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作者:

 事が終わってから長い間、二人は沈黙していた。空知桜がこの部屋を訪れた時にはまだ明るかった窓の外からは、上気した彼女の肌をより一層赤く染める西日が射しこんでいた。

「…………どう、だった?」

 ようやく息が静まってきたころ、桃井碧人が躊躇いがちに問いかけた。斜め上からそっと投げかけられる視線。桜はそれと目を合わせずに、頭を載せている碧人の腕に顔を伏せながら小声で答えた。

「……気持ちよかった」

 直球なその感想に、碧人は思わず息を呑んだ。互いが照れくささに押し黙る。反面、乱雑にかけられたタオルケットの下で、二人の手はさらに固く繋がれた。


   *


 ちゃんと、言い切った。「好き」も「付き合って」も、きちんと伝えた。

 二年生、三学期の最後の日。終業式が終わった後は、だいたいみんな部活動へと向かった。そんな中、活動なんてあってないような部活にしか入っていない私と彼は、来るべき大学受験に備え、いつものように図書館で勉強していた。

 いや、いつものように、だったのは彼の方だけだったかもしれない。私は今日の帰り際に桃井碧人に告白することを、ここに来る前から決めていたのだ。

 そして、それに対する彼の答えはこうだった。

「返事は待ってもらっていい? ……来年の、三月まで」

「……あ」

 私も馬鹿じゃない。形としては保留にされてしまったけど、この返答に込められた意味は理解できた。それに、そう言う彼の表情が……私の気持ちが届いていることを雄弁に語っていた。

「うん……わかった」

 桃井君はほっとしたように微笑んだ。

「ごめん、ありがとう。三年になったら、予備校に通うことになっててさ……時間もなくなるし」

 彼が言い訳がましくこんなことを言う理由もわかる。言外の意味を汲み取りながらの会話が、既にお互いの気持ちを理解できている証明のようで少し嬉しかった。

 うっすらと頬を赤くして桃井君ははにかむ。先ほどから落ち着かない様子で弄んでいた鞄の持ち手を掴んで、彼は言った。

「えっと……せっかくだから、一緒に返らない?」

 微妙に逸らされたその目線に、彼らしいな、と感じながら、私は頷いた。


   *


「で結局、フラれたんだ」

「うん」

 いい感じのカフェで待ち合わせて、麻由子ちゃんとお喋りをしている。彼女とはそこそこ長い付き合いなので、報告しておこうと思ったのだ。

「これから受験もあるのに、何でこのタイミングでコクったのよ」

「だって……今年は文理混合クラスだったからいいけど、三年生になったら絶対、クラス別れちゃうし……」

「ああ、桃井は頭いいから医歯薬クラスだもんね」

「そう! 頭いいの!」

「うわぁ、フラれたのに惚気か」

「うるさいなー、自分は彼氏さんとうまくいってるからって……それに、ただフラれたわけじゃないもん」

「というと?」

 麻由子がわざわざカプチーノのカップをどけて身を乗り出してくる。……なんか照れくさくなってきたけど、まあ麻由子相手ならいっか。

「あのね、『返事は三月まで待って』って」

「ほう」

「これって、『受験が終わったら付き合いましょう』ってことだよね」

「ああ、そうかも」

「でしょ! だから今はお互い勉強頑張って、それで……」

 えへへ。

 その時を想像する。どうしよう、にやけるのを止められない。

「まあ確かに学校でもあんたたち仲良かったしね。向こうも気になってたんじゃない?」

「そ、そうかな……」

 気恥ずかしくなって、食べかけのケーキに手を伸ばす。んん、甘い。

「恋が充実し始めた感じの表情だねぇ。桜、なんか可愛い」

「あーあーあー、一年以上彼氏さんと続いてる人は言うことが違いますねーー」

 友人が幸せなのはいいことだけど、ちょっとだけむかつく。ケーキを食べる。甘い。

「そうじゃなくってさ……ホント、楽しそうで可愛いよ、桜」

「どーもー」

 冷やかされているだけじゃないっていうのは分かる。でも、前進し始めたばかりの恋心を温かい目で眺められているようで、やっぱり恥ずかしかった。


   *


 受験生としての一年が始まっても、特に大きな変化はなかった。

 告白をしたといっても、少なくとも今はまだ付き合っているわけではない。だから、春休みに二人で遊びに出かけたりもしなかった。というか、桃井君が返事を保留にした理由の一つは多分、そうやって遊んだりすることで受験勉強のための時間を浪費してしまわないためなんだろう。

