『新型』インフルエンザで滅びた世界
──俺たちの世界は滅びた
目に見えない細菌によって
『◯◯……にげなさい……!』
また悪夢を見た。
両親が新型の凶悪なインフルエンザで苦しみ傍で見守る俺がなす術もないまま死んでいった時の夢だ。
両親は最期にこう言って俺を送り出してくれた。
罹患する前に故郷を離れろ、と。
野犬の遠吠えと朝の日差しで目覚める。
目覚ましなんて気の利いたものはない。
そんなものに使う電池の余裕なんてないからだ。
「……くそっ最悪の目覚めだな」
小さく呟きながら俺は周囲を見回し窓の外を警戒する。これはもう1年前からのルーチンだ。
昨晩から泊まっているのは木造の朽ち果てた家屋だが腐った板を踏み抜かないよう注意すれば一晩過ごすことは可能だった。
数少なくなってきた缶詰の一つを開けると貴重な飲料水をこの家で見つけた比較的綺麗な椀に汲み簡単な朝食を済ませる。
「また調達しないとな」
バッグの中の物資を確認しながら誰ともなくもはや癖となった独り言を呟く。
もうどれくらい人と逢っていないだろうか。
最後に人と話したのは2ヶ月ほど前だったと思う。
家屋を出る前に携帯型のラジオの電源を入れいつものチャンネルにチューニングする。
しかしスピーカーからはザザザ……とノイズが聞こえてくるだけだった。
数週間前までは臨時暫定政府を名乗る者が北のD地区への避難を呼びかけていた。
そこには医療者も食料も充分に集められた日本唯一の避難施設だそうで俺は数ヶ月前からそこへ向かって移動していた。
しかしその放送もここ数日はめっきり途絶えている。
暗澹たる気持ちになりながらも気力を振り絞り重い腰を上げた。
他に当てもなくD地区に当たりをつけ向かってみるしか選択肢はない。
1年と少し前、世界の文明は滅びた。
正確には95%程の人間が死滅したのだという。
原因は中国の武漢で発生した新型のインフルエンザだ。
インフルエンザというとまるで風邪の強化版のように認識している者が多かったが実態はまるで違う。
強いウイルスによって感冒するそれは爆発的に地域を越え、国境を越えて広がっていった。
また今回のインフルエンザウイルスはかつてないほど症状が強く現れ体力の弱い者、病人、幼い者から順に淘汰していった。
……もうこの世界には人の赤ちゃんは残り少ないだろう。
特に日本では中国からの旅行者の受け入れを全く制限せず対応が遅れた為、潜伏期間が比較的長いそのインフルエンザはあっという間に島国に広がりやがて9割以上の人間を殺した。
日本政府は観光業による利益や外交上のメンツを国民の命より優先した結果武漢からの旅行者を全く制限しなかったため他の国よりも爆発的に新型のインフルエンザは広がっていった。
特に去年行われるはずだった東京五輪の為に渡航者を受け入れ拒否する事を政府は嫌がった。
結果として五輪なんて中止のアナウンスをする暇もなく自然消滅したのだが。
当時の責任者がまだ生きていればしこたま殴ってやりたい気分だ。まだ生きていれば、の話だが。
支度を終え俺は家屋を立つことにする。
玄関に立ち扉をゆっくりと開け辺りを見回し安全を確保してから外に出る。
この凶悪なインフルエンザは特に野生の動物に蔓延し罹患した動物は人を襲い始めた。
犬や猫は人肉を喰らい獣に噛まれた者は高熱や嘔吐に苦しみやがて死んでいった。
受診できる医療機関なんてとうの昔に壊滅している。
俺はガスマスクを装着した頭を左右に振り歩き出す。
肩にはリュックを掛け片手に武器となるバールを掴んで辺りを警戒しながら進む。
特に恐ろしいのは動物園から逃げ出した猛獣たちだ。
幸いにまだ鉢合わせしたことは2、3度しかないが正面から鉢合えば今度こそアウトだろう。
