宝石と詩人
「おもしろい男の話をします。」
次の日は、昼間からユハの家にいた。
「へえ、男がいたのか。」
ユハはにやにやしている。
「違いますって、そういう関係じゃなくて。」
イリは慌てて訂正する。
この日、二人が家にいたのは、仕事を怠けていたわけではない。あまりの悪天候に、船が漁に出られなかったのだ。魚が獲れなければ、当然、魚屋も働けない。
昼になって雨は弱くなったものの、未だに波は高い。朝はもっとひどいものだった。
そういうわけで、今日は臨時休業となった。常連も承知の上だろうし、そもそも雨の日にわざわざ買い出しに行く人などいない。
暇を持て余した二人は、テーブルの上のランプを囲んで、温かいお茶とともに語らうことにしたのだった。
*
キャスパルテという町に行った時の話です。この町は周辺の町との交易で栄えていました。…いえ、バッサムの村を出てから何年も経った後です。鉱山の宝石や銅などが有名で、周辺の地域を支配する国の都でもあったため、富と権力が集中していたようです。
乗り合い馬車で町に着いた時には、整然とした街並みに圧倒されました。レンガ造りの巨木のような建物が町中に建っていて、真っ白な丸い屋根の王宮が町の中心にありました。道は全て同じ大きさの石で舗装され、髪の色や肌の色が異なる人たちが忙しそうに歩いていました。
馬車を降りた先に広場があって、何やらたくさんの人が集まっていました。琴のような美しい音と透き通った歌声が聞こえてきました。私はこんななりですから、周囲の人たちが子供と間違えて前の方を譲ってくれました。
聴衆の一番前へ行くと、竪琴を弾きながら歌っている男がいて、その後ろで女が三人踊っていました。
歌い手の男は、皮を剥いた林檎のような温かみのある白い肌で、黄金の髪を胸元まで垂らし、細い眉の下の大きな目はエメラルドのように輝いていました。踊り子は茶の髪に白い肌の者、黒い髪に褐色の肌の者、金の髪に白い肌の者がいて、腕と腹を露出させた揃いの衣装を着ていました。
見事な演奏を終えると、観衆は拍手や指笛を惜しみなく浴びせ、銀貨や銅貨を投げかけていました。男が気取ったように右手を挙げて歓声に応えると、観衆はさらにどっと沸きました。彼を囲んでいた踊り子たちは、腕を絡ませたり、首元に抱き着いたりしていました。
子供たちの遊びや田舎の見世物とは全く違う、繊細で見事な演奏に私は茫然と立ち尽くしていました。私の服装や容姿が珍しかったのか、彼は近づいてきました。
「見ない顔だね、お嬢さん。」
歌声よりも少し低い声でした。
周囲の女たちの黄色い歓声と羨望のまなざしをひしひしと感じました。
「旅をしていて、たった今着いたばかりですから。」
こう答えると、
「君の道行に幸運があらんことを。」
と微笑んで去っていきました。
この町は人の出入りが激しいため、宿屋があちこちにあって、泊まる場所には苦労しませんでしたが、何日も泊まれるほどの資金はなく、住み込みで働けそうな場所を探しに酒場へ行きました。とはいえ、仕事は鉱山での採掘が多く、とても私には務まりそうにありません。
求人票を眺めながら、鉱夫の炊事係にしようかと考えていると、ある男が店にやってきました。黒い布を目深に被り、枯草色のコートを着込んでいました。輝くような金髪が一房はみ出しているのが印象的で、じっと眺めていると、男もこちらに気づいたようでした。彼が向かいの席に座ったときに昼間の詩人だと分かりました。
「やあ。」
先ほどと同じ、きれいなテノールでした。
どうも、と軽く頭を下げると、彼は私が手に持っていた求人票を取りました。
「仕事を探しているのかい?ひどい給金だな。」
まあ、と適当に返事をしていると、
「僕の元で働いてくれないか?」
と言われ、困惑してしまいました。
「私はあんな風に踊れませんよ?」
と返すと、彼はプッと吹きだしてからケラケラと笑いました。
「それはこちらから願い下げだよ。君に頼みたいのは、演奏の手伝いと家のことだ。」
彼の家の一室をあてがい、かなりの給料が出るということで、私は即決してしまいました。
「私の名はジャイリス。よろしく頼むよ、イリ。」
そう言って、彼は乳酒を注文しました。
―乳酒?