 それでも、三日に一度くらいはLINEで短い遣り取りをしていた。他愛のないことで、ぽつりぽつりとメッセージを送り合う。恋人という肩書はまだ手に入れられていないけれど、精神を摩耗する受験勉強の中で、互いが互いの癒しになっていることを確認できて、隣に寄り添っているように心地の良い関係だった。

 そんな風にして最高学年としての日々は過ぎていき――

 あっという間に夏休みになってしまった。

 いつの間にか、三カ月が経っていた。

 ……え、これすごい。もう受験の天王山か。あはは、やばい。

 別に七月までを漫然と過ごしてきたつもりはないし、むしろ学業は計画的にこなせていると思う。でもなんかこう、焦る!

 後から振り返れば愚の骨頂だけど、焦燥感にかられた私は学習計画をキツい方向に修正し、それをこなすために自分を必死に追い込んだ。

 そんな精神状態で臨んだのがよくなかったのか、七月下旬の今日、夜までかかった模試の出来は……はぁ……思い出すに忍びない。

 試験会場となった予備校の校舎を出て、ひとりトボトボと歩く……同じ模試を受けていた友達は、時間割の関係で既に帰ってしまっていた。もう空は暗い。空知の心も暗い。

 テストを受けるという行為は、想像以上に体力を消耗する。手応えが良ければ達成感も感じられるものだけれど、今回はダメだ。「世界史できた~?」「ぜんぜ~ん」っていうアレをやる友達もいないし。こんな時間なのに暑いし。お腹すいたし。おまけに生理だし。あぁもうほんと嫌になってきたな。

 と、鬱屈全開で家路を辿っていると――

「空知さんっ」

 突然背後から名前を呼ばれた。反射的に振り返ってみると、そこには――

「桃井君……⁉」

 一足遅れて後者から出てきた集団の中から、少しだけ制服を着崩した桃井君が駆けてきた。生真面目に留めていた第一ボタンを外し、そして私のすぐ左隣に並んで歩きだす。

「理系は文系より終わるの十五分遅かったから――」

 彼は呼吸を整えながら語りかけてくる。そうか、あの集団は今試験を終えた理系の受験生たちだ。とすると、私は十五分ぶんもノロノロと歩いていたのか。ダメージ受けすぎでしょ私。

「――追いつけるかどうかわかんなかったけど。でも、」

 そこで一旦、息をつく。吐息交じりの声で、鞄を握っていない右手の指をもじもじさせながら桃井君は言った。

「会えて、よかった」

 その言葉を聞いた瞬間、思った。ああ、今日、頑張ってよかったな、と。

 さっきまでは散々な気分だったけど、今はもうその名残もなく全身の細胞が喜んでいるのが分かる。その熱に任せて、私は後先考えずにいつの間にか口にしていた。

「……ねえ、甘えていい?」


「でね、二択までは絞れるんだけど、模範解答見たらその二択をことごとく外してて……」

「あーあるある。悔しいよね」

 駅までの道を遠回りして、私たちは静かな住宅街に入った。手応えが悪かったから慰めて、という理由で、会話の時間を捻り出したのだ。本当は彼の不器用な笑顔を見た時点で沈んだ気分は浮き上がってきていたのだけど、桃井君と話す口実を作るため、私は巧妙に自分を騙して再びテストの悔しさを思い出し、「ヘコんだ私を励ましてくれる桃井君」を味わわせてもらうことにした。

