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オペラ探偵 毛利さくらの美学 第一話「椿姫」 第一回

日本で唯一の市立オペラハウスである、桜園シティオペラハウス。

ここで上演されるオペラ舞台で起こる「事件」に挑むのは、

「オペラ探偵」こと毛利さくらと、舞台裏スタッフアルバイトの有沢みなみ。

今日の「事件」は、ヴェルディの傑作「椿姫」の舞台裏で起こります。

美少女探偵コンビは無事に「事件」を解決して、全てを大団円に導けるのか?

「椿姫」の開幕です。

序曲〜オペラ探偵 毛利さくらの美学〜


毛利さくらには美学がある。

頑なに守られるその美学のおかげで、彼女はシティオペラハウスの客席で、色鮮やかなアゲハ蝶のように一際目立つ。

オペラハウスの常連の中には、密かに彼女目当てに来場している隠れファンもいると聞く。

だが、毛利さくらがそんな人々の噂話や好奇の視線を気にするはずもない。

今日も彼女は、自分の美学を貫いて、桜園シティオペラハウスの上手の桟敷席に、背筋をしゃん、と伸ばして座っている。

劇場を包み込む豊穣な音楽の響きに包まれ、滑らかな頬をうっすら桃色に染めて。

華やかな舞台の色とりどりの照明ライトの照り返しに、大きな瞳をキラキラ輝かせながら。

今日も、明日も、おそらく明後日も。



幕前劇その1 桜園シティオペラハウス前階段


「蔵本先生お休みか…」ため息混じりに呟いた。

駅前広場につながる幅広の階段の登り口に設置された公演ポスターの掲示板。今日、その前に立って、今の言葉を呟いた人は、きっと私だけじゃないと思う。掲示板に張り出された大判ポスターには、大きく書かれた「椿姫」の飾り文字が踊っている。背景になっているのは豪奢なシャンデリアの下がった19世紀風のボールルームに、煌びやかな衣装の貴族達が立ち並ぶ舞台写真。その下に並ぶ出演者の顔写真の中で、とりわけ大きなプロフィール写真は、燕尾服に大きな紫の蝶ネクタイを締めた白髪のオジサンだ。こちらに向けられた鋭い視線。その下には、「音楽監督・指揮 蔵本稔」と、これまた他の出演者より2回りくらい大きな活字。そしてそんな華々しいアピールを自分でも恥ずかしいと思ったのか、随分控えめな小さな赤文字のシールが、写真の胸元あたりに遠慮がちに貼ってある。

「本日体調不良にて代理指揮者となります」


「楽しむの、楽しむのよ。ただ快楽に巻き取られて…」階段の方から歌うような声がする。

「払い戻しチケットどれくらい出るかな…」と、私が呟くと、階段に座っていたスミレ色の花がふわり、と立ち上がる。

「そはかの人か…」スミレ色の花が続ける。「逆にワクワクしてるお客様もいるんじゃない?これで真谷先輩が華々しくデビューすれば、私たちは歴史的瞬間を目撃できる。」

にっこり微笑むスミレ色の女。階段の上から駅前広場を見下ろすその姿は、たった今ファンタジーアニメの世界から現実世界に舞い降りてきた妖精みたいに周りから浮き上がって見える。つややかな黒髪をまとめているのは、光沢のある真珠をあしらった紫のカチューシャ。白のレース襟にゆったりと広がる白い袖、胸元を飾る大きなスミレ色のリボン。その中央には真っ青なジュエリーが輝いている。胸元もリボンと同じスミレ色の生地だが、装飾は最小限でシンプルにまとめて清楚感は保ちつつ、金色の飾りボタンでゴージャス感は欠かさない。腰のあたりにもスミレ色のリボンがあしらってあり、リボンからスカートの裾に向かってオーガンジー生地がふんわりと広がって、スカートを柔らかなドレープで包む。そして何より目を射るのは、スカートの裾に施された一面に咲き乱れるスミレの花だ。一つ一つの花弁にキラキラ光るラメ加工が施されていて、七色の光の花畑を纏っているような豪華さ。輝くスミレの花畑を綺麗に見せるためにスカートがふっくら膨らんでいるのは、下にしっかりパニエを仕込んでいるからだろう。ほっそりした足を包むのはやはり薄紫のタイツ、靴は白に薄い青のリボン付きのパンプスですっきりシンプルに仕上げている。

