港町と魚屋
魚屋の朝は早い。
朝日が水平線から出てきた頃、港町キョンジュロには漁船が帰ってくる。
空がすっかり明るくなると、丸々と太った魚が船から降ろされる。市場は競りに声を荒げるに売り手にここぞと値を上げていく買い手、一仕事終えた漁師など人で賑わっていた。
魚屋のユハもまた、その中の一人であった。
肌は褐色、くっきりと大きな瞳は濃緑、ばねのように巻いた黒髪を肩に垂らして、へその見える黄のタンクトップに、太ももの中ほどの丈の綿のホットパンツをはいている。
ユハはなじみの漁師から、今日の海の状態を聞きながら、魚の質を検めていた。
「今年の夏は、大漁だぁな。」
白髪を短く刈上げた老年の漁師は、日に焼けた褐色の顔をさらに皺だらけにしてガハハと笑った。
「ああ、クジラが来ねえもんだから、餌には事足りてんだろ。ほら、見ろよ、オキム爺さん。あんな魚なんか見たことねえよ。」
ユハは市場の真ん中で、一等賑わっている輪を指した。
「あんだけ、でっけえ口してりゃ、何でも丸呑みだろうよ。」
「何十年もこの海を見てきたが、儂もあんな魚みたことねぇな。」
そう言って、オキムは顎をさすった。
桟橋のあたりから、若い男たちが歩いてきた。酒が入っているのか、緑色の瓶を片手に持っている者もいる。オキムらの近くまで来ると、彼らは、おう、と手を上げた。
「爺さん、酒場に行くんだが、ついて来ねえか。こいつらが飲むって、聞かねえんだ。」
「はっはっ。仕方ねえなあ。」
オキムは重い腰を上げて、青年たちと去っていき、ユハは魚いっぱいの荷車とともに、店へ帰っていった。
キョンジュロのやや西にある通りに面したユハの店は、今日も子を抱えた若い女たちが、立ち話をして夕飯の材料を買っていく。ユハの店は辺りの他の店より少し盛況であるが、これは質が良いだけでなく、店主と客の年が近いため、無駄話の相手になるということも一因であるようだ。
夕刻になると、店先に並べた魚はほとんど売り切れ、残りを夕飯にしようかと片付けをしていると、小さな影が右から近づいてきた。
「あの、その魚、いくらですか?」
顔を上げると、動物の毛皮のコートをまとった、白髪の少女がいた。混じりけのない純白の髪は顎ほどで切り揃えられており、日の光でキラキラと輝いている。
髪と同様に真っ白な肌が、ぷっくりとした紅い頬を際立たせている。灰緑色の目は半月型のジト目。背丈はユハの肩ぐらいだろうか。ずいぶん小柄な体躯で、顔立ちと合わせても親元を離れるような歳には見えない。麻のリュックを背負って、コートとは毛質の異なる茶の毛皮の靴を履いていたが、泥に汚れていた。海を隔てた異国からの来訪者が多い町ではあるが、少女の出で立ちは異質であった。
「ん?ああ、34タリスだよ。」
「たりす…?ごめんなさい、今この町に着いたばかりで、162フォブレしかないのだけど。」
「フォブレ?どこの金か知らないが、町の魚屋は両替商じゃないんだ。タリスで持ってきてくれよ。」
「そうね、ごめんなさい。」
少女はふらふらと歩いて行った。
両替商など、このあたりにいただろうか。旅人なら、しばらく食べていないのかもしれない。
「ちょっと、あんた。今夜、泊まるあてはあるのかい。」
毛皮の少女は、目を伏せて首を振った。
「明日の仕入れを手伝ってくれるなら、うちに泊めてやってもいいよ。」
少女は一瞬驚いた顔をして、それから満面の笑みになった。
「ありがとうございます!」
石畳の道を南へ少し歩いたところに、ユハの家がある。近隣の街で採れる赤褐色の石でできた建物の2階だ。段差の大きい階段を上り、黄のペンキの剥げかけたドアを開けた。
「ちょっと狭いが、入んな。」
「お邪魔します。」
入ってすぐの部屋は調理場と食卓であった。長テーブルと丸椅子が2つ、奥はレンガで作られたかまどがあり、その上には窓があった。ユハの家と同じく赤茶色の家々の間から海が見え、窓際の小さな鉢植えが海からの風に時折揺られていた。テーブルの左手に食器棚があり、右手には暗い色の木目調のドアがある。木を張った床は、ツヤはないものの、きれいに掃き清められていた。
「旅人だろ、名前は?」
「イリです。ずーっと北のカンカルテから来ました。」
「カンカルテか。聞いたことない街だな。」
