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オペラ探偵 毛利さくらの美学 第一話「椿姫」 第三回

日本で唯一の市立オペラハウスである、桜園シティオペラハウス。

ここで上演されるオペラ舞台で起こる「事件」に挑むのは、

「オペラ探偵」こと毛利さくらと、舞台裏スタッフアルバイトの有沢みなみ。

今日の「事件」は、ヴェルディの傑作「椿姫」の舞台裏で起こります。

美少女探偵コンビは無事に「事件」を解決して、全てを大団円に導けるのか?

「椿姫」、いよいよ終幕です。

2幕二場 パリのサロン、賭博の場


毛利の予想が当たっていたからには、彼女の指示に従って動かないといけない。蔵本先生と話した後、場面転換の作業を手伝って、2幕二場のサロンでの仮装パーティの音楽を聴きながら、舞台裏に駆け戻り、楽屋口にある入館者名簿をチェックする。犯人さんだけじゃなくて、私も蔵本先生も、毛利の手のひらの上で踊らされている気がしないでもない。毛利が演出する舞台の登場人物になった気分だ。


我らはジプシー、遠方より来りて

あなた方の手のひらを、読みといて差し上げよう

星々に問えば、全ては明らか

これからのことを、占ってしんぜよう


さて、毛利の占いは当たるかどうか。一度始まった音楽を止めることはできない。ただでさえ舞台裏は、次に起こる段取りを予測して準備していくことが重要なのだけど、今夜の私は舞台スタッフであると同時に毛利の指示にも従わないといけないから、走る距離もいつもの倍だ。舞台袖の操作卓に戻ると、少し離れた所に椅子を3つ並べて、蔵本先生と田口先輩、磯谷先輩が並んで座っていた。田口先輩は相変わらず、何かブツブツ言いながら楽譜に顔を突っ込むようにして譜面を追っている。蔵本先生が、私に気がついて、「ちょっと」と手招きした。

「終演まで、楽譜は返さなくていいさ」楽屋の廊下で振り返って、蔵本先生は言った。「今渡すとゆづちゃんの覚悟が鈍る。田口君も三幕まで譜面を眺めていたいだろうし。」

「でも、まだ誰も、この件について真谷先輩と話せてないんですよ」私は言った。1幕終了後の休憩で、真谷先輩は周囲の声には一切耳を貸さず、真っ直ぐ自分の楽屋に飛び込んで内側から鍵をかけてしまったそうだ。磯谷先輩も田口先輩も、一言も声をかけることができなかったらしい。「今だったら、蔵本先生を悪者にしないで、何かの手違いだったとか、言い訳もききます。」

「いいのいいの」と、蔵本先生はまたガハハハ、と笑う。「憎まれ役になって若い人を守るのが僕らジジイの役目だから」そう言って、蔵本先生は、廊下のスピーカーから降りてくる音に耳を傾けた。ヴィオレッタを巡って鍔迫り合いを演じる男たちのカード賭博の場面。ヴィオレッタの裏切りを疑うアルフレードのヤケクソのカードの読みはあたり続け、彼は勝ち続け、ヴィオレッタの不安はどんどん大きくなる。


行ってちょうだい、不幸せな貴方

汚れた名前のことはもう忘れて

すぐに私から距離を置くのです

貴方には会わないと誓ったの。

誓う権利をお持ちの方に


「ホントはねぇ、ボクがあの楽譜を取り上げなきゃいけなかったんだよね。ゆづちゃんからね」蔵本先生はボソッと呟いた。「ボクがゆづちゃんの扉に鍵をかけてたんだなぁ。」

そう言って、私の前に右手を広げて見せた。大きな手のひら。かすかに、指が震え始める。

「丁度この2幕の終わりぐらいだったんだよね。昨日、指先がビリッときてさ。指揮棒一瞬取り落としそうになったんだ」右手を左手で包み込んで、じっと見つめる。ちょっと寂しそうだけど、どこか満足げでもある視線。「まぁ、よく働いてくれたよね。この手もね。」

