彼女は天然! 9
第二射はなかった。
暗く深い森は、不気味なほどに静まりかえっている。
時間だけが経過してゆく。
こちらが動かないのをみて後退したか。
じりじりと神経を灼くような沈黙が続く。
たぶん、敵にとってだけ。
「まあ、森が静まりかえってたらおかしいって気付かないやつなら、きついかもしれないけどな」
静かな森、なんてものは存在しない。
昼だろうと夜だろうと、活動している虫や動物がいくらでもいるからだ。
つまり静かだってこと自体が、敵が潜んでいる証拠である。
殺気を全開にして。
「このまま待っていても、そのうち焦れて飛び出してきそうですね」
「根比べとか苦手そうな人種だしな。盗賊団なんて」
苦笑しながら私は右手をあげる。
相手が痺れを切らすのを待つというのも手なんだけど、それでは少しばかり芸がない。
もうちょっと嫌がらせをしてやろう。
楽隊がラッパを吹き鳴らす。
前進の曲だが、多少のアレンジが加えてある。
重装歩兵が盾を掲げたまま微速で前進。それを援護するように弓箭兵が矢を放つ。
ようするに、敵のやったのと同じことをしているのだが、効果がちょっと違う。
「うっわ悪辣……」
パリスがぼそりと呟いた。
お前さん、私の味方だよね?
じわりじわりと接近してくる重装歩兵は怖いだろう。
敵としては射撃したいだろうが、先ほどとは状況が異なっている。
射てば位置が知れてしまうのだ。
しかし、じっと待っていたところで状況が良くなるわけではない。
こちらの矢が間断なく降り注いでいるから。
隠れていたって、いつかは当たってしまうかもしれない。
あぶり出されるか、位置がバレることを覚悟で攻勢に転じるか。
「私が敵の指揮官なら、ここは後退だね。無理をするような局面ではまったくないからな」
「隊長と同じレベルで見える賊将ですか? そんなのいますかねぇ。在野に」
「褒めてくれるのは嬉しいけど、いるみたいだな」
森が動いた。
ざわざわという音が、遠ざかってゆく。
重装歩兵が二十歩も進まないうちに、撤退を開始したのだ。
「まさか……こちらの意図を読んだのですか?」
「たぶんね。なかなかどうして、やるじゃないか」
結局、森にはいった歩兵隊が発見したのは、もぬけの殻になったいくつかの塹壕だけだった。
互いに損失なし。
なんとも地味な開戦である。
あ、でも戦果はあった。
せっかく敵が前線基地っぽいものを作ってくれたんだから、今夜はここで野営しよう。
地ならしとかする手間が省けた。
「そんな余裕こいていて良いんですか? 隊長。この手並み、あきらかに食い詰め者とかじゃないですよ?」
「なにを言ってるんだよ。ギュンターは。そんなもん、最初の矢戦で判りきってることじゃないか」
射程ぎりぎりで仕掛け、こちらの動揺を誘おうとする手管。
あんなもん素人にできてたまるか。
しかも読み合いにしっかりとついてきて、不利となれば躊躇なく後退する思い切りの良さ。
名将の戦いぶりだ。
「いやいや……だから……そこまで判っていて余裕かまして良いんですかって話ですよ……」
なんでそんなに疲れた顔してんの? お前さん。
今日の戦闘は私の横で見ていただけじゃないか。
「んん? 夜襲はないぞ?」
「何で判るんですか!?」
「敵はものが見えている。むしろ今は撤退か降伏かを考えてるんじゃないかな」
敵と私が同じ程度の戦術能力を持っているなら、最終的には数の差で勝敗が決まる。
四百VS千でも勝てる、という算段がつかないのであれば、戦わない方法を考えるのではないか。
私の見るところ、敵の大将は兵の損失をことのほか嫌っている。
ある程度の犠牲を覚悟すれば、我々を森に引きずり込む手段はいくらでもあった。
それを選択しないというのは、人死を出したくないからだ。
であれば、間違いなく互いに死者の出てしまう夜襲なんか、仕掛けてこない。
戦況がもっと悪くなれば話は別だろうけど。
「でも、このまま戦い続けても有利になるわけがないってのは、私にも判るからな。今のうちに、たたむ算段をするんじゃないかって思うのさ」
「……もう良いです……」
パリスがため息をついた。
なんだよ?
