転校生
始業前のチャイムが鳴り響く教室。
窓からは初夏の日差しが差し込み、生徒たちの明るい声が満ちている。
季節は5月。新しいクラスにも慣れてきた頃だ。
ユリの席の周りには、自然と人の輪ができている。
「ユリ、おはよ!ねえ、聞いて! 昨日入ってきた部活の新人がさー!」
快活に話しかけてくるのは、同級生で陸上部のサナだ。
マキ同様、小学生の頃からの付き合いで彼女はユリの”事情”を知っているため、会話はごく自然だが、ユリの机に寄りかかる時も、自分の鞄を置く時も、どこか彼女を庇うような距離感を保っている。
それが長年の友情が育んだ、暗黙の思いやりだった。
「サナ、今日も朝から元気だねえ」
ユリが目を細めて微笑むと、輪の外から少し遠慮がちに男子生徒が声をかける。
「鈴掛、おはよう。その……」
高校に入ってから同じクラスになったケンタだ。
彼は去年まで、隣でゲームをしているタケルと同じクラスで、ユリとは違うクラスだった。
新しい友人たちはユリを病気を持ちながらも普通に生活しようと頑張る子という認識でまだどう接すればいいか測りかねている。
ふと、彼はユリの足元に視線を落とす。
「今日は車椅子じゃないんだね。足、大丈夫なの?」
悪気のない、純粋な心配からの言葉。
ユリは慣れたように、にこりと笑う。
「うん、アクチュエーターが定期メンテナンス中で。しばらく預けてたんだけど、戻ってきたんだ。今日からは皆みたいにちゃんと歩いて登下校なの」
「そっか……」
と安堵の笑顔を浮かべるするケンタ。
「あ、えーと、そうそう……昨日の課題だけどさ。あれ難しいよねーどう解くか、分かった?」
距離を近づけたいのか会話を探してきたようにケンタは続ける。
「いやー私も数学苦手だから、そういうのはタケルのが詳しいかも?」
とユリはタケルを横目に見る。
隣の席でタブレットでゲームをしていたタケルが、顔も上げずに口を開いた。
「お前が訊きたいのはp.42の問3だろ。あそこは公式B'の応用。C点から補助線引けばすぐだ」
「え、あ、タケル、サンキュ!……って、なんで分かったんだよ!」
「お前の学力で躓くとしたら、そこ以外にないだろ?」
「相変わらずだねえ……後でアタシにも写させて!」サナが笑う。
教室に、いつもの和やかな空気が流れる。
マキは、自分の席でスマホをいじりながら、その光景に小さく笑みを浮かべていた。
これが、彼女たちが少しずつ築き上げてきた、高2の初夏の風景だった。
ドアが開き担任教師の加藤が入ってくる。
「…今日からこのクラスに新しい仲間が増えます。なんとアメリカからの交換留学生だよ。入ってきて~」
教室のドアが開き、小柄な色白なの少女が入ってくる。
肩まで伸ばした艶やかな黒髪に赤い髪飾り。凛とした立ち姿。七瀬イオが姿を現す。
しんと静まり返る教室。ざわめきが起こる。
「可愛い」
「モデルみたい…」
イオは教壇の前に立ち、表情一つ変えずに、ゆっくりと教室全体を見渡した。
その視線の動きは、普通ではなかった。
新しい環境に緊張したり、好奇心でキョロキョロしたりするのとは違う。
まるでスキャナーのように、生徒一人一人の顔を冷静に「査定」していく。
サナの快活さも、ケンタの人の良さも、タケルの無関心も、全てを透過して、その本質を見抜くような冷たい光。
そして──ユリの顔を捉えた瞬間、その視線の動きが、ぴたりと止まった。
ほんの一瞬。他の誰も気づかない、コンマ数秒の静止。
だが、マキの目には、その異常さがはっきりと映った。
(なんだ……この感じ)
道場で相手の呼吸と視線の初動を読む訓練を叩き込まれてきた彼女ならではの直感が告げる。
(……なんか、ヤバいやつ来たな)
同時にマキの背筋に、冷たいものが走っていた。
イオは、何事もなかったかのように視線を外し、フラットな声で自己紹介を終えた。
「七瀬イオです。日系なので皆さんと同じ日本の血が流れてます。どうぞ、よろしく」
