孤独
早番勤務が終わって家に帰ると、もうすぐ4歳になる息子がテレビを見ていた。アメリカで流行っているらしい変身ヒーローだ。夢中になっている息子を膝に乗せ一緒に見る。番組が終わって夕食の時間になっても興奮冷めやらぬ息子にこっそりと話す。「パパもああいう風に変身して悪者と戦っているんだよ」息子はきょとんとしている。まだ4歳だ、仕事のことがわからなくても仕方ない。
息子を食卓の椅子に座らせると、妻が昨年のヒーローがプリントされた食器を並べる。去年はこんなものしか買ってやれなかったが貯金にも目途がついた、来月の誕生日にはちゃんとしたおもちゃを買ってやれる。
午前中にパトロールを済ませる。ヒーローじゃないいつもの俺だ。
仲間と駄弁り時間を潰す。ホームレスの喧嘩を見て見ぬふりしてやり過ごし、盗みを働いたガキを親に引き渡した。違法駐車をしていた男から賄賂をもらってもみ消す。昼食をとり、署に戻ったらデスクワークを済ませロッカールームに向かう。ここで俺は変身する。
制服の上着を脱ぎ軽く準備運動とランニングを済ませる。ロッカールームに戻り、遅れてきた同僚と話しながら汗が染みたインナーだけになる。膝あて付きの戦闘服のズボンをはき、ジャケットを羽織る。コンバットブーツの中にズボンの裾を入れ、靴紐をきつく締める。少し痩せてきた腹をベルトで締め上げ、ジャケットのファスナーを上げる。服の上からピストルベルトを巻き付け、目出し帽をかぶり、手袋をはめる。防弾ベストに頭を通し、サングラスとヘルメットを着ける。ジャケットは暑いが腕のタトゥーを隠すために長袖は必須だ。隊長が着ているような私物のコンバットシャツが欲しくなるが思いとどまる。どうせあまり着る機会はない。顔も肌も隠すのは身元が割れないようにする為だ、特に妻と子の名を刻んだ首筋のタトゥーを見られるわけにはいかない。現実のヒーローが仮面をかぶり、変身するのは強くなるためだけじゃない、自分や家族を守るためだ。いつも持ち歩いている家族の写真もロッカーの中にしまう。武器庫からライフルとピストルを取り出し、窓口で弾薬を受け取って射撃場へ向かう。ジャケットの肩ではカラフルな国旗が激しく主張しており、防弾ベストには狙ってくれと言わんばかりに黄金の刺繍でデカデカとPOLICIAと書かれている。
そう、俺はSWATだ。
「変身ヒーロー」自分で言っていても違和感があるが嘘ではない。事実テレビでそう呼ばれたこともある。だが現実のヒーローは決してかっこいいものではないし良い人でもない。毎日汗水たらして訓練して、待機と言って仕事をさぼり、街に繰り出しては悪党どもと殺しあう。そうしてもらえる安月給を使い果たし、給料の前借や借金をせびるようになる。同僚のマイクは酒を飲んで暴れて女房と子供に逃げられた。リコは待機中にヤクのやりすぎでぶっ倒れ病院送り、カルテルと通じていたアレハンドロは邪魔になって消された。目玉をくりぬかれ家族ともどもシャンデリアに生首を飾って「自殺」したのだ。俺だって酔って喧嘩になり妻を殴ったことは2度や3度じゃない。
俺がSWATだと知っている者は少ない。当然だ、どこから情報が洩れるかわかったもんじゃない、アレハンドロの二の舞は死んでもごめんだ。妻にも本当のことは言っていない。だがこれは機密保持のためではなく心配をかけないためだ。
妻とは身分違いの恋だった。良家のお嬢様だった妻は俺との交際を両親に良く思われていなかった。そして半ば駆け落ちのように結婚し、妻は勘当された。俺の両親は妻を温かく迎え入れ実の娘のように可愛がり、妻も同様に二人を慕った。だが一緒に暮らすことはできない。都会の高級住宅街で育った妻とスラム育ちの両親では気質が違いすぎる。一緒に住んでもお互いに息苦しい思いをするだけだ。妻にとって家族は俺と4歳になる息子だけなのだ。もし夫がこんな危険な仕事をしていると知ったら、温室育ちのお嬢様に耐えられるだろうか。
