑞穂は自分のことも許すとは思えないのだ。
「兄ちゃんも聖書を読めばわかるよ」
「・・・わかった。もういいよ」
ノートを閉じて、鞄の中に入れた。当真が言いかけた言葉を飲み込むようにして、アイスコーヒーを吸っていた。
「・・・・・・・・・」
事件とは異なる話題を探しながら、数年間、当真と事件を省いて話していないことに気づいた。砂鉄が磁石に引っ付くように、どこかで事件の話に結び付いてしまうのだ。
もし、瑞穂が生きていたのなら、当真との会話も変わっていたのだろうか。否、共通の話題はないように思えた。血を分けた兄弟であるにも関わらず、根柢の絆は希薄で、一点に向けた憎しみのみで繋がっているような気がしてしまうのだ。




