第1話 始まりは唐突に 前編
本作品は、本編『Eudaemonics─四千年の泡沫で君ヲ想フ─』の重大なネタバレを含みます。
※第三幕 ~現在編~ 「幸福への障害 ──過大な幸福への期待──」
《《第50話まで読んでいれば》》大丈夫です!
※時間軸的にはこの辺なので※
二〇一〇年五月十日 集合無意識空間の中。
元は新宿のオフィス街だったのだろうが、作られた夢の空間内ではビルが複雑に入り組み迷宮のようだった。人の姿は秋月燈を置いて誰もいなかった。
少女は、黒炭のような黒く艶のある髪、長さは肩ほど。肌は健康的な色合いを保ち、発展途上の体つきで胸や尻もそこまで大きくはない。どちらかというとスレンダーな体型に近いだろう。
着こなしているのは着物と袴、そしてロングブーツと大正ロマン風のいで立ちだ。ただ少女の手には、不釣り合いな黒い刀が目立つ。
光の残滓となって消えゆくのは、《鵼》と呼ばれるアヤカシ。人の心の闇を蓄積し、人とアヤカシが結びあい《物怪》と変質した存在だ。
それらを祓い浄化する《役割》を人間が請け負っている。
(姫に怪我がなくて本当に良かった……)
少女の戦いを内心ひやひやしながら見守っていたのは、この国の神の一柱──龍神。
彼は冥界の王、《常世之国》を治める《十二の玉座》の一角 である。白銀の長髪に、装飾を凝らした白の和装。陶器の様な肌に、酸漿色の瞳を持つ偉丈夫。
「神様、手伝ってくれてありがとうございます」
ぺこり、と頭を下げる少女に龍神は「頭を上げなさい」と素っ気なく告げた。彼本人はもっと気の利いた労いの一つでも口にしたいのだが、どうにも言葉が出てこない。ついで──
「……私は私の優先すべきことを行ったまで」
素っ気ない言葉を返す。しかし内心では本心がだだ漏れだった。
(はあ……。愛い、いや尊い。一時とはいえ、姫の手助けができたのだから……幸せすぎる)
龍神はもうずっと前から少女に首っ丈だ。燈本人以外にはその心情が筒抜けで、顔の表情の機微は薄いものの、燈に向ける熱い視線で大体の者は気づく。
二〇〇九年のある事件で彼女が記憶を失っていなければ、今年の春に気持ちを伝えるつもりだった。十数年という長い年月と信頼を経て、言葉にする前にその機会を失ってしまう。一方的な気持ちの押し付けになると、龍神は自戒するのだが──
(くっ……夢の中とはいえ、やはり姫は愛い。あと少し──傍にいても……いや、現世に早く戻さねば……! 告白などとても──)
結局、龍神は自分の気持ちを押し込め──愛おしい人の姿を眺めた。
《物怪》を倒した今、この空間は光の残滓となって消えていく。
燈が現世に戻るためには、本人がこれは夢だと自覚すればいいだけだ。そう認識するだけで、あっという間に燈の体は透明となっていった。
「神様、今度は冥界で──」
そう龍神に微笑んだ少女。
記憶を取り戻す覚悟を問うて彼が燈に課した条件。
「冥界の龍神の所まで辿りつけたなら、記憶を取り戻すのに助力する」という約束をしたのだ。だからなんとなく彼女が口にしようとしたことを龍神は察していた。
しかし、彼女からその言葉の先は別の音でかき消されてしまった。
乾いた破裂音が空間内に良く響いた。
「!?」
燈の腹部に何かが刺さった。その衝撃により、少女はのけ反り──その場に崩れ落ちる。龍神はその場から飛び出していた。
「あ……れ……?」
龍神は倒れ落ちる前に、少女を抱きかかえた。
ぬるりと、生暖かい感触があった。彼は慌てて少女の腹部に視線を向けると、深々と矢が突き刺さっている。それを見て龍神は眉を顰めた。
(銃声音があったというのに、矢? 現世でなにが──)
龍神が矢に触れようとした瞬間、燈の傷は消えさる。それは完治したのではなく、その傷そのものを誰かが引き受けたようだ。
「急がなければなりませんね」
龍神はそっと少女を抱きかかえたまま、この空間を脱出する。
本来であれば燈の魂は現世に戻るはずだった。
しかし──
***
????年?月?日。
ぷつりと意識が途切れた後、燈の耳に賑やかな声と聞き覚えのあるメロディーが届く。それは季節の風物詩で、耳にするだけでわくわくする──クリスマスのテーマ曲だった。
「ん……?」