せっかくちゃんと解説したのに、残念そうな顔するなよ。
晩ご飯は、肉だった。
おいおい。
本気かよ。そろそろ陽気も良くなってきたこの季節に、四日前の生肉とか危なすぎないか?
私の心配をよそに、野営地の各所からは肉の焼ける香ばしい匂いが漂っている。
腐敗臭なんか、まったくしない。
「どんな魔法なんだ? これは」
隣で次々と肉を焼いているメイリーに訊ねてみる。
総料理長に作ってもらえるというのは、隊長のささやかな特権だ。
「んあ? 魔法なんか使ってないよ?」
「しかし、この鮮度は異常じゃないか? 冷却系の魔法を使ったとしか思えないが」
「はいはい。魔法使いさまは、すーぐに魔法に頼る。人間には、ちゃんと知恵ってもんがあるんだよ。兄ちゃん」
ふふんと胸を反らすメイリー。
なんだよ?
私だってちゃんと物事を考えているぞ。
「遠く南方から渡ってきた考え方だよ。水は渇くときにまわりの熱を奪うの」
「そのくらいは私だって知っている。湯浴みしたとき、ちゃんと体を拭かないとすぐに風邪を引いてしまうというやつだろ」
「そそ。おんなじ理屈で冷却壺を作ったんだよ。もともと何千年も昔から原型はあるらしいけどね」
大きな壺のなかに小さな壺を入れ、隙間を湿った土で埋める。
土に含まれた水分が蒸発するとき、壺のなかの熱を奪う。
理屈としてはたったこれだけ。
複雑な魔法術式など必要ない。
空気と水だけで、壺の内部を冷やすことができる。
「まあ、かちんこちんに凍らせるってわけにはいかないから、魔法には敵わないけど。なんでも簡単に魔法で解決しちゃおうってのはいただけないよ。兄ちゃん」
「いや、まったくその通りだよ。メイリー」
手を伸ばし、私は彼女の頭を撫でる。
魔法はたしかに便利だし、できることも多い。
しかし、そんなものに頼らずとも、人には現状を変える力がある。
むしろ便利さに慣れ、創意工夫を怠るようになってしまえば、人は人たる価値を失ってしまうのではないか。
そんなことまで考えてしまう。
「貴殿も、そう思わぬか?」
正面に座る人影に話しかけた。
メイリーが驚いた顔をする。
私はいったい誰に話しかけたのか、と思ったのだろう。
無理もない。
ここまで完璧な隠形は、私だって初めて見るのだから。
「……いつから気付いておられた?」
返ってきた返答は女性の声だった。
それにともなって、輪郭がはっきりする。
私と同じか、やや年上くらいの大柄な美女の姿に。
「うえぇぇっ!?」
メイリーが奇声をあげた。
そりゃまあ、突然あらわれたようにしか見えないだろうからね。
「大丈夫。敵意はないよ。メイリー」
「だれ!?」
「たぶん敵の総大将だね」
「兄ちゃんは、大丈夫って言葉を辞書で引きなおした方が良いよ。なにがどう大丈夫なのさ?」
あ、こいつもすげー疲れた顔をしやがった。
副官と同じ種類のやつ。
くっそくっそ。
私がおかしいみたいじゃないか。
右手を挙げてメイリーを制しておいて、私は女性に向き直る。
質問の答えを、まだ言っていないから。
「我が軍は食いしん坊ぞろいでね。こんなに良い匂いをさせて肉が焼けていたら、じっと待っていられようなやつは一人もいないんだよ」
一度、言葉を切って、周囲を指し示す。
哀しいかな、誉れある白の軍は欠食児童の集団のように肉を奪い合っている。
もうちょっと落ち着いて食えよってくらいの惨状だ。
「ゆえに、肉を目の前にして身じろぎひとつしない貴殿に、私は違和感をおぼえた、という次第だよ」
「……さすがだな。吟遊詩人騎士」
ふ、と女性が唇を歪ませる。
そのニックネームはやめてくれ。
たのむから。