Interlude~花 b
9月になり、席替えがあった。
わたしは窓際。彼はわたしの後ろ。
この偶然にガッツポーズだった。その頃にはとても……とても、その、話をしたい子になっていたから、彼は。
前後だと席を移動することなく話せる。ナチュラルに、誰に気取られることなく、親しいクラスメイトとして話ができる。プリントを回す時も、カーテンを閉める時も様子を伺うことができる。いつの間にか、わたしは窓を背に座っていることが多くなった。机に対し垂直。彼の机に右腕がのっている状態。数学が得意な彼は、わたしが授業中疑問に思った点を懇切丁寧に解説してくれた。それがわかりやすくって、とても好きだった。二人で問題を解いていると、友人たちも寄ってきて、みんなで学習会もどきとなる。そんな時間も好きだった。
あの日はとても暑かった。
文化祭について担任に任された出し物の件について、掃除が終わってから検討していた時のこと。体をひねって彼の机でシャープペンシルを動かしていた。
まだ彼の鞄は残されていて、机横のフックにかかっていた。わたしが残っていたのは、要件を家に持ち帰りたくなかったのか、彼が校内に残っていたからなのか。
戻ってきた彼は、わたしにブランクディスクを手渡した。ブランク……いや、データは入っていた。
「オススメの曲?」
その時の彼は、見たことがないほどキョドっていて、なにやらおかしかったのだが、むりやりCDプレーヤーとイヤホンをわたしに押し付けて教室を走って出て行った。
まあ、彼のことだから変な曲は入っていないだろうとわたしはCDをセットした。それよりもイヤホンが、彼の使用したイヤホンを手にわたしの方が動揺していたと思う。
1曲め。
トランペットの音がひびく。トランペットや喇叭の音ってがなりたてているようにしか聞こえなくて苦手。でもこれは……多分シンセの音。生音じゃないけど、そう、天から降ってくる音だ。Gの音。近く遠くG……Hシャープ。
ああ、天の喇叭ってこういう音だったんだ。教会の、ステンドグラスよりもっと高い位置からこぼれ落ちる光のような音。空から落ちる音。知らなかった、喇叭の音がこんなだなんて。
やがて重なるヴァイオリンの音。重なるヴィオラ。遠くで雲の足音。風の音。鳥の声。こんな曲は知らない。専門家じゃないもの、世の殆どの曲をわたしは知らない。でも、こんな素敵な曲が耳に入ってこなかったなんて。いつの時代の誰の曲だろう。なんて心地よいんだろう。この人の曲をもっと聞きたい。もっと知りたい。
もっと、もっと。
続いて……なに、どうしたの。2曲め。
え?
多分、同じ人が作った曲だと思う。なんとなく。だけど、なんか変なの混じってる。
コンピュータで作った声みたいなのが混じってる。
オーケストラの音とまるで合ってなくって、なんだろう、ケーキとお寿司を混ぜてどうしようもなくなったようなそんな。
「どうしちゃったの」
声が出たくらい、ただのノイズになってる。
残るのはただの不快感。
まいったなあ。メロディーは好きだと思う。思うんだけど、このボイスが全てを台無しにしてる感じ。すごく合ってない。無理。わたしには無理。
というか根本的な問題になっちゃうんだけど、この音楽に声って合わさないほうがいいんじゃないの? そんな風にも感じた。むりくり声を重ねなくてもいいじゃない。
重ねるくらいなら、元の音楽を相当引き算しないと。
……プロでもないのに何偉そうなこと考えてるんだろう。
そうこうしているうちに、彼が帰ってきた。ポカリを持って、汗だくで。
顔が真っ青だったので、熱中症にでもかかってしまったんじゃないかと心配した。
でも彼の顔色が青かったのは暑さのせいではなかった。
作った曲をわたしに聞かせた、その緊張感からだった。
感想を述べている間、彼の顔は赤くなったり青くなったり。本当にわかりやすい人だ。
すごく楽しい。
彼と音楽の話をしているとき、わたしはすごく楽しい。
ううん、音楽だけじゃない。授業の合間、こっそりおしゃべりするのも、ちょっとしたことなのにすごく楽しくて。楽しくて、とても。本当に。
文化祭が終わる頃、わたし達仲間の呼び名が変わってきた。
わたしのことはみんな、花と呼ぶようになってきたのだ。花さん、花ちゃん、オハナちゃん。
