砂漠と炎
人々が夕飯の支度を始めるころ、分厚い灰色の雲はいつの間にか風に追いやられ、雲の切れ間から夕日が降り注ぐようになった。荒れ放題だった海は、落ち着きを取り戻し始めていた。
ユハは厨房の棚から、酢漬けの魚が入った瓶を取り出した。蓋を開ける前から、つんとした酢のにおいがする。ユハは、けほ、と小さく咳をした。
「イリ、酢は嫌いじゃないかい?」
窓を開けて海を見ていたイリは、振り向いて目を輝かせた。
「大好きです!」
そそくさと近寄ってきて、瓶の中をのぞいている。
「ちょうどよかった。あたしはどうにも匂いが苦手なんだよ。」
ユハはかまどに薪を足し、イリに平鍋を渡した。
「酢と一緒に魚を炒めておいて。」
そう言うと、ユハは寝室へ向かった。窓を開ける音がした。
イリは鍋を火にかけ、瓶をゆっくり傾けた。頭と内臓を落とした魚が出てくる。酸っぱいにおいの中に、わずかにりんごの甘いにおいがした。しばらくすると、ふつふつと泡が上り、部屋中ににおいが充満した。
ふと思い立って、イリは棚に置いてあった玉ねぎとにんにくを刻み、酢の中へ入れた。塩をひとつまみ加えて、軽く鍋を振るう。玉ねぎの甘い香りとにんにくの匂いが酢と混ざっていく。ほどよく水分が飛び、魚に火が通ったら完成だ。旅先で出会った女たちに教えられたものの一つで、イリの得意料理だった。
「できた?」
ユハが寝室のドアをそっと開けて尋ねた。
「ええ、食べましょうか。」
ユハが部屋に入ると、いやな酢の匂いが炒めた野菜の匂いに紛れて、緩やかになっていた。おいしそうだな、と感じると同時にぐるる、と腹の鳴る音が聞こえた。
「料理すると、おなかすいちゃいますよね。」
イリが恥ずかしそうに言った。
パンの残りを切り分けて、二人は食卓についた。
ユハは嫌いな酢を使った料理であるにもかかわらず、玉ねぎとともに煮汁まで平らげてしまった。
イリはいつものようにがつがつと食いつき、しまいにはパンで皿を拭うようにして食べた。
食事の片づけをしているとイリの腕が水の入った木桶にぶつかり、倒してしまった。
「うわっ、ごめんなさい。」
幸いなことに中身は少なかったが、イリの足元に水が広がっていった。
「ああ、大丈夫、大丈夫。」
ユハは戸棚を開けて、布巾を取り出しながら、
「悪いけど、外で水を汲んできてくれないかい。」
と頼んだ。
イリの顔が映っている小さな水面は、ふるふると揺れ始めた。イリはランプと桶を取ると急いで部屋を出た。
外に出ると、薄い雲の奥に月の明かりが見えた。少し湿った石段を下りて、小さな井戸へ向かった。井戸の蓋を外して、フックにランプを掛け、下を覗くと遠くの水面にランプの明かりとイリの顔が映った。
しかし、すぐに水面は波打ち始め、沸騰した湯のように、ぼこぼこと音を立てて水位が上がってくる。急いで釣瓶を投げ込み、縄を引き上げた。桶に水を移して、蓋を閉める瞬間、井戸の中から、恨めしそうな若い女の声が聞こえた。
「罪を、償え。」
イリは飛び退くように井戸から離れた。井戸の傍に置いたままの桶の水面は、静かにランプの明かりを反射していた。井戸の中の水音は、もう止んでいた。
肩を上下させて呼吸を整えると、ランプと桶を持って、家へ戻った。
ユハは濡れた布巾を干して、寝る支度をしていた。木桶を元の場所に置くと、イリも寝袋を広げた。汲んできたばかりの、まだ冷たい水を手元に置いて、イリは話を始めた。
*
森の中の村、バッサムから出て少し経った頃、キャスパルテに向かうずっと前の話です。
様々な街を経て、東南へ進んでいくと、木々が細く、小さくなっていき、やがて砂漠にたどり着きました。そこは黄色い砂ばかりで、緑は全くありませんでした。日の光を反射して、じりじりと焼け付くように暑く、動物もいないようでした。足を踏み入れると砂に沈み込んでいき、なかなか先へ進めませんでした。
