表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/15

静かな戦い

 海沿いの国道の程近く、古き良き時代の和風建築の平屋建て住宅。

 

 朝の光がその住宅のガラス戸を抜け、玄関のたたきに長い影を落としている。

 空気中に舞う細かな埃が、光の筋となってキラキラと輝いては見えなくなる。

 湿り気を含んだ潮の香と、寄せては返す遠い波音が流れ込んでくる。

 お手伝いの老婆が玄関の花々に水を上げるシャーという音がする。

 鈴掛ユリが愛する、この家の朝の匂いと音だ。

 

 ベッドの上、ユリはゆっくり体を起こす。

 その動きは、1つ1つの動作を確認するかのようだ。

 一見、ただ寝起きで体が重いだけに見える。

 しかし、彼女の脳内では無音の会話が交わされている。

 

『おはよう、ユリ。神経接続(ニューラル・リンク)、同期完了。』


『昨夜観測された低気圧の影響で、

 末梢神経への伝達効率が通常より3%低下してる。

 今日のモーター・アシストのキャリブレーション、少し強めておくね』


(……おはよう、アド。相変わらず過保護なんだから。でも、ありがと)


 彼女はベッドの縁に腰掛け、ゆっくりと足先に意識を集中させる。

 指先が、ぴく、と動く。その小さな動きに、安堵の息を1つ漏らす。

 彼女にとって「朝、目が覚めて、手足が動く」ことは、当たり前ではない。

 毎日が、小さな勝利の積み重ねだ。

 これが彼女の「普通」であり、彼女の「戦い」の始まり。


 祖母と二人、静かな朝食。壁掛けのモニターにはニュースが流れている。

 アナウンサーが神妙な顔で伝える。


「昨夜未明、蒼樹市外縁の鶴鳴橋で発生した、

 タンクローリーの爆発事故と見られる事件ですが、警察は……」


 祖母が心配そうに眉を寄せる。


「物騒なこと……ユリ、夜に出歩いたりはしないようにね」


「うん、大丈夫だよ、おばあちゃん」


 ユリは笑顔で頷く。


 その笑顔は完璧だ。

 しかし、脳内ではアドが冷静な分析を告げている。


『報道されている“事故”と、

 昨夜私がリアルタイムで観測したエネルギーの波長には、

 98.4%の乖離を確認。

 これは意図的に事実を隠蔽するための情報操作です』


 (やっぱり嘘なんだ。一体、何があったんだろう……)


 アドと”繋がって”知ったこと。

 世界はなにか大きな嘘をついている。

 この蒼樹市をはじめとした各地にある「未来都市」や、

 そこに”招待”された住人。

 そこにはなにか嘘が隠されている。

 真実までは分からないが世界各地で起こっている異変もだ。

 それら全ての事象が歪められ伝えられている、という事実。

 

 そして、自分の体の真実を祖母に心配させまいと、自分も嘘をついている。

 それは最新の量子AI「アド」と”繋がっている”ということ。

 ユリは何も知らないふりをして、お味噌汁を一口すする。


 身支度を整え玄関の引き戸を開けると、制服姿の真壁マキが腕を組んで待っている。

 海岸から刺す光に包まれマキの黒髪が、風に柔らかく揺れた。

 朝日を浴びた彼女がニカっと微笑んだ。

 その輪郭は、少しだけ透き通って見える。


「おはよ、ユリ。今日は昨日より顔色いいじゃん」


「マキこそ。朝練でもしてきたの?」


「まあね。でもやっぱあんたがいないと張り合いないな。今の道場はザコばっかだしさ」


 その軽口が、肌を撫でる潮風のように心地いい。

 ユリは一歩、光の中へと踏み出した。

 二人が並んで歩き出すと、すぐに隣のマキの実家の道場が見えてくる。

 開け放たれた窓から、汗と木の匂いが混じり合った、懐かしい空気が流れ出す。

 それはユリの記憶の最も深い場所を刺激する匂いだ。


 **「セアッ!」**という鋭い気合いの声。乾いたミットを叩く、硬質な音。


 ユリの胸が、甘く、ちくりと痛んだ。

 裸足で踏みしめたあの床の感触を、足の裏がまだ覚えている。

 あの頃、この音と匂いの中に確かに生きていた。

 もっと強くなれると信じていた。

 隣を歩くマキは何も言わない。

 けれど、道場の前を通り過ぎるほんの一瞬、彼女も同じ情景の中に身を置いていたことに、

 ユリだけが気づいていた。


 道場を過ぎ、海沿いの通学路に出る。

 海からの風が一段と強くなり、二人の制服のスカートを揺らす。

 ユリは目を細め、太陽の反射で白く輝く水面を見た。


「鶴鳴橋の事故、なんか嘘くさいよね。アド、何か掴んでる?」


 マキの声に、ユリは海から視線を戻す。


「うん、『エネルギーのパターンが違う』って。でも、それ以上は……わっ」


 その瞬間。

 ユリの足が、アスファルトの上で糸が切れたように、ほんのわずかにもつれる。

 視界がぐらりと揺れ、世界から一瞬だけ音が消える。

  風の肌触りも、太陽の暖かさも、全てが遠のく感覚。


 傾いたユリの肘に、温かいものが触れた。

 マキの手だった。

 驚くほど静かで、当たり前のようにそこに差し出された、力強い温もり。

 指先から伝わる確かな熱が、遠のきかけたユリの意識を現在に引き戻す。

 

 「……っと。アドのやつ、また裏で重たい処理でもしてんの?

 ちゃんとアクチュエーターの制御真面目にやってよ」


 マキは、冗談めかした声で言う。その声色も、握る手の力加減も、いつも通りだ。

 だからユリも、いつも通りに笑って返す。


「ご、ごめん! 多分そうかも! ありがとう、マキ」


『……運動野に0.09秒の致命的な伝達遅延。補助システムを瞬時補正。

 マキのサポートがなければ転倒してたね』


 頬を撫でる潮風は、少しだけ塩の味がした。

 それが、涙の味に似ていると、ユリは思った。

 でも、泣いてばかりいた昔の自分は、もういない。

 私は私の生きる意味を見つけたのだから。そう彼女は思う。

 支えられた温もりを右腕に感じながら、ユリはもう一度、

 光の中へと一歩を踏み出した。

 マキが隣にいる。オムニトロンの皆がいる。

 ”それだけ”で、この世界はまだ、こんなにも輝いて見えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