今日は結婚記念日だというのに休みが取れなかった。早朝からガサ入れがある。いつものように支度をしてブリーチング用の工具を車に積み込む。装甲バンに乗り麻薬工場へ「出勤」していく。仲間の警官たちが工場を包囲する。俺たちは突入班だ。隊長の指示を待つ。GOサインが出た瞬間ドアを突き破り、工場内の従業員に作業を辞めさせ、手を挙げさせる。手分けして小部屋を全てクリアリングしてから従業員を拘束する。言葉が通じない奴がいて少々手間取ったが反撃はなかった。工場からは麻薬と製造設備、いくつかの銃器が見つかったが出荷先のリストはどこにもない。
ただ、不運なことに疫病神はいた。
カルテルのボスの甥であるエミリオだ。これで残業は決まったも同然だ。
エミリオはいけ好かない奴で、本人は侠客か何かのつもりらしく市に献金したり、学校や病院を立てたりしている。ボスへの忠誠も厚い。ただ俺に言わせればこいつは伯父の七光りで遊んでいるだけのクソ野郎だ。こいつが侠客ごっこに嵌りだしたのはここ数年の話で、ガキのころは好き放題やっていた。殺人、窃盗、強姦何でもありだ。東南アジアのどこかの国では指名手配されていて入国したが最後、絞首台に一直線らしい。仮に奴が本当に改心し、服役して罪を償ったとしても悪党だった過去が消えるわけではない。
取調室でエミリオは動画を撮りまくっていた。奴はSNS中毒で、日々自らの「善行」を世界に発信している。今撮っている動画も夜にはgifアニメとなってどこかにアップロードされるだろう。同僚たちも止めはしない、むしろ積極的に混ざるものもいる。どうせ奴は釈放されるのだ。この町には奴の罪を証言する者も、奴を検挙し有罪にする者もいない。拘留するのは市民向けのポーズとカルテルへの注意喚起に過ぎない。
俺は秘密を抱えた孤独なヒーローだ。称賛を受けるのはいつも仮面をかぶった俺で、普段の俺はただの冴えない警官に過ぎない。そしてその称賛もほとんどは有名無実な仕事に対するものだ。最愛の人を騙しているが故に泣き言も吐けない。ただの自己憐憫だが構わないだろう。この町に俺を笑える奴がいるだろうか。勇気のある奴はもうこの町には残っていない。
「たとえ周りに悪人しかいなくても自分だけは善人であるべきだ」テレビの中のヒーローがそう言っていた。確かに正しい。俺も息子にそう言って育てていくだろう。
ガキの頃、学校の先生にも言われた。悪党の中に一人だけ善人がいても無力だが、だからと言って悪者になっていいわけではない。なぜなら悪党の中に善人が何人もいれば状況をひっくり返せるからだ。自分と同じように悪党だらけの世の中に絶望して消極的に悪者になった者たちは、周りに善人がいることに気づけば善人同士で寄り集まって状況をひっくり返せる。そのための最後で最初の希望になり得るのだから、たった一人でも善人で居続ける意味はある。最後まで善人でいる覚悟を持っている者が、最初に反旗を翻す勇気のある者が一人でもいれば社会が悪に染まり切ることは決してない。
だが、俺はもう疲れた。二重生活にも、家族を失う恐怖にも、不定期で送られてくる脅迫状にも。何もかもがもう嫌になった。隊長に相談した時には長期休暇を取れと言われた、もしくはしばらく別の部署に移れと。仕事に疲れ、人生に迷う部下にかけるお決まりのセリフだ。確かに休暇は効果的だろう、だがそれは問題の先延ばしに過ぎない。現場から離れて現実を忘れ、再び戻って疲弊する。だましだまし続ければもう2~3年は持つかもしれない、もしかしたら定年まで……。だが俺はそんなバカみたいなことはしたくない。
割に合うかは怪しいがSWATの給料はほかの警官より少し高い。いくつか手当がつくからだ。倹約の甲斐もあって金はだいぶ貯まった。家族にも迷惑をかけたがこれでしばらくは暮らしていける。次はもっと家族との時間を取れる仕事にしよう。
親父が死に、息子が小学校に入ると俺は再び変身するようになった。だが、今度は孤独なヒーローじゃない。