以前居た同行者が逃げ遅れて頭からバリバリ喰われて死んでいくのを見たことがある。
……俺は見捨てて逃げるしかなかった
来たこともない街並みを歩く。朽ち果てた家屋が不気味だ。
まだゾンビ映画よりマシだな、と心の内で嗤いながら俺は時おりコンパスと地図を取り出しながらD地区へと歩みを進める。
ガソリンの入った車やバイクが落ちていれば使用したこともあるのだが最近ではとんと見ない。
見つけても大抵は故障品かガソリンが入っていないものだ。
生きていた人間たちが使えるものから使ってしまったのだろう。
今日は20キロくらい歩いただろうか。
途中無人のスーパーやコンビニに立ち寄り水と食料を確保したが段々手に入れられる物資も減っているような気がする。
早くしないとそろそろ最期の日は近い。
……精神だって保たない
俺は夕暮れの街の比較的荒れて無さそうな人家の一つを見繕い今夜の宿とすることに決めた。
もはや繰り返しすぎて正規の時ならば犯罪だという感覚すらなくなっている。
俺は窓にガムテープを貼り付けてからバールで叩き割り家屋に浸入した。
大きな音は野生生物を惹きつける可能性がある。
懐中電灯で照らしながら浸入した部屋はリビングらしい。
一通り使えそうな物資を物色して暫く家屋を探検することにする。
フローリングの床を構わず靴で歩けるようになったのはいつからだろうか。
2階建ての1階の部屋を探索し終わると2階に上がったところで何かがいる気配に気づく。
──この家屋を諦めるか?
気配が人間であったとしても油断はできない。
警察や法機構が壊滅した今となっては力を合わせて生き延びる、という建設的な考えが出来る人間のほうが数少ないからだ。
事実何度かこういったケースで同胞に痛い目に遭わされ物資を奪われたケースは一度や二度ではない。
逡巡したが俺は手元のバールを見つめ気配のした扉を開けることにした。
修羅場をくぐり抜けそれなりに自信はある。
……やむなく人を殺したことだってある
音の出ないようにゆっくりと扉を開き半身で覗き込むように部屋を観察する。
大きなベッドが一つに本棚が一つ。
少し大き目の個室らしい。
気配は気のせいだったのだろうか。
人の影も獣の気配もしない。
しかし新しい本はこの何も無い世界で意外に重宝する物資だ。
俺は部屋が安全と確認すると本棚へと駆け寄る。
──久々に調達する新しい本だ
その時、部屋にあった姿見の鏡が急に音も無く開くと何者かが俺にのしかかってきて床へと押し倒された。
迂闊だった。
その生物は俺の喉笛を噛みちぎると生きたまま身体を貪り続ける。
痛みも恐怖も徐々に麻痺していく。
薄れゆく意識の中で俺は人類の終わりを確信した。
「アンタ……人間なのか……」
血走った目をした俺を喰い続けるソレは目以外は人間の姿をしていた。
この新型のインフルエンザの症状は人を人喰いにする特性を引き起こすまでに進化してしまったらしい……
最悪だ、知恵と知性を残しながら人を人喰いにするウイルスなんて……
でもこれでやっと逝ける……
恐怖の無い世界へ……
そこで俺の意識は途切れた
◇
目が醒めると俺は倒れていたはずの家屋に居た。
どれくらい寝ていたんだろうか。
身体を観察すると所々噛みちぎられたままだ……
なんで生きているんだ、俺は?
様々な疑問はあったが飢餓感が脳を支配していることに気づく。
──喰べなくては
やがて窓の外に鉄パイプを携えた人間が見えた。
この家は比較的状態も良く一夜の宿として居住しにくる人間もいるだろう。
……狩りの仕方も分かっている
不思議そうに割れた窓を観察した後、この家に浸入する獲物を見ながら俺は舌舐めずりをした。
あくまでもフィクションです。