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セイウチとボート

「イリ、朝だよ。起きな。」

翌朝、イリは寝袋の中で目を覚ました。瞼が腫れぼったくて、目が開きにくい。

 下着で眠っていたユハは、昨日と変わらず黄のタンクトップとホットパンツを着て、キッチンへ向かった。窓から日が昇る前の群青の空が見える。

 まだ薄暗い部屋の中、イリが寝袋を片付けていると、隣室から湯の沸く音、パンを切る音、肉を焼く匂いがした。朝食だ!

慣れない時間に起きて、重々しかったイリの心は軽くなる。

「おはようございます、ユハさん。」

 イリが部屋から出てくると、ユハは焼いた干し肉を器に分けていた。テーブルには、黒パン、干し肉、昨晩の残りのスープが温めてられて、置いてある。

「おはよ、イリ。さあ、しっかり食べて、しっかり働いておくれ。」

「はい!」

イリはさっそく、干し肉に齧り付いた。水分はかなり抜けているが、硬くはなく、噛むほどに味が染み出てくるようだ。ほどよい塩気とともに、燻製の独特な香りがした。

「おいしい。この干し肉は何の肉なんですか?」

「猪肉だよ。ここいらじゃ、よく獲れるんだ。」

イリは寒い地域や人の多い町ばかりを訪れてきたため、しし、というのがどのような生き物なのか皆目見当もつかなかった。ユハも、パン二切れをスープで流し込むように食べた。

朝日で空が赤く染まった頃、二人は家を出た。

 市場に着くと、ちょうど水揚げが始まったところだった。

ユハは今日の漁況を確かめに、あちこちの船を覗いて、その後ろで、イリが荷車を押してまわった。

 ある船の前で、ユハが沖の様子を聞いている間、イリに声をかけてきた若者がいた。

「見ない顔だね、ユハの弟子かい?」

「旅人のイリです。今は、ユハさんのところでお世話になっています。」

「旅人かあ。どこから来たの?歳はいくつ?ユハにいじめられてない?」

「あ、その、えっと」

「ごちゃごちゃうるさいな、いじめてる訳がないだろ!」

ユハが声を荒げて、若者を軽く小突いた。

「こいつはメバト、この船の見習いだよ。」

メバトはヘラヘラ笑った。真っ白な肌に茶の髪を結っている。

幼さを感じる顔立ちだが、街の男達と背丈の変わらないユハと比べても、一回り大きな体格で、歳は十代の半ばといったところか。襟のない灰色のシャツに、蝋引きの黒いズボンを履いている。

「おぅい、メバト!油売ってる暇があったら、仕事しやがれ!」

「すんませーん。今戻りまーす。」

船長と思しき中年の漁師に怒鳴られて、メバトは船に戻っていった。

「さて、これから競りだ。忙しくなるよ。」

ユハはイリを連れて、市場の中央へ進んで行った。

 大量の商品を載せた荷車を押して、二人は店へと移動した。

庇を立てて、棚の上の箱や底を張った木枠の中に魚を並べて、値札をつける。

いつも通りの作業だが、手際のいい手伝いがいると、ずいぶんと早く仕事が終わるものだ。その上、この街では珍しい、白髪の少女が売り子をすると、売れ行きは普段の三割増しであった。

