アリス探偵社
俺と死体の同居生活は始まりそうな予感だけ告げて、始まることがなかった。それもそのはず、相手は常温放置で腐る死体なのだから、同居生活と言えるほどに部屋の中に置いておくことはできない。木箱の中でこれ以上腐らないようにするのが精一杯だ。木箱の中に放置するとしても、ドライアイスは気づけば空気中に消えているので、それを買い足すこともしなければいけない。結果的に、気分は介護に近かった。
それ以外の日常部分は驚くほどに大きな変化はなかった。大学もバイトも変化がなく、本当に死体があるのかと疑問に思うほどだったが、家に帰ると部屋の片隅で木箱がスペースを潰しているので、その疑問も湧いた側から消えていた。
寧ろ、それら変化のない日常が死体の存在を際立たせ、俺の頭を更に悩ませることになっていた。この日常を一瞬で壊すかもしれないと思うと、あの死体が爆弾のように思えてくる。
そして、その爆弾の起爆の知らせが不意に届くことになった。死体の到着から四日が過ぎようとしている頃のことだ。大学での授業が終わり、バイトもないので家に帰ってきたところで、部屋のチャイムが鳴らされた。俺は何となく、覗き窓からドアの向こうを見て、誰が立っているのか確認しようとする。
しかし、不思議なことにそこには誰も立っていなかった。今までに経験は一切ないが、もしかしたら悪戯か、と思い、俺は一度玄関から離れる。
そこで再び、チャイムが鳴らされた。俺は驚くと同時に恐怖を怯え、身体を竦ませる。心霊現象かと警戒しながら、ゆっくりと玄関の覗き窓に近づいてみる。
しかし、やはりそこには誰もいない。そのあまりの不気味さに寒気を覚えながら、俺は一度、ドアを開いてみることにした。バン、と向こう側に人が立っていたら、クレームだけでは済まない勢いでドアを開く。その直後、ドアの脇からにゅっと二つの顔が伸びてきた。
「どうも、こんにちは」
俺は言葉にならない悲鳴を上げそうになり、慌てて両手で口を押さえる。そこに立っていたのは二人の女性だった。覗き窓から見えないように、死角に隠れていたようだ。何の目的で、と思ったが、それ以上に平静を装うので精一杯だったので、それを聞くことはできなかった。その間に、二人の女性が何かを手渡してくる。
「初めまして、私達、こういう者です」
未だドキドキとしたままの心臓を押さえながら、女性の手渡した物を受け取る。どうやら、それは名刺のようだった。手前の女性の名刺には八雲京花、奥の女性の名刺には小林ささら、とそれぞれの名前が書かれている。その隣には、『アリス探偵社 探偵』と『アリス探偵社 探偵助手』という風に書かれているところを見ると、二人はこのアリス探偵社という会社の探偵のようだ。
「探偵……?」
俺が思わずつぶやくと、「はい」と奥の女性が愛らしい笑顔で答えてくれた。まだ二十代の女性のようで、セミロングくらいの髪やつぶらな瞳が長毛の犬を彷彿とさせる。
「探偵がどうして、ここに?」と俺が聞くなり、手前に立っていた女性がグイッと顔を近づけてきた。非常に綺麗な女性だとは思うが、こうして近づいてみると、小さな皺が見つかるところを見ると、それなりの年齢ではあるようだ。目つきは鋭く、顔を近づけられると、脳の奥まで覗かれているような気分になる。
「一つ、お聞きしたいことがあるのですが」八雲という女性の口だけが動いた。「よろしいでしょうか?」と聞きながらも、視線や表情は俺の前に残ったまま、微動だにしない。
それがやけに不気味に映り、俺は口籠った。「よろしいでしょうか?」と聞かれた直後であるはずなのに、何も答えることができず、ただ首を縦に振ることしかできない。
「それでは単刀直入に…」
「待ってください、八雲さん。きっと単刀直入に訊ねても、答えてくれないと思いますよ」
「ああ、そうね。それは多分、そうよね。なら、ちょっと違う聞き方をした方がいいのかしら?」
「そうしましょう」
ここまでの作戦が全て俺に筒抜けなのだが、二人は一切気にしている様子がなかった。二人共、綺麗で可愛いので、その様子だけは微笑ましく見えるのだが、単刀直入に聞かれると答えられない質問をされるのか、と思うと、その気分もすぐに霧散する。
「では、少し世間話を」真面目な顔で八雲という人が聞いてくる。「お魚は好きですか?」
「魚ですか?まあ、それなりに…」
アンケートでも取っているのかな、と思うくらいに緩い質問だが、八雲さんの表情は真剣だ。その真剣な表情で世間話をするのか、というか、真剣な表情でその質問なのか、と俺は思ったが、茶化すようなことも言えない。
「好きなお魚はありますか?」
「好きな魚ですか?」
「はい。例えば、マグロとか好きですか?」
「マグロですか?そうですね。割と好きですね」
「そうですか…」
小さく納得するようにうなずきながら、八雲さんが一度、後ろを向いた。小林という探偵助手の方を向き、小さくうなずきを見せている。それだけで何か伝わったようで、小林さんはうなずきを返していた。その様子を見たことで、俺はつい「どうしたんですか?」と聞いてしまっていた。その俺の質問を聞いた瞬間、二人が俺を真剣な表情で見てくる。
その瞬間、嫌な予感が重さを持って、俺の身体に乗ってきた。寒さとか、そういうことではなく、重労働の後の疲労感のような重さだ。
「マグロは好きなんですね?」この一言を聞きながら、そういえばマグロという文字を最近見た、とようやく思い出していた。「では、お聞きしますが」この一言を聞いた時には、どこで見たのかまで覚えていたが、もう引き返せないところに立っていることは分かった。「マグロと名のつくサイトを見たら、そこで商品を頼みますか?」
その質問の意図が分からない俺ではない。瞬間的に顔から血の気が引いていくのが分かった。それを何とか悟られないようにしながら、俺は必死に誤魔化すための言葉を探す。
「そ、そんなサイトがあるんですか?」
「ご存知でないですか?頼みませんでしたか?」
「な、何を…?」
「一部業界で言うところの『マグロ』ですね」
八雲さんの目が俺の脳を覗き込むように近づいてきた。俺はつい背後にある木箱の存在を思い出してしまう。この人達はどこでそのことを知ったのだろうか。疑問に思ったところで、目の前にいる事実は変わりがない。このままでは、俺の人生が危ないと思った。
「ちょっと意味が分からないですね」
俺の誤魔化しを見破りそうな目で、八雲さんは俺の顔をじっと見つめてきていた。俺はできるだけ表情を崩さないように努めながら、その視線の矢に耐え続ける。
やがて、「そうですか…」と呟いて、八雲さんが俺から離れた。俺は未だ治まらないドキドキを抱えたまま、八雲さんの判断に委ねることになる。
「分かりました。急な訪問、失礼しました」
八雲さんがそう言って、あっさりと引き下がったことに俺だけでなく、八雲さんの後ろで小林さんも驚いているみたいだった。「ちょっといいんですか?」と八雲さんに聞いているくらいだ。
「ええ、大丈夫。それでは、失礼します」
探偵と探偵助手の二人が帰っていく。その姿を見送ってから、俺は木箱の前に座り込んだ。どこから分かったのか分からないが、マグロ運送で頼んだ死体のことがバレていた。このままでは、俺の人生の終わりが近い。先送りにしていたが、そろそろ、死体をどうするのか、答えを出さなければいけない。俺は探偵の来訪により、ようやくその決心をした。