「扉の向こうに広がる世界を真谷先輩に教えてあげたのも、蔵本先生じゃないですか」私が言うと、蔵本先生はにっこり微笑んだ。「みなみちゃんは優しいねぇ。

「そんなに優しいならきっとモテるだろうねぇ。恋人とかいないの?いい男紹介しようか?」

「そういうこと言うから真谷先輩にクソジジイって言われるんですよ。」

そろそろ2幕が終わる。オペラのクライマックスはまだまだ先だけど、私の今日の大仕事のクライマックスは、次の休憩の間に起きる予定だ。舞台用語で、開幕前に舞台の上の所定の位置につくことを、「板付き」と言うけれど、私の板付きの時間が近づいてきた。

「彼にも、優しくしてやってね」蔵本先生が言う。「きっとみんな、『椿姫』が大好きなだけなんだよ。」



2幕〜3幕 幕間


「楽譜はそこにはありませんよ。」

背中から私が声をかけると、その人影は文字通り飛び上がった。振り向いた顔が怯えている。暴力沙汰になったらヤバいと思って念のため握りしめていた木槌を、腰の工具ベルトに差し込む。「楽譜は蔵本先生のそばにあります。」

「なんで?」と、掠れた声で言う細身の男性。黒の礼服とドレスシャツ、そのシャツの首元には、大きな紫の蝶ネクタイ。そして彼の背後には、彼が今ゴソゴソと、隠したはずの楽譜を探していた大きな楽器ケースが、巨大昆虫の抜け殻みたいに通路にへたり込んでいる。オケピットから楽屋に抜ける通路の途中、通行の邪魔にならないように壁際に積み上げられた楽器ケースは、4本分あるはずだ。


「楽譜をすり替えたのは、偶然の機会に衝動的にやったことだと思うの。磯谷先輩が都合よく楽譜から離れるタイミングを狙うなんて、計画としては成功率が低すぎる。衝動的にやったのなら、その人は、放置された蔵本先生の楽譜の前を、たまたま通りすぎる機会があった人じゃないといけない」毛利は言った。「磯谷先輩が楽譜を譜面台に持っていくのは、ピットの音出しが終わって、オケの全員が楽屋でスタンバイしている時間。オケピットに出入りする人はいないはずだから、通り過ぎる機会のある人もいないように思う。でもね、ピットの音出しが終わった後でも、残って開幕前まで音出しを許されている楽器がある。」

「コントラバスとハープ」私が呟く。楽器の調整が複雑なハープと、楽屋に楽器を持ち帰ることができない大型のコントラバスだけは、開幕直前まで奏者がピットで音出しをすることが多い。「指揮者出入り口に一番近いのはコントラバスだ。」

「大きな楽譜を持って楽屋に戻るわけにはいかない。通路のどこかに隠してると思う。コントラバスのケースはソフトケースだし、大きいから大判楽譜を隠すのに都合がいい。コントラバスケースが置いてあるのはどこ?」

「指揮者出入り口のすぐ近くだよ」私は言う。「ピットに明かりが漏れないように、照明も暗く落としてある。」

「大きな楽器だから車で移動する人も多い。荷物の中に、大判楽譜を加えても、さほど苦にならない。」

「コントラバスは4人いるけど」私が言うと、毛利は人差し指を唇に当てて考え込んだ。「多分あの人だと思う。あまり見かけない顔だから、エキストラ、ひょっとしたら今日だけの出演かもしれない。名簿で確かめてみるといいよ。」

「動機はなんなの?」私は言った。「何でその人は、蔵本先生の楽譜を見たいと思ったの?」

「会えば分かるよ」毛利はにっこり微笑んだ。


「林さんですね?」私が言うと、細身の男性は力無くうなづく。楽譜が隠されていたコントラバスの楽器ケースにも、Y.HAYASHIの文字があった。オケの名簿にあった林義雄という名前の脇には、賛助出演の文字と、今日の日付だけが書かれていた。1日だけ、オケメンバーの予定がどうしても合わない時に助っ人で呼ばれたエキストラの奏者。

