表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

クマと森番

 次の日、ユハはふつふつと汁物が煮える音で目が覚めた。

東の空は明るくなってきていたが、窓の外はまだ暗かった。こんなに早く起きるのは久々だ。

隣をみると、イリの寝袋は片付けられている。

朝食を作ってくれているのだろうか、ベッドの側に置いていたランプはキッチンから僅かに光をこぼしていた。

薄暗い中、ユハは眠い目を擦って、着替えを済ませてキッチンへと向かった。

「おはよう、イリ。今日は早いね。」

「おはようございます。昨日昼寝をしたから、今朝は早く起きちゃって。」

イリは昨日の煮物の鍋を火にかけて、かき混ぜている。

「この辺りのもの、勝手に使っちゃいましたけど、大丈夫でした?」

「ああ、気にしないで。好きに使っていいよ。」

イリが作っていたのは、パン粥であった。トマトの煮汁を吸った黒パンが赤く染まっていた。鍋の残りをさらって、器に盛り付ける。

ユハは思いついたように、残っていた香草を一握り、粥の上に乗せた。

「海辺の洒落た料理屋では、こうやって皿を飾るらしい。」

パンを汁につけて食べる習慣のないユハは、珍しい一品に感心した。朝の支度を終えて、二人はいつも通りの仕事へ向かった。

 この日の市場は、かつてないほど賑わっていた。それもそのはず、競りに出される魚のほとんどが、一年に一度とれるかどうかといったほどの大物ばかりであったのだ。

ユハはあまりの大きさに目を丸くしたが、この好機を逃すまいと荷車に積みきれるだけ買い込んだ。

 競りを終えた二人に声をかけてきたのは、老漁夫オキムであった。

「こりゃ、ずいぶん仕入れるなあ。手伝いでも雇ったのか。」

「ああ、この娘はうちに居候してる旅人だよ。イリだ。」

「どうも。」

「はあー、ずいぶん遠くから来なさったのお。」

オキムはイリの服装を上から下まで眺めた。

「それより、爺さん。ずいぶん大漁だが、何があった?」

「クジラが来ねえもんだから、大物が集まってきててな。おかげで大漁ってわけだ。」

口ぶりとは裏腹に、オキムの表情は明るくなかった。

「けどな、これが続くと良くないかもしれん。」

「良くないってなんだよ。」

「さあな。だが、サメが集まってきてる。あいつらは売れないだけじゃねえ、食い物がなくなりゃどうなるか。」

オキムの眼が怪しく光った。ユハは険しい顔をしている。

そのとき、バキッと音がした。荷車を押さえていたイリが、青い顔をして荷車の持ち手だったものを持っている。ユハはあわてて荷車を支えた。イリはしきりに謝り、オキムはゲラゲラと笑っている。

何とか荷車を直すと、二人は店へ向かった。

 店に着くと、ユハは大きな魚を捌き、小さなものはイリが値札をつけて店先に並べていった。切り身を経木で包み、棚に並べる。

「すごい量ですね、売り切れますか?」

「多分ね、この辺りじゃ高級魚ばかりだから。」

ユハの言った通り、商品は飛ぶように売れていった。

「ずいぶん景気がいいじゃないか、こんな良いもんばっかり売って。何かあったのかい。」

常連がユハに絡んだ。

「今日の水揚げが良かったんだとさ。市に着いたら、こんなのばっかりで、あたしもびっくりしちまったよ。」

ユハは腕を広げて大げさに魚の大きさを表した。いや、あまり誇張しすぎたものでもなかったのかもしれない。それほどまでに、今日の漁況は異常であったのだ。

夕方になると、棚にびっしりと並べていた品物は全て売り切れた。

夕飯の材料を考慮していなかったユハは、景気もいいことだから、とイリと連れ立って料理屋へ行くことにした。夕日に照らされた雲を眺めながら、二人は海辺に下っていく道を歩いた。

