幕間:修道院のミオ1
イギリス北部、ノーサンバランド。
そこは磨り潰した鉛のような雲が低く垂れ込める場所だった。
冬になると日照時間はほんの数時間となり、
沿岸部にあるその家は海からの強い風が吹き抜け、
木の窓枠がいつもギイギイと音を鳴らしていた。
窓の内側で、幼い少女が膝を抱えて震えている。
彼女の耳には窓の軋む音も届かない。
なぜなら彼女の脳内は、常に「ノイズ」に侵食されている。
《קכח : א׳יג ... נד : ד.ב ... ריד : ח ... פה : א》
外界の音を覆い隠すように、無数の記号が、
さざ波のように常に脳内へ流れ込んでくる。
記号は聞いたこともない言語で頭の中をかき鳴らす。
3歳を過ぎたころから望んでもいないのに、
世界が事象の全てを記号で表そうと、少女の耳元で叫び続けていた。
「……コカハ、ア・イガ……ヌダ、ダ・バ……」
少女は虚ろな目で脳内に流れる記号の欠片をうわ言のように呟く。
「あの子……また、呪いの言葉を……もう限界だわ!」
部屋の隅で、彼女の母親が悍ましいものを見たように頭を抱える。
娘の口から漏れる、意味不明な言語の羅列。
焦点の合わない瞳。
5歳になるというのに、その娘とは碌に会話もできなかった。
彼女にとってその娘、ミオ・アシュクロフトは愛すべき子供ではなく、
家の中でうわ言のように何かを呟く「得体の知れない物」でしかなかった。
(ごめんなさい、ごめんなさい……)
ミオは本来ならそう言いたかった。
しかしそうしようとするたび、頭の中の声がうるさく喋りかけてくる。
”囁く者”はミオが他者と会話することを許さなかった。
発した自分の声はいつも騒がしいその声でかき消される。
発話した声が聞こえず、吃ってしまう。
ミオはいつしか言葉をうまく話すことすらできなくなっていた。
そんな日々が過ぎたある日。
家の呼び鈴がなり、一人の女性がミオを訪ねてきた。
浅黒い肌に、銀色の髪。見上げるほど大きい。
修道服を纏っているが、その佇まいは祈りを捧げる聖職者というよりは、
獲物を待つ豹のように精悍だった。
「……ひどい顔だね。まるで世界の終わりを見ているようだ」
女性はシスター・エヴァンジェリンと名乗った。
彼女は、怯えるミオの前に膝をついた。
ミオの母親は、厄介払いがようやく叶うと言わんばかりの顔で、
エヴァンジェリンに書類を押し付けた。
「はやく連れて行って……」
エヴァンジェリンの耳元で囁くと、
バタンという無慈悲な音を立て彼女は寝室に篭った。
残された部屋の静寂の中囁く者の声だけが鳴り響く。
《 פה : א》
《 פה : א》
《 פה : א》
相変わらず意味は分からない。
「お前は捨てられた」
しかし確かにそう罵られたような言葉がいつまでも鳴り響く。
(うるさい……うるさい……あっちにいって!)