「その紫のネクタイ、蔵本先生リスペクトですね?」私は優しく言った。ポスターの写真の蔵本先生が身につけている大きな紫の蝶ネクタイと、全く同じ柄の蝶ネクタイ。「指揮者志望なんですか?」

林さんはうなづいた。田口先輩や磯谷先輩と同世代か、少し若いくらいだろうか。真谷先輩と同級くらいかもしれない。

「どうして僕だって分かったんですか?」林さんが消え入りそうな声で言う。

「ジプシー女の占いです」私は言った。林さんがキョトン、とするのを見て、「いや、千里眼の友達がいてですね」と付け加える。毛利の推理の道筋をしっかり説明するのも面倒だしなぁ。

「僕をどうするおつもりですか?」林さんは下を向いた。不貞腐れるでもなく、開き直るでもなく、しおらしくしょぼくれている。悪い人じゃないんだなぁ。

「表沙汰にする気はないですよ」私は言った。「蔵本先生もおっしゃってました。その人はきっと、『椿姫』が大好きだっただけなんだって。」

林さんは顔を上げた。ちょっと目が潤んだ。「蔵本先生はそういう人なんですよね。音楽が好きな人には悪い人はいないって、無邪気に信じてる。」

「蔵本先生を崇拝してるんですね。わざわざ同じ蝶ネクタイをしてくるくらいに」私は言った。「それで、あの落書き見て、思わず楽譜に手が出ちゃったんだ。」

「そんなに純粋でもないんです」林さんは顔を歪めて、自分の中のタガが外れたみたいに早口で喋り始めた。「蔵本先生の書き込みを見たいとも思ったけど、やっぱり悔しかったんだと思います。ずっと蔵本先生に憧れてて、やっと先生のタクトで弾ける機会が、今日1日だけ与えられたって思ったのに、今朝になって急に代振りだって連絡受けて、ホントにガッカリしたんです。

「せめてサインだけでももらおうと思って、自分の勉強用の楽譜持ってきて、開演前にサインもらったんですけど、でもその前に、真谷さんの楽屋で2人がホントに楽しそうにおしゃべりしているのが聞こえてきて、なんだか凄くムカついてきちゃって。」

そうか、あの時楽屋を出て行った蔵本先生を廊下で呼び止めていたのは、林さんだったのか。

「そのまま指揮者楽譜持ってオケピットに行って音出しして、楽屋に戻ろうと思ったら目の前にあの楽譜があったんです。周りに人気がなかったんで、ちらっとめくってみたのは好奇心だったんだけど、気がついたら自分の持ってた楽譜と入れ替えて、先生の楽譜を、そばにあった自分の楽器ケースの中に押し込んじゃったんです。」

椿姫の音楽の魔法だろうか。この楽譜を見てみたい、一瞬でも自分で独り占めしたい。

「そんな純粋な気持ちだけじゃない、蔵本先生の楽譜に頼れない真谷さんが、一体どんな指揮をするのか、見てやろうって言う悪意も間違いなくありました。」

そこまで視線を落ち着きなくキョロキョロさせながら早口で喋っていた林さんは、急に目を上げて、私の方にすがるような視線を向けた。「1幕が終わった後の休憩時間の間ずっと、トイレの個室にこもって楽譜を見てました。心底打ちのめされました。蔵本先生の解釈の厚み、それを踏み締めて、さらに高みを目指している真谷さんの音楽の輝き、しかも真谷さんはそれを、自分の頭の中にある音楽だけを頼りに紡ぎ上げている。