港の傍にある料理店は、五軒先でも香ばしく豊かな香りがしていた。

真っ白な壁の店のドアを開けると、魚の焼ける香ばしい匂いと香草の香りが、魚介の生臭さとともに溢れてきた。

カウンターの奥に、真っ白なシャツに少し汚れた前掛けをした壮年の店主が、片手鍋を振っていた。髪は黒で、癖があるのかあちこち跳ねており、肌はやや黄みがかっている。

「やあ、ユハ。しばらくぶりだね。」

「おう。」

カウンターの席の他に二人掛けと四人掛けのテーブルがあり、若い船乗りたちが酒盛りをしていた。

勝手を知っているユハは、カウンターの一番奥にどかっと座った。イリは隣に腰掛けて、辺りをきょろきょろしている。

「連れがいるとは、珍しいね。」

「うちの居候だよ。店を手伝ってもらってるんだ。」

「どうも、イリです。」

「こいつはフジタ。」

ユハに紹介されたフジタは、ニカッと笑った。短く整えられた口ひげが印象的だ。

「どれを捌くかい?今日は豊漁でね、仕入れも良いものばかりだよ。」

フジタは、カウンターに氷の詰まった木箱を並べた。氷の上で、箱からはみ出しそうなほどの魚がツヤツヤと光っている。

「ふうん。」

ユハは愛想のない言い草の割に、口角がやや上がっている。

「魚屋さんに出すには、いまいちだったかな。」

フジタは、ユハを茶化して言った。

「あ、いや。そういうんじゃないよ。何にも分かんないで、市場の外をうろうろしてた頃とは違うな、と思って。」

「昔の話だろ。よしてくれよ。」

フジタが苦笑した。ユハは得意げな顔をしている。

ユハが、これを頼む、と指さすと、フジタはすぐに作業にかかった。

「あいつはね、西の方の国から来たんだ。料理の腕はなかなかだが、目利きがなってなくて、この店を始めたころに、あたしが色々教えてやったんだよ。」

ユハは、イリに耳打ちした。

しばらくして、フジタはタイのソテーを出した。

柑橘を入れた黄色いソースがかかっており、ほのかに酸っぱい匂いがする。柔らかな白パンとリンゴのサラダも付け合わせに出てきた。

魚の身にナイフを入れると、油がじわっと出てきた。口に入れると、皮目のカリカリとした食感がよい。咀嚼していくと白身魚の旨味が広がり、ソースの酸味が控えめに主張する。ライムやレモンのような爽やかな香りが鼻に抜けていく。