「今日はスミレがテーマなのね?」私はため息混じりに言う。

「ありがちだけどね」と、毛利さくらは、私、有沢みなみの前で、くるりと回ってポーズを取った。長いサラサラの黒髪が、鮮やかなすみれ色のゴシックロリータ風衣装の上に無数の光の輪を広げる。「あえて他の色にすることもないだろうし」と言って、にっこり微笑む大きな瞳。ちょっと悔しいけどこいつ、やっぱり見とれるほど綺麗だな。


オペラは可能な限り、華やかな衣装で見る。

それが毛利さくらの美学で、それに多少本人の2.5次元的趣味も加わって、毛利さくらはシティオペラハウスの公演を、必ずゴシックロリータ風の衣装で観劇する。そして、桜園音楽大学の理事長家の一員、という特権を遠慮なく行使して、理事長がキープしているオペラハウスの上手の桟敷席に陣取る。ゴスロリ衣装が違和感なく似合ってしまう美貌も手伝って、私が通う桜園音楽大学舞台総合芸術学科の同級生の中でも、否が応でも注目の的になっているこのオペラマニアの女が、一般中流家庭出身で平凡度で一二を争ってる私みたいな地味子になんだってやたらと絡んでくるのか、未だによく分からない。


「オペラハウスはね、客席に入った瞬間から既に非日常でなければいけないの。19世紀に大衆化されたと言っても、やはり当時もオペラハウスは上流階級の社交場だった。桜園市立シティオペラハウスは、客席にお客様が足を踏み入れた瞬間から非日常を演出しなければいけない。私のこの衣装はオペラハウスの経営陣のスポンサーシップも付いてるのよ。」


初めて彼女にオペラハウスに誘われた時、待ち合わせの場所に真っ赤なゴシックロリータ衣装に赤い薔薇をあしらったカチューシャをつけて登場した彼女は(ちなみにその晩の演目は「カルメン」だった)、私に向かって豪然とそう言い放った。私もそれなりに気張ったお嬢様ワンピースで臨んだのだけど、桟敷席から舞台を睥睨する真っ赤なバラに変化した毛利さくらの隣では、バラの茎に取り付いたアブラムシ程度の存在感しかなくて、客席から自分の姿が見えないように桟敷席の壁際にびったり貼り付いていた。今でも闘牛士の歌を聴くと、あの時の自分の火照った頬の熱さと、それを冷やしてくれた桟敷席の壁の感触を思い出す。


「あのさ」と、毛利が言った。急に声が小さくなる。

「終演後、ロビーで待ってるからさ。一緒に写真撮らない?」

語尾が消え入るように小さくなって、視線が斜め下に落ちる。さっきこれ見よがしにモデルターンしてた時のオーラがしゅるしゅるっと消えていく音がしそうだ。

「このカッコの私と?」と、自分を見下ろす。ジーパンにスニーカー、黒Tシャツに黒のスタジャン。スタジャンの背中には、SAKURAZONO CITY OPERAHOUSEの青いロゴ。黒Tシャツの胸元には、真っ赤な文字で、La Traviataと染め抜いてある。まさに絵に描いたような舞台裏方スタッフの出立ち。

「そのカッコがいいんじゃん!」毛利が口を尖らして言う。そんなにムキになることかな。

「せっかくなんだから、舞台裏に来て、ヴィオレッタさんとかアルフレードさんと撮ればいいじゃん。あんたならフリーパスでしょ。」

「理事長家の特権振り回すのは美しくないって有沢言ってたじゃん。」

「でもこんななりの私とじゃ写真の時空歪むぜ。」

「スタジャン姿の有沢と撮りたいの!」ちょっと甲高い声に、階段を上ってきたおばさま達がこっちを見上げた。日差しを浴びて動く宝石みたいに煌めいている毛利を見て目を丸くしている。毛利のピスクドールみたいな透き通った頬にみるみる血潮が上がってくるのが分かる。何に照れてるんだろう。時々毛利は私に対してこういう急激な人格交代を見せる。毛利さくらの第二形態。意味がよく分からない。とりあえず、終演後にロビーで待ち合わせる約束をして、ご機嫌を直していただく。階段を駆け下りながら見上げると、にっこり微笑んでこっちに手を振った。異世界ファンタジーの貴族の城に転生したみたいな眩暈。



