静かな戦い
海沿いの国道の程近く、古き良き時代の和風建築の平屋建て住宅。
朝の光がその住宅のガラス戸を抜け、玄関のたたきに長い影を落としている。
空気中に舞う細かな埃が、光の筋となってキラキラと輝いては見えなくなる。
湿り気を含んだ潮の香と、寄せては返す遠い波音が流れ込んでくる。
お手伝いの老婆が玄関の花々に水を上げるシャーという音がする。
鈴掛ユリが愛する、この家の朝の匂いと音だ。
ベッドの上、ユリはゆっくり体を起こす。
その動きは、1つ1つの動作を確認するかのようだ。
一見、ただ寝起きで体が重いだけに見える。
しかし、彼女の脳内では無音の会話が交わされている。
『おはよう、ユリ。神経接続、同期完了。』
『昨夜観測された低気圧の影響で、
末梢神経への伝達効率が通常より3%低下してる。
今日のモーター・アシストのキャリブレーション、少し強めておくね』
(……おはよう、アド。相変わらず過保護なんだから。でも、ありがと)
彼女はベッドの縁に腰掛け、ゆっくりと足先に意識を集中させる。
指先が、ぴく、と動く。その小さな動きに、安堵の息を1つ漏らす。
彼女にとって「朝、目が覚めて、手足が動く」ことは、当たり前ではない。
毎日が、小さな勝利の積み重ねだ。
これが彼女の「普通」であり、彼女の「戦い」の始まり。
祖母と二人、静かな朝食。壁掛けのモニターにはニュースが流れている。
アナウンサーが神妙な顔で伝える。
「昨夜未明、蒼樹市外縁の鶴鳴橋で発生した、
タンクローリーの爆発事故と見られる事件ですが、警察は……」
祖母が心配そうに眉を寄せる。
「物騒なこと……ユリ、夜に出歩いたりはしないようにね」
「うん、大丈夫だよ、おばあちゃん」
ユリは笑顔で頷く。
その笑顔は完璧だ。
しかし、脳内ではアドが冷静な分析を告げている。
『報道されている“事故”と、
昨夜私がリアルタイムで観測したエネルギーの波長には、
98.4%の乖離を確認。
これは意図的に事実を隠蔽するための情報操作です』
(やっぱり嘘なんだ。一体、何があったんだろう……)
アドと”繋がって”知ったこと。
世界はなにか大きな嘘をついている。
この蒼樹市をはじめとした各地にある「未来都市」や、
そこに”招待”された住人。
そこにはなにか嘘が隠されている。
真実までは分からないが世界各地で起こっている異変もだ。
それら全ての事象が歪められ伝えられている、という事実。
そして、自分の体の真実を祖母に心配させまいと、自分も嘘をついている。
それは最新の量子AI「アド」と”繋がっている”ということ。
ユリは何も知らないふりをして、お味噌汁を一口すする。
身支度を整え玄関の引き戸を開けると、制服姿の真壁マキが腕を組んで待っている。
海岸から刺す光に包まれマキの黒髪が、風に柔らかく揺れた。
朝日を浴びた彼女がニカっと微笑んだ。
その輪郭は、少しだけ透き通って見える。
「おはよ、ユリ。今日は昨日より顔色いいじゃん」
「マキこそ。朝練でもしてきたの?」
「まあね。でもやっぱあんたがいないと張り合いないな。今の道場はザコばっかだしさ」
その軽口が、肌を撫でる潮風のように心地いい。
ユリは一歩、光の中へと踏み出した。
二人が並んで歩き出すと、すぐに隣のマキの実家の道場が見えてくる。
開け放たれた窓から、汗と木の匂いが混じり合った、懐かしい空気が流れ出す。
それはユリの記憶の最も深い場所を刺激する匂いだ。
**「セアッ!」**という鋭い気合いの声。乾いたミットを叩く、硬質な音。
ユリの胸が、甘く、ちくりと痛んだ。
裸足で踏みしめたあの床の感触を、足の裏がまだ覚えている。
あの頃、この音と匂いの中に確かに生きていた。
もっと強くなれると信じていた。
隣を歩くマキは何も言わない。
けれど、道場の前を通り過ぎるほんの一瞬、彼女も同じ情景の中に身を置いていたことに、
ユリだけが気づいていた。
道場を過ぎ、海沿いの通学路に出る。
海からの風が一段と強くなり、二人の制服のスカートを揺らす。
ユリは目を細め、太陽の反射で白く輝く水面を見た。
「鶴鳴橋の事故、なんか嘘くさいよね。アド、何か掴んでる?」
マキの声に、ユリは海から視線を戻す。
「うん、『エネルギーのパターンが違う』って。でも、それ以上は……わっ」
その瞬間。
ユリの足が、アスファルトの上で糸が切れたように、ほんのわずかにもつれる。
視界がぐらりと揺れ、世界から一瞬だけ音が消える。
風の肌触りも、太陽の暖かさも、全てが遠のく感覚。
傾いたユリの肘に、温かいものが触れた。
マキの手だった。
驚くほど静かで、当たり前のようにそこに差し出された、力強い温もり。
指先から伝わる確かな熱が、遠のきかけたユリの意識を現在に引き戻す。
「……っと。アドのやつ、また裏で重たい処理でもしてんの?
ちゃんとアクチュエーターの制御真面目にやってよ」
マキは、冗談めかした声で言う。その声色も、握る手の力加減も、いつも通りだ。
だからユリも、いつも通りに笑って返す。
「ご、ごめん! 多分そうかも! ありがとう、マキ」
『……運動野に0.09秒の致命的な伝達遅延。補助システムを瞬時補正。
マキのサポートがなければ転倒してたね』
頬を撫でる潮風は、少しだけ塩の味がした。
それが、涙の味に似ていると、ユリは思った。
でも、泣いてばかりいた昔の自分は、もういない。
私は私の生きる意味を見つけたのだから。そう彼女は思う。
支えられた温もりを右腕に感じながら、ユリはもう一度、
光の中へと一歩を踏み出した。
マキが隣にいる。オムニトロンの皆がいる。
”それだけ”で、この世界はまだ、こんなにも輝いて見えた。