最初の休み時間。
「転校生、どうする?」
「誰か話しかけんのかな?」
サナやケンタ、クラスの皆が遠巻きに様子をうかがう中、イオは動いた。
他の生徒たちの好奇の視線も、遠慮がちな空気も、全て無視して。
まっすぐに、一直線に、ユリたちの輪へと歩いてくる。
サナとケンタの間を、何の躊躇もなく通り抜け、ユリの机の前に立つ。
突然の闖入者に、サナたちは言葉を失う。
「あなたが、鈴掛ユリだよね?」
腰に手を当て前かがみにユリをのぞき込む。
イオの赤い瞳がまっすぐにユリに向けられていた。
「え……あ、はい、そう……ですけど……?」
ユリはのけ反りながらもその瞳から目が離せなかった。
瞬間――キンという金属が当たったようなノイズと何か囁くような声のような音。
見た目だけでは説明のつかない不思議な吸引力。
(なんだろう、この感じ……全然違うのに”ノア”みたいな……)
「私、あなたに興味があるんだ」
満足そうな笑顔でそう呟いたイオに、マキが静かに立ち上がる。
ユリを庇うように、イオとの間に腕伸ばし体を滑り込ませた。
「……あんた、ユリに何か用?」
「何って、”友達”になりたいだけだけど。ダメ?」
悪びれもせず微笑むイオ。
その無邪気な言葉と、狩人のような瞳のギャップに、マキは得体の知れないものを感じていた。
教室の皆が固唾を飲んでその光景を見守っている。
サナとケンタは、イオとマキを心配そうに交互に見つめることしかできない。
教室の平穏な空気が、この転校生一人によって、完全に塗り替えられていた。
マキの介入によってそれは更に張り詰める。
ユリは戸惑い、サナとケンタは「え、何?マキ、どうしたの?」と顔を見合わせている。
彼らには、マキがなぜ初対面の転校生に対して、これほど敵意をむき出しにするのか理解できない。
マキは、ユリを背中に庇うように立ちながら、イオから視線を外さずに言った。
「アンタみたいな目立つ子なら、他にいくらでも友達になりたいって奴いるでしょ。他、当たんなよ」
突き放すような、冷たい声。
その言葉に、ケンタが「おいおい、真壁…」と戸惑いの声を漏らす。
クラスの誰もが、マキの異常なピリつきを感じ取っていた。
しかし、イオは全く動じない。
むしろ、面白そうに目を細めて「ふーん…」と息を漏らした。
彼女はマキの全身を観察するように一瞥し、そして、爆弾を投下する。
「昨日実はオムニトロンの近くで偶然2人を見かけてね。
そういえば大事な物でも運ぶみたいに車椅子を押してたよね?
そんなにピリピリしちゃって、随分”過保護”なんだね」
その単語が空気に溶けた瞬間、マキの纏う雰囲気が変わった。
怒りよりも深い、静かな怒気。彼女の拳が、制服のスカートの横で、固く、固く握りしめられる。
「物?……過保護?」
低い声色でマキが呟く。
「アンタに何が分かんの?……ウチらが、どれだけの思いで……!」
言葉が詰まる。
道場で泣きながら基本を繰り返した日、病院で声を上げて泣いた夜。
その全てを、この数秒で出会ったばかりの女に説明することなど不可能だった。
だから、代わりに感情がほとばしる。
「こいつはな、私の幼馴染なんだよ! 小さい頃から同じ道場で一緒に汗流して、泣いて、
笑ってきた仲なんだ! アンタみたいなのが気安く踏み込んでいい領域じゃないんだよ!」
マキの叫びに、教室は完全に沈黙する。
それはもう、ただの女子高生の意地悪や嫉妬ではない。
自分の聖域を土足で踏み荒らされた者の、魂からの拒絶だった。
イオは、その激しい感情の奔流を浴びながらも、ただ静かにマキを見つめている。
板挟みになったユリは、必死に言葉を探していた。
「マキ、ちょっと待って、そんなに怒らなくても……大丈夫だから!」
この最悪のファーストコンタクトを、どうすればいいのか。ユリの頭は真っ白になっていた。
(どうしよう、どうしよう)
教室の隅で、その異常な光景にケンタが息を呑む。彼は隣にいるサナの袖を、そっと引いた。
