オペラ探偵 毛利さくらの美学 第一話「椿姫」 第二回
日本で唯一の市立オペラハウスである、桜園シティオペラハウス。
ここで上演されるオペラ舞台で起こる「事件」に挑むのは、
「オペラ探偵」こと毛利さくらと、舞台裏スタッフアルバイトの有沢みなみ。
今日の「事件」は、ヴェルディの傑作「椿姫」の舞台裏で起こります。
美少女探偵コンビは無事に「事件」を解決して、全てを大団円に導けるのか?
「椿姫」、中盤です。
第一幕 パリにあるヴィオレッタのサロン
楽しむのだ、盃とこの喜びの歌を、最高の夜にするために
この天国で、新たな一日が我らに訪れるように
1幕冒頭の「乾杯の歌」の合唱が終わった途端、客席は拍手で爆発した。音楽と光が織りなす魔法のような時間に包まれて、客席全体が何かに酔ったようにぼうっとなっているのがわかる。そんな魔法が、真谷先輩のタクトから迸っているのが見える。客席も、オケも、舞台上のソリストさん達も合唱団も、そして我々舞台裏のスタッフ達すら、気迫に満ちたタクトから導かれるヴェルディの音楽の魔法にがんじがらめにしばられて、時間も空間も別の世界に引きずり込まれたみたいだ。私の頭も真谷先輩の魔法で半分痺れたようになっているけど、残りの半分でやるべきことをしなければならない。この熱狂的な拍手が続いている数十秒間が最初のチャンスだ。私は桟敷席の扉を音のないように開けて、するり、と客席に滑り込む。スミレ色の毛利さくらが拍手しながら振り向いた。興奮に潤んだ瞳が大きく見開く。「有沢?」
「ごめん、ちょっと確かめたいことがある」毛利の肩に手を置いて、彼女の膝の上に置かれた金色の取手付きオペラグラスをそっと取り上げた。毛利さくらの愛用のオペラグラス。目に当てて、オケピットを覗く。視界の中に、真谷先輩を捉える。そしてその前にある譜面台。
譜面台の上には、椿姫のフルスコアが置かれている。閉じられたままの表紙の上には、真っ白な花弁が瑞々しい椿の花が一輪置かれている。開演以降、真谷先輩はこの花にも、楽譜にも、指一本触れていない。
真谷先輩は、「椿姫」全幕を、暗譜で振り切る気だ。
「真谷先輩、凄いよ。今日は別人みたいだ」毛利が囁く。振り向いて、耳元に口を寄せた。「1幕明けの休憩の時に、また来る。ちょっと相談に乗って。」
流石の熱狂的な拍手も少しおさまってきた。そのまま桟敷席を去ろうとすると、手をつかまれた。振り返ると、ちょっと泣きそうな顔で、こっちを切なげに見つめてくる。「待ってる」拍手にかき消されそうな小さな声が少しパープルを加えた艶やかな色の唇から漏れた。一瞬、運命の人に出会った予感に胸震わせるヴィオレッタの姿と毛利が重なって見えて、思わず毛利を抱きしめそうになった。いかん、私の頭も半分真谷先輩の魔法に酔っぱらってる感じだ。
開演の時、舞台監督の千葉さんのキューにあわせて、オケピットに降りていった真谷先輩。舞台センター、プロンプターボックスの横、コントラバスの後ろの入り口から、楽器の間を縫って指揮台に歩み寄り、コンマスと握手をし、オケを起立させる。指揮者を抜いたスポットライトの中、客席にお辞儀をして、指揮台に向き直る。見慣れたルーティンの直後、真谷先輩は凍りついた。譜面台の上に置かれたフルスコアに手を伸ばしたまま、微動だにしない。多分十数秒くらいの時間だったと思うけど、下手の操作卓の前で、指揮者を正面から捉えたモニター画面を見つめていた我々スタッフが騒然となるには充分な時間だった。何かが起きている。舞台監督の千葉さんが「なんだ、どうした?」と呟いた直後、真谷先輩がゆっくりと顔を上げた。
