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オムニトロン

 五月の太陽が西の山稜に傾き、あらゆるものの影を長く、優しく伸ばしていた。

 時刻は午後6時30分。

 体育倉庫の掃除のせいで約束の時間より少し遅くなってしまっていた。

 ユリたちの頬を撫でる風は、昼間の熱気をすっかり忘れ、ひんやりとした緑の匂いを運んでくる。

 蒼樹市の中心部から離れた山の麓。

 広大な自然公園と見紛うほどの敷地に、オムニトロンの研究施設群は点在している。

 大地に根を張るように建てられたガラス張りの近代的な建物は、威圧感よりも周囲の自然との調和を重視しているようだった。


「やあ、ユリちゃん。今日は皆勢ぞろいだね。社長も何かそわそわしてたみたいだし何かあるのかい?」

 

 厳重なセキュリティゲートの横で、詰襟の制服を少し着崩した初老の警備員が、まるで駄菓子屋の店主のように気さくに手を振った。


「こんばんは。うん、今日はとっておきの日、なんですよ」


 ユリは慣れた様子でそう言って笑いかける。

「そおか、そりゃ楽しそうでなによりだ、転ばないように気を付けてね」


 ハイテクな認証システムと、このアナログな温かさ。それこそが、オムニトロンという場所が持つ不思議な空気感だった。


 ユリが「うん、ありがとうございます!」と会釈を返した、その時。

 背後から、野太いけれど、どこか牧歌的なエンジン音が近づいてきた。

 振り返ると、クラシカルなサイドカー「ウラル」が、ゆっくりとこちらへ向かってくる。

 跨っているのは、ヨレたシャツを羽織った、白髪の混じった大柄の白人男性。――ベン・ハーパー教授だった。


「おや?遅れたかと思ったらちょうど良かったみたいだね。今日はいいニジマスが釣れるもんだから、ついつい長居してしまった」


 サイドカーには、クーラーボックスと釣り竿。世界的な量子物理学の権威の姿とは、あまりにもかけ離れている。

 タケルが呆れたように言う。


「これがアメリカの量子ネットワークをたった一人で作り上げた人間だなんて到底思えないよな……」

 まったくだ、とばかりにマキがうなづく。


「また山に入ってたんですか……。相変わらず年期の入ったサイドカーですね」

 

 ユリも苦笑しつついつまでも風来坊癖が抜けないこの教授に気遣いを見せる。

「ははは、こいつはいいぞ。どこでもいける最高の相棒でね。会社を辞めて飛び出して世界中を放浪してた時からの付き合いなんだ」


 彼の相棒であるウラルは、最新鋭の研究所には不似合いなほど、土と自由の匂いを放っている。

 ベンがゆっくりと先導しながら、一行はゲートを潜り、広大な敷地の中を歩き始める。

 ガラス張りの壁面には、夕日に染まる山の稜線と、歩く自分たちの姿が映り込んでいる。

 マキが、ふとベンの背中を見ながら尋ねた。


「そういえば教授って、なんで日本のこんな場所に落ち着いてるんです?」

「リナに捕まってしまってね」


 ベンは肩をすくめる。

「学生の頃からの腐れ縁なんだよ。あいつは欲しいと思ったものは、地球の裏側までだって追いかけて手に入れる。それが人間でも、理想でもさ。微塵の悪意もなく、ね。まったくタチが悪い……」


 その言葉で、ユリはリナのことを思う。

 祖母の華道教室にある時リナがふらっと現れた。

 祖母とリナは意気投合しそれからちょくちょくユリの家でリナは華道を嗜んでいった。

 その時はリナがこんな巨大な企業を率いるCEOとは思いもしなかったがその縁があってオムニトロン提供のニューロチップ手術を受けることができた。

 彼女は最先端の企業を率いるだけにとどまらずNPOを立ち上げ、世界中の貧しい人々を助け慈善活動もこなす女性だ。

 彼女の持つ不思議な魅力と、世界中に張り巡らされたコネクションの源泉を、垣間見た気がした。


 敷地内には小川が流れている。

 木の橋を渡り、白衣の研究者たちが談笑するオープンカフェを横切る。

 全てが穏やかで、自由な空気に満ちている。

 そして、一行は敷地の最も奥まった場所に立つ、一つの建物の前で足を止めた。

 ここだけは、周りの開放的な雰囲気から切り離されたように静寂な気配を纏い佇んでいる。

 オムニトロンに設けられた特別な研究棟だ。

 