「終演後に、楽譜は返そうって心に決めました。お二人の音楽の世界を邪魔する資格なんて僕にはない。自分の浅ましさが恥ずかしい。」

そう言って、林さんは頭を垂れた。

「蔵本先生は、全部自分のいたずらだったことにするそうです」私は言った。林さんが顔を上げる。「蔵本先生はとっくに気づいてたんですよ。あなたがやったことだって。」

「どうして?」と林さんが言う。

「指揮者用の大判楽譜を持ってる人なんて、この会場の中に何人もいません。真谷先輩と、田口先輩っていうもう一人の副指揮者、そして蔵本先生。田口先輩の楽譜は確認済みだから、蔵本先生は、サインを求めてきたあなたの楽譜が指揮台にあるんだって、すぐ気づいたんですよ。」

「先生に謝らないと」林さんは言った。

「そろそろ3幕が始まります」私は言った。「蔵本先生の伝言をお伝えします。『真谷さんの扉を開くきっかけを与えてくれてありがとう。今日来たお客さま全員の夢を壊さないように、君たちの『椿姫』をフィナーレまでしっかり作り上げなさい。』」

林さんは真っ直ぐ私を見つめた。瞳に燃える光を確かめて、私はささやいた。「それから、終演後にロビーに来てください。あなたの楽譜をお返しします。」

「ロビーのどこに?」林さんが言った。

「一番目立つ女を探してください。そのそばにいます」私はにっこり答えた。



3幕 ヴィオレッタの寝室


アルフレードとの仲を裂いたことを謝罪する父ジェルモンの手紙を読み、ヴィオレッタは「遅すぎるわ!」と絶望の声を上げる。死病に取り憑かれ、病みやつれた自分の姿を鏡に映しながら、自分の命が燃え尽きていく瞬間まで、道を踏み外してしまった自分の過去を悔い、神の慈悲を乞い願うヴィオレッタの絶唱。


私の墓碑に捧げられる涙も花もない

私の名を刻んだ十字架すらない

ああ!道を踏み外したこの女の願いを聞き届けてください

許しを与えてください、神様、その御許にお迎えください

ああ、何もかもが終わってしまった


客席だけじゃない、舞台袖もしんと静まり返って、ヴィオレッタの最後の命の煌めきに耳を傾けている。操作卓のモニター画面を食い入るように見つめる私達スタッフの背後で、楽譜を追いかける田口先輩が何度も涙を拭っている気配がする。一瞬、モニター画面の中の切なげな真谷先輩の表情が悪魔のようにぎらつき、ヴィオレッタの不幸と犠牲を嘲笑うようなパリの謝肉祭の喧騒が鳴り響く。パリの狂騒に踏みにじられ、人生で一番美しい日々を儚く散らせたヴィオレッタ。その最期の瞬間に駆け込んでくるのは、最愛の人アルフレードだ。

「遅いんだよなぁ」背後から蔵本先生の呟きが聞こえる。「この脳みそ空っぽのお坊ちゃんテノール野郎がさぁ。」


誰も、悪魔だろうと天使だろうと

2人を引き離せるものはいない

愛するあなた、パリから離れよう

そして2人で人生を過ごそう

これまでの苦悩は今報われるのだ


オケピット全体を映すモニター画面の奥、目を凝らすとぼんやりと映るコントラバスの端に、林さんの姿を見ることができた。ゆったりしたピッチカートを刻みながら、林さんの顔がしっかり真谷先輩の方を向いているのが分かる。細かい表情までは見えないけど、きっと真谷先輩の全ての指示やわずかな視線の変化まで、全部読み取ろうと必死なんだろう。


二重唱以降、父ジェルモンや医師グランヴィルなど、ヴィオレッタを支える人々が駆けつける幕切を、孤独に死んでいくヴィオレッタの幻想とする演出もある。解釈としては分かるけど、あんまりヴィオレッタが可哀想で、私はやっぱり本当にアルフレードやパパジェルモンに見守られながらヴィオレッタが旅立ったのだと思いたい。そうじゃないと、最後の瞬間、迫り来る死が一瞬だけ彼女に与えた苦悩からの解放の歓びが、天国への入り口に立った彼女への一瞬の救済の音楽が、濁ってしまうような気がするのだ。桟敷席で、きっと涙を流しながらこのシーンを見つめているあの美しい私の友人はなんていうだろうか。一度じっくり、椿姫の話を彼女としてみたい。オペラの話をする時、とりわけ光を増すあの大きな目を見つめながら、今夜の真谷先輩が作り上げた椿姫の話をしてみたい。


苦痛が消えた…

蘇った…動き出した、力が!