スタッフ全員が石像のように固まってモニター画面を見つめる中、舞台袖に流れてきた弦の咽び泣くような旋律に、私は心底ゾッとした。なんて濃密で絶望に満ちた音。「椿姫」の序曲は、孤独の中で死んでいった主人公ヴィオレッタの最期を冒頭の音楽で描写することで、終幕の悲劇を予言すると共に、1幕の世紀末的な乱痴気騒ぎを際立たせる。うちのオケはこんな濃密な音を出せるのか。
「客席カメラをオケ側に振って下さい」磯谷先輩が押し殺した声で、千葉さんに囁く。千葉さんが、目の前のジョイスティックの一つに触れると、操作卓の上に並んだモニターの一つの映像が動いた。「オケピットの中、指揮台の上をアップにしてもらえますか?」
磯谷先輩の声に合わせて、指揮台がズームされる。指揮台の上に置かれた楽譜と、その上に何かが置かれている所までは分かるが、解像度の低いカメラの位置が遠すぎてそれ以上はよく分からない。それでも、
「ゆづちゃん、暗譜でやってるな…」千葉さんが呟いた。指揮者を正面から捉えたピット内のカメラの映像を見ても、真谷先輩は譜面台に一切視線を落とそうとせず、指も触れようとしない。自分の頭の中に全部刷り込まれている「椿姫」の音楽だけで勝負している。
「すげえな、クライバー並みじゃん」私の隣に立っていた田口先輩がボソッと呟いた。操作卓の前にかがみ込んでいた磯谷先輩が、凄い勢いで振り返って、田口先輩を睨みつけた。その視線に田口先輩が一瞬怯むのと、磯谷先輩が私の腕を掴んで、「ちょっと来て」と言うのが同時だった。
桟敷席の扉の外に、磯谷先輩が待ち構えていた。「どうだった?」
私は首を横に振る。「楽譜の表紙は綺麗でした。ヴィオレッタの絵が描かれていて、それだけ。」
「やっぱり」磯谷先輩が唇を噛む。絞り出すように言った。「あれはゆづちゃんの楽譜じゃない。」
「どういうことですか?」私が言うと、磯谷先輩は顔を上げた。血の気が引いている。「ゆづちゃんの楽譜は、蔵本先生から贈られたものよ。表紙には、蔵本先生からの献辞、というか、いたずら書きが大きく書かれている。ゆづちゃんも気がついた。それで暗譜で振るって決めたんだ。」
「誰かが違う楽譜を置いた?」そこまで言って、突然気づいた。磯谷先輩の血の気が引いている理由。
「私が指揮台に楽譜を置いた」磯谷先輩は泣き出しそうな声になる。「開演前に指揮台の上に楽譜を置いた時、椿の花をその上に置いてくれって言う蔵本先生からのサプライズのことで頭が一杯になってた。ちゃんと確かめなかった私のミスだ。」
「磯谷先輩が入れ替えたわけじゃないですよね?」私は言った。「じゃあ誰が楽譜を別の楽譜に入れ替えたんですか?」
「そんなの」磯谷先輩の声に怒気が混じる。「あいつに決まってる。」
そして廊下を駆け出した。私は慌てて後を追った。
田口先輩が、憮然とした表情で差し出した楽譜を見つめて、磯谷先輩が凍りついている。指揮者用の大判楽譜。気だるい表情で鏡に映る自分の顔を眺めるヴィオレッタが描かれている。さっき私がオペラグラス越しに見たのと同じ楽譜。表紙は同じく、綺麗なままだ。
「磯谷がオレを疑うのは分かる」田口先輩が言う。廊下のスピーカーから、会場を満たしている豊穣な音楽のカケラが漏れ出して聞こえる。
それはあの人だったのかしら…
乱痴気騒ぎの中でも一人ぼっちの私の心が
不思議な絵の具で心の中に描いていたのは…
「真谷が指名された時は悔しかった。なんでオレじゃないのか、とは思ったさ。蔵本先生門下生の誰もがそう思っただろうけど、オレは特別だ。」
「そうよ、アンタには動機がある」磯谷先輩が言う。「そして機会もある。あの時、オケピット出入り口で楽譜を入れ替えることができた人は一握りだ。」
