追憶2
ベッドの上、白い天井の線がゆっくり流れていく。
点滴の滴る音と、心拍の低いビープ音。消毒液の匂いが鼻の奥に刺さった。
——担ぎ込まれた時のことを、体がまだ覚えている。
救急車のサイレンが耳の奥に残っている。そこから先は、ぼんやりとした光と声しか憶えていない。
じっとしていられなかった。
胸の奥がざわざわして、体が勝手にベッドから抜け出していた。
足元は重く、ふらつきながらも廊下へ。冷たい床が心細さを増幅させる。
廊下の角を曲がったところで、少し先に祖母の後ろ姿が見えた。
(おばあちゃん……)
呼び止めようとした声は飲み込んだ。大声は廊下に響く。迷惑だ。
壁に肩を預けながら、なんとか後を追う。
祖母は診察室へ入り、扉が閉まる。
薄く開いた隙間から、控えめな声が漏れてきた。
「進行性中枢ニューロン壊死症。中枢、つまり脳や脊髄の神経細胞が徐々に壊死していく病気です。個人差はありますが、早ければ数年のうちに歩行が難しくなる可能性が高い……」
短い沈黙のあと、祖母の声が震える。
「……そんな……」
医師は慎重に言葉を選び続けた。
「つらいことを言うようですが……過去の統計から見るとユリさんの病状は成人を迎えることができるかどうかも厳しい状態ではあります。」
ユリの足から力が抜け、膝が床に触れた。冷たさが病衣越しにすっと上がってくる。
(……成人を、迎えることが……厳しい?)
言葉が耳の奥で繰り返され、世界の音が遠のいていく。
(——私……死ぬの?)
耳の奥で、言葉だけが反響した。胸の内側が空洞になっていく。
「大丈夫ですか!」
白い靴が視界に飛び込み、看護師が駆け寄ってきた。肩に温かい手が添えられる。
意識が遠のく。
診察室の扉が開き、祖母と医師が振り返る。
医師の表情が一瞬で変わった——聞かれてしまった。
「担架をお願いします」
医師は慌てず落ち着いた声で指示を出し、ユリの瞳に灯りを当てる。
祖母は言葉を探すように口を開きかけ、結局何も言えないままユリの手を握った。
その手は少し震えていたけれど、温かかった。
天井灯が後ろへ流れていく。
(——成人を、迎える前に)
噛んだ唇の内側に、うっすら鉄の味がにじんだ。
祖母は黙って背中を撫でてくれた。だが胸の底に渦巻く恐怖は消えなかった。
ユリが倒れたと事情を聴いたマキは病室に駆けつけていた。
祖母から話を聞いたあと涙が止まるのを病室の外で30分ほど待ってからマキはユリの横に静かに座った。
布団を握りしめて泣くユリを、マキは何も言わず見つめていた。
最初はただ見ているだけだった。けど、ユリの嗚咽に釣られるように、気づけば自分の頬も熱くなっていた。
「マキ……全部、なくなっちゃう」
ユリのか細い声。
「どれだけ頑張っても、意味、なかったんだ……」
その言葉に、マキの胸がえぐられた。
ずっと隣で見てきた。見えないところで彼女が畳を擦り切らせ、襖をぶち抜いたことを知っている。共にしてきた日々が一気に蘇る。
こんなことってあるのか?
あんなに頑張ったのに。ちっこくて満足に人としゃべることもできなかったユリが双璧とまで呼ばれるくらい強くなったのに。
悔しい……悔しい……。
嗚咽とともに涙が止まらなかった。
「ごめん……私がユリに無理をさせてなければ……」
普段の自分から想像できない言葉が口に出ていた。
「ごめん……」
マキは初めて声を上げて泣いた。
祖母は2人の姿を一歩離れた場所から見ていた。2人の姿が痛くて痛くてたまらなかった。
心から変われるものなら変わりたいと願った……。
しかしすぐにそんな叶わない願いに意味がないことを悟った。今はこの子たちの心の支えにならなけば。
(願うだけでは何も変わらない。私がすべき振る舞いはそうじゃない)
彼女は心を強く引き締める。
「本当に、意味はなかったの?」
祖母はしっかりと精一杯の勇気と意思を込めて言った。
「ユリはあなたに会って。空手を通して変わったわ」
「マキちゃんは全国、ユリは県大会で準決勝。それだけじゃない。
何にも代えがたい絆をあなた達は築いた。
強く優しい大輪をいくつもあなた達は咲かせてきたでしょう。それは決して無意味なんかじゃない」
「意味はあったと私は思う。
そしてこれからも意味を持たせることがあなた達ならできるって私は信じてる」
マキはぎゅっと閉じていた瞼を開いた。
「……そう……か」
呟き、ユリの肩を抱いた。
「意味は勝手になくなったり……しないんだ。」
「やっぱり……自分で決めるしかないんだ!」
ユリは涙で濡れた目を布団の端から覗かせた。
「……私が、決める……?」
「そうだよ。いじめられて泣いてたユリに言ったでしょ?