幕前劇その2 オペラ「椿姫」開幕前


楽屋口の入館予定者名簿にチェック入れてたら、「みなみ、おっはー」と、磯谷先輩が声かけてくれた。「ケータリング来てるから、頼むわ」と言われて、関係者室にカバン放り込んで楽屋に向かうと、廊下にセットされたテーブルの上に弁当の入ったビニール袋が積み上げてある。午前中に出演者が出したゴミの清掃と、お昼の弁当配りからスタート。まぁ、舞台スタッフの一番下っ端アルバイト学生に相応しい仕事だね。


桜園市に、日本で唯一の市立オペラハウスを設立しよう、という構想は、市が持っていた多目的ホールの改装と桜園音楽大学の誘致のタイミングが合致した所がスタートだったと聞いている。そこそこ首都圏に近くてベッドタウンとして発展はしていたけど、他の似たような郊外都市と比較してさほど特徴のなかった桜園市の行政に、オペラハウスのある街、として売り出していくのは如何ですか、と売り込んだのが、毛利さくらの祖父にあたる桜園音楽大学の当時の理事長。そりゃ桟敷席の年間チケット押さえるなんてのはチョロいよね。


とはいえ、市の限られた財源では、欧州のオペラハウスや、新国立劇場に比肩できるほどの立派なオペラハウスを作るわけにもいかなかった。客席は最大650席、オーケストラピットを設営すると最大540席。講演会などの多目的ホールとしても使用できるようにホール機構に妥協を重ねた結果、効率より高級感を重視した構造は最小限に抑えられ、桟敷席は上手下手にそれぞれ2箇所ずつ、とてもささやかに設置されている。それでも、限られた予算の中で日本唯一の施設を作り上げようという熱意のもとに落成したこのシティオペラハウスは桜園市民の誇りだし、桜園市の小中学生の音楽鑑賞の授業で、このオペラハウスの公演を見に行かない生徒はいない。


そして私が、舞台スタッフ、という職業を選んで、その技術を学ぶために、桜園音楽大学舞台総合芸術学科、という進学先を選んだのも、小学校五年生の時に見たオペラ舞台に脳天に突き抜けるような衝撃を受けたせいだ。演目は「愛の妙薬」で、典型的なオペラブッファの楽しい笑える舞台だったのに、私は1幕のアディーナのアリアから号泣し始めて、周囲の同級生や引率の先生が心配して声をかけてくるくらい、終幕までずっとボロボロ涙を流し続けていた。ドゥルカマーラが大団円を寿ぎながら去っていく祝祭的なフィナーレに拍手しながら、私は誓ったのだ。この舞台を作り上げる人になると。


指揮者楽屋のドアが開いていたので、ドアの脇の柱をノックがわりに叩く。「失礼します」と声をかけて、弁当片手に入ろうとすると、中から豪快な笑い声がしてちょっとのけぞった。「元気だよ。元気は元気なんだよ。がははは。」

一人がけの椅子に座ってふんぞりかえって大笑いしている白髪の背中。その向こうに、真谷先輩がホビット族かと見まごうばかりに小さく固まっているのが見える。目の前でガハガハ笑っている白髪オヤジを三白眼で睨みつけている。視線でこいつが殺せるものならと思っているような恨みがましい目線だけど、元々の童顔のせいで、コツメカワウソみたいな小動物がヒグマを威嚇しているみたいにしか見えない。

「しょうがないでしょ、ほら、指がね、なんかピリピリ痺れるんだよねぇ。昨日もさ、2幕の途中あたりでこりゃヤバいなぁって。指揮棒持ってるのも辛い感じでね。」

「打ち上げの時のビアジョッキは軽々持ってらっしゃいましたよね?」真谷先輩が地の底で喋っているような声で言う。

「そうねぇ、不思議だよねぇ。やっぱりストレスかなぁ。がはははは。」

「みなみちゃん!」真谷先輩が急に声のトーン上げて、そおっとお弁当を置いて立ち去ろうとした私は飛び上がった。「お弁当そこに置いたら、このクソジジイの頭、私の代わりにぶっ叩いてやってくれないかな?」

「ひどいなぁ。みんなのアイドルみなみちゃんが困っちゃてるじゃんねぇ。がはははは。」ジジイ、と言われた白髪頭が振り向いたのを見て、私は目を剥く。「蔵本先生?お休みじゃないんですか?」