オケピットへの出入り口は二つ、舞台センターと下手にある。舞台面と同じ階にある楽屋フロアから階段を降りてオケピットに抜ける通路を通るのは、舞台裏スタッフとオケのメンバーだけ。音出しを終えたオケのメンバーは楽屋に戻り、ピットでのチューニング前の事前チューニングをしている時間。となれば、磯谷先輩の言う通り、楽譜を入れ替えることができる人なんて一握りだ。まして入れ替える指揮者用の大判楽譜を持ってるとなると。
「でも、オレの楽譜はここにある」田口先輩が言う。
「アンタがもう一冊楽譜を持ち込んで入れ替えたのかもしれない」磯谷先輩が呟いた。
田口先輩は天を仰いだ。
「磯谷、オレを信じてくれ」田口先輩は真っ直ぐ磯谷先輩に向き直る。「確かにオレは悔しかった。真谷が選ばれて心底悔しかった。でも同時に、腹の底から興奮した。真谷の振る『椿姫』を聴きたいって思った。蔵本先生の正統を、あいつがどう受け継ぐのか、そしてあいつが先生の世界をどう壊すのか、聴いてみたいって本気で思った。聴いてみろ」と、天井から降りてくるヴィオレッタのアリアを指差す。
愛はときめき
全ての鼓動
神秘と高貴
そして私の心を引き裂く…
「あいつは今奇跡を生み出してる。これはオレ達全員の夢だったじゃないか。オレ一人じゃない、真谷一人じゃない、桜園音楽大学から、蔵本先生を超える伝説の指揮者を生み出すんだって、オレ達卒業生全員の夢が、今現実になろうとしてるんだぞ。」
2人がしっかり見つめ合う。桜園音楽大学で同期生だった2人。強く絡み合う視線の上から、真谷先輩が生み出すヴィオレッタの激情の歌が降りてくる。
バカな女!無意味な夢よ!
パリという名の荒野に
たった一人捨てられた女…
楽譜をすり替える動機と機会。その機会に一番近かったのは磯谷先輩だ。舞台スタッフとして、開演直前の真谷先輩の楽屋のドアを頃合いを見てノックし、楽譜に顔を突っ込みそうに未練タラタラの真谷先輩から楽譜を預かり、オケの入場前にオケピットの譜面台まで持っていく。でも、磯谷先輩には動機がない。
楽屋からオケピットまで運ばれた楽譜。その途中で楽譜を入れ替えることができる人なんているのか。
「あの時、舞台裏にいた関係者の中に犯人がいる。私の動線を追ってきて、私が蔵本先生から預かった椿の花を取りにピットの入り口からちょっと離れた隙に、楽譜を入れ替えた奴。」
そして田口先輩には確かに動機もある。田口先輩は真谷先輩より5歳上だ。蔵本先生のもとで、副指揮者として修行を積んできた時間は、真谷先輩より長い。それでも自分が代振りに指名されないこの世界の残酷を、一番よく分かっていても、一番悔しい思いをしている人であることは確かだろう。そしてあの大判の指揮者用のフルスコアは、オケや歌い手が持っているパート譜やボーカル譜とはサイズも中身も全然違う。指揮者か、指揮者志望の蔵本先生のお弟子さんしか持っていない特殊な楽譜だ。でもさすがに、入れ替えるための楽譜まで用意して、こんな嫌がらせを仕掛けたりするかな。
「あんた、開演前にはどこにいたの?」磯谷先輩が自分を励ますように言う。
「アリバイかよ」田口先輩は苦いものを噛み締めているような声で言う。「アリバイはないよ。舞台袖の暗がりに、合唱団の邪魔にならないように座ってたからな。誰も証言する人はいない。
「磯谷、お前がやったんじゃないのか?」田口先輩が言って、私はギョッと磯谷先輩を見つめた。磯谷先輩の顔が蒼白になってる。
「お前が、蔵本先生に言われてやったって言うのが一番平和な答えなんだ。分かるだろ?」
そうか。磯谷先輩には動機がないと思ったけど、そういう答えもあるのか。
蔵本先生に、楽譜の上に椿の花を置くサプライズを指示されたのは磯谷先輩だ。その時、楽譜の入れ替えまで指示されたとなれば、納得できる。入れ替え用の楽譜は蔵本先生から事前に預かっておけばいいわけだし。でも、