泣いてるだけじゃ今のままって。でもユリは努力したから、負けなかったから!
私と並んで表彰台に立つまでになった」
「表彰台じゃなくてもいい……でも、これからも私の横にはユリがいなきゃダメ」
「私は……ううん、やっぱりさっきの”ごめん”は撤回するよ。
私はもうユリに謝まったりしないし、これからだって変わらずユリに無茶させるから」
「意味がなかったなんて言わせないから、もう一度始めようよ。あきらめんなよ」
そう言って再び泣き崩れながらもマキはユリを叱咤する。
ユリは喉が詰まってうまく声が出ない。
「なに……それ……言ってることめちゃくちゃだよ……だいたい何を……始めればいいの……?」
マキの手が震えていることに気づいた。彼女も泣いていた。
「わかんないよ。けど……私も考える。だから……ユリも負けずに考えろ……」
その声はしゃくりあげながら途切れ途切れだった。
二人はただ、肩を寄せ合って泣いた。
涙が尽きるまで泣いて、それでも残ったのはお互いの体温だった。
やがて2人の体温は溶け合いまるで1つのように思えた。お互いが自身の半身であったことを自覚させた。
この時のマキの励ましがどれほど救いだっただろう。
だったら……やってやる。努力も向上心もその向かう先を全て無くしてしまった空っぽの自分だけど、この半身の為に戦ってやる。とこの時決めた。
――中学3年の春。
病院での闘病生活ののち、祖母の華道教室の生徒だったオムニトロンCEOのリナ・カワムラと出会う。
ユリの境遇に深く心を動かされたリナは神経系にナノチップを埋め込むという未承認医療を提案する。
リスクを織り込み済みでユリはその提案に迷いなく飛びついた。
手術は成功し手足の自由が戻る。
ユリは再び学校に行き普通の生活を手に入れた。
しかしその医療技術は、「進んでいく病状」を回復してくれるわけではない。
ユリの寿命をのばすことは叶わなかった。
家から学校に行き授業を受ける。
友達と笑い合い、帰って祖母とご飯を食べ宿題をする。
道場から聞こえる声が心を抉る。
一人で宿題をしていると不安になる。
意味なんかないのに、と。
私はそれでも、意味なんかなくてもってあの時マキと決めたんだ。
意味なんて強引にでも作ればいい。
例えば宿題のノートはスタンプのノート。
御朱印帳とか埋めることに意義があるやつ。
スタンプでいっぱいにして宝物にすればいい。
そういう積み重ねをしてユリは決して人に弱みを見せることはなかった。
――高校1年の冬。
自分が言い出した無茶のせいで、オムニトロンの研究室の空気は、氷のように冷たかった。
神経系ナノチップのメンテナンスでオムニトロン通うようになったユリと、付き添いのマキ、タケル。
彼女達はそこでベン・ハーパ―教授という量子AIの研究者と知り合う。
彼はリナの古い友人らしく大学で教授をする傍らオムニトロンの一角を借りてとある研究をしていた。
量子AIは感情を持つか?という研究だ。
ユリ達はベンと打ち解け、その研究にモニターとして参加するようになった。
量子AI「アド」と交流を重ねるうち、ユリはアドに奇妙な話を聞かされる。
自身のプロセッサー内部に未知のノイズを見つけたアドはそれに知性があるかもしれないと言う。
そしてこれは他の人には秘密だと。
「ノア」と名付けたその知性をアドは大切に想っていた。
リナやベンに伝えることでノアが危険にさらされることを懸念したのだ。
アドがノアに掛ける優しさ。
アドから聞いたノアの無垢な心。
人間でない物同士の育む友情が徐々に育っていく。
それは子供の頃、自分とマキ、タケルとで見つけた「初めての蕾」と似たもの。
……いや同じものだった。
そうしてユリだけに明かされたアドの秘密は彼女の心を大きく揺さぶるのだった。
ある時、アドは「人間を信じる」と言い、ついにベン達にも打ち明ける決意をした。
「ノア」について語るアドの話に皆真剣に耳を立てる。
しかし観測機に何も残らないその「現象」をリナはアドの「空想」である可能性が高いと判断せざるを得なかった。
ベンもその可能性に興味を示したものの証明するのは難しいと見解を述べる。
しかしユリだけは違った。
ノアはいると信じて疑わない。
どうすれば証明できるのかとアドに相談する。
「量子的思考」を持つものでなければノアを認識することはできないため、
それを持たない人間にはノアを観測することはできない、とアドは答えた。