叫び続ける声。
ミオは耳を塞いで、床に頭を擦り付けた。
(私、やっぱりおかしいんだ、だから捨てられるんだ)
心の中でそう叫ぶ。
しかし発せられるのは嗚咽の混じったカタコトの声。
「アァ……ア……ウウ……ウワァァァ!!」
泣き叫ぶミオの身体を、大きな手が、力強く抱き寄せた。
ごつごつとした、硬くて温かい手。
「大丈夫だ……何も心配いらない、もう大丈夫だよ……」
その手がミオの髪を赤い髪留めで2つに結ぶ。
その瞬間、ミオの脳内を埋め尽くしていた騒がしい騒音が凪いだ。
「あ、あ……」
ミオは目を見開き辺りを見回した。
あの喧しい音がしない。
この数年で初めてのことだった。
何が起きたのか分からない。
だがこの大きな手のシスターがしたことだと言う事は分かった。
ミオはエヴァンジェリンを見上げる。
「あんたは呪いの子なんかじゃない。奇跡の子なんだ。
その声はね、神の言葉、数秘術の一種さ。
あんたは神様に愛され過ぎちまったんだね。」
エヴァンジェリンは優しく笑いそう言った。
「ミオ、私と一緒に来るんだ。
その声との付き合い方を私達なら教えられる」
そう言って差し出された大きな手をミオはしっかりと握った。
エヴァンジェリンはミオを抱き上げると彼女が育った家を後にした。
イングランド北西部カンブリア。
エヴァンジェリンが運転するオリーブのジープが森の中を走っていた。
霧深い森を抜けると長い歴史を感じさせる石積みの修道院が見えてきた。
車は石積みの壁を抜け修道院の敷地に停車した。
修道院の窓越しに何人かの子供がこちらを覗き込んでいる。
エヴァの姿を視止めると子供達が駆け寄ってくる。
「エヴァおかえりー!」
「ねえ、その子は?名前なんていうの?」
「あなた何歳?私はね、6歳なの!」
あっという間に車は子供達に囲まれた。
「はいはい、この子はミオ。今はまだ上手く喋れないけど、
皆優しくしてあげるんだよ?」
エヴァがそう言うと子供達が「はーい」と笑顔で応える。
ミオは車から降りるとエヴァの影に隠れて,
その様子を伺うのが精いっぱいだった。
修道院ではエヴァが面倒を見ている孤児達が共同生活を送っていた。
孤児たちはいずれもミオのように不思議な力を持ち周りから恐れられたり、
蔑まれたりして居場所を無くした子供達だった。
それぞれが辛い思いをしてきた孤児たちは怯えるミオの気持ちを理解していた。
言葉の喋れないミオに彼等は家族以上の愛情を持って、根気強く接した。
エヴァと彼等が見せた愛情に満ちた対応は、
ミオがこれまで経験したことのないくらい暖かなものだった。
ミオの冷たい氷に閉ざされた心は次第に溶かされていった。
エヴァに貰った赤い髪留めの効果も大きかった。
時折声が聞こえるものの、以前のように四六時中声に悩むことはない。
エヴァによれば、その髪留めはとある遺物から作られていて、
弱いもの、邪念を持つ者を遠ざけるのだという。
その甲斐もあってミオは少しずつ言葉を取り戻しつつあった。
修道院での生活は穏やかだった。
ミオが抱えていた”囁く者”という異能。
それを価値ある才能として活かすことエヴァは提案した。
別の修道院から来たシスターにミオを引き合わせたのだ。
静かな佇まいのシスターがにこりと微笑む。
柱の陰に隠れるミオにエヴァは彼女について説明した。
「彼女はヒルデガルド。ミオと同じく”囁く者”の声が聞こえるんだ。
その髪飾りは彼女が用意してくれたんだよ」
「そう……なの?」
ミオは恐る恐る柱の陰からヒルデガルドをのぞき込む。
ヒルデガルドは優しい目でミオを見るとにこりと笑って頷いた。
「初めましてミオ。
私もあなたと同じで小さい頃から声が聞こえるの。
私ならその声との付き合い方を教えられると思うわ」
ミオがおずおずと柱の影から姿を現す。
そしてヒルデガルドに近づいていく。
「あなたも?聞こえるの?」
「ええ、だからミオがどれだけ大変だったか分かるわ。
今、”囁く者”はなんて言ってるか私に聞かせてくれる?」
ヒルデガルドは、机の上に置かれた一本のキャンドルをミオの前に差し出す。
ミオは、髪留めに指で触れ、キャンドルの炎を見つめた。
かつては濁流のように感じた意味不明な記号。
だが今は整列した文字の連なりとして意識に感じることができた。
「……レ・ズ……ヤ・ベ……」