「田口先輩、それはあり得ないですよ」私は横から口を挟む。「もし蔵本先生のアイデアだったら、磯谷先輩からそう言えばいい話じゃないですか。」
幕開け直後のサプライズが終われば、もう種明かしをしたっていいはずだ。磯谷先輩がこんなに真っ青になったり真っ赤になったりしながら舞台裏から客席通路まで走り回る必要なんかない。
「分かってる」と、田口先輩は言った。言いながら、磯谷先輩の両肩をがっちり掴んだ。「でもな、磯谷。磯谷がそう言えば、この場は丸く収まる。終演まで、誰も傷つかない。誰もが納得して、カーテンコールまで辿り着ける。
「お前は舞台スタッフだ。舞台スタッフの一番の仕事は、本番舞台を何事もなく、無事に終わらせることだ。違うか?」
「本当に蔵本先生がやったのかも」と私が呟くと、磯谷先輩は、私の方に弱い視線を飛ばして「それはない」と言った。「先生は随分前に客席に行ってたから。だから私に椿の花を託したんだ。先生なら、楽譜の入れ替えと椿のいたずらを同時にやるだろう?」
そりゃそうだ。私が頷くと、田口先輩の、磯谷先輩の両肩を掴んだ手に力がこもった。「お前が疑ってる通り、オレがやったのかもしれない。オレは自分が犯人として突き出されるのが嫌で、こうやってお前を騙してるのかもしれない。でも信じてくれ。オレはやってない。そして、ここで犯人探しで大騒ぎすれば、この公演の魔法はそこで終わる。」
田口先輩の目には涙が浮かんでいた。「磯谷、終演まで我慢してくれ。蔵本先生に言われてやったことにしよう。犯人探しはその後でもできる。舞台裏は防犯カメラだらけなんだぜ。映像を洗えば、絶対犯人が映ってる。」
確かにそうだろう。田口先輩の言う通り、今大騒ぎして、スタッフ全員がお互いの中の真谷先輩への悪意を疑い始めたら、それは確実に舞台の空気を変えるだろう。魔法はそこで終わってしまう。
「分かった」磯谷先輩が、田口先輩を見上げて、瞳の奥を覗き込む。「もしアンタが嘘つきで、アンタが犯人だったら、殺すかんね。」
ちょっとゾワっとした。でも田口先輩は、ニヤッと笑って言った。「お前に殺されるのも悪くねぇな。」
磯谷先輩の頬が真っ赤に染まって、両肩を掴んでいる田口先輩の手を振り払った。楽屋廊下から下手舞台袖に向かって、くるりと踵を返す。「有沢、行くよ!」
あれ、ひょっとしてこの2人?と思ったけど、口には出さず、磯谷先輩の背中を追いかける。1幕ラスト、ヴィオレッタのカバレッタの最高音がオペラハウスに響き渡った。
1幕〜2幕 幕間
「でも、まだ問題が残ってるんだ」一通りの経緯を説明し終わって、私は付け足した。桟敷席のいいところは、ボックスの中で他の人に聞かれたくない会話ができる所だ。昔のオペラハウスに桟敷席が必須だったのは、上流階級の密談の場として活用されたっていう実利的な意味もあったんだろう。
「真谷先輩の楽譜を取り戻さないといけない」毛利がすかさず言う。「そういうこと」私はうなずく。「蔵本先生のいたずらでしたって説明しても、真谷先輩が蔵本先生からもらった大事な楽譜が行方不明なのには変わりないから。
「犯人が返してくれたら一番いいんだけどね」私が言うと、毛利はオケピットの方を見下ろして考えこんでいる。1幕が終わって楽屋に戻った真谷先輩は、譜面台の楽譜に指一本触れていない。白い椿の花までそのままに、入れ替わったフルスコアは譜面台に置かれている。