 ベンはウラルを敷地に止めると網膜認証で自動ドアを開く。

 そこには石と木造りで作られた落ち着いた空間が広がっていた。

 壁には瑞々しい植栽が施され、その裏を清水が滝のように流れ落ちている。

 床に達した水は消えることなく、ガラスの床下を本物の小川のようにサラサラと流れていく。

 静かな水の音が、厳粛な雰囲気を醸し出していた。

 一行がその通路の突き当たりまで来た、その時。

 「Lina Kawamura Private Laboratory」と記されたプレートが掲げられた扉が、音もなくスライドして開いた。


 中から現れたのは、銀髪を緩やかにまとめ、気品のある笑顔を浮かべた美しい女性――リナ・カワムラだった。年齢という概念を忘れさせる、生命力に満ちた佇まい。その銀髪は、通路の照明を反射して、まるで光の糸のようだった。


「やっときたのね、遅かったじゃない?待ちわびてたのよ。」


 片手を腰にあてリナはそういうとユリをそっと抱きしめる。


「あなたの強い意志と決意が今日新しい扉を開くかもしれない。私はあなたを心の底から尊敬するわ」

 

 ユリは一瞬驚いた顔を見せた。

 が、すぐにリナの胸に顔をうずめ抱きしめ返す。

「ううん、全部リナさんのおかげだよ。私はただ我儘を言っただけ。ありがとうリナさん」

 

 2人は体を離し少しの間視線を結びにこやかに笑った。

「あらら、社長、そんなにくっ付くとマキちゃんとタケル君が妬いちゃいますよ?」

 

 品のいい30台前後の女性が笑いかける。

 リナの側近であり先端医療のエキスパートでもある坂井シオリだ。


「いえ、リナさんはユリの恩人だし特別です。許可します」

 ピっとマキはリナに敬礼し悪戯な笑顔をしてみせる。

「やったーマキちゃんからの公認もーらい」

 と言ってリナはユリの頭を摺り寄せる。

 世代を超えた女子トークから一歩離れたところでベンがタケルに囁く。


「恐ろしいだろう、リナはああやって人を誑し込めるんだ……」

「あら?研究ほったらかして釣りや焚火に行ってしまうような放蕩癖の研究者を甲斐甲斐しくお世話してきたのは誰だったかしら?」


 聞こえているわよ、言わんばかりにベンを横目に見てリナは言った。

「そうそう僕はいつも感謝しているよ、その人にね」


 ベンはバツが悪そうに愛想笑いを浮かべそそくさと研究室の中に入っていく。


(いつもいい負かされる割にすぐちょっかい出したがるのはなんでなんだろう……)

 とユリはベンを見ながら思った。


「誰かのせいで脱線したけど本題に移ろうかしら」

「それではお待ちかねの”ノアの器”に案内するわね」


 リナの柔らかな声に促され、一行は彼女の研究室へと足を踏み入れる。

 そこは彼女のオフィスを兼ねているのか、壁一面の本棚と、いくつかのモニターが並ぶ、落ち着いた空間だった。

 しかし、リナはその部屋を通り抜け、さらに奥にあるもう1つの扉へと一行を導く。


「この奥にノアの、この世界での体。ジェネシス・ギアがあるわ」


 リナはこのまったく新しい試みに創生という名を冠したプロジェクト名を与えていた。

 ユリとアドの量子エンタングルを可能とする手術から始まったこのプロジェクトは全て極秘の内に進められた。


「ここに至るまで本当に驚きの連続だったわね」

 リナは感慨深く語る。


「うん、エンタングル後の世界は……まるで違う世界にだった」

 

 ユリがアドとのエンタングルに成功した日、様々なことがあった。

 アドと頭の中で会話ができるようになった。アドが見た監視カメラの映像や音声を知ることができた。

 それどころかアドが予測演算した数秒先の出来事までもが映像として共有された。

 この結果はあまり喜ばしいことではなく、ユリの脳に多大な負荷を与えてしまう。

 アドが上手く調整できるようになるまでユリは頭痛や酔いに悩まされた。

 

「あれはきつかったな……」とユリは苦笑いする。

 

「アドにとっては良かれと思ってやってたみたいだけど、量子プロセッサの演算結果をダイレクトに入れられたらそりゃきつい」 タケルも同情を禁じ得ない。


「大事なくてほんとに良かった。あのままだったらアドの本体破壊しようかと思いましたもん」

 マキが呟く。


「そうね、ユリちゃんもアドも無事でよかったわ。アレも大変だったけどやっぱり一番驚かされたのはその次の朝かな」


リナも苦笑しつつ翌朝ユリが目覚めた時のことを口にする。

ユリも思い起こす。

エンタングル後、初めてのノアとの邂逅を。

 

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