ミオは、自分の口から漏れる響きに、抵抗感を覚えた。
ノーサンバランドの家を出てからこれまで、
その声を一度も復唱したことはなかった。
「……レイ・ダ……ギメ……」
また蔑むような目で見られないかと不安になりながら、ミオは音を紡ぐ。
両親が「呪いの言葉」と呼んで忌み嫌った、記号の羅列。
それを口にした時、両親がひどく顔をしかめていた言葉。
しかし、それを聞いたヒルデガルドは、嫌悪するどころか、
慈しむように目を細めて微笑んだ。
「そう。ミオ、あなたが今言ったのは『光』と『風』のことね。」
「分かるの!?ヒルデガルド!」
ミオの目が大きく見開く。
ヒルデガルドが目を細めて頷く。
「ミオ。あなたはやはり特別な子よ。
……あなたが聞いているのはゲマトリア。
神の言葉と言われる神聖な声なの」
「げま……とりあ……?」
聞き慣れない言葉に、ミオが小首をかしげる。
ヒルデガルドは紙にさらさらと文字を書きながら説明を続けた。
「そう。神聖な存在は世界にある言葉を、数字に変換して人に伝えるの。
目の前の『光(Or)』という言葉を『207』という数字に変換して、
ヘブライ語っていう古い聖なる言葉の『音』として読み上げているの」
ヒルデガルドはミオの小さな手を包み込んだ。
「他の人には変な呪文を唱えているように聞こえるかもしれない。
けれど本当は違う。
あなたは、神様が世界を作るときに使った『数式』を、
そのまま声に出しているだけなのよ。
……『レ・ズ』は207。
つまり、その光がどのくらいの強さかを教えてくれているの。
ちっとも、不気味なことじゃないわ」
ミオは、自分の喉をそっと指で触れた。
自分が発していた言葉はずっと呪いなのだと思っていた。
それを初めて価値あるモノとして捉えてもらえた。
「もう声を恐れる必要はないの。
その言葉はいずれきっとあなたを助けてくれる。
ゲマトリアの聞き取り方を知りたい?」
「うん、私……知りたい!」
ミオは力強く応えた。
自分の意思で何かを強く望んだは初めてだった。
ヒルデガルドはミオの頭を優しく撫で、
エヴァンジェリンがその様子を見て微笑む。
ミオはこの2人の導きによって、
ようやく価値ある日々を手に入れることとなった。
ミオが修道院に来てから1年が過ぎていた。
優しい兄や姉に囲まれ何人かの妹、弟もできた。
ミオはまだ1歳にも満たない赤子のおむつを替えたり、
泣き出す妹をおぶってあやしたりもした。
悪戯好きな男の子におしっこを掛けられて追いかけまわしたり、
逆にたまにはエヴァに悪戯して怒られたりもした。
この頃からミオが生来もっていた明るさが徐々に芽生え始めていた。
ヒルデガルドは定期的にやってきて囁く者の聞き取り方を教えた。
ミオも徐々にその声との付き合い方を学んでいった。
囁く者は周りで起きていることを数字にして教えてくれるだけではなく
ちょっと先に起こることやその場所で過去にあったことも教えてくれた。
最近ではその能力を使ったミオの天気予報はよく当たると評判になっていた。
全ては順調に進んでいる。
そう思えた頃。
ミオの中で幾ばくかの心の余裕が生まれ始めた。
ふと兄や姉、エヴァがいつも仕事に言ってくると言って、
地下に降りていく姿がミオは気になり始めた。
ある日の夕暮れ、仕事に向かうエヴァの背中をミオはこっそりと追いかけた。
ミオは地下へと続く重い石の扉をくぐり抜ける。
階段を下りた先に広がっていたのは、幻想的な光景だった。
中世の貴族が施したのか壁一面に数万もの貝殻が敷き詰められていた。
貝殻で描かれた幾何学模様が通路を美しく彩る。
天井からは微かな燐光が差し、
足元を流れる清水がサラサラと心地よい音を立ていた。
さらに奥へとエヴァンジェリンは進んでいく。
やがてその神秘的な美しさとは無縁な、「鋼鉄の扉」が現れた。
扉は幻想的な光景と、世界の裏側を隔てる「境界線」を象徴してるようだ。
「……そのうちついてくると思ったよ。けど案外早かったね」
扉の前で待ち構えていたエヴァンジェリンが、苦笑混じりに振り返る。
そして重たそうな扉を押し開けた。
エヴァにそう言われたこともよりも何よりも、
扉の先に広がる光景にミオを圧倒された。
「何?!ここ!すごい!!」
扉の先はバルコニーのようになっていて眼下には、
