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追憶1

 小学生の頃、引っ込み思案な性格を心配した祖母に手を引かれて古びた道場の戸をくぐった。

 木の床の匂い、汗の染みこんだ畳の感触。

 そこで、ユリは初めてマキを見た。

 道場の娘で格闘家の祖父と父を持つサラブレッド。

 ハっとするほどの美貌を持ち恵まれた長い手足に類まれなセンス。

 大人の相手をものともせず、真っ直ぐに踏み込み、きれいな突きを決める同い年の少女。


 同年代の男子たちを次々となぎ倒し、気合いの声で空気を震わせる。

 その姿に、ユリは思わず息を呑んだ。

 マキはユリにとって憧れであり目標の存在になった。

 その翌日からユリは道場に通い始めた。

 

 道場の紅一点だったマキはユリの加入をとても歓迎してくれた。

 ユリは不器用で覚えは遅かったが、マキが隣で「こうだよ」と手を取って教えてくれるたびに、胸が温かくなった。

 突きが真っ直ぐ決まった日、型を最後まで通せた日。

 少しずつ自信が芽生えていった。


 マキ以外にも話せる仲間もできた。

 道場でたぶん自分の次に弱い男子。

 同い年のタケル。ゲームとパソコンに熱中しすぎたらしく親に言われていやいや通っているらしい。

 VR格闘ゲームは超一流だったが現実の組手はからっきし。

 マキには一撃で転がされ、ユリにすら技ありを取られて「女子に負けた」と茶化される。

 組手をするより皆の動きを観察しているほうがいいという変わりものだ。


 タケルはあまり周りと自分から溶け込もうとしなかったが

 格闘ゲームにユリが興味を示すとユリにはなにかとアドバイスをするようになった。

 ユリはゲームではこんなに強いのになんで現実だと弱いのか?と尋ねた。

 タケルは現実では同じ動作をできるようになるのに時間をかけたやつのほうがが強い。

 自分はそんなことに時間をかけたくないと語った。

 ユリは反復練習の大事さを知った。


 マキやタケルと過ごす日々はユリを明るい前向きな少女に変えていった。

 けれど、そんな日々に暗い影が差す。

 ある日の学校の帰り道、年上の男子に肩をぶつけられる。


 「お前さ、毎日道場通ってるみたいだけど。女が強くなってなんか意味あるのか?なんの役にも立たないのに頑張って馬鹿なんじゃない?」

 

 吐き捨てるような声とあざ笑う男子たち。

 ユリは言い返せず、その場で涙がこぼれた。

 その夜、道場にもいかず泣き腫らした顔で帰ってきたユリを見て祖母は優しく頭を撫でた。


「ユリはね、道場から帰ってきたらいつも楽しそう。笑顔が前よりずっと素敵な子になった。

 ユリにはこれから咲くだろう蕾が沢山ついているなって私は思ってたのよ。」


「蕾が……たくさん?」


「そう。それを咲かせるも枯らしてしまうもあなたしだい。ユリはどうしたい?」

 

 ユリはすぐに答えられなかった。

 初めて感じた人からの悪意が怖かった。

 翌日、その話を耳にしたマキは下校時刻、その男子たちを待ち伏せした。


「私にも同じこと言えるの? 言ってみなよ」


 男子が口ごもった瞬間、マキは突きと蹴りで圧倒した。

 叩きつけられ、泣きながら逃げる男子。

 校庭に重たい空気が満ちた。


 後日、マキの家は謝罪に回ることになった。

 幸い彼らは怪我もなく以前にユリがわざと肩をぶつけられたことが問題に上がったこともありマキは厳重注意されるだけで済んだ。

 だがユリは「ごめんね……私のせいで」とうつむいた。

 するとマキは、泣いているユリの頬をつまみながら言った。


「泣くんじゃない!女とか男とか関係ないの。強くなる意味なんて自分で決めることじゃん?

 私はペコペコしたり、誰かのいいなりになんかなりたくない!だからもっと強くなる!

 ――ユリはどうするの?」


 ユリは目を丸くして、少しだけ笑った。


「何それ……ただの我儘じゃん」


「そう、我儘でいい。見てな!この道場じゃそのうち誰も私に逆らえなくなるから!

 あんなクズ見返してやれ。私がユリを強くしてやるから!泣いてるだけじゃ、ずっと今のままだぞ」


 壁にもたれてその様子をうかがっていたタケルがおずおずと水筒とタオルを渡す。


「正直、マキの蹴りはスカッとした。俺も……ユリのコンボ考えてやるから。強くしてやる」


 いや、それはいいとマキとユリが声を揃え笑いが起きる。

 その瞬間、子供ながらにユリの胸に芽生えたものがあった。

 励ましてくれる友達がいる。

 自分を高めてくれる人がいる。

 マキみたいに強く、自信を持てる人に自分もなりたい――。

 タケルみたいにさりげなく、優しさを与える人に自分もなりたい――。

 ああ、これが蕾なのかと祖母の言った意味を心で感じる。

 この人達と一緒ならきっと咲かせることができる。

 そうユリは感じた。

 