「おれも今回それやったよ。でも、そこを克服しないと点は取れないからね。明日はしっかり復習する」

「へぇ、桃井君でもあるんだね」

 二の腕の真ん中で袖がこすれ合う距離。右隣を歩く桃井君は鞄を右手に持ち、その左にいる私は左手にスクールバッグを提げている。……もう一歩、踏み込む理由が欲しい。

「うん、社会は中学の頃から苦手でさ……一次試験までは地理も使うから、そんなことも言ってられないんだけど」

 はぁ、と溜め息を吐く。そんなのにも色っぽさを感じながら、あ、じゃあ、と思い付いた私は提案してみた。

「なら、私が二年生の時使ってたノートあげよっか? 一次試験レベルまでならそれ読めばなんとかなると思う」

「え、いいよ。空知さんのノート、いつもすごく丁寧に作られてるのに」

 桃井君は顔の前で手をひらひらさせて遠慮を示す。私はその手を自分の右手で包んで、ウィンクなんてしてみる。

「いいの、下心だから」

 まだ恋人ではないけれど、だからこそ、好きだという気持ちは積極的に伝える。

「……うん、ありがとう」

 そう言って桃井君は微笑んだ。その頬がほんのりと紅く染まっているのを見て、このままでも幸せかも、なんてことを思った。。


   *


 夏休みが明けた。夏休みが明けたということは、二学期が始まるということだ。二学期が始まるということは、学校の皆と再会するということだ。

 四十日ぶりの再会なので、久々な感じがするかな……と思っていたけど、案外数日ぶりに会うのと変わらなかった。大人になると時間が速く過ぎるっていうけど、私も大人になったってことだろうか。

「そうかもね。桜、夏休みの間に『大人になった』んでしょ?」

「ちょっと麻由子……!」

 登校時に見かけた麻由子とそんな話をしながら廊下を歩いていると、彼女はニヤニヤしながらこちらを振り返った。照れちゃうから揶揄わないで欲しい。

「で、それ以降桃井とは何回したの? 夏休み中もちょくちょく会ってたんでしょ?」

「だからやめてってば……!」

 名前まで出しちゃったし……。それに、会ったといっても片手で数えられるくらいだ。「まだ友達」と必死に言い聞かせて、彼に会う以外の時間はほぼ全てを勉強に費やしていたのだから。……まあ、会った日は……まあ……しちゃったけど。終わったら一緒に勉強しよう、って言ってたのに、一度始めたら止められなくて、結局教科書を開くことなく日が暮れるのが常だった。お互い、相手への欲望まみれだ。