イリはコートを脱ぎ、リュックをテーブルに置いた。中に、動物の皮でできた白い服を着ている。麻や綿の衣類がほとんどであるこの町では珍しいものである。
「寝室はこっちだ、来な。」
ユハは隣の部屋へ入っていき、イリもそれに続いた。この部屋は寝室であった。嵌め殺しの窓から夕陽に照らされた町が見えた。窓の手前にはベッドがあり、クローゼット、シェルフがあった。シェルフの一番上には、赤い石のついたペンダントが置かれていた。
この時のイリは知る由もないが、この海峡周辺地域では、女性も働くことも多く、婚姻に際して紛失しやすい指輪ではなく、首や耳の装飾品を贈る風習がある。
「あたしは床に布でも敷いて寝るから、イリはベッドを使いな。」
「いえ、私は寝袋があるので…えーと、あなたは」
「あたしはユハだ。」
「ユハさんはベッド使ってください。」
「じゃあ、そうしようかね。夕飯、今作るから待っててな。」
「お手伝いします。」
「悪いね。」
イリとユハはランプの明かりの中、夕食をともにした。夕食は、雑穀の入った黒パン、根菜スープ、魚の煮物であった。港町であるキョンジュロでは、魚の煮物は家庭料理として一般的である。また、隣町から様々な穀物が運ばれてくるため、雑穀入りの黒パンは食卓に欠かせないものとなっている。木の器に盛られた料理に、イリは目を輝かせた。
「おいしいです!」
「そりゃよかった。」
「こんな味付けの煮物は、初めて食べました。魚も身がしっかりしていて、おいしいです。」
「だろ?ここは魚が多いからね。それになんたって、あたしは魚屋だからね。いい魚の見分け方も、うまい調理法も知ってるってもんさ。」
料理を絶賛され、ユハは大変得意気であったが、この称賛はお世辞ではなかった。結局、イリは煮物とスープを二度もおかわりしたのだった。
食事の片づけを終えると、ユハは就寝の支度を始めた。
イリは麻のリュックから、寝袋を取り出し、ベッドの隣で横になる。
「魚屋は朝早いからね。さっさと寝るよ。」
「はい。」
ランプを消すと、ベッドの傍の窓から、星空の一部が見えた。
オリオン座は、もうすっかり見えなくなった。あそこの一番明るい星は、故郷の上でも輝いているのだろうか。
「イリ、まだ起きてる?」
「はい。」
「イリは、いろんなところを旅して、故郷に帰りたくはならないのかい?」
「そうですね。たまに懐かしくはなりますが、帰ろうとは思いませんね。」
しばらく沈黙したのち、ユハが話し始めた。
「あたしもさ、ここの生まれじゃないんだよ。」
イリは静かに聞いていた。
「海を渡った南の街で育ったんだ。父ちゃんは漁師で、魚の目利きは父ちゃんに教わった。母ちゃんは料理上手でさ、いいお嫁さんになれるようにって料理を教えてくれたんだ。旦那は、父ちゃんの漁師仲間でさ、優しくていい奴だったんだよ。」
ベッドの方から、すすり泣いている声が聞こえた。
語りが途切れてずいぶん経った後、すっ、と息を吸う音が聞こえた。
「だけど、あるとき戦争が起きたんだ。父ちゃんも旦那、フォンも兵隊にされちまった。一カ月経ったころまでは手紙が来たんだけど、それからは、なにも、なかった。母ちゃんは、崩れた家の下敷きになって、出てこなかった。あたし一人だけが、生き残っちまった。」
イリはなぐさめることもできなかった。
一度息を吐き切ってから、ユハは小さな声で、独り言のようにつぶやいた。
「あたしも、死んじゃえばよかった」
「そんなことないです!」
イリはとっさに大声が出て、自分でもびっくりしてしまったが、話し続けた。
「私が、ユハさんの話を語り継げるんです。」
「イリ…」
「私はいろんなところに行って、いろんな話を聞いて、それまで見たものとか、聞いたこととか、話してるんです。だから、そんなこと言わないで。」
イリは堰を切ったように泣き出した。
「わ、悪かったよ。ごめんよ。もう、そんなに泣くんじゃないよ。」
ユハはランプを付けて、手拭いでイリの涙を拭った。
しゃくりあげているイリを撫でながら、ユハは言った。
「それじゃあ、明日から、寝る前に今まで旅したことを教えておくれ。ね。」
イリは呼吸を落ち着かせながら、うなずいた。
イリが泣き疲れて眠るまで見守ったのち、ユハも眠りについた。