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BreakingDown

 教室に、一瞬の静寂。

 そして、次の瞬間、爆発的な歓声が上がった。


「すっげ……今の、何!?」

「かっけー! おい、見たかよ今の!」

「体操部とかそういうレベルじゃないって!」


 特に男子生徒たちは、目をキラキラさせて興奮している。

 彼らにとって、イオのバック宙は理解不能な脅威ではなく、度肝を抜くほどクールなパフォーマンスにしか見えなかったし、ちらりと覗いたスポーティーなインナーがさらに彼等を興奮させた。


「え、え、なんかもう……映画みたい」

 サナでさえも呆気に取られている。


 教室の熱狂の中で、マキだけが、氷のように冷静に立ち尽くしていた。


(……こいつら、何も分かってない。こんなの絶対普通じゃないだろ)


 周りの能天気な反応が、マキの孤独な警戒感を際立たせる。

 まるで自分だけが、この美しい蛇の毒に気づいているかのようだ。

 机の上に立つイオは、その歓声を浴びながら、楽しそうにマキを見下ろしている。

 その瞳は「ほら、みんな私を歓迎してるよ? 意地悪してるのは、アナタだけ」と雄弁に語っていた。


 マキは、ふっと息を吐いた。

 怒りではない。苛立ちでもない。

 もっと静かで、もっと冷たい、覚悟の溜息。

 言葉は、もう意味をなさない。


「……分かった」


 マキが、静かに呟いた。

 何が、とは言わない。

 だが、その声を聞いたイオだけが、満足そうに微笑んだ。

 マキは静かに、自分の制服の上着を脱ぎ袖口に手をかけた。

 袖口のボタンを外す。反対の袖も、同じように。すっと袖をまくりあげる。

 その瞬間、教室の空気が凍った。


 さっきまでの、ただピリピリしていた女子高生の雰囲気ではない。

 研ぎ澄まされた「武道家」の気配。

 重心が沈み、弧を描き全身の力が無駄なく発揮できる自然な構え。

 空気の振動で伝わってくるような気概。

「かっけー!」と叫んでいたケンタの額に、じわりと冷や汗が滲んだ。

 サナも、息を呑む。


(やばい……これ、ガチのやつだ……)


 クラスの誰もが、自分たちがとんでもない勘違いをしていたことに、ようやく気づいた。

 これはパフォーマンスじゃない。

 これからここで、本物の「戦い」が始まってしまうのだと。

 教室の喧騒は完全に消え、ただ、マキの脱いだ上着がぱさっと、と床に落ちる音だけが聞こえた。

  マキは、イオが立つケンタの机から、わずか二歩分の距離にまで詰め寄った。

 その瞳は、獲物を捉えた獣のようにギラつき、全身から放たれる気迫は、すでに常人のそれではない。


「フゥ……」

 

 イオは、そんなマキの気迫を、まるで暖かな日差しのように全身で受け止める。

 その口元には、変わらず楽しげな笑みが浮かんでいた。

 先に動いたのは、マキだった。


 ドォン!

 一際大きな音を立てて、マキは*前の机に、片足をガンと叩きつけるように踏み込んだ。

 板を蹴るようなその音と反動で、教室の床がわずかに揺れる。

 バネのようにしなったその足が、一気に推進力に変わり、体を回転させる。


「はあぁっ!」

 

 気合の声と共に、鍛え上げられた右足が、イオの頭部目掛けて、高速の回し蹴りを放った。

 風を切る音が、教室に響き渡る。

 その蹴りは、あまりに速く、あまりに正確だった。

 並の相手なら、視認すらできない一撃。

 しかし、イオはまるで予知していたかのように、その場にすらいなかった。

 マキの蹴りが、イオのいたはずの空間を、虚しく切り裂く。

 ひょいっ、と猫のように軽い身のこなしで、イオは真後ろの席へと飛び退き、そこにあった机の上に、再びすとん、と音もなく降り立った。


「きゃああああ!」


 女子生徒たちから、悲鳴が上がる。

 机の上での戦闘という、あまりに非日常的な光景に、恐怖と混乱が入り混じる。

 だが、男子生徒たちの反応は、全く違っていた。


「うおおおおおおお!!!」


 ケンタが、拳を握りしめて叫んだ。その顔は興奮で紅潮している。


「まじかよマキ! 今の蹴り、やっべぇだろ!」

「おいおいおい、すげぇぞコレ!」

「机の上でバトルとか、漫画じゃんか!」

 

