嵐の前
――蒼樹市上空。
月がランサーの漆黒のボディを照らしている。
イオはランサーの躯体下部でハーネスに繋がれたまま、
青く輝く光の束にその視線を向けていた。
脳裏に極秘のミッションが告げられた時の光景が浮かぶ。
「青い光の発生源の調査……」
青い光という単語を聞いた時、イオの指がぴくり、と動いた。
日本に来る少し前。
イオはO.A.S.I.S.司令部の厳格な様式の一室に呼び出されていた。
「……そうだ。君はその青い光に覚えがあるだろう」
その部屋はヴィクトリア王朝時代の様式に統一されていた。
O.A.S.I.S.最大のパトロンにして現在、最も組織に影響力を持つ男。
レイヴンズウッド卿が訪れた時に使う貴賓室だ。
レイヴンズウッド主権財団。通称RSG。
表の顔は 世界有数の戦略コンサルティング企業 兼 投資ファンド。
ロンドンに本拠を置き、防衛、航空宇宙、量子技術、バイオテクノロジー。
未来の安全保障に関わる分野へ巨額の投資を行っている。
世界各国の政府や大企業を顧客に持つ、クリーンで知的なエリート集団。
しかしその実態は、英国王室が500年前から庇護してきた私設情報機関。
国家の枠組みでは対応できない「地球規模の危機」に対処するための組織。
イオが知るのはそれが全てだ。
アメリカのしかもO.A.S.I.S.という極秘組織の実権。
それをイギリスの財閥が握っているという事実。
それだけでも彼の影響力がどれほどのものか想像にたやすい。
「それは……ミオ・アシュクロフトと同じ……”青い光”……ですか?」
レイヴンズウッド卿がデスクのキーボードを押すとモニターに蒼樹市の航空写真が表示される。
「人工”兆視”衛星Augurが捉えた日本の蒼樹市市街の写真だ」
レイヴンズウッド卿がそう言ってある一点に写真がズームされる。
オムニトロンのある場所に青白い発光が見て取れる。
イオの手が、ぎゅっと固く握りしめられる。
(間違いない。あの光だ……。)
ミオが纏っていた、温かく、儚げな光。
シグネチャーズが持つという青い光。
だが、イオが知るのはミオが放っていた青い光だけだ。
その光はイオにとって世界から消えてしまった色。
それが今、ここにある。
イオの胸の奥で、凍り付いていた何かが、激しく脈打つのを感じた。
「ロード・レイヴンズウッド、私を、ここに行かせてください!」
懇願だった。
過酷な任務の中で擦り減りきっていたイオが、
初めて自らの意志で、任務を渇望した。
レイヴンズウッド卿は、そんなイオの様子を、静かに見つめている。
彼の瞳の奥には、憐憫とも、あるいは計算ともつかない、
複雑な光が宿っていた。
「……落ち着きたまえ」
レイヴンズウッド卿は、ゆっくりと紅茶をすする。
穏やかな、しかし有無を言わせぬ口調で続ける。
「君の気持ちは理解できる。
だが、これは君を感傷に浸らせるための旅行ではない。
あくまで、任務だ」
彼は再びモニターを操作する。
今度は鈴掛ユリの顔写真と、いくつかのデータを表示させる。
「この『シグネチャーモデル』は、強大な可能性を持ちながらも不可思議だ。
天才と言われたミオ・アシュクロフトすら超えている可能性が高い。
我々は、彼女が何なのかを知る必要がある。
彼女を軍事利用されるのだけは避けなければならない」
レイヴンズウッド卿は、イオに向き直り、その瞳をまっすぐに見据えて言った。
「君に与える任務は、ただ一つ。
蒼樹市へ潜入し、彼女と接触。
そして、あの『青い光』の正体を、誰よりも早く突き止めることだ。
この任務にあたって君にはRSG、O.A.S.I.S.が持つかぎりの特権を付与する。
……確保、護衛、処分。彼女をどう扱うかも君の判断に一任する。」
彼の言葉は、イオの渇望を巧みに利用したものだ。
イオにも、そのくらいは分かっている。
ただ、それでも失った光を”知る”ことができるまたとない機会に力強く頷いた。
「……了解しました、ロード・レイヴンズウッド。必ず、この任務を遂行します」
ランサーの切り裂く風の音が耳につく。
(O.A.S.I.S.がRSGの支配と旧体制との政治問題で揺らいでるのは知ってる。
これが表立っての任務じゃないってことも)
(ロード・レイヴンズウッド。
私が”みー”の影に捕らわれてるって知ってるんだ。
なんで処分を一任する、と言ったのか理由は分からないけど)
今まで作戦の決断に私情が挟まる余地などなかった。
行動を決定すべきロジックには常に正解があったから。
今のイオには正解が分からない。
ユリとマキに会ってから続くこのモヤモヤとした言い知れぬ感情。
そう言えばカイルがよく言っていた。
「葛藤こそが人間らしさなんだよ。
無駄なことを選び、間違い、
それでも何かを信じようとする意志が大事なんだ」
今の自分の状態がまさにそれだ。
(要はこのモヤモヤした感情に身を任せろってこと、なんでしょ)
イオはそう思いながら蒼樹市の月夜の空を突き進んだ。
一方でオムニトロン。
皆を乗せたガラス張りのエレベーターが静かに上昇していく。
地下から地上に移っていく。
ガラス張りのエレベーターの窓からクレイドルの壁面が消える。