 昼過ぎ、店には杖を突いた老婆が訪ねてきた。

腰が曲がっているため、背丈はイリの胸ほどで、黒い帽子を目深に被り、灰色の髪が束になって垂れている。目元が見えない代わりに、髪の間から高い鼻がのぞいていた。

臙脂色の長いストールを巻いている様は、老いた魔女のようであった。

イリは恐ろしそうな風貌の客に怯えたのか、ひっ、と小さな悲鳴を上げた。

一方で、ユハはいつも通りの接客を続けていた。この老婆は常連の一人だ。

「おう、婆さん。久しぶりだな。」

「ん。」

老婆がユハと世間話をしながら魚を見繕っている間、イリは引きつった笑みを張り付けたまま、少し離れて眺めていた。

悪い人ではなさそうだが、少々乱暴な口ぶりで、傍からはユハが叱られているように見える。

 買い物を終えた後、珍奇な客はイリの方へ振り返った。

「ユハんとこの旅人かい。」

「あ、はい。」

老婆はイリをじっと眺めた。髪の間から、ぎょろりとした目がこちらを覗いている。

「あんた、変な匂いがするね。」

イリは本性を見抜かれたように、ぎくりとした。唾を飲み込む。

「海の獣みてえな…魚臭いな。」

話を聞いていたユハがケタケタと笑った。

「そりゃ魚屋に居候したら生臭くもなるさ。」

「ふん。それじゃ、ご苦労さん。」

と言って老婆は去っていった。イリはほっとして、肩から力が抜けた。

その後も客足が途絶えることは無く、日がまだ高いうちに店仕舞いをすることになった。

 青果市で買い出しを済ませて、家へと戻った。この地域の文化に慣れないイリを気遣って、ユハはこの地域特有の香草や野菜、果物を選んだ。

夕飯のために避けておいた小魚と合わせて、下拵えをしておく。

「慣れないことして、疲れただろ。夕飯まで寝てな。」

「ふあぁぁ、そうします。おやすみなさい。」

ユハの助言に従って、イリはあくびをしながら寝室に入っていった。

寝袋を広げるのが面倒で、ユハのベッドを借りることにした。

少し硬いマットに寝転がると、潮の香りと微かに石鹸の香りがした。落ち着くにおいに包まれて、いつの間にかイリは眠った。

 夢の中で、イリは砂浜にいた。

辺りは暗く、わずかな星の明かりが海を照らしている。穏やかな波が足を濡らしては、引いていく。水が冷たく心地よい。

イリは服が濡れるのも構わず、海に入っていく。胸まで水に浸かった。波に体が揺すられる。目を閉じて深呼吸をすると、海と一体になったかのような、開放感があった。

しばらくすると、風が出てきた。波が少し高くなる。そのまま海に入っていると、ビュウ、と風が吹く。さらに波が高くなる。顔に水がかかった。顔を拭おうとして腕を上げると、高波に頭から飲み込まれた。

そのとき、若い女の囁く声が頭の中で響いた。

「出て行け」

静かな怒りを孕んだ声に同調するように、海はどんどん荒れていく。

足が地面から離れて、身体が沈んでいく。必死に腕を伸ばしてもがく。だめだ、溺れる!