 そんな夏休みのことを思い出し、自分でわかるくらい赤面しながら教室に向かう。すると、角を曲がろうとしたところで、

「じゃあまた後でね!」

「いや、ちょっと……」

 そんな声が聞こえてきた。後に聞こえた方の声は桃井君のものだったので、朝から彼に会えるかな、と思い歩みを早めると――

「あ」

「うわっ」

 丁度、こっちに曲がってきた相手とぶつかりそうになった。咄嗟に謝る。

「あ、ごめんなさい」

「ああこちらこそごめ――」

 そこまで言って、相手の女子生徒は口を閉ざした。その目は私の顔を真っ直ぐ見ている。この人ちょっと化粧濃いな。

「……あの、どうかしました?」

「……別に」

 それだけ言うと相手は一転、プイっと顔を背けて去っていてしまった。

「桜、大丈夫?」

「あ、うん」

「今のやつ、ちゃんと謝らないで行ったね。やな感じ」

「まあ別にそれくらい……あれ、」

 そこで私は足元にひとつの落とし物を見つけた。生徒手帳。きっと、さっきの人のだろう。名前の欄には「長門千里」と書いてある。

「それ、さっきの人の?」

「多分ね。もうホームルーム始まるし、とりあえず私が預かっておこうかな……あ」

 何の気なしにパラパラとページをめくってみると、最後のページに小さく切り取られた写真が挟まっていた。そこに映っていたのは――

「長門さんと……桃井君?」


その日は全然授業に集中できなかった。

 原因はもちろん、長門さんと桃井君が一緒に映っていたあの写真だ。二人とも、楽しそうな笑顔だった。

 何せ私も恋をした桃井君だ。そういう相手がいたとしても不思議ではない。けれど彼は、私の告白に……変わった形ではあるけれと、応えてくれたはず。

 あの二人の今の関係がどのようなものなのかわからない。でも、今朝は長門さんと桃井君は二人で話していたみたいだし、もし……。

 なんて考えている間に授業が終わり、帰路につき、机に向かっていた。いつの間にか、という感じだった。最近は片想いがうまくいきそうでルンルンだったけど、今日はそんなわけにもいかない。この精神状態で勉強に集中できる気もしないし、かといって桃井君に訊いて確かめるのも怖い。そういえば、長門さんにも落とし物を届けずに帰ってきてしまった。

 結局、その晩は一人で悩みに悩み、勉強は一ページも進まなかった。


  *


 翌朝教室に入ると、なんだか不穏な空気を感じた……というか、向けられた。

「……?」

 よくわからないながらもとりあえず席に着く。椅子を引いて、鞄を置いて……そうする間にも、クラスメイト達の視線がこっちに向いたり、向きそうで向かなかったり。

 少し注意してみてみると、何人かは口元を手で隠しながらひそひそと話をしている。

 この剣呑な空気は、明らかに私に向けられていた。みんなそれを私に悟られないようにしているけど、悟られないようにしていること自体がこちらに伝わってきてしまっている。

 私が何をしたというのか……。既に着席していた麻由子の方を見てみると、彼女はなんというか、非常に微妙そうな顔をしていた。

……釈然としないままホームルームを終え、一限目の授業を終える。すると、

「きて」

 と、麻由子が私にだけ聞こえる程度の声で囁いて傍を通過していった。

 ついていってみると、彼女は人通りの少ない階段の踊り場で私を待っていた。

「どうしたの? っていうか、どうなってるの?」

 彼女は今朝、私よりも早く教室についていたため、何か知っているのかもしれない。人が来ないのを確認してから、麻由子は口を開いた。

「桜、騙されてない?」

「……何が?」

「あたしも知らなかったんだけど……昨日、廊下でぶつかりそうになった人。桃井と付き合ってるんだって」

「え……」

 瞬間、身体が硬直した。そんな……だって、

「桃井君、あの時私に――」

「保留、なんでしょ?」

「……」

「返事は三月まで待ってほしいって言われたのよね? それ、体よくあんたと遊ぶための方便なんじゃないの? それで、実は本命が他にいたとか」

「でも……」

「惜しい気持ちはわかるけど、早く割り切った方がいいよ。昨日のうちに、長門がみんなに触れ回ったみたい。『碧人を奪おうとしてくる空知って女が、わたしと碧人の仲に嫉妬して大事なツーショット写真を盗んだ』って」

「そうなんだ……」

 それであんな空気だったのか。写真についてはわざとじゃないのに。

 それよりも、桃井君と付き合っているというのは本当だろうか。本当に、私は遊ばれていただけなのだろうか。

「ねぇ、それ、長門さんが言ってるだけじゃないの……?」

「それが、誰かが桃井本人に訊いたら、曖昧な反応だったって」

 ――桃井君……。


   *


 昼休み、事態は動いた。

 がしゃん! とやたら荒々しく扉を開く音がして、振り向くとそこには眦をつりあげた長門さんがいた。他にも数人の生徒を引き連れている。

 彼女はスカートから出した制服の裾をひらめかせ、大股でこちらに近づいてくる。そして、私の机にどんと手をつき、

「碧人に近寄らないで」

 と言ってきた。

「あ、えっと……」

 麻由子から説明を受けて以来、疑念と怯えで縮こまっていた私は、その剣幕に言い返すことができなかった。無意識のうちに助けを求め、周りを見回す。しかし、教室の空気はどうやら長門さんに寄り添っているらしい。朝から続いている私をちくちくと刺すような視線は、今も味方してくれそうにない。長門さんと一緒に入ってきた女子たちも、威圧するようにこちらを睨みつけてくる。