ああ、私はきっと生きられる!

何という歓び!


歓喜の声を上げながら息絶えるヴィオレッタの周りに、呆然と立ち尽くす人々の影を深く深く残して、真谷先輩が紡ぎ上げた椿姫の物語が、終わった。


終幕後


終演後の興奮をそのままに、ロビーを埋めて演奏の感想を口々に語り合っていた聴衆たちも流石にまばらになり、ロビーの真ん中でシャンデリアが舞い降りたように輝いている毛利さくらを取り囲んでいた常連さん達も散り散りになる。話の長い数名をニコニコとあしらっていた毛利は、大きな紙袋をぶら下げてロビーに駆け込んだ私を見つけて満面の笑顔で手を振った。それを潮に、毛利の周りの人の輪が散らばって、私は毛利のそばに駆け寄った。

「真谷先輩、怒ってた?」毛利が言う。

「怒ってた、と言うかなんというか」私は言葉を探すけど、終演後の真谷先輩のことを表現する言葉がよく見つからない。泣いたり笑ったり、極端な狂騒状態だったのは確かだけど、蔵本先生があの楽譜を差し出した一瞬、真谷先輩は棒のように固まった。手渡された楽譜をしっかり胸の中に抱き締めると、蔵本先生の胸を拳で殴り始めた。ボコボコ殴りながら、いつのまにか蔵本先生の胸にすがりついてわんわん泣き始めた真谷先輩を優しく抱き締める蔵本先生を見ながら、磯谷先輩も田口先輩もポロポロ涙をこぼしていた。

「本当のこと言わなくてよかったのかな」私が呟くと「よかったんだよ」と毛利は微笑んだ。「あの2人の間に、何か別のものを差し挟まない方がいい。結局のところ、林さんは蔵本先生の思いを違う形で実現したわけだし。」

「結局、全部毛利の推理通りだったね」と私が言うと、毛利はちょっとドヤ顔になって、「このオペラハウスで私が解けない謎はない」と鼻の穴を膨らませる。さっきまでお嬢様然として慎ましい笑顔ふりまいてたくせに、学校の成績を誉められた子供みたいだ。

「じゃあさぁ、一つ、どうしても分からない、と言うか、蔵本先生に聞けなかったことがあるんだけど」私は言った。「毛利なら分かるかな。」

私がスマホに写した画像を見せると、毛利は小首を傾げた。「何これ?」

私が見せた画像には、例の指揮者用の大判楽譜の表紙が写っている。終演後、記念に、と撮らせてもらったのだけど、見れば見るほど疑問が膨らんできた。「このマーク、なんだと思う?」

落書きのような「アイ らぶ YUZUKI!」の文字と、その側に書かれた見慣れた蔵本先生のサイン。私はそのそばを指差す。歪んだ円の中に描かれたスマイルマークのような、マンガっぽい笑顔。

「スマイルマークじゃないの?」毛利が言う。

「私もそう思ったんだけどさ。なんか、ちょっと違う気もするんだ。下手くそな丸かな、と思ったけど、わざと上をへこませてるようにも見えるし、なんか点々みたいなのも描かれてる。」

「そばかす入りの顔かな?」毛利も自信なさそうに言う。

「毛利にも分からない謎か」と言うと、毛利はふっくらした唇を尖らせた。「蔵本先生の絵が下手くそ過ぎるんだよ。」

「あの」と、蚊の鳴くような声がそばでした。「林です。」

ジャケットと蝶ネクタイを外して、ドレスシャツだけになった林さんが申し訳なさそうに立っている。慌てて立ち上がった。「すみません、わざわざ。」

「いえ、謝らないといけないのはこっちで」林さんが深々と頭を下げる。

「素敵な『椿姫』でしたね」毛利がよそゆきのお嬢様スマイルで会釈する。ゴスロリ美女に声をかけられて、林さんの顔が気の毒になるくらい真っ赤に染まった。「彼女と、私、そして蔵本先生しか、今回のことは知りません。他に2人ほど関わってる人もいますけど、誰がやったのかまでは秘密にしてあります」私は紙袋から楽譜を取り出した。「蔵本先生のサインがちゃんとあるか、確かめて下さい。」