地下とは思えない広大な”地下帝国”が広がっていた。
巨大な洞窟の中、古代遺跡のような建築があるかと思えば、
それは照明で照らされ地面にはアスファルトが敷かれていた。
洞窟の中に道路が作られ軍用車が何台か走っている。
神殿の前では米粒大の人間が輸送用のトラックに荷詰めをしていた。
バルコニーにはガラス張りのエレベーターが設置されていた。
エヴァが手招きしている。
ミオが駆け寄るとエヴァは大きな手でミオの頭を撫でた。
エレベーターの扉が虹彩認証によって開かれる。
エレベーターはさらに地下へと降りていく。
ミオはガラスに張り付きその光景に釘付けになっていた。
「ここは何?地底の王国?」
ミオが頬を火照らせてエヴァを見上げる。
ミオのその反応を見てエヴァは高らかに笑った。
「あはは!王国か、そんな大それた物ではないさ。
ここは”セブンスゲート”の第4の門ケセド。
まあ、秘密の地底基地ってとこかな?」
ミオはエヴァの答えがいまいち分からず首を傾げる。
「セブンスゲート?ケセド?」
だが一つだけ理解できたキーワードに僅かに興奮を覚えた。
「秘密基地……か、なんか……かっこいい!」
ミオはキラキラした目をエヴァに向ける。
エヴァの大きな手がミオの頭を撫でた。
「いい反応だ!ここから先を見たらもっと驚くよ。
私達の”仕事”が何なのか、教えてやるからよく見ておきな」
エレベータが下層に着き扉が開く。
ミオは一歩、石畳を敷かれたフロアへと踏み出した。
頭上には巨大なゴシック様式のようなバットレスが重なっている。
それを支える石柱には、ヘブライの記号が刻まれていた。
柱やアーチの一面にはオレンジのLEDの光が彫刻を照らしていた。
二人は柱の横を通り過ぎながら神殿へと続く歩道を歩いていく。
歩道の横はアーチで幾重にも縁どられたアスファルトの道路で、
神殿の中の巨大なハンガーへと続いてた。
ミオはその圧巻の光景を前にキョロキョロと右往左往していた。
と、その時アーチの上空を5体の大きな鳥のような物が飛来した。
そのうち2つの影がゆっくりと旋回し、こちらに近づいてくる。
近くまで来るとそれが翼を広げたグライダーのような乗り物で、
人がぶら下がっていることが分かる。
グライダーのような乗り物がスーっとミオ達のいる歩道に降り立つ。
「あ、やっぱりミオがいる」
「マスター、もう連れてきてしまったの?」
降り立った全身を黒いボディスーツに包んだ、
少年と少女が2人を見て声を掛けた。
エヴァがそれを聞いて掌を上に向けた。
「連れてきたんじゃない、付いてきちまったんだ」
「レオ兄!エリザ姉!」
それはミオの見知った顔だった。
ミオは足早に2人に走り寄る。
「何してるの!?こんなところで?」
「何って、訓練だよ。
今はドローンを使った有視界飛行の訓練だ」
「レオ、いきなりそんな風に言っても分からないでしょ……」
短髪の活発そうな少年、レオが訳知り顔で答える。
しかしそれを茶髪の品のいい少女エリザが窘めた。
エリザの懸念どおりミオは口を開いたままポカーンとしている。
「マスター、ミオにはもうここのことは説明したんですか?」
「いいや、まだだよ。まず神殿でアレを見せるつもりさ」
エリザとエヴァのやり取りをキョロキョロとミオは見上げる。
そんなミオを見てエリザが優しく頭を撫でた。
「急がなくていいからね。
セブンスゲートに入るのは義務じゃないんだよ。
私達の力をどう生かすかは自分自身で決めていいんだから。
さあ、レオ、列に戻るよ!」
エリザに急かされてレオが渋々駆け出して地面を蹴る。
「じゃあ、また後でな!ミオ!」
エリザもそれに続いて飛び立っていく。
後ろを振り向き手を振る姿があっという間に小さくなっていった。
その後ろ姿を見つめながらミオは言葉を漏らす。
「いいな……あんな風に私もなれる?」
エヴァはミオの目を見ながら答えた。
「どうかな?成れるかどうかは自分しだいだよ。
2人のように成りたいかい?」
「うん、なりたい!」
ミオは瞳を輝かせると迷わず告げた。
出会った時の虚ろな目をした子供の面影はもうない。
すっかり興奮したミオは絶えることのない未来への希望を話した。
エヴァはミオの明るい笑顔を嬉しく思う反面、
世界の裏側を伝えなければならない痛みを噛みしめながら神殿へと歩みを進めた。