 クラスの熱狂を他所にタブレットを見ていたタケルが立ち上がりユリのほうへ歩いていく。


「こっちだ、ユリ、 巻き込まれるぞ」

「タケル……あれ、なんとかならない?」


 ユリはタケルに尋ねた。


「ああなったらマキは誰にも止められないって知ってるだろ?」


 とタケルは首を振る。


「七瀬さん、大丈夫かな……?」


 ユリが心配そうに呟く。


「たぶん、な。むしろマキのが分が悪いかも。七瀬イオ、あいつの動きはちょっと異常だ」


 タケルのタブレットで撮影された映像に先ほどのイオとマキの立ち回りが記録されている。


「見ろ、蹴りに反応して七瀬イオが飛びのくまで6フレーム。このカメラは120fpsだから0.05秒で反応してることになる」


「人間の反応速度は速くて0.2秒って言われてるからな。蛇並みの速度だ。なんなんだアイツは」

 普段表情のあまり分からないタケルが戦慄した顔を見せている。


「そんなことあるの……?」


 ユリも驚愕の表情を浮かべる。


『ユリのように神経系にナノチップでも入ってなければ無理だろうね。タケルの言うとおり彼女の反応速度は0.056人間には不可能な速度だ』


 脳内でアドが補足する。


『マキの直感が正しい。彼女は少なくとも友達になりたくて近づいたわけではないだろう』

 ユリの顔に焦りの表情が見えた。マキはいつもそうだ。自分の為に無茶をする。


「マキ、その子やばいって!アドが!止まって!」


 ユリは精一杯の声でマキに叫んだ。

 

 だが興奮の坩堝と化した教室はもう誰にも止められない空気ができあがりつつある。

 男子生徒たちが一斉に立ち上がり、教室中の机と椅子を、壁際へと一斉に片付け始めた。

 ガタン! ガタン! ガタン!

 騒々しい音を立てて、教室の中央には、あっという間に広いスペースが作られていく。

 まるで、地下の闘技場を準備するかのように。

 ユリの声がその騒音にかき消された。


「おい、どっちが勝つと思う!?」

「マキだろ! あいつの蹴り、半端ねぇぞ!」

「でも転校生も、今の避け方、おかしいだろ!」


 彼らの瞳は、興奮と期待でギラギラと輝いている。

 女子生徒たちは、恐怖に震えながらも、その異常な光景から目を離せない。

 サナはタケルとともにユリを肩に手を添えながら、壁際へと避難させる。


「マキ、マキ!」


 ユリの声はマキに届かない。

 脳内では、アドが静かに警告を続けている。


『イオの身体能力は通常の人間の枠を逸脱している。この状況は危険だ』


 その頃、教室のドアには、廊下から「なんだなんだ?」と野次馬が集まり始めていた。

 他のクラスからも、尋常ではない喧騒と、男子生徒たちの叫び声を聞きつけ、続々と見物客が押し寄せてくる。

 まさに、教室が、生徒たちの熱狂によって、一夜限りの非公式闘技場へと変貌を遂げていくのだった。

 イオは、そんな光景を、フッと微笑みながら見渡している。


 「へえ、みんな、こういうのが好きなんだ。」


 彼女の脳裏にアルコールの匂と白い壁、淡々と行われる実験と訓練。そんな景色が浮かぶ。

 再び現実の光景。熱狂する生徒たち、自分たちの為に作られたステージが目に入る。

 残されたのはイオとマキが立つ机だけ。


 (こんなの……楽しくなっちゃうよね)


 彼女は再び、マキに視線を戻した。


 「真壁マキ。あなたもいい。もっと、きて」


 その言葉は、まるで舞台の開演を告げるかのようだった。

 教室の中央に作られた即席の闘技場。

 その中心で、二人の少女が対峙していた。

 熱狂する男子生徒たちの声援が、まるでコロッセオの観客のように響き渡る。


「降りろ」

 

 とマキがイオに低い声で言う。

 2人はすっと机から降りると男子がすかさずその机を端に寄せる。

 マキが再び構える。イオは面白そうにマキを見つめ、少しだけ半身を取る。


「いっけえええ、マキー!」

 