「おいしい!」

「だろ。いつ来ても、こいつの料理は美味いんだよ。」

ユハは自分の手柄のように自慢げだ。

イリは息をつく間もなく食べ進めた。魚が無くなると、残ったソースをパンにつけて食べるほどであった。

フジタが他の卓の支払いを受け取って戻ってくるころには、どちらの皿もすっかりきれいになっていた。

「もうちょっと、味わって食べてくれよ。」

フジタが苦笑する。

「美味かったんだから、しょうがねえだろ。」

ユハは悪びれもせずに言った。

「すっごいおいしかったです。」

イリは目を輝かせて、ニコニコしている。

「そりゃよかった。」

ユハが会計を済ませて、外に出ると、辺りは暗くなっていた。風が少し冷たい。

空には雲がかかっており、星は見えない。海は、ざぶり、と音を立てて波打っている。

港の船は行儀よく一列に並んでいた。普段なら漁火を焚いた船が出る頃合いだが、沖は真っ暗だった。

帰り道、緩やかな坂を上っていると、ザッ、と風が吹いた。ぼんやりと光を投げかけていた半月も、雲にすっかり覆われた。

「降り出しそうだな。」

ユハがそう言うと、イリは頷き、二人は足早に家へ向かった。

家に着いた頃、ぽつりぽつりと雨が降り出した。ユハは暗い部屋に入って、すぐにランプをつけ、窓の外を眺めた。雨脚がどんどん強くなる。

「危なかったな。もうちょっと遅けりゃ、びしょ濡れだ。」

「そうですね。」

家の中でも、湿気と雨の匂いが伝わってくるような気がした。窓際は少し寒く、ユハはブルッと身震いした。かまどに薪をくべて、火を起こした。

イリは小さな平鍋に水を汲んで、

「なにか温かいものを飲みますか?」

と訊いた。

「ああ、そうだな。」

「私は白湯にしますが、お茶にします?」

「あたしも白湯でいいや。」

鍋に火をかける。イリは、湯が沸くのを見ているのが好きだ。

静かな水面の下、鍋肌に小さな泡が生じる。ふつふつと小さな泡が上ってきて、だんだん大きな泡ができてくる。水面が激しく波打ってくると、鍋を下ろしてカップに注ぐ。もうもうと湯気が立ち上り、カップの縁を白く結露させる。

湯気がすっかり出なくなると飲み頃だが、猫舌のイリは息を吹きかけるばかりでちっとも飲めない。

その様子を見て、ユハがくつくつと笑った。つられてイリも笑う。外の様子とは真逆の、穏やかな夜だった。

めいめいカップを持って、寝室へ移動した。

昨晩のようにユハはベッドの上、イリは寝袋にあぐらをかいて座った。

「これは、ボートから岸に上がった後の話です。」

 ひたすらボートを漕いで、何とか岸に上がることができたのですが、そこは背丈の何倍も高さのある木が生えた土地でした。カンカルテでは、木と言っても腰ぐらいまでの低木ばかりだったので、とても驚きました。

ボートを岸にあげて、辺りに人がいないか散策してみました。リスやキツネは度々見かけましたが、人の気配はありませんでした。森の中は日があまり届かず、昼でも少し暗かったのですが、日が落ちてくるとますます目が利かなくなったので、火を焚いて食事をして、森の中で休むことにしました。かなり暖かかったので、火を消した後はテントを張らずに寝袋だけで眠っていたのですが、今思うと、知らない土地なのに油断しすぎでした。

夜中、なんだか大きな獣の気配で目が覚めました。がさがさと草の動く音と荒い息遣いが聞こえました。何者かに命を狙われていると感じて、急いで火を着けました。大体の動物は、火を見れば逃げていくと思っていたのです。

マッチの火が薪に燃え広がったとき、木々の奥から獣の雄叫びが聞こえてきました。その地を揺らすような声に、背筋が震えあがりました。

びくびくしながら辺りを見張っていると、しばらくの静寂の後、足音が遠ざかって行きました。その間は、数十秒だったのでしょうが、私には長い時間のように感じました。

大きく息を吐いて、呼吸を落ち着かせました。何とかやり過ごせたと思って、安心していました。火を焚いたまま、夜を明かそうと考えていました。

手足の強ばりが解けた頃、さっきとは比べ物にもならないような速さで、何かが近づいてくる音がしました。

慌てて振り返ると、真っ黒な毛の大きなクマが二頭、無機質な目でこちらを見ています。こんなのに狙われたら、すぐにでも息の根を止められてしまうでしょう。

彼らは、再び大声を発しました。鼓膜がビリビリと震えて、先ほどとは違う、威圧するような声でした。目が離せなくなり、身体を動かすこともできなくなりました。

低い唸り声をあげて、一頭が襲い掛かろうとしていました。凄まじい速さでこちらに近づき、口をばっくりと開けて噛みつこうとしていました。

逃げなければ食われると確信し、無理やり足を動かそうとしましたが、置いてあった荷物に躓き、尻もちをついてしまいました。目の前に鋭い牙が迫っており、灰色の舌の奥に、真っ暗な喉が見えました。

死を覚悟したとき、ドンッと何かが爆発するような音がしました。クマは一瞬動きを止めた後、そのままこちらへ倒れてきました。

もう一頭のクマは、仲間が倒れたことに混乱し、音のした方へ腕を振り上げました。口を大きく開き、唸り声を上げながら、何者かが隠れている木に向かって、鋭い爪で切りつけました。メキメキと樹皮が剥がれる音に続いて、もう一度ドンッと音が響きました。クマが倒れると、森は再び静かになりました。こうして、九死に一生を得たのでした。

 木の陰から、ランタンと長い猟銃をもった老人が現れました。

―普通の人でも銃を持つことができたんだな。

―ええ、キョンジュロでは銃が普及していないんですか?