カーゴパンツにスニーカー、長袖のシャツといういつもの恰好のまま、新調した手袋を防弾ベストのポーチに突っ込み、バンの荷台に乗せる。散弾銃といくつかの工具、バッテリーも手分けして積み込む。助手席に乗り込みライフルを股の間に立てかける。SWAT時代からの癖だ。今日の仕事場から少し離れた場所に車を止め、防弾ベストや目出し帽を身に着ける。今でも顔は隠している、肌も見せない。家族写真も仕事場には持ち込まない。リーダーのイーサンは某国軍の特殊部隊に長く居たそうでいろいろなことを教えてくれる。大半はどうでもいいことだがたまには役に立つものもある。
俺とイーサンは物陰に隠れてじっと待っている。「遅いな、マルティネスとペドロは何してんだ」そう言いかけた瞬間、予定より5分遅れて電気が消えた。夜陰の中、月明かりだけを頼りに頭に叩き込んだ見取り図に従って進む。暗視ゴーグルは一つしかなくマルティネスが持っているので手元にはライトしかない。だが迂闊には使えない、敵にこちらの位置をアピールするようなものだからだ。警報装置の切れた窓をたたき割り部屋に侵入する。屋敷の中は真っ暗で、かすかに人々のざわめきと足音、家鳴りの音がする。先行するイーサンとカバーしあうように動き、お互いの体を叩いて合図しあう、SWAT時代と同じだ。
長い廊下を覗き込んだ瞬間にライトを灯すと突き当りに強烈な光でひるんだメイドの姿をとらえた。声からして奥の部屋にも何人かいるらしい。俺たちは邪魔にならないようメイドを追い散らして目標の寝室に向かう。
寝室に踏み込むと目標の男とその家族は就寝中だった。毛布を剥ぎ、床に蹴落とす。カーテンを開けると月の光がよく入りこの部屋はかなり明るい。男はしばらく呆然としていたが、状況を理解するとわけのわからない言葉で喚きだした。そこに電源を切った後屋敷を掃討していたマルティネスも合流した。マルティネスに「もう一人はどうした?」と聞くとうんこだという。「仲間を一人にするなといっただろ」とマルティネスを叱る。だがペドロは心配いらないだろう、結局武装したボディーガードはただの噂だった。会話中も喚き続けている男にイラついたマルティネスは銃で男を殴ろうとしたが俺はそれを止めた。そしてひるんだ男の顔を軽くビンタして、「よく見てろ」といい、男の女房の足を撃った。悲鳴を上げる妻と震える娘を横目でチラチラ見ながらも、男は懇願するような瞳で黙って俺の顔を見続けた。俺が「次はガキだ」と言うと男は諦めたようでおとなしくなった。麻袋をかぶせ、手足を縛り、バンの荷台に押し込む、家族も一緒だ。俺とマルティネスが荷台に同乗する。
息子は妻に似て頭がよかった。有名私立小学校に入学できたのだ。子供に自分と同じ苦労や失敗をしてほしくないというのは親なら誰しも持つ願いだろう。俺の両親がスラムを抜け出し無理して俺を学校に通わせたのも、先生が自分にすら出来ていないことを生徒に要求するのも、テレビのヒーローが夢や希望ばかり説くのもそういう願いによるものだろう。俺だって同じだ。息子には善人に育ってほしいし、バカな俺と同じ苦しみを味わってほしくない。そのためにもいい教育を受けさせてやりたいし、できることならアメリカの大学へ行かせてやりたい、そしてもう二度と戻ってこないでほしい。そのためにはもっと金が必要だ。今の仕事は警官時代の先輩に紹介してもらった。当然家族には言えない。俺は国内外を飛び回る港湾関係の仕事についていて、今は出張中ということになっている。
走る車の荷台で暇を持て余していたマルティネスは、足元に転がるすすり泣く女をしきりに蹴った。俺は窓を開けて煙草をふかす、子供ができてからは禁煙していたが、「出張」中は吸わなければやっていられない。煙草はいつもの俺を悪党に変身させてくれる。足元でじっと固まり、急カーブの慣性と悪路の揺れに耐えている子供を見る。女の子だが歳は息子と同じくらいだろうか。男の方はもう無理だろうが、ボスの機嫌と事の成り行き次第ではこの子くらいは助かるかもしれない。それが幸せかどうかはわからないが……。
俺はもう孤独なヒーローじゃない。だが孤独であることに変わりはない。
そう、俺は悪党になった。
俺はSicario(殺し屋)になった。