 その事件をきっかけに、マキはなにかとユリの面倒を見るようになった。

 「ここは腰が高い」「今の踏み込みはいい」「その突きは形がきれい」――

 少しの違いを教え、ユリの短所を矯正し、長所を引き出していく。

 そして、できたときには全力で褒めてくれる。

 タケルは論理的にユリにアドバイスをした。

 人間の骨格や可動範囲から理想的なフォームを提案しどうすれば相手の裏を掛けるかなどの戦略。

 ユリには意味が分からないことも多かったがマキやマキの父はタケルの観察眼に関心するようになっていた。


 マキとタケルに支えられながら、ユリは家に帰っても畳の上で汗を流し続けた。

 転んでも、膝をすりむいても、何度も何度も立ち上がった。

 やがてその努力は形となり、小さな試合で初めて勝利を掴んだ。

「やった!」と泣き笑いするユリを、マキが拳を合わせて迎えてくれる。

 タケルは応援席から親指を立てる。


 初めての勝利を掴んだその日から、ユリの様子は変わった。

 勝てることの喜びが、心の奥に火をつけたのだ。

 やればやるほど、体が応えてくれる。

 昨日できなかった技が今日にはできる。

 その実感が面白くてたまらなかった。


 中学に上がるとユリはますます空手に熱中していった。

 マキとユリは女子空手部がなかったことから部には入らず変わらず道場で汗を流した。

 タケルは空手をやめてロボティクス部へ。

 時折ロボの動きの研究と称してはマキやユリのモーショントレースしに現れた。


 一方でユリの練習の虫はさらに加速していた。

 苦手だった後ろ回し蹴りは、毎日何百回も繰り返した。

 家でもやるので実家の畳は擦り切れてボロボロになり、祖母に呆れられる。

「畳を壊す子は聞いたことがないよ」と苦笑されても、ユリはやめなかった。

 胴回し回転蹴りを試しているうちに、勢い余って襖をぶち抜いたこともある。

 さすがに祖母にこっぴどく叱られたが、涙目で謝りつつ次の日も襖を破った。


 道場では誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰った。

 稽古が終わったあとも一人で黙々と基本を繰り返す。

 気づけば周囲の視線が変わっていた。


「泣き虫だったユリが、今じゃ体力では一番かも」

「努力の塊みたいなやつ」


 そう囁かれるようになり、やがてユリは道場の誰からも一目置かれる存在になっていった。

 その背中を見ていたマキは、どこか誇らしげだった。


 体育館に響く太鼓の音。ざわめく観客席。

 中学2年の夏。県大会の幕が上がった。


「ユリ、緊張してる?」


 背中を軽く叩いたマキの顔は、いつも通りの自信に満ちている。

 ユリは大きく息を吸い込んで答えた。


「……少しだけ。でも大丈夫。ここまで教わったこと全部やってきたから」


 思い返せば、誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰った日々。

 畳を擦り切らせ、襖をぶち抜き、泣きながらも立ち上がり続けた時間。

 その全部が、この瞬間につながっている。

 試合が始まる。相手は長身の選手。リーチ差で押される。

 だが、ユリは下がらなかった。

 何度も蹴りを受け、足に痺れが走っても、必死に間合いを詰める。


「一本!」


 鋭い突きが決まった瞬間、会場に響いた声。

 ユリの体は小刻みに震え、視界がにじむ。

 けれど涙はこぼれなかった。

 次の試合も、次の試合も、ユリは粘り強さで勝ち進んだ。

 スタミナは誰にも負けない。

 最後は体格差に押されながらも、果敢に蹴りを放ち続け、ついに県大会の準決勝まで勝ち上がった。


 準決勝の相手は、マキだった。


「ここまで来るとはね。」


 マキは笑いながらも、瞳は真剣そのもの。


「マキが相手でも……どうせなら……負けたくない」


 ユリは拳を握りしめて答えた。

 二人の激しい攻防は、会場を沸かせた。

 結果はマキの勝利。

 だが、観客も審判も、ユリのしぶとさと執念に驚きを隠せなかった。

 試合後、肩で息をするユリにマキが言った。


「いやー今日の相手の中で一番苦戦したわ」

「……うん。でも次は勝つからね」


 汗まみれの笑顔で言い切ったユリに、マキは声を上げて笑った。

 その日から、二人は「道場の双璧」と呼ばれるようになった。


 県大会から数週間。

 道場では、ユリとマキが並んで稽古に励んでいた。

「双璧」――そう呼ばれるのがくすぐったくて、でも誇らしかった。

 マキの蹴りを受け止めた瞬間、ユリは違和感に気づいた。

 足の裏にじんとした痺れ。

 体勢を崩し、畳に尻もちをついてしまう。


「おい、大丈夫か?」


 差し伸べられたマキの手を、慌てて握り返す。


「うん、ちょっと足が痺れただけ」


 そう答えながら、胸の奥にざわめきが広がった。

 その日から、細かな異変が続いた。

 授業中に鉛筆を落とすと、うまく拾えない。

 階段を駆け上がると、足がもつれて転びそうになる。

 組手の最中、握った拳に力が入らず隙を作ってしまう。


「疲れてるだけだよね……」


 そう自分に言い聞かせたが、練習を重ねるたびに症状は強くなっていった。


 ある晩、畳の上で後ろ回し蹴りを練習していたユリは、足をもつれさせて思いきり転んだ。

 息が止まるほど痛くて、そのまま床に突っ伏す。

 動かない足先を見つめながら、涙があふれた。

 祖母が駆け寄り、声をかけているが意識が朦朧とし何を言っているのか聞き取れない。


「……やだ、まだできる。もっと強くなれるはずなのに……」


 声は震え、嗚咽と混ざって途切れやがて意識も沈んでいった。


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