林さんは表紙をひらいて、見開きを穴の開くほど見つめていた。顔を上げて私に向けられた目が潤んでいる。「真谷先生が、サインを?」

見開きに書かれた蔵本先生のサインの下に、控えめなしっかりした文字で、「真谷佑月」と書かれている。今日の日付と一緒に、生真面目な文字で、こう書かれている。

「最高のクソジジイ野郎へ」

「ありがとうございます。家宝にします」楽譜を大事そうに紙袋にしまいながら、林さんは言った。「今日の『椿姫』一生忘れません。この舞台に参加したこと、生涯の誇りです。」

「そうだ」私は急に思った。蔵本先生推しの林さんなら分かるかも。「林さん、この楽譜のこのマーク、蔵本先生の書いたへしゃげたスマイルマークみたいなの、何か分かります?」

林さんにスマホの画像を見せると、しげしげと眺めたあと、顔をパッと輝かせて言った。「これ、ゆずですよ。」

「ゆず?」毛利と私が同時に言った。

「柑橘系の、ゆず。真谷先生のマークなんです。ほら」もう一度見せてくれた真谷先輩のサインの脇に、確かにみかんみたいな果物の中にスマイルマークが書かれているのが見える。

「…全然似てないですね」私は呟く。

「ゆずっていうより、じゃがいもじゃん」毛利が言った。

私たち3人は、顔を見合わせて笑った。「今度は別の演目で、蔵本先生のタクトで参加したいです」林さんが言う。「新谷先生の指揮する別の演目でも。」

「是非また、我が街のオペラハウスへ」毛利が艶やかに微笑むと、林さんはまた耳たぶまで赤くなって、ぺこり、とお辞儀をして駆け出そうとした。「あ、ちょっと待って!」と、その背中に毛利が声をかける。まだ何か話があるのか?

毛利は立ち上がって、すみれ色のバッグからスマホを取り出して、林さんに差し出した。

「この人とのツーショット、撮ってもらえませんか?」

そう言ってはにかむ毛利の横顔を見て、ちょっとくらっとする。悔しいけど、やっぱりこいつ無茶苦茶かわいいなって、改めて思った。



毛利さくらには美学がある。

頑なに守られるその美学のおかげで、彼女はシティオペラハウスの客席で、色鮮やかなアゲハ蝶のように一際目立つ。

今日も彼女は、自分の美学を貫いて、桜園シティオペラハウスの上手の桟敷席に、背筋をしゃん、と伸ばして座っている。

劇場を包み込む豊穣な音楽の響きに包まれ、滑らかな頬をうっすら桃色に染めて。

華やかな舞台の色とりどりの照明ライトの照り返しに、大きな瞳をキラキラ輝かせながら、オペラハウスで起こる全ての謎を鮮やかに紐解いてみせる。

今日も、明日も、おそらく明後日も。


(第一話「椿姫」 幕)

大好きなオペラを舞台にして、人が死なない小さな謎解き話を書いてみたいなあ。という昔からの妄想と、さくら学院の卒業生で、@onefiveのMOMOさんとして活躍されている森萌々穂さんのゴージャスな衣装を見てみたいなぁ、という妄想ががっちゃんこして、ある日突然生まれたこのお話。色んなところにさくら学院へのオマージュが散りばめられていますが、自分なりの理想の「オペラハウス」を空想する楽しさもありました。続編も構想中だったりします。自己満足と妄想のパワーで、書き継いでいければと思います。もし最後まで読んでくださった方がいらっしゃったら、本当に嬉しいです。ありがとうございました。

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