1幕終了後の熱狂的な拍手の間に、私はまた桟敷席にするっと入り込んで、毛利さくらの隣に滑り込んだ。いつもなら、毛利は幕間の休憩でロビーに出て、オペラハウスの非日常的空間を彩る南国の鳥のように華やかに、常連さん達と歓談するのが常だけど、今日はそういうわけにはいかない。私は最初からこの件について毛利の協力を仰ぐことを決めていた。毛利には私達に見えていないものが見えているはずだ。確信があった。ほぼ舞台関係者の一員と言ってもいい毛利にこの件を相談することに、磯谷先輩も全然異論を唱えなかった。
「開演前に、楽譜が譜面台に置かれてから、真谷先輩が入場するまでに、ピットの中で譜面台に近づいた人を見たりした?」私は聞いてみた。
「いなかったと思うけど」毛利が言う。「確信はない。」
「流石に客席から丸見えだからなぁ」私は言った。「オケピット内で入れ替えるなんて、そこまで大胆なことはしないか。」
「指揮者用モニターの記録は残ってるの?」毛利が言う。「田口先輩が言う通り、色んな所に防犯カメラがあるし、絶対どれかに映ってるよね。」
「映ってるかもしれないけど、それをチェックするとなると結構大ゴトになるんだよなぁ」一度、館内に不審者が入り込んだという騒ぎがあって、警備室にモニター映像記録をもらいに行ったこともある。パソコン操作に慣れないシニア世代の警備員さんが四苦八苦して、結局どうにもならずに警備会社のシステム担当を呼び出すハメになった。「それは最後の手段だなぁ。」
「なら、一つ確かめてみたいことがある」毛利が言った。「もし私の想像が当たっていれば、この休憩中に楽譜を取り返すのはほぼ無理だと思うんだ。」
「…どういうこと?」私は言った。まるで楽譜がどこにあるのか知ってるみたいな言い方じゃないか。
「真谷先輩の楽譜の表紙には、蔵本先生の献辞が書かれてるって言ったよね」毛利は言った。「見てみたいって思わない?」
私はちょっと考えこんだ。「でも、蔵本先生が真谷先輩に贈った言葉となると…どうせ何かくだらない一言なんじゃないのかと…」
「何が大事かは人それぞれだよ」毛利は言って、にっこり微笑む。なんだ、この余裕の笑みは。
「次の休憩は、2幕明けだね」毛利が言う。「椿姫」は、2幕一場と2幕二場の間に場面転換の休憩をとることが結構多いけど、今回の演出家さんは幕の構成に沿って、廻り舞台を使った転換で2幕を通しで上演するスタイルを選んでいる。次の休憩は2幕二場、パリのサロンでの賭博のシーンの後だ。
「2幕が始まったら、私がこれから言う場所に行きなさい」毛利は言った。そして、もう一度、華やかな笑顔を真っ直ぐこちらに向けて、言った。
「多分、楽譜はそこにある。」
2幕一場 パリの郊外のヴィオレッタの家
「…どこにあったの?」磯谷先輩が、呆気に取られた顔で絞り出すように言った。隣に立っている田口先輩はまだ口をあんぐり開けている。
私が差し出した大判の楽譜。表紙のヴィオレッタの白くてふんわり広がった袖からタイトルの上に向かって広がる余白に、子供が書いたのかと思うような汚い字でデカデカと、「アイ らぶ YUZUKI!」と書かれている。その下に、歪んだ円に囲まれたスマイルマークのようなものと、見たことのある蔵本先生のサイン。くだらないんじゃないかなとは思っていたけど予想以上のくだらなさだ。退廃的な表情のヴィオレッタが落書きの酷さに嘆いているようにも見える。
「どうして『アイ』がカタカナで、『らぶ』がひらがながいい、なんて思っちゃったんですかねぇ」言いながらしげしげ楽譜を見ている私の腕の中から、田口先輩が楽譜をひったくった。もどかしげにページをめくる。「すげえ」声が漏れる。
「蔵本先生の書き込みだらけだ」田口先輩は血走った目を私に向ける。「次の休憩まで、2幕の間だけでいい、この楽譜、俺に貸してくれ。」