 ケンタの叫びを合図に、マキが再び動いた。


 床を蹴る音。 マキは低く沈み込むようなステップから、息もつかせぬ連続攻撃を仕掛ける。

 鋭い前蹴り、体を回転させての裏拳、さらに踏み込んでの正拳突き。

 その全てが、全国レベルの精度と速度で放たれる。


 しかし、イオは、まるで川面を滑る木の葉のように、ひらり、ひらりと躱していく。

 マキの拳が頬を掠めそうになれば、最小限の動きで首を傾けていなし、足払いが来れば、

 軽く飛び上がって机の縁に着地する。

 一切の無駄がなく、常に笑みさえ浮かべている。

 マキが攻めれば攻めるほど、二人の間にある絶望的なまでの技量の差が、浮き彫りになっていくようだった。


「くっ……!」


 マキの額に、汗が滲む。

 

(ダメだ……全然、当たらない。全部、読まれてる?それ以前の問題の気もする……)


 焦りが、動きをわずかに硬直させる。その一瞬の隙を、イオは見逃さない。

 マキの突き出した拳を、イオは内側から柔らかく手で受け流すと、そのままマキの腕を掴み、くるりと体を回転させた。

 遠心力で体勢を崩されるマキ。

 イオはそのままマキを投げ飛ばすこともできただろう。しかし、彼女はそうしなかった。

 ふっと力を抜き、マキを解放する。

 よろめいたマキが、悔しさに唇を噛む。


「……もう、おしまい?」


 その言葉はイオにとってアオリではなく純粋な問いかけだった。しかし、今のマキには、嘲笑以外の何物にも聞こえなかった。

 マキは、大きく息を吸った。

 そして、吐いた。

 その一呼吸で、彼女の周りの空気が変わる。


 (”アレ”しかないか……)


 焦りや怒りが消え、ただひたすらに研ぎ澄まされた、静かな闘志だけが残った。

 後ろ脚を、ぐっと深く沈める。

 まるで獲物に飛びかかる直前の、豹のように。

 全身の筋肉がバネのように収縮し、力が一点に集約されていくのが見えた。

 次の瞬間、マキの姿が、消えた。

 そう錯覚するほどの、爆発的な踏み込み。

 一直線に、イオの懐へ。道場で誰一人として見切れなかった、彼女の最速の突き。

 イオの瞳が、初めて、わずかに見開かれた。


(驚いた。今まで一番速いね、でも……)


 余裕を持って鼻先でいなせるはずだった拳が、イオが思うよりも手元で、ぐっ、とさらに伸びてきた。

 空気を圧縮し、空間そのものを抉るかのような、必殺の間合い。


(!ここから伸びるのか……)


 イオの脳が、初めて危険信号を鳴らす。

 彼女は咄嗟に、首を真横に捻った。


 ビュッッ!!!


 マキの拳が、イオの頬をミリ単位で掠めて通り過ぎる。

 数本、切れた黒髪が、はらりと宙を舞った。

 教室の熱狂が、嘘のように静まり返る。

 時が、止まった。

 イオは、ゆっくりと、自分の頬に触れた。

 そこに傷はない。だが、拳が通り過ぎた後の、ヒリつくような空気の熱が残っている。

 彼女は、床に落ちる自分の髪を、無感情に見つめた。

 そして、顔を上げる。

 その瞳から、楽しげな光は、完全に消えていた。


「……へえ」


 それはこれまでに聞いたことのない冷たい声だった。


「今の突き、名前は?」


「……無い。ただ、アンタに当てるにはこれしかないって思ったんだけどね……ショックだわ」


 イオは、ふっと息を漏らした。


「そう。……なら、いいもの見せてもらったし、私もちょっとだけ、教えてあげようかな」


 イオは、すっ、と両腕を体の前で交差させ、ゆっくりと開いた。

 片手は貫手のように前に、もう片方の手は掌を下に向け腰だめに。

 重心を低く落としたその立ち姿は、マキの知る空手のどの型とも違う、滑らかで、どこか不気味なほど美しい構えだった。


「なんだよ、その構え……古武道でもやってるのか?」


 マキの額に冷たいものが流れる。


「さあ?これがなんだか私も知らないし。教わったシステムがこれってだけ」


 教室の誰もが、息を呑んだ。

 じゃれ合いは終わったのだ。

「異物」が、ついにその牙を剥こうとしていた。

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