サンドバッグ
柔い感覚が瞼の上に触れている。瞼を開くことはできるが、周囲を見ることはできない。布か何かで目隠しをされている、とすぐに分かり、その目隠しを外そうと手を伸ばした――つもりだった。
しかし、伸ばそうとした手は背中から動くことがなかった。ロープで縛られているようで、少し動かすだけでも、手首が酷く擦れて痛む。何とか、解けないかと思い、身体を必死に動かしてみるが、手首のロープは緩む気配がない。
それよりも、身体を動かしたことで、腹部が酷く痛むことが気になった。痛む原因に心当たりはないが、心当たりで言うなら、今の状況からして、ない。何故、目隠しをされ、後ろ手に縛られているのか、そこからして分からない。
確か、死体をスーツケースに入れて運んでいたはずだ。死体を家族のところに返したはずだ。それから、電車に乗って最寄り駅まで戻ってきて、上杉に見つからないように家に籠ろうと思っていたはずだ。
そうやって思い出していく中で、自分の身に何が起きたのか思い出し始めていた。ゆっくりと腹部の痛みが、その痛みの原因を含めた記憶の全てを、俺の脳の奥から引っ張り出してくれる。
腹の底から響くような低い声が脳の奥から聞こえてきた。俺の腹部に鋭い痛みを感じ、あれはスタンガンだったと気づく。男の表情は思い出せないが、あの男が俺をこうして捕らえているのか、と思った。それも人違いの類ではなく、間違いなく俺を狙っていたことは、名前を知っていたことから分かる。
どうして、俺を捕らえたのだろうか、などと疑問に感じる暇はなかった。この場から逃げ出さなければ、と思い、俺は必死に両手を動かし、拘束から逃れようとする。そこで両足が自由に動かないことに気づいた。両手だけでなく、両足まで縛られているようだ。視界と四肢の自由を奪われ、俺は完全に囚われの身となっている。
「あ、気がついたみたいですよ、御厨さん」遠くの方で声がした。
聞き覚えのない若い男の声で、少年のように無邪気な快活さが宿っている。御厨という人物に報告しているようだが、目隠しされ、声だけ聞いている状態だと、子供が親に報告しているように聞こえてくる。
「ようやくか」
この声には、聞き覚えがあった。最寄り駅で話しかけてきて、俺にスタンガンを食らわした男だ。腹の底から響くような低い声は間違いない。
足音が近づいてくるのが分かった。俺の耳は特別良いわけではないので、人数までは分からないが、足音の混ざり方から、声の聞こえてきた二人以外にも人がいるように思われる。少なくとも、俺以外に三人はこの場所にいる。
「良く眠っていたな」すぐ目の前から声がした。「どれくらい経った?」
男が聞くと、さっきの若い男が「四時間くらいですね」と答えている。
四時間。それだけの時間、俺は気を失っていたのかと思うと、愕然とした。
「それだけ俺達は待ったんだ。すぐに起こすこともできたのに、敢えて起こさずに。言いたいことが分かるか?その気遣いに感謝して、素直に話してくれ」
中心となって話しているのは、俺にスタンガンを食らわしたあの男だ。この男が、さっき聞いた御厨という人物なのかもしれない、と俺が思っていると、男の声が更に近くなる。顔を近づけてきたみたいだ。
「どうして、死体を返した?」
男の発した言葉に、俺の頭は完全に停止した。少しずつ、この状況を理解しようとしていたのに、その理解も一瞬で霧散する。
死体。返す。男は完全に俺が死体を頼んだことや、死体を家族のところに返したことを知っている。どうして、と疑問に思うのも束の間、答えはすぐに降ってくる。
マグロ運送の関係者だ。それしかない。この男達は、マグロ運送の人間なのだ。
それなら、どうして俺は捕らわれているのか。そもそも、マグロ運送の人間がどうして、俺が死体を返したことを知っているのか。それらの疑問は、泡のように湧いてきては、その側から消えていく。
「どうした?返事の仕方を知らないのか?」男の声は軽く苛立ち始めていた。
何だか知らないが、このままでは危ないと思った瞬間、俺の腹部に鋭く何かが突き刺さる。刃物のように鋭利な物ではなく、だからこそ、深く腹に減り込む。
「かっ…は…」意味を持たない音としての声が漏れた。呼吸が一瞬で荒れる。
「言っただろう?待ったって。俺達は待ったんだ。四時間も。その間に、どれだけイライラが溜まっていると思う?想像できないのか!?」再び腹部に何かが減り込んだ。寸前の男の声の荒れ方から、それが男の蹴りだと、そこで分かった。
両手両足を縛られている状態で、俺の腹部は無防備に晒されていた。男の蹴りから守ることもできない上に、蹴られて痛む腹を押さえることもできない。俺はただ腹の底を這いずり回るような痛みに、苦悶の声を漏らすばかりだった。
「これだから、馬鹿は嫌いなんだ!!素直に話せば終わるのに、その程度も理解できないのか!?」男は更に荒い声を漏らす。
男の蹴りが再び俺の腹部を襲った。それから数度、俺は無防備な腹を蹴られることになる。最初こそ猛烈に痛かった蹴りも、二度三度と食らえば痛みよりも気分の悪さが勝ってくる。俺は倒れ込んだまま、喉を駆け上がる異物に溺れないようにするだけで必死だ。
何度目かの男の蹴りが腹部に刺さり、俺の口から酸い液体が零れた。さっきの若い男が近くで、驚いたように声を漏らす。「汚っ!?」
「……めてください…」俺はようやく声を零すことができた。
「何だ?」男の声が近づいてくる。
「…やめてください……お願いします…」
目隠しの下で俺の目はぐちゃぐちゃに濡れていた。情けないことだが、もう一発蹴られたら、上ではなく下から何かが漏れ出すことになる。それくらいに俺の身体は限界を迎えようとしていた。
「はあ」と深い男の溜め息が聞こえてきた。「興醒めだな」
男が俺の身体を突き放すように蹴り飛ばしてきた。さっきまでの蹴りと比べると、痛みこそ少なかったが、屈辱的であることに変わりはない。
「お前ら、そいつが話すようにしておけ」
男がそう言った瞬間、俺の近くで二つの返事が聞こえてくる。さっきの若い男ともう一人。つまり、この場には俺以外に三人がいたようだ。
俺から離れていく足音が聞こえた。今の発言から、御厨という男が立ち去ったのだろう。そう思った瞬間、俺は頬に鋭い痛みを覚えた。頬に熱さを感じながら、俺は殴られたと理解する。
「斎藤さん。俺の好きなようにしていいですか?」さっきの若い男の声がする。
「いいけど、殺すなよ。俺達が御厨さんに殺されるぞ?」
「ああ、そうですね。分かってますよ」
今度はさっきと反対側の頬が殴られた。俺の頭が大きく揺れ、口から何かが零れる。口の中が切れて血が出たのか、涎が飛び出ているだけなのか、さっき吐いたものが残っていたのか見えないから分からない。
「取り敢えず、ギリギリまでやりますよ」若い男が楽しそうに呟いた。
そこから、俺はただ殴られ続けることになった。俺が何を言っても、俺が泣き出しても、俺の頬が形を保つことをやめても、男は俺を殴り続けていた。男にとって俺はストレスを発散するためのサンドバッグでしかないようだった。
俺が再び意識を失ったのは、それからすぐのことだ。それも次に殴られるまでの、ほんの一瞬のことだった。