「おい、サナ……マキ、どうしちまったんだよ。いくらなんでもキレすぎだろ……」
ケンタの戸惑いは、このクラスの「新しい友人」たちの共通認識だった。
彼らにとってマキは、少し口は悪いが面倒見のいい、空手道場の娘で全日本クラスの達人。
こんな風に、誰かを傷つけるような敵意をむき出しにする姿は、誰も見たことがなかった。
サナは、唇を噛み締めていた。
その瞳には、マキへの理解と、ユリへの同情が浮かんでいる。
「皆は知らないから……。ユリね、中学の時、すっごい頑張ってたんだよ。空手でさ、マキと二人で県大会とか出て……本当に、すごかったんだから」
その声には、誇らしさと、そして同じくらいの痛みが滲んでいた。
「……でも、病気で、全部やめなきゃいけなくなって。一時期、学校にも来られないくらい、大変だったんだ……今だって、ホントは……」
涙ぐむサナを見てケンタが息を呑む。彼が知っているのは、いつも朗らかに笑っている鈴掛ユリの姿だけだ。
「だから、マキにとって、ユリがこうやって普通に学校に来て、
笑ってる時間は……宝物みたいなもんなの。それを壊しそうな奴は、誰でも許せないんだよ、きっと」
サナの言葉が、マキの行動の裏にある、あまりにも切実な理由を浮かび上がらせる。
ケンタはもう何も言えず、ただ、対峙する二人を見つめることしかできなかった。
どうしてそこまでこの転校生を危惧するのか、までは分からないが彼女の心理は理解できた気がした。
マキの行動の裏にある、切実な理由。
その重い空気を、イオはまるで心地よいそよ風のように浴びていた。
彼女の唇の端が、楽しそうに、わずかに吊り上がる。
(ああ……なるほど、これがこの子達の友情?いや愛情ってやつ、なのかな?)
自分に向けられる剥き出しの敵意が、鈴掛ユリへの至高の愛情への裏返し。
その歪で美しい構造は、イオの知的好奇心を強く刺激した。
もっと見たい。もっと知りたい。この「宝物」が、どんな輝きを放つのか。
イオは、激昂するマキを完全に無視した。
まるでそこに誰もいないかのように、ふわりと体を動かし、マキの横をすり抜ける。
そして、固まっているユリの目の前に、ぐっと顔を近づけた。
長いまつ毛が見えるほどの至近距離。甘い香りが、ふわりとユリの鼻腔をくすぐる。
「私、あなたのことを、もっと知りたいな」
その声は、悪戯っぽく、そして抗いがたいほど魅力的だった。
ユリが息を呑む。
(ミ……を……て)
アドの声ではない。
何かが頭に囁きかけた気がした。
「え?、あ、えーと……」
イオの背後で、マキの理性の糸が切れる音がした。
「てめぇ……!」
目の前から消えたイオに一瞬唖然としたマキだったが、我に返ると同時にユリに密着するその姿に、怒りが頂点に達する。
反射的に、イオの肩を掴もうと腕を伸ばす。
それは道場で鍛え上げた、最短距離を走る鋭い動き。
しかし、その手がイオに触れることはなかった。
イオは振り返りもせず、伸ばされたマキの手首を、流れるような動きで内側からいなす。
マキの力が、空を切る。
「なっ……!?」
マキが体勢を崩したその一瞬。
イオはマキの手を軽く押し出すように利用し、その反動で、しなやかに**後方へと宙返り(バック宙)をしてみせた。
教室に、悲鳴に近い驚きの声が上がる。
イオの体は、ふわりと宙を舞い、一切の音を立てずに、前の席に座っていたケンタの机の上に、
すとん、と降り立った。
まるで猫のような着地。
体操選手もかくやという、常人離れした身体能力。
イオは机の上から、呆然と立ち尽くすマキと、目を丸くしているユリを見下ろし、楽しそうに微笑んだ。
「ね?だから言ってるでしょ? 友達になりたいだけなんだけど?」
教室は、完全に静まり返っていた。
誰もが理解した。
この転校生は、ただの美少女ではない。
自分たちの日常に舞い降りた、全く理解不能な「異物」なのだと。