―ああ、軍隊しか持てないことになっている。民間人が持つと重罪で、密輸すると死罪になるらしい。

ええと、この老人はギンブルフといい、灰色の髪、灰色の目で、背丈はユハさんほどでしょうか。鼻が高く、皺が深く刻まれた顔が厳格さを感じさせました。旅をしていると伝えると、危険だから家に来なさいと招いてくれました。

仕留めたクマを家の横の小屋に入れ、家に入ると、暖炉の前の椅子に真っ白な髪の老婆が座っていました。彼女は綿を詰めた柔らかそうなソファに座っており、しわくちゃになった顔が暖炉の火に柔らかく照らされていました。

彼女は、おかえり、と声を掛けました。少しかすれた、きれいな高い声でした。

ギンブルフは、ただいま、と返した後、「クマを仕留めた。襲われていた旅人の娘を連れてきた。」と言いました。すると彼女は、まあ、と嬉しそうに顔をほころばせました。

ギンブルフは、彼女が妻のタンラで、盲目であり、腰が悪いことを耳打ちしました。

私はタンラの前に立って、両手をそっと握りました。ふっくらとして、温かな手でした。

名を伝え、北の村の出自であることを告げると、タンラの手は私の腕と肩を伝って頬を包みました。彼女の瞳はたるんだ頬と瞼の間で黄緑色に濁っていました。

そうして、私は彼らと一緒に住むことになりました。この家は、バッサムという村の近くにあり、ギンブルフは村の森番でした。森番と言っても、貴族や王族に雇われたものでなく、村の住民として森の管理を行う役割でした。バッサムの村は40人ほどが住んでいる、森の中の村です。夏は森でヘラジカやクマを狩り、野草や茸を採取して、冬は村がすっかり雪に覆われるので、家具や革製品などを作って生活していました。私が乗ってきたボートは村で共有するようになり、釣りをすることもありました。私もギンブルフと共に森に入り、タンラと共に料理や洗濯をして暮らしていました。

バッサムに住んで5年経った頃、タンラはとうとうベッドから起き上がれなくなり、3年後の冬の終わりに亡くなりました。森の中の一番大きな木の下に墓地があり、タンラは森の中で眠りました。タンラがいなくなってから、ギンブルフは更に老いてしまったように見えました。

それからひと月ほど後の暖かくなった頃に、ギンブルフは私に旅を再開するように言いました。彼は、食い扶持が減って余ったから、と言って大量の燻製肉を用意していました。村の人たちは靴と鞄を作ってくれました。こうして、私はまた、旅に出ることになりました。

ユハはすっかり冷めた白湯を一口飲んだ。

「その村に8年は住んでいたんだよな。」

「はい。」

「その後もいろんな町に行ったんだよな。」

「はい。」

「イリ、あんた今いくつ?」

「内緒です。」

そう言って、イリはいたずらっぽく笑った。人種によっては、外見から年齢を推測することが難しいこともあるが、ここまで幼いのに、ユハよりも年が上回っている可能性さえある。目の前の12、3歳の少女のように見える人物が、老いることのない何か別の生き物ではないか、ユハは思い始めた。

考え事をして、ぼうっとしていたユハを置いて、イリはカップを片付け、寝袋を整えた。

「そろそろ寝ましょうか。」

「ああ、悪い。」

ユハは手で抱えるようにしていたカップを置いて、ランプを消した。

暗くなった部屋の中で、ユハはイリについて考えていると、幼いころ、いつも眠る前に母が話していた神話や童話を思い出した。物語の中にも不老不死や人間よりも遥かに長く生きるものたちもいた気がする。しかし、そんなものが実在することがあるだろうか。

頭の中に眠気がゆっくりと混じって、ユハの意識は途絶えていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