貴方は違う
どれくらいの時間が経ったのか分からない。既に潰れ切った頬は感覚を手放し、痛みすら感じない。開き切って閉じなくなった口からは、言葉にならない音が漏れるだけで、真面に喋れる状態ではなくなっていた。
「おい、柴田。そいつ、もう喋れなくなってるじゃねぇーか」斎藤と呼ばれていた男の声がした。
「え?やり過ぎました?」
「ああ、御厨さんに怒られるぞ」
「うわー、それは嫌だな。どうしよう?」
この若い男は柴田というのか、と思いながら、俺は悪戯っ子のような声を聞いていた。それは既にただの現実逃避でしかない。俺はもう、何も考えたくないと思い始めていた。
「どうもできないだろう。素直に怒られろ」
「斎藤さんも一緒に怒られてくれますか?」
「俺は関係ないだろう?」
「いや、でも、斎藤さんも見てたのに止めなかったところとか悪いじゃないですか?」
「何だよ、その理論。お前の失敗を俺にも被せるなよ」
「下のミスは上の責任でもあると思うんですよ」
「それは上の人間が言うことで下の人間が言うことじゃない」
「いいですよね?ね?」
二人の男による子供の押しつけ合いのような会話を、俺はほとんど聞いていなかった。片方の耳から入って、片方の耳から出ていくだけで、その言葉の一つ一つに含まれた意味を一切汲み取れない。
俺はただ、これから自分がどうなるのかを考えていた。このまま嬲り殺しにされるのだろうか。あの御厨という男が聞きたがっていたことも、俺には納得のできる答えを返せる自信がない。ただ好奇心で注文した死体が怖くなり、返そうと思っただけだが、それで納得してくれるとは思えない。
思えば、ただの好奇心で首を突っ込むべきではなかった。面白そうくらいの理由で、注文するようなものではなかったのだ。そこにはそれ相応の覚悟が必要だった。少なくとも、死体を自分で処理するくらいの覚悟は必要だった。そうしたら、探偵に嗅ぎつけられても、マグロ運送の人間に捕らえられることはなく、俺は今頃自由になっていたはずだ。
止め方を忘れたように目からは涙が零れ落ちていた。後悔が忘れ去った痛みの代わりに襲ってきて、俺の身体を支配する。もう既にどうしようもなかった。
「おい、どうだ?」不意に遠くから声が聞こえてきた。どうやら、御厨という男が戻ってきたようだ。
「御厨さん、すみません。柴田がやり過ぎました」
俺のすぐ近くで足音が止まり、俺のすぐ近くで呼吸の音が聞こえてきた。恐らく、御厨という男が俺の顔を覗き込んでいる。
そう思った直後、柴田という若い男が苦しそうな声を出した。何かがぶつかるような音が、声と一緒に聞こえてくる。男の苦しそうな声の近さから、男が倒れ込んだことは分かった。その理由も、何となく、想像がつく。
「話すようにしろと言ったはずだ。それがお前の仕事だろう?真面にできないのか?」
「すみません…」柴田という若い男が、さっきまでの元気さの欠片もない声を漏らす。
「お前の所為で、俺はしばらく待たなくちゃいけなくなった。そのことが分かっているのか?」
御厨という男の声が震える度に、若い男が苦しそうな声を漏らしていた。布団を叩くような音が一緒に聞こえ、誰が何をされているのか、俺ははっきりと想像できる。
「馬鹿が。無駄に仕事を増やしやがって。本当なら、すぐ終わるはずだったんだ」
「すみません…」若い男の声は微かに震えていた。それが恐怖からなのか、痛みからなのかは分からない。
「斎藤。そいつの傷が治って、喋れるようになるまで見てや…」ここで御厨という男の言葉が止まった。
その理由は俺の耳にも届いていた。三人が歩いてきた方向から、何かの物音が聞こえてくる。壁に立てかけていた板が風で倒れたような音で、それに続いて足音が鳴っている。男達の足音よりも軽い足音は、比べると小さな子供の物のように感じるほどだった。
「誰か来たのか?」御厨が訝しげに呟く。「見てこい」
俺の近くで誰かが立ち上がる音がする。御厨の指示で柴田という男が見に行こうとしているようだ。何かしらの暴行を受けていたはずだが、それを感じさせない勢いで、物音の方に走っている。
「お前が早く話していれば、こうなることもなかったのにな」と言いながら、俺の腹を蹴り飛ばしてきた。
俺は口から何かを飛ばす。それが唾液なのか、血液なのか、嘔吐物なのか、俺には分からない。ただ汚いものであることは確かなようで、御厨が少し下がったことは分かった。
「何?君、どうしたの?」と遠くから声が聞こえてきた。快活さを取り戻した柴田の声だ。その直後、何かが倒れるような音が再び聞こえてくる。
「どうした?」
御厨が声をかけているが、柴田からの返答は聞こえてこない。それどころか、物音の方から聞こえていた軽い足音が近づいてきているように聞こえる。
「何だ、お前?」不意に御厨の声が聞こえてきた。何かに驚いたように聞こえる声だ。
「御厨さん…!?」
御厨の隣に立っていると思われる斎藤は、既に焦ったように声を出していた。目隠しをされているため、一切状況が分からないが、この二人を焦らせる誰かがそこに来ていることは分かる。
もしかしたら、警察か、と俺が思った直後、俺の足に何かが倒れてきた。その重さと柔らかさには覚えがあるが、俺は何か分からない。
「斎藤…?お前、何をしたんだ…?」御厨の声に明確な怯えが含まれている。
そこで俺は思い出した。足に倒れてきたこの感触は、最近味わったことのある感触だ。早乙女柚希の死体の感触と、とても似ている。
「お前はだ…」
そこから、御厨の声が聞こえなくなった。俺は何が起きているのか理解できず、ただ縮こまることしかできない。まさかとは思うが、この足に乗っている物は斎藤の、と思ったところで、軽い足音が近づいてきた。
すぐ近くで吐息を感じた。じっと顔を覗き込まれている。何か分からないが、殺されるかもしれない。そう思った直後、すぐ目の前から声が聞こえてきた。
「貴方は違う」
それは冷ややかな少女の声だった。「え?」と俺が思わず呟いた時には、目の前から気配が消えている。
気づけば、俺は静寂の中に取り残されていた。