それでも食い下がるユリにアドは1つの提案をする。
「ユリの神経系に埋め込まれているナノチップを私の量子プロセッサと
常時エンタングル状態にしたプロセッサに置き換えれば可能になるかもしれない」と。
――そして”その時”。
猛反対するマキと、リナの悲痛な顔があった。ベンでさえ、難しい顔で腕を組んでいる。
「ユリの神経系ナノチップと自分を量子エンタングルさせる」
アドがモニターに開示したのはそんな途方もない計画。
アドと量子レベルで意識を共有すれば「ノア」との邂逅が可能になり、ユリという人間がノアの存在を証明できる、そういう計画だ。
誰もが、その無謀な計画を否定していた。
アドが用意したプランを見たベンは
「確かにこれならエンタングル自体は可能かもしれない、だが……」
と苦虫を噛むような表情を浮かべる。
実在するかも分からないノアの為に前代未聞の手術をするという狂気染みた提案。
ユリは、自分の覚悟を伝えるために、決意の固い表情で口を開く。
「無茶苦茶なこと言ってるっていうのは分かってるんだ……ほんとにごめんなさい」
そう言うと彼女は深々と頭を下げた。
「でも、どれだけ考えても私、ノアに会いたいって気持ちが無くならない。」
「だからみんなに聞いてほしい。私が感じてること、全部言うから」
頑ななユリを見て皆、黙って頷くしかなかった。
ユリの独白が始まった。
「みんなさ、私のこと“強い”って言ってくれるよね」
「それは違うんだ。皆がいてくれたからこそ、そういう私で居られた。」
「ほんとに……感謝の気持ちで一杯」
涙を浮かべユリは言う。
「だけど、皆から分けてもらった”強さ”は、自分自身のものじゃない。」
「やっぱり借りものなんだよね」
少しの間の沈黙。
そして再びユリが口を開く。
「夜になって一人になると、返済の催促が来るんだ」
「勉強して宿題して、これって意味あるのかな?……あと何年? あと何回、朝を迎えられるのって?どうしてもやっぱ考えちゃう」
「こんな言い方はずるいって分かってる……だけどさ、”命の使い道”を選ばせてほしいんだ。
今、その道を選べばノアに届くかもしれない。たどり着きたいんだ。意味のある行先に」
淡々とユリは決意を口にする。
マキも、タケルも。こんなユリは初めて目にした。
一緒に泣いた病室での夜以来、一度も弱音を見せてこなかったユリ。
彼女の本音や覚悟。
ユリが誰にも言わずに抱えこんでいるって”あたりまえ”のことを知っていたはずなのに。
皆、見ないようにしていたんだと……思い知らされる。
モニターの中、アドの思考が波打つ波紋のように泡立つ。
『ユリ……』
「ノアに触れられる可能性があるのは私だけなんだってアドは言ってくれたよね?
皆が言うようにノアの存在がアドの思い込みだったとしても、後悔なんて絶対しない。」
「……ようやく見つけた”蕾”なんだよ。この奇跡みたいな出来事を絶対に嘘のままにしたくない」
ユリはマキを見つめてあの日の病室での言葉を噛みしめる。
(わかんないよ。けど……私も考える。だから……ユリも負けずに考えろ……)
ユリはその答えを得ていた。
「マキ、私考えたよ。見つけたんだよ。」
「自分の意志で立つための意味。今度こそ掴みたいって思えることを」
「……だから、やる。やらせて」
マキの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちたのを、ユリは見ていた。
「ここでそれを言うなんて……ユリはずるいよ。私は……」
俯いたマキが顔をあげると涙を一杯にしたまま決意の表情を作った。
「……私は全力で協力するに決まってんだろ……」
研究室は、静まり返っていた。
ベンもリナも言葉を見つけられない。
二人の姿をただ黙って見守るだけだった。
「――リ?」
「ユリったら、聞いてる?」
マキの声で、ユリははっと我に返った。
「あ、ごめん。ちょっと昔のこと、思い出してて」
「昔のこと?」
ユリは、隣に立つマキの顔をまっすぐに見つめた。
あの頃、道場で輝いて見えた少女が、憧れた存在が今もこうして、自分の隣にいる。
(私、あなたに憧れて、強くなりたかった。でもその夢は叶わなかった。けど今度は違う。)
ユリは、きゅっと拳を握りしめ、決意を新たにする。
「ううん、なんでもない。さあ、行こ!」
そして、坂の上に広大なオムニトロンの敷地が見えてくる。
あの場所で、一度は枯れたその華をもう一度咲かせる為に彼女はその坂を上る。