「そう。今日はお休み。でも暇だからさ。可愛い弟子の顔見に来たの。ほら。もう血の気引いちゃって紫色になっちゃって、これが本当のヴィオレッタ、なんちゃって、がはははは。」心底楽しそうに笑ってる。がははははって、小説なんかで笑い声の描写で使う言葉だけど、本当に、がははははって笑うのを聞いたのは蔵本先生が初めてかもしれないなぁ。

「みなみちゃん、この悪魔を裏のゴミ捨て場に捨ててきて」真谷先輩が真顔で言う。

「今更楽譜にかじりついたって遅いのよ。スコアなんか見なくっても、隅から隅まで全部頭に入ってるでしょ?そのちっちゃい頭の中にさ」蔵本先生がよっこらせ、と掛け声をかけて立ち上がる。「まぁ、僕があげた折角のチャンスなんだからね、僕の名前に傷付けないように、しっかりやってちょうだい。」

ひとしきり、がはははは、と笑ったあと、頭抱えている真谷先輩のつむじのあたりに、ポン、と手のひらを置いた。おっきな手のひら。「大丈夫。あんたならできる。この中にある、あんたの椿姫、僕は大好きだよ。」

蔵本先生がガハガハ笑いながら出ていく背中を私は呆然と見送る。オーケストラメンバーらしい黒服の男性に話しかけられて振り返った蔵本先生が、また大口開けて笑っているのが見える。

「何しに来たんだクソオヤジ!」真谷先輩が吐き捨てるように言う。言いながら、自分の頭の上に手を置いた。蔵本先生の手のひらの感触確かめるみたいに。


「その師弟漫才、私も見たかったなぁ」磯谷先輩がお弁当をかき込みながら呟く。

「蔵本先生、全然元気そうでしたよ」私が言うと、「仮病に決めってるじゃん」と磯谷先輩が、鳥の唐揚げ突き刺したお箸を私に向けながら笑った。「毎回のことよ。全公演の中の一回は、なんのかんのと理由をつけてお弟子さんに代振りさせるんだよ。そうやって本番経験を積ませるの。でもまぁ、正直言うと、広報部には評判悪い。」

まぁそりゃそうだろうな。蔵本先生目当てに来るお客様だって多いし、代振りの指揮者が必ずしも有能とは限らない。むしろ師匠の作り上げたアンサンブルを崩すまいとして、安全運転のつまらない演奏になることも多いだろう。

「とはいえ、若い世代への先行投資だよって先生も言うし、成功例もいくつかあるからねぇ。武藤さんとか中元さんとか、代振りの舞台でファンがついたケースもあるし。」

そういうところも、このシティオペラハウスならではなんだろうな。代振りの指揮者の多くは、桜園音楽大学指揮科の出身で、シティオペラハウスでの学生公演の頃から地元の固定客に目をつけられている人もいる。指揮者だけじゃなく、歌い手をはじめとする演奏家達を、桜園市全体で育てていこうって言う空気感がある。地元密着型のオペラカンパニーのメリットだ。

「真谷先輩大丈夫かなぁ」私が呟くと、磯谷先輩も深く頷く。「大丈夫だと思うよ。オペラハウスの連中はみんな、ゆづちゃんのサポーターだもん。彼女が学生の頃からみんなで見守ってきたんだからね。」

磯谷先輩もね、と言うと、ちょっと照れたみたいに笑った。磯谷先輩はまさに、桜園音楽大学舞台総合芸術学科の初期の卒業生で、このオペラハウスで舞台裏を学び、舞台スタッフとして色んなホールで経験を積んで、この春、シティオペラハウス付きの舞台スタッフとしてホームに戻ってきた生え抜きだ。磯谷先輩を見守ってきた年配のホールスタッフさんも多い。そして、そんなホールスタッフ達みんなが、同じように学生の頃から見守ってきたのが真谷先輩。


「大学卒業公演の時の真谷先輩のフィガロは伝説になってる」毛利さくらの声を思い出す。「先輩が弾くチェンバロでレチタティーヴォを歌う歌い手が、楽しくてたまらないっていうキラッキラの声で歌うんだ。大学オケがあんなに輝く音を鳴らしたのを初めて聞いた。

「でもね」と、毛利は付け足した。「あのフィガロ以上の舞台はそのあと作れてない。真谷先輩の指揮はそつがないけど、そんなにワクワクしない。そろそろ殻を破って欲しいって、蔵本先生も思ってるはずだね。」