女子は前からそう呼んでいたのだが、男子にそう呼ばれることは少なかったのだ。
男子女子、お互いがより親しくなった証拠だろう。名前またはニックネームで呼び合うようになったというわけだ。
彼のこともそう。男子がみな「カズ」と呼ぶものだから、わたし達も「カズ」または「カズくん」と。三月田、と呼ぶほうがまわりに違和感を覚えさせる。ぎこちない。そんな雰囲気。わたしが「カズくん」と呼ぶようになったのもそのためだ。
だけど彼は、わたしのことをずっと「高遠野さん」と呼ぶ。
今にいたるまで一度だって「花」と呼ばれたことはない。
彼の家にお邪魔したのは、日差しが少しだけ秋めいてきた頃だった。
ちょうど楽器の話をしている時だった。彼の家にはピアノやヴァイオリン、シンセサイザー、シロホンにオルガンにチェンバロ、二胡や三味線、とにかくびっくりするほどたくさんあるというのだ。彼の両親や姉(お姉さんがいるらしい)も音楽好きで、いつの間にかそういうもので家の中がいっぱいになってしまってると言う。
「うわ、それ何! 素敵素敵うわあああああ!」
なんて思わず言ってしまったのだ。言うよね、そりゃあ。チェンバロが一般家庭にあるなんてどういうことよ、とか思うわ。
「……じゃあ、うちくる?」
彼の声は震えてたかもしれない。しかし舞い上がっていたわたしは、そんなことお構いなしに大きくうなづいた。
二人で電車に乗り、二人で住宅地を歩いた。わたしはたくさんの楽器を見ることができる興奮と、男の子と二人という子供時代以来の状況に戸惑いを隠しきれなかった。
彼は「あそこの家の犬が」「あの軒下にはツバメが」とか、おおよそ関係のないことを話していた。おそらく彼も間の持たせかたがわからなかったのだろうと思う。
ところで、彼の家は大きかった。テレビでしか見たことがないレベルで大きかった。ひょっとしてお金持ちだったの? と初めて気づいた。楽器のある家だ、少し考えればわかるはずなのにその発想が抜けていた。
いつだったか、由美子が三月田は半端じゃないよ多分、って言ってた意味がわかった。
玄関を開けると彼のお姉さんがいた。心底驚いた様子で、「ようこそ」と言ってくれた。
リビング(の一つ。他にもあった……)にはグランドピアノが2台。1台でマンションが買える、おそろしく高いメーカーのものだ。
「なんで2台」
「連弾する時用」
あっさり返答があった。もうわけがわからない。
片隅にはチェンバロ。本物だ! 本物!
あっというまに心が天までのぼったわたしは、彼の家がどうのこうのというのは飛んでしまい、ひたすら楽器をながめていた。チェンバロ弾いていいよと言われたので、とりあえず手を洗わせてくれとお願いして。
そのあと、彼の部屋に招かれて、シンセサイザーやボカロソフトを見せてもらった。88鍵なシンセなんて、わたしには到底手に入れられるわけもなく、好きに触っていいと言われたのでとにかく色んな音を出して楽しんだ。銅鑼の音が鍵盤をたたけば鳴るなんて! 笛の音が鍵盤で! 一体どういうことなの。足音なんかもある、そりゃあ楽しい。どういうことなの。
夢中になって楽しんだ。
と、ノックの音が。
彼のお姉さんがケーキとクッキーをもってらした。
「今日は大学お休みだったから、朝のうちになんとなく作ってたんだけど。よかったら召し上がって」
ほっぺたに小麦粉つけたままで。
彼はあからさまに困った様子で、トレイを受け取っていた。
随分あとになって、お姉さんからあの日のことを聞いた。
彼が誰かを連れてくるなど小学生以来だということ。その頃、彼につきまとう女子とその家族がいて大変揉めたこと(割愛するが、要するに彼の家の財産目当てだった)。それ以来、彼は自分が音楽をやっていることをひた隠しにし、友人の誰も招くことはなかったこと。
連れてきたのが女の子だったので、びっくりしながらも嬉しくって必死でケーキを焼いたこと。
お姉さんとは今でもとても仲がいい。本当の姉妹のように、且つ、最も信頼できる友人としてのつきあいはずっと続いている。
そしてわたしは、いつも呑気に微笑んでいる彼が、お金持ちのお坊ちゃんなはずの彼が、この時代にはあまりない厳しい条件をつきつけられていることを知る。
もうあとちょっと、花ちゃん編続くかな?