―乳酒は馬や牛の乳から作った酒で、キャスパルテよりも東の乾燥した地域でよく作られていたようです。彼の母がその地域出身で、なじみがあったようです。
そういうわけで、私はジャイリスの世話役になることにしました。ひとしきり飲んだ後、彼に続いて酒場を出て、王宮を背にしばらく歩くと、見事な豪邸に着きました。きれいな白い石でできており、小さな庭はよく手入れされていました。
どうやら、王宮前の広場は特別優れた詩人や芸人しか使用することができない上、ジャイリスは当時、歴代最高の詩人と謳われていたようで、かなり裕福だったと思います。しかし、家の中は整頓されず、服や宝飾品などが散乱していました。
それからしばらくの間、公演の予定を立て、告知し、準備し、投げ銭を集め、片付けをして、空いた時間には家の片付けといった具合に、大変忙しく過ごしていました。ジャイリスは女と酒を飲んでいるか、庭の花を摘むばかりで、こちらに手を貸すことなどなく、何度も腹を立てましたが、彼の歌は何物にも代えがたいのでした。
そうして5年ほど経ったある日、貴族の招待で国のはずれの村で演奏会を催すことになりました。踊り子たちと一緒に王宮から馬車に乗って、2日目の昼過ぎに山あいの小さな村に到着しました。この村の貴族に歓迎され、古い城の部屋を借りました。
夜には村人たちが集まって、食事が振舞われました。クマやカモシカなどの新鮮な獲物を使った、この地域ではかなり豪勢なものだったと思います。演奏の段になると、踊り子たちも村人に混ざって村の踊りを踊っていました。ジャイリスは葡萄酒を勧められるままに飲み、宴の途中には琴を置いて踊りの輪に加わりました。
宴もそろそろ終わりを迎える頃、彼はある娘の下に跪いて、手の甲に口づけをしました。娘は赤毛の三つ編みで、髪と同じ色のドレスを着ていました。木綿のように、わずかに赤みがかった肌に散っているそばかすが、田舎娘の純真さを印象付けていました。
一瞬静まり返った後、村人たちはわっと騒ぎ始めました。娘は顔を真っ赤にして、手を引っ込めると走って逃げてしまいました。広場はさらに騒がしくなり、貴族の男が前に出て、ジャイリスの背を叩いて励ますと、そこで宴はお開きとなりました。
あてがわれた城の部屋へ戻ると、ジャイリスが浮かない顔をして訪ねてきました。
「イリ、僕はローザに嫌われただろうか。」
普段なら、女には事欠かない彼がしおらしくしていて、驚きました。
「明日、弁解に行ったらどうですか。」
そう返すと、彼はなにやらぶつぶつ言いながら自室に戻っていきました。
翌朝、給仕に案内されて食堂で朝食をとりました。ジャイリスは青い顔をしていて、パンは喉を通らないのか、スープと肉を少し食べて席を立ちました。
私はジャイリスの分の食事も平らげた後、庭に行くと彼は花を摘んでいました。気の毒に思ったので、給仕から薄手の布をもらってきて、花束を包んでやりました。
ジャイリスを村へ送り出してからしばらくして、彼はさらに血の気の引いた顔をして戻ってきました。手から花束を落とすと、赤いバラの花びらがいくつか散って、風に飛ばされていきました。
「吟遊詩人なんて浮ついた奴は嫌いだそうだ。」
そして私たちは王都へ帰りました。
ほどなくして、ジャイリスは踊り子たちを手放しました。
彼の歌は、ローザへの愛しさや哀しみを唄ったものばかりになり、酒を飲む頻度が高くなっていきました。ユリやデイジーが生えていた庭は、いつからか赤いバラだけになっていました。また、何度も手紙を書いているようでした。
彼の新たな音楽は、一時は女たちの心を掴んだようでしたが、代わり映えしなくなると徐々に人気がなくなっていきました。それと同時に、若く、革新的な詩人が世に広まっていきました。皮肉にも、その中にはジャイリスが目をかけて、歌を教え込んでいた者が何人もいたようです。
王宮の広場を追われるようになると、ジャイリスはあの家を売って、町中の小さな部屋に住みました。私の仕事は演奏のときの手伝いだけになり、鉱山の炊き出しの仕事もしました。
あの村を訪れてから15年近く経ったとき、ジャイリスの元にローザの訃報が届きました。彼女は村の男と結婚し、3人の子を儲け、4人目を産む際に腹の子とともに亡くなったそうです。
ジャイリスの生活はさらに荒んでいきました。私は彼の隣の部屋に住んでいて、毎朝起こしに行っていたのですが、昼を過ぎてもベッドから起き上がらず、何とか起こしても窓の外を眺めたまま、音のずれた竪琴をポロンと鳴らすばかりで、以前のように人前で演奏することはなくなりました。
そうして何年か経った頃、流行り病が町中に広がりました。彼もどこかから病をもらってきたようで、ずっと咳をするようになりました。家にいてばかりで、もともと体力が落ちていたため、彼が病に臥せっていると、もうすぐ死んでしまうように見えました。
鉱山もほとんど封鎖されたような状態になり、私は一日中ジャイリスの看病をしました。そのころには町中の薬が底を付き、回復の見込みはなくなっていきました。肉がなくなって骨が浮いてきた顔を拭いていると、息も絶え絶えに話し始めました。
「今まですまなかった。ありがとう。これから、旅を続けてくれ。そこに、僅かだが金を残した。」
本当にありがとう、と呟いてジャイリスは目を閉じました。
彼の葬儀を済ませると、私は町を出ました。
*
イリは俯いたまま、空になったカップを握っている。
「ジャイリスはいい男だったんだな。」
ユハが努めて明るく言うと、イリは頷いた。
「考えなしで、飲んだくれで、女たらしでしたけど。」
イリの声は少し震えていた。
ユハは寝室から赤い石のペンダントを持ってきて、テーブルに置いた。
「これは結婚のときに旦那のフォンからもらったんだよ。」
イリは丸く磨かれた真っ赤な石の表面を撫でた。
裏に凸凹とした感触があり、ひっくり返してみると日付や名前が彫られていた。
その中でも、石の産地の名前を見たときに、イリははっとして顔を上げた。
「鉱山、復活したんですね。」
イリはふふっと笑った。