 ここで、イリは目を覚ました。呼吸が荒く、心臓がどくどくと鳴っている。全身、汗でびっしょりだった。

上体を起こしたものの、立ち上がる気力が湧かなかった。

ベッドに腰かけたまま、ぼんやりとする。

外は日が落ちて、暗くなっていた。

 ドアの下からランプの明かりがほのかに漏れている。

煮物のふつふつと煮える音、何かの葉を切る音、魚の生臭いにおい、トマトの甘酸っぱいにおい。夕食のことを考えていると、イリの腹が鳴った。

勢いをつけて立ち上がり、キッチンへ向かった。

 ユハはかまどにかけた鍋の味を見ていた。テーブルには、先刻買ってきた香草のサラダが置かれている。

「おはようございます、ユハさん。」

「おはよ、イリ。ちょっと待ってな。」

小瓶を二振り、三振りした後、鍋の中をかき混ぜて味を見る。

満足したのか、木の器に盛ってテーブルに乗せた。かまどの火を調節して、支度はおしまい。

「さあ、食べよう。」

 夕食は小魚のトマト煮、サラダ、雑穀パンであった。

「トマト、初めて食べました。おいしい。」

「フェンネルを入れたんだ。香りがいいだろ。」

「サラダも初めて食べました。今までは野菜を生で食べたことが無かったので。」

「へえ、そうなのか。ここじゃ当たり前だが、珍しいもんなんだな。」

二人は、昨日よりもゆっくりと食事をとった。イリは二度もおかわりをした。

 片付けをしていると、夜空に半分に欠けてきた月が煌々と輝いていた。

イリとユハは早々に眠る支度を済ませ、寝室にいた。冷めたお茶をお供に据えて、ユハはベッドに腰かけ、イリは寝袋の上に座っていた。

「これは、私が故郷を出たときの話です。」

 私の故郷、カンカルテは年中雪の無くならない町でした。冬は三カ月くらい日が昇らなくなります。日が昇らないといっても、初めと終わりの一カ月は昼間になると空が明るくなって、外を出歩けるようにはなります。ずーっと真っ暗な時期は、家からほとんど出ないで、ランプとか蠟燭をつけて服を縫ったり刺繍をしたりしました。

 食べ物は魚と獣肉でした。夏は魚と岩場の草を食べる獣を獲って、秋は小さな木の実も採れました。冬は保存食を食べて、春になると海を渡ってきた鳥や魚を獲っていました。セイウチやアザラシを捕まえることもありました。

 私が旅に出ると決まったのは、春の初めの頃でした。両親は数年前に死んでしまって、兄弟もいなかったので、長老と掛け合って、家を譲る代わりに共同で使っていたボートをもらいました。保存のきく食料やボートを修繕する道具、テント、寝袋、燃料を持って、海氷が少なくなった時期に町を出ました。

 岸に沿ってボートを漕いで、日が暮れそうになったら陸に上がって、テントで眠る生活が何日も続きました。太陽や星を見れば方角が分かるので、なるべく南へ向かって進んでいきました。

 ある日、ボートを漕いでいると、遠くの海氷に何かが乗っているのが見えました。

何かの毛のようなもので、私はどこかに住んでいる人が落としたものかもしれないと思って、迂闊にも近づいてしまいました。近くに町があるかもしれないと思ったんです。でも、近づくにつれて、それが動いているのが分かりました。しかも、そいつもこっちに気づいてしまいました。

アザラシはめったに人を襲うことはありませんから、アザラシだといいなぁと思いましたが、残念ながらそれはセイウチでした。セイウチはボートを襲って、人を喰ってしまうのです。カンカルテにいたときも、セイウチに喰われた人が何人かいました。

私はあわててボートを漕ぎました。後ろから、ザブンと何かが水に入る音がしました。疲れも忘れて、必死にオールを回していました。水面から、のっぺりとした土色のやつが顔を出したときは、死を覚悟しました。北へ向かっているのか、南へ向かっているのかも分からないまま、とにかく漕ぎ続けると、セイウチは見えなくなりましたが、陸地からも離れてしまいました。陸に上がれなければ、寝ることもできませんし、火を焚くこともできません。一巻の終わりです。

とにかく、南へ向かえばいつかは陸に上がれるに違いありませんから、進路を南にして、暗くなるまで、とにかく漕ぎ続けました。それでも、陸地は見えなかったので、その晩はボートの上で過ごしました。かなり暖かい時期ではありましたが、夜になると冷え込みます。海の上は尚更です。ありったけの服を巻き付けて、なんとか朝を迎えました。

そろそろ食料も尽きかけていました。このまま、死んでしまうのかと思いましたが、体が動く限りは足掻いてみようと、ボートを漕ぎ続けました。この日の昼、なんと、陸地を見つけることができたのです。急いで陸に上がって、久しぶりに火で体を温めて、眠ることができました。こうして、私は故郷カンカルテから出てきたのです。

 話し終えると、ユハは知らない間に、ベッドに寝転がっていた。

「へえー、ずいぶんと大変だったんだなあ。」

「セイウチに追われたときは、冗談抜きで死ぬかと思いました。今日はここまでにしましょうか。」

「そうだな。一つだけ聞きたいんだが、なんで旅に出ることになったんだ?」

「それは、まだ内緒です。うふふ。もう寝ましょうか。」

「なんだよー、ちぇっ。」

こうして、二人は今日も眠りについた。

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