「何バカ言ってるの」と磯谷先輩が言いかけたけど、田口先輩はもう、ページを食い入るように見つめて楽譜を離さない。モニタースピーカーから流れ出す2幕の音楽を譜面上で追いかけ続けている。「そうか、ここは蔵本先生流か」なんてブツブツ独り言まで言い始めた。
「悪い、有沢」磯谷先輩が呆れ顔で言う。「こうなると誰にも止められない。2幕が終わるまで、私がコイツを見張ってるよ。詳しいことは後で聞くから、代わりに場転入ってもらえるかな。」
そうか、磯谷先輩は、まだ、田口先輩を信じきってるわけじゃないんだ。愛があっても、というか、愛があるから、田口先輩のことを知り抜いてるから、この人があの楽譜に執着する理由も分かるんだな。
「何が大事かは人それぞれ」と毛利は言ったけど、そういうことなんだ。この楽譜に特別な価値を見出す人達が、確かにいる。楽譜のあちこちに書き込まれた蔵本先生のメモ。今の円熟に至る数々の苦悩の歴史が、楽譜の至る所に残されている。ヴェルディが残した「椿姫」という、オペラ史に残る傑作との闘いの日々を、刻み込んだ楽譜。そんな大事な楽譜を、愛してるの軽口と一緒に、蔵本先生は真谷先輩に託したんだ。
そして今、真谷先輩は、蔵本先生の歴史を踏み台に、入れ替えられた楽譜には見向きもしないで、何もない空間に向かって、自分の中にある音楽だけを頼りにタクトを振り続けている。
ああ、絶対に嫌!
あなたはご存じないのです、どんなに激しく
私があの人を愛しているのかを?
私には友も、頼りにできる身内も
この世に一人もいないということを?
操作卓の前に行くと、モニターを見つめるスタッフの後ろの椅子に、蔵本先生が腰掛けていた。見ると、目に涙を浮かべている。「蔵本先生」と、そっと声をかける。
「みなみちゃん」目を開けた蔵本先生は、半ベソをかいた子供みたいに私を見上げた。「ヴィオレッタ、可哀想すぎるよねぇ。パパジェルモンも必死なのは分かるけどさぁ、ここまで追い込まなくていいじゃんねぇ。ヴィオレッタも、ここで身を引くことないじゃん。もっとゴネればいいじゃん。ほんと、何とかならなかったのかなぁ。」
そう言って、世界も認める大指揮者の先生は、20歳そこそこの小娘の前で、子供みたいにポロポロ涙を流した。真谷先輩の神がかった演奏のせいもあるけど、結局こういう所がこのオッサンの魅力なんだろうなぁ。音楽に対して真っ直ぐで開けっぴろげ。「みなみちゃんだったらどうする?絶対ゴネるよね?」
「私だったら」と、私はニッコリ微笑んで言った。「そもそも、あんな脳みそ空っぽのお坊ちゃんテノールには惚れません。」
「それがいい」蔵本先生は真剣に頷いた。「みなみちゃんは賢い。この後のアルフレードとか、いい歳してただの駄々っ子だからねぇ。聴くたびぶん殴ってやりたくなるよねぇ。」
「先生、少しだけお話できますか?」私が言うと、蔵本先生は頷いた。「ちょうどいいよ。この後の音楽真剣に聴くと、舞台に出て行ってアルフレードぶん殴りたくなるから、耳半分で聞くつもりだったんだ」そして、よっこらしょ、と立ち上がった。
(続く)
「椿姫」の主人公ヴィオレッタは、パリの高級娼婦です。貴族の囲いものになって快楽の中で生きる彼女は、アルフレードとの出会いによって純粋な愛に目覚めますが、世間体を気にするアルフレードの父、ジェルモンに、身を引くことを懇願されます。そこで身を引いてしまうヴィオレッタには、自分が一度人の道を踏み外してしまった、という負い目があるのですけど、逆に言えば、彼女自身が自分の過ちを神様に悔いる強い信仰心の持ち主だったことの証でもあります。蔵本先生じゃないけど、ホントにどうにかならなかったのかなぁって思いますよね。
さて、無事に楽譜は戻ってきましたが、一体毛利さくらは、なぜ楽譜のありかを推理することができたのか。次回、解決編です。