砂漠の中を東へ向かっていくと、ある日の夕方、青い顔をしたみすぼらしい男が立っていました。服はぼろぼろになっていて、手足は痩せこけていました。彼が持っていたのは、小さな蝋燭が入ったランプだけでした。青が濃くなってきた空の下で、その蝋燭の炎だけが温かな光を放っていました。
彼は私に気づくと、丸まった背をさらに丸めて会釈をしました。私も会釈を返し、彼の方へ行きました。追剥に襲われたのかと思いましたが、慌てた様子はありませんでした。
「私はゲルデル。ずっと昔から、ここで明かりを灯し続けています。」
ゲルデルの声は低く、時折震えていました。
私は、なぜこんなところにいるのか、尋ねました。
すると、ゲルデルは深くうなずいてから、こう言いました。
「旅人のお嬢さん。よければ、私の昔話を聞いてはくれませんか。」
そろそろ野営を始めなければいけない時間でしたし、明かりがあるのはとても助かりました。もちろん、と返すと、ゲルデルは話し始めました。
『300年ほど前、この辺りに野蛮な盗賊がいました。その男は夜道を通る人を見境なく襲い、鉈を振り回して、金や水や食料を奪っていました。ある時、この近くの村で火の神の祭が行われて、松明を持った村人たちが、この砂漠を通りました。盗賊の男は罰当たりにも、この村人を襲いました。男は松明の灯りを消すよう脅しましたが、祭の最中に火を消すことは許されません。先頭にいた神官は従わず、男は激昂して神官を殺してしまいました。鉈で切り裂かれた首から血が吹き出し、松明の火は消えました。後ろに続いて並んでいた村人たちは悲鳴をあげ、松明を地に放って逃げて行きました。砂に落ちた小さな炎は弱まるどころか、勢いを増してごうごうと燃え、やがて天にも届きそうなほど大きな炎になりました。男はそれを呆然と眺めていました。炎は大きな人のような形になり、こちらに手を伸ばしました。掌に包まれると、身体中が焼け、猛烈な苦痛が全身を走りました。火の神は地を震わすような低い声でおっしゃいました。『神なる火を穢した罪、如何に。』皮膚がじりじりと焼け、もう死んでいてもおかしくありませんでしたが、不思議と意識ははっきりとしていました。火の神は辺りをぐるりと見渡され、こう仰せになりました。『闇を照らす灯たれ。千度罪を懺悔すれば、許されよう。』そうして、私は砂漠を照らす明かりとなりました。』
ここまでゲルデルが語った途端、蝋燭の小さな灯りは風が吹いたかのように大きくなりました。炎はみるみるガラスの箱を飲み込み、やがてゲルデルの身体をすっぽりと包み込みました。
「どうやら、今のが千回目だったようだ。」
そう言って、ゲルデルはめらめらと燃える手を差し出しました。そっと手を取ると、暖かな手の感触が伝わってきました。
名を尋ねられ、イリと応えると彼はこう言いました。
「君の呪いもいつか赦されることを祈っているよ、イリ。」
そうして、炎は消えていきました。
*
「神か。」
ユハはぽつりと呟いた。
「この海峡地域では、水の神が盛んに祀られていますよね。」
「ああ、年に一度の安全祈願の祭りの他は何もしていないけどね。」
イリはカップの水面を眺めながら、ふう、と息を吐いて、覚悟を決めたように顔を上げた。
「私は昔の行いで、水の神の呪いを受けました。もうご存じかと思いますが、その呪いで不老不死のような状態になっています。」
ユハは目を見開いて、イリを見つめた。
「でも、ユハさんにご迷惑をおかけするようなことはない、と思います。」
イリの言葉は自信を無くしたように尻すぼみになっていた。
「昔の行いっていうのは、なに。」
ユハの真剣なまなざしに、イリは耐えられず、目をそらした。
「…いつか、お話しします。」
「そうか。」
ユハはランプの明かりを消して、布団に入った。神だとか呪いだとか、実在するとは思っても見なかったものが、目の前にある。ユハの頭は恐ろしさでいっぱいになっていたが、胸の片隅に物語の続きをせがむ子供のころの自分がいた。