代わりに夜空の闇と、遠くに見える街の灯りが窓の外を流れ始めた。
「わ……」
ノアにとって生まれて初めて見るその光景。
小さな顔をガラスにぴったりとくっつけていた。
最初は数えるほどだった街の光の点。
エレベーターが昇るにつれて数を増し、
やがて海まで続く光の絨毯へと変わっていく。
「きらきら……いっぱい……こぼれそう」
ノアの瞳は、宇宙の神秘そのものを映し出す宝石のようだ。
が、今はただ、目の前の美しい光景に心を奪われた、無垢な子供のそれだった。
ユリとマキは、そんなノアの横顔を、ただ黙って、
愛おしそうに見つめている。
タケルも、ベンも、リナも、サオリも。
誰もが、この小さな存在が感じているであろう、
世界の始まりの感動を、自分のことのように感じていた。
チン、と軽い電子音が鳴り、エレベーターの扉が静かに開く。
最初にノアの頬を撫でたのは、ひんやりとした夜風。
地下室の空気とはまるで違う澄んだ夜風だった。
ノアの青い髪が風にさらりと舞う。
「わ、きもちいいー」
ノアはくんくんと鼻をならす。
草木の青い匂いと、微かな土の匂い。
遠くの離れた高速道路から聞こえる車の音。
それに街のざわめきが混じり合った、僅かな環境音。
「……!」
ノアは、エレベーターから一歩、踏み出した。
そこは、高層ビルの無機質な屋上ではなかった。
緑の芝生が広がり、季節の花々が咲く、空中庭園だった。
そして、その庭園の縁からは、遮るもののない、
蒼樹市の雄大な夜景とさらにその先に広がる海が見えた。
無数の光が点滅し、流れ、重なり合い、
まるで地上に描かれた天の川のように輝いている。
「わ……わああああ……!」
ノアの口から、抑えきれない歓声が上がった。
ノアは、まるで蝶のように、芝生の上を駆け回り始めた。
手を広げ、くるくると回り、夜空に向かって笑いかける。
「すごい……!すごい、ユリ!きらきらしてる!
これが、ユリたちがいる世界……!」
「光がいっぱい!音がする!風がサワサワする!」
その1つ1つの発見が、ノアにとっては生まれて初めての体験だ。
最高の宝物だった。
ノアの青い髪が夜風に踊り、その体からは放たれる淡い光。
それが庭園の草花を幻想的に照らし出す。
「もう、これリアルに妖精でしょ」
と、その光景を見たマキが恍惚の表情を浮かべる。
「ノアは天使だよ」
ユリがマキを見上げてそう言う。
「んーどっちかていうと神の子って感じかなー?」
タケルが呟く。
ユリも、マキも、タケルも、そして大人たちも、その光景から目を離せない。
ベンとリナの胸には、先ほどまでの葛藤とは違う、
温かい感情が込み上げてくる。
皆がノアへと歩み寄る。
ノアは目に入るもの全ての感触と匂いと音を楽しんだ。
遠くに映るもの、近くにあるものアレは何?これは?
と思いつく疑問をユリ達に尋ね、皆それに喜々として答えていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
あれほど元気にはしゃぎ回っていたノアの動きが、
少しずつゆっくりになっていく。
ふらり、とユリの目の前に来たノアの小さな体が傾ぐ。
「ノア?」
ユリが受け止めると、ノアは安心しきった顔で、
ユリの胸にこてん、と頭を預けた。
「……ユリ……あったかい……」
その言葉を最後に、ノアの体からふっと力が抜けた。
すうすう、と安らかな寝息が聞こえ始めた。
「え?寝ちゃった……の?」
『ユリから”眠り”を学んだことで機能として実装したのかもしれない。
ずっと現実で活動することで消失してしまうことを防ぐ目的があるのかも?』
ユリの問いかけにアドがそう答えた。
「消失……?そんなこともあるの?」
『いや、全て推測だよ。
ノアの元となった”光の奔流”が無限エネルギーとは限らないからね。
眠ることで補充しているのかも、と考えたんだ。
そのあたりのことは今後明らかになるさ』
「そっか、私達でノアがこの世界で生きていけるように守っていかなきゃ」
端からみればアドとユリの会話は独り言にしか見えない。
だが彼等にとってはこの光景はいつものことだ。
「どしたの?アドなんか言ってた?」
ユリがマキにアドの見解を説明する。
皆思い思いの意見を交換し、ノアを守ろうという気持ちが強くなっていく。
遊び疲れて、一番安心できる場所で眠ってしまった、無垢な子供のような顔。
その顔を見て皆一様にそう思うのだった。
ユリは、腕の中で眠るノアの青い髪を、そっと撫でる。
その寝顔は、あまりにも穏やかで、
幸せそうで、見ているだけで胸がいっぱいになる。
マキが隣に来て、自分の着ていた上着を、眠るノアにそっとかけた。
「なんて……不思議な存在なんだ……」
タケルが除きこむとユリが指を立ててしーっと小さな声で囁く。
「少し冷えてきたな……」
タケルが空を見上げながら呟く。鮮やかな月にすーっと雲がかかる。
ベンとリナも、言葉少なに、その静かな光景を見守っている。
クレイドルの屋上庭園に、穏やかで、
しかしどこか儚さを感じさせる、静寂が訪れる。
それは、これから訪れる嵐の前の、あまりにも短く、
そして美しい凪の時間だった。




