☑返品完了
疑問は疑問のまま、確かに俺の中に存在していたが、疑問を解消しても死体はなくならない。俺の今の目的が死体を家族の元に届けることである以上は、そのことだけを考えて、俺は行動しなければいけない。疑問の解消はそこには含まれていない。
電車が駅に到着し、俺はその思いだけで、再びスーツケースを押し始めていた。問題はここからだった。目的の家がある場所は分かっているが、そこまでの間にあまり人目につきたくはない。仮にスーツケースを押している姿を見られたら、誰が死体の入ったスーツケースを持ってきたか分かってしまう。俺はこっそりと家の前にスーツケースを置いて、ただ押しつけるように立ち去るだけのつもりだった。そのためには見つからないようにしながら、家に辿りつかないといけない。
キャスターがアスファルトを転がり、ゴロゴロと音を立てる。この音を消すためには、死体とドライアイスが収まるくらいのスーツケースを持ち上げないといけないが、それができたら、俺は人間ではなくゴリラだ。キャスターの音を消すことは難しい。
これは誰もいない間に運ぶしかない、と思い、周囲を警戒しながら歩き出した直後、俺は視線を感じて、慌てて周囲に目を向けた。それはずっとつきまとっている視線と同じようで、俺の妄想が作り出した存在しない視線だ。分っている。分ってはいるが、分かっていても、この反応だけは変えられない。何度も、誰もいない場所を確認して、誰もいないということに安心する。そのことばかりを繰り返してしまう。
そのため、俺がスーツケースを押して、早乙女家に到着するまで、かなりの時間がかかってしまっていた。何とか誰にも見つからずに辿りつけたから、結果的に良かったのかもしれないが、見つかりたくないのなら、時間をかけるべきではなかったという反省が、辿りついた安堵と一緒に湧いてくる。
早乙女家は半ば廃墟のように変わり果てていた。敷地内には花壇があるが、そこには雑草以外の植物が生えておらず、家の壁面には植物の蔦が巻きつきかけている。それだけで判断すると人が住んでいるようには思えないが、郵便受けや玄関付近、庭に置かれた自転車等の日常的に使っていそうな場所は比較的綺麗に保たれているので、人が住んでいることに間違いはないはずだ。何より、住んでいてくれないと困る、と俺は思う。ここまで人生の終わりの瀬戸際を歩いてきて、その先に目的の人も誰もいなかったとなると、俺はただ人生を危険に晒した馬鹿ということになる。それだけは避けたい。
人がいないこと自体は嬉しいことだったが、本当に人がいないことは問題でしかないので、俺は家の前にスーツケースを置いてから、少し家の中に人がいるのか確認を始める。家の周辺を歩いたり、家の中を覗き込んだりしながら、家の中から物音でも聞こえてこないかと聞き耳を立てる。それをしばらく繰り返し、ようやく家の中から物音が聞こえたことで、俺は一安心したのだが、そこで自分に対する視線に気づいた。その瞬間、自分が目立つ行動を取っていたと気づき、慌てて周囲に目を向ける。
しかし、今回も人は誰もいなかった。やはり、俺の自意識が生み出している存在しない視線なのだと思いながら、俺は人がいない間に慌てて早乙女家を離れる。これで無事にスーツケースの中に入った死体は返すことができた。これで俺も死体から解放され、元通りの生活に戻る。そのことがとても嬉しく、早乙女家から駅までの間は軽く鼻歌を歌いながら、うきうきとした足取りで歩いていた。
そこで電車に乗って、最寄りの駅に戻るまでの間、俺はこれからどうするかを考える。これで死体から解放されたが、それが知られないとも限らない。少なくとも、探偵と探偵助手の二人は、マグロ運送の存在とそのサイトから死体を取り寄せたことを一端ながら知っていたので、他の人にも知られる可能性は十分にある。まだ完璧に落ちつけるというわけではない。それから、早乙女家に向かうまでの間、上杉に逢ってしまったことで、俺は最低でも数日間は外出できなくなってしまった。実家に帰ると言っていた人物が、実家に帰っていないと知られたら、怪しまれるのは自明の理だ。
これからしばらくは家で大人しく、死体を返したことで起こるかもしれない騒ぎが収まるのを待つべきだ。そうしたら、やがて死体が盗まれ、返された事件のことなど誰もが忘れ、俺の背負った罪は存在しなかったことになる。その時こそ、ようやく俺の人生は終わらなかったと言える瞬間なのだ。
俺はそのことに確かな喜びを感じながら、到着した最寄りの駅で電車を降りた。そこで不意に肩を叩かれ、俺は咄嗟に青褪めた。まさか、上杉か、と思い、早速見つかってしまったことに、どのように言い訳をすればいいのか頭を悩ませながら振り返る。
しかし、そこに立っていた人物は上杉ではなかった。そのことに安心すると同時に、俺は不思議に思う。そこに立っていた男の顔に俺は見覚えがない。それなら、俺の肩を叩いてきたこの男は誰なのだろうか。もしかしたら、人違いか、と考えながら、俺はその男に訊ねた。
「何ですか?」
「和泉悠風さん?」首を傾げながら、聞いてくる。
「ああ、はい」と俺は軽く答えた。その瞬間、俺の肩を叩いていた男が笑みを浮かべた。優しく俺の肩を掴み、「やっぱり」とだけ言ったかと思うと、俺の腹部に手を当ててきた。そこに鋭い痛みを感じ、俺は呼吸ができなくなる。
「はっ…!?がっ…!?」
遠退く意識と一緒に男の身体に倒れ込む最中、男が俺に触れる手の中に、黒い何かを握っていることに気づいた。その瞬間は頭が働かず、その物体が何か分からなかった。その物体の正体がスタンガンであることに気づくのは、それから数時間後のことだ。
俺は真っ黒い世界で目覚める。