毛利さくらは、私と同じ舞台総合芸術学科の学生だけど、舞台裏スタッフを目指す私と違って、オペラを中心とした舞台制作のプロデューサーになるのが夢だと言った。彼女の家柄からすれば決して夢物語じゃないだろう。ビジネスとして舞台を見ることもできる彼女なりに、真谷佑月という指揮者を商品としてシビアに見ている。


磯谷先輩ともっともっと話したいけど、我々舞台裏スタッフにお昼休みなんてあってないようなものだ。食べ終えた弁当のゴミをどこに捨てればいいか、みたいな私でも答えられる質問や、演出の小道具のセッティングとハケるタイミングといった、舞台の流れを把握している磯谷先輩みたいなステマネクラスの裏方でないと対応できない質問まで、色んな人が、この、「関係者室」の入り口にやってくる。この部屋の扉は当たり前のように開けっぱなし。私たちが着ているスタジャンは、「なんでもお伺いしますよ」という看板みたいなものだ。今回の公演だけに参加するエキストラの出演者も多いから、舞台裏の基本構造のご案内から含めて、お昼ご飯を頬張りながら楽屋の廊下を走り回るのはしょっちゅう。


でもやっぱり、この本番前の活気に満ちた舞台裏が、私はたまらなく好きだって思う。華やかな舞台を支える楽屋は公共施設らしい殺風景なリノリウムの廊下で、警察の取り調べ室みたいな無機質な扉が並んでいるだけ。埃が溜まった奈落含めて暗くてかび臭いステージ裏。どこを切り取っても芸術からはかけ離れた殺風景な光景なのに、それが奇跡みたいに光り輝く舞台を生み出している。開場は14時、開演は14時半。そろそろ気の早いお客様が入場口に並び始める頃だ。指定席って分かっていても、なんとなく開場時間より前から並ぶ人がいるのが不思議だよなぁ。そして多分、毛利さくらは、お昼ご飯の後のデザートとお茶をゆっくり楽しんでらっしゃるんだろう。当たってるかな、と、LINEを開いてみたら、メッセージが届いてた。「つまんねー」と一言。


「何してるの?」と返信したら、「お茶してる」と返ってきた。予想通りだな。

「いつもの皆さん来てないの?」開幕前の毛利さくらとお話しするのが大好きなお歳を召した常連さんも多くて、オペラハウス併設のカフェ「ラ・ボエーム」にいれば、開幕まであんまり退屈しないのが普通なんだけど。

「来てる。お話中」なんだ、一人じゃないのか。「お話してるなら退屈しないでしょうに。」

「有沢がいないとつまんねー」と返信。なんでこいつはこういうバカップルみたいなメッセージ送ってくるかな。「真谷先輩元気してる?」と聞いてくる。

「元気だよ。蔵本先生が先生なりに激励してた。」

「師弟漫才か」と返信。よく分かってらっしゃる。

「幕が降りるまでドキドキだよ」って返したら、「無事を祈る」って返ってきた。おお、祈っててくれ。ハープとコントラバス以外の音出しを終えるように、という舞台裏アナウンスが流れる。舞台上の1幕のセッティングを確かめないと。


でも、毛利の祈りは届かず、この日の公演は、「無事」というわけにはいかなかった。この日起こった「事件」のおかげで、私は今でも、「椿姫」の序曲が流れると、背筋にゾワッと冷たいものが走る感覚がする。この日の開演直後の、あの何もかもが凍りついたような刹那の静寂。何も気づかず膨れ上がる客席の期待感を背中に、ゆっくりと顔を上げて、オーケストラを見回した真谷先輩の鬼神のような表情。その唇に浮かんだ小さな微笑み。怒りも激情も何もかもを超えて、全てのものを自分の指揮棒でねじ伏せるのだ、という強い決意の微笑みは、ふっと絶望の切なげな哀しみに取って代わり、ヴィオレッタの死を予言する暗い序曲に向けて、真谷先輩のタクトが静かに振り下ろされる。私の全身に鳥肌が立ったあの一瞬。そしてこの日の公演の記憶の最後を飾るのは、全てにスッキリと道筋を示してくれたオペラ探偵毛利さくらの横顔に浮かんだ、ちょっとはにかんだ美しい微笑みなのだ。


(続く)

オペラとアイドル、という、自分の大好きなものだけで作り上げてみた、軽いミステリー小説です。全3回。他のお話も書けたらいいなぁ、と思っています。お楽しみください。

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