「あたしはずっと碧人と付き合ってんの。あんたみたいな不細工じゃ碧人と釣り合わないし、もう碧人に手ぇ出さないで」

「桃井は千里のだから」

「ほら、もう近づきませんって宣言しなよ」

「…………」

 ――もう、諦めようかな……。

 孤立無援の状態で、そんな気持ちになってくる。桃井君も、私のことは本当はどうでもよかったのかもしれない。三月、卒業したら私の前から姿を消すつもりだったのかもしれない。今も、私が悪者みたいにされて、こんな思いまでして彼への思慕にしがみついても、ダメなのかな……。

 もう彼女らの言う通りにしてしまおうかと、顔を上げ、歪んで見える長門さんたちに口を開いた、その時――

「やめて」

 すぐ傍で、大好きな声が聞こえた。

「あ、碧人……」

 長門さんは、彼女たちと私の間に無理矢理割って入った桃井君の登場に、目を見開いている。

「もうずいぶん前から言ってるだろ、別れてくれって。それに……」

 そこで彼は私の手を取り、言い放った。

「今は、この人が恋人、だから」

「……!」

 今……恋人って……。

「あ、碧人……!」

 対峙する長門さんは表情を歪め、一緒に来た人たちも気まずそうにする。そのまま数瞬こっちに鋭い目線をやっていたが、何も言わずに教室を出ていった。

 それを見届けてから、桃井君は私の方に向き直り、そして軽く微笑む。

「えっと……怖い思いさせてごめんね。あの長門千里って子、おれの……その、元カノなんだけど、なかなか別れてくれなくて……。空知さんにちゃんと返事するまでにきっちり別れようと思ってたんだけど……でも今、これだけ人がいる中ではっきり言ったから、もう大丈夫だと思う」

 彼はちょっと申し訳なさそうに説明している。けど、そんなことより、

「桃井君、さっき私のこと、こ、恋人って……」

「あー、その、勢いで……三月まで待ってって言ったのおれなのにごめんね、早まって。でもやっぱり好き……、でさ」

 眉尻を下げて頬を掻く桃井君。私が好きになった、あの優し気な笑みを浮かべる桃井君。私は彼を見つめ返す。

「ううん、いいの。じゃあ、あの、桃井君……」

「うん……空知さん、おれと、付き合ってください」

「はい……!」

 感極まって抱き着く。そして人目も憚らず、桃井君に口づけをした。

 焦って照れる桃井君が可愛かった。


   *


 スカートが制服指定されているのが恨めしくなる時期。大勢の受験生でごった返すキャンパスを、普段の三分の一程度の速さで歩く。寒いから早く抜け出したいけどそんなのは皆同じで、誰もが等しく帰りたがっている。おとなしく流れに身を任せて歩くしかなかった。

 けれど正門の付近までたどり着いた時、

「桜っ」

 と、私を呼びかけられた。声のした方を見ると、マフラーを首に巻いた碧人が小さく手を振っていた。

「碧人」

 受験生の網をくぐってなんとか彼と合流する。はぐれないように手を繋ぐと、そこから温もりが全身に広がっていくような感覚がした。さっきまでの寒さが嘘みたいだ。

「入試、お疲れ様」

「碧人もお疲れ様。やっと勉強から解放されるね」

「そうだね。せっかくだし、どこか寄ってく?」

「うーん、それでもいいけど……」

「けど?」

 碧人がこちらを覗き込んでくる。……言わせようとしているんじゃなくて、純粋に私の意向を尊重しようとしてくれているのだ。私はそれに応えるため、恥ずかしさを忍んで望みを口にした。

「真っ直ぐ帰ってさ……久しぶりに、どう? 今日、親返ってくるの遅いって言ってたから」

「っ」

 碧人が息を呑んだのがわかる。秋くらいまでは何度もしていたのに、未だに新鮮な反応をしてくれる。その頬が赤いのは、寒さのせいだけではないだろう。

「今年に入ってから勉強に集中するために、ずっとしてなかったし……」

「……そうだね。久しぶりに、しよっか」

 へへ、と二人で小さく笑う。

 この柔らかい色欲は、まだまだ朽ちそうになかった。


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