燈が目を覚ますと、ソファの上に寝転がっていた。周囲は見覚えがなく、ホテルのラウンジの一角だろうか。豪華な皮のソファの寝心地は悪くない。むしろもう一眠りしたいぐらいだ。特に枕のようなフカフカなクッションは温かく心地いい。
(ん……あと五分……)
寝そべる燈はふと、ここがどこなのか思考を巡らす。寝起きだからなのか頭が上手く働かない。
「…………」
不意に今までの出来事が走馬灯のように流れ込み、燈は慌ててその場から起き上がった。
周囲を見渡すと趣のあるホテルのラウンジ、その奥のソファに燈は眠っていたのだ。
淡い赤と薄緑を基調としたソファ、シャンデリアと内装は真新しい。質のいいホテルだというのは一見してすぐにわかった。特に存在感を放っているのは、至る所に飾られた絵画だ。そのどれもが《蛇》を題材にしている。
「クリストファー・ヴィルヘルム・エッカースベルグ作一八一〇年」北欧神話で有名ないたずら好きの《ロキ》が光の神バルデルを殺したことによる罰として岩に括り付けられ、鎖で体を固定。顔に毒が滴る様に毒蛇が傍に近寄っている。痛みにもがくロキを妻シギュンが傍に寄り添い、蛇の毒を杯で受け止めようとしている絵だ。
「…………」
思わず息をのんでしまうほど蛇がリアルに描かれていた。他にも旧約聖書の「創世記」に登場する禁断の果実を採るアダムとイブの絵画や、ドラゴンに近い挿絵風のものまであった。
見回すだけでもその数は、ラウンジだけでかなり多い。
しかし、ホテルマンの誰もが燈を気にかけた様子はない。みな他の客に接客で忙しいそうだ。
「……って、か、神さまは!? ううん、それより現世で戦っているみんなは?」
「案ずるな。無事だ」
思わぬところから、ダミ声が返ってきた。少女は動転しつつも声のしたフカフカのクッションに視線を落とす。
そのクッションをよく見ると、五〇センチほどの黒い狐がソファに丸くなっていた。
「し、し、式神!?」
黒狐──燈と契約を結んでいた式神だ。少女が記憶喪失の為、《真名》を思い出すことが出来ないでいる。艶やかな黒い毛に、尾は四本だったり五本だったりと顕現するときにその数は異なる。今日の尾は二本のようだ。
「主よ、目がさめ──」
気だるそうに顔を上げる黒狐を、燈は勢いよくで抱き上げて前後に揺らす。
「え、結局どうなったの!? みんな無事!? しーきーがーみー!」
「ちょ、や、おまっ……ゲフ」
「式神!? ゲフっ……」
二人そろって腹部に痛みが走り、吐血する。
「ごほごほ」と、咳き込みながら燈と式神はお互いに呼吸を整える。少しばかり冷静さと頭に血が巡ってきた。
口から垂れた血を拭うと、いつの間にか消えてしまった。そして嘘のように腹部の痛みが治まったのだ。
(え? 急に……どうして?)
「案ずるな。某の傷が少し酷かったので、主に感覚が共有されたにすぎん」
燈はそれを聞くと、そっと黒狐を抱き上げて体に傷が無いか探す。しかし、黒い毛はモフモフな手触りで、怪我らしい怪我は見当たらない。
「だ、大丈夫なの?」
「傷口は塞いでおる。しばらく大人しくしていれば問題ない。それより主の方は大丈夫か? 痛覚は一時的に共有していると思うが……」
心配そうに顔を覗き込む黒狐に、燈はそっと頭を撫でた。黒狐は式神であり燈の影に住み着いている。普段は声だけしか聞こえないのだが、こうして姿が見えるということは、ここが《異界》もしくは集合無意識の特殊な空間であることを意味していた。
「うん、私は大丈夫。……それより慌てて、ごめん」
「いや、某ももっと適切な言葉があったと反省している。……で、我が主よ。ここはどこだ?」
沈黙。
「ふぁっと? 式神も知らないの?」
「ふむ。どうにも記憶があやふやのようだ」
「あれ、式神の口調がちょっと変わった? 若くなったというか……?」
「そうか? 某は元からこうだぞ」
少女は顎に手を当て考えるが、どうにも記憶を遡ろうとすると頭の中に靄がかかったように、思い出せない。
「んーー。そっか。私も何だか頭が重くて、集合無意識で《鵺》を倒した所までは覚えているんだけど……」
「提示──現状は魂、または意識のみ強制的に集められた可能性──七三パーセント」
「ノイン!?」
また、本クロスオーバーはそれぞれの作品の作家が各々でストーリーを執筆しています。
同時並行で楽しめる様になっておりますので、各作品も本作と合わせてお楽しみ下さい。