primo movimento(第1楽章)-e
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一希が正気に戻った時には、既に空は漆黒から紺へと色を変えていた。
「あー……」
音の波に巻き込まれ、一種のトランス状態に陥っていたようだ。最近は頻度が減ってきていたのに、またやってしまった、と一希は深いため息をついた。
これをやってしまうと、その日の自分は使い物にならなくなる。
人間の集中力など、15分20分しか続かないと言われるが、一希はそれに疑いを持っている。それが事実なら、自分は人間ではないことになる。花に言わせれば、まばたきの一瞬に休んで脳をリセットしてるから、意外と人の集中力って長くもつものなのよ、らしいが。
ノートPCのキーを叩く。スリープからの復活。
『今日も仕事だから、わたしはそろそろ寝るね』『あんま無理するんじゃないわよー』『おやすみ』
そこには、花の残したメッセージがあった。
ヘッドフォンを外し、そのまま体ごとうなだれる。床に落ちたオープンタイプのヘッドフォンの横に、一希は崩れ落ちた。
どこからか、高い電子音が小さく鳴っていた。
午後を大きく回った頃、ようやく一希の目が開いた。
膝をつき、肩に力を入れて起き上がる。ヘッドフォンはキーボードの上にのせ、シンセサイザーの電源を落とす。
バスタブに湯を張っている間に顔を洗う。シャツとパンツは洗濯機に。
スコア(五線譜)に書き込んだ分を入力して、監督に送付しよう。オープニング分だけでも。1時間もあればざっくりだが出来上がるだろう。
最初の山は超えたと思う。自分の中に世界の基盤ができたから。
これをダメ出しされたら一大事だが……、一希はバスタブに右足から浸かった。熱が爪先からかかと、脛へと広がる。
水は、湯は、なんと心を溶かすことか。
胸まで迫った湯に顔をひたす。冷えてしまった頭部に熱めの湯が心地よい。
花はいつまでパソコンの前にいたのだろう、そういえば更新時間を見ていなかったと一希は今になって気づいた。
せっかく話しかけてくれたのに、ほったらかしてしまった。
今に始まったことではないが、花には実に失礼なことをしたと思う。それでも一希を罵ることもなく、きっといつものように言葉をかけてくれるだろう。
そもそもだ。
花と自分との関係とはどういうものなのだろう。
何年も何年も繰り返し一希は自身に問うている。
彼女の歌は、声は、センスは、彼の創作意欲を刺激する。それは生きる気力と同義である。
高校1年生、席が前後になったその日から、彼女は一希の世界の大半を支配しているように思う。
今も一人でスタジオ入りするときや、映画の試写会やら食事に誘うと時間の許す限り付き合ってくれる。
業務やレポートに支障がなければ、ボカロ動画の画像を用意してくれる。
夜中にメッセンジャーでとりとめのない話をする。
恋人か、と聞かれても口が裂けてもそうだとは答えられない。多分彼女に殴られる。
友達か、と聞かれたなら、おそらく、と答えることはできる。
彼女のことだ、あんな素敵な人に恋人がいないわけはない。大学時代、何度か指輪していたし。
ああ、だったら彼氏に申し訳ないことをしている。一希は深い呼吸を繰り返した。
しかし、もし迷惑だったら彼女のことだ、誘っても断るはずだ。
「あ……あれ?」
つまりどういうことだろう。
湯をすくって顔にかける。
「暇、なのかな」
考えても仕方ない。今は頭を休めよう、湿度の高いバスルームで一希は体育座りで湯船に沈みつつ、目を閉じた。
膝の上に液晶タブレット。
打ち込んだデータをデスクトップに移し、音の調整をする。
絵描きみたいにペンタブレットで画面操作するようになったのは、随分と前にマウスクリックで軽い腱鞘炎になってからのことだ。
花が、すすめた。
以前、手首を捻挫して動かし難かった時にとても便利だったというのだ。手が動かずとも、指にペンを挟むことさえできれば操作ができるのだ。
「ゲームもサクサクよ」
ゲームのためか! と思いながら借りたタブレットの使い勝手が大層よく、それから細かい作業にはマウスがわりにこちらを使うようにしている。ピアノ使いに腱鞘炎はリスクが大きすぎるのだ。
音の長さの入力、あと定規で言えばあと1ミリの調整をマウスでするのは面倒だ。拡大して削ればいいのだが、ペンタブだと容易い。拡大するための数回のクリックが必要ない。一度のドラッグで済む。その他、ドラッグ・クリックする際にかかる手や腕への負担がマウスに比べると極めて少ないのだ。
ボーカロイドの調整をするときは、歌詞入力以外のほとんどはこれで済ませてしまう。
金管楽器・弦楽器・打楽器。
それぞれのパートの入力が済む。
1ページにつき9段。ギター(エレキ)を入れるかどうかは相談してからにしよう。
最も多い弦楽器だけで毎度ほぼ5段を使ってしまうので、オケの場合、ページ数が半端なくなってしまう。これに電子楽器が数個入ると管理が大変だ。頭のなかでは整理できているのに、出力するとえらいことになる。
「だからって第1ヴァイオリンだけってわけにはいかないしさぁ」
間違いなくぺらっぺらになる。それはいやだ。
なんといっても木製ロボでゴシックで妖精なのだ。そこは譲れない。
種類が多ければいいわけではない。ゴテゴテ飾りつけるのが良しとはできない。極限まで削って削り落として、磨き上げての音楽だ。
最小限、第1・第2ヴァイオリン、ヴィオラ、バス。
録音に際しては人数の指定もしなくては。
トランペットはソロを含めて3名。それから……何人までいけるだろう。予算は。
ああ、その前に監督にデータを送ってOKを貰わなければいけないんだ。NGとなったらその時はその時だ。
次の小曲もいくつか入力を済ませておこう。
細部はあとでいい。
あとで……
一希はともすれば気の遠くなる頭を振って入力を続ける。
これはコーヒーを補給したところでどうにもなるわけではない。
と、スマホから呼び出し音が鳴った。
スタッフの誰からかだろう。設定変更とかはさすがにないよな。
OP担当歌手でも決まったのか。
と、画面には『高遠野さん』と出ている。
「はい、もしもし」
『こんちは』
いつもの花の声だ。
時計をみると17時を回ったところ。まだ仕事中ではないのか。
「どうしたの、仕事は?」
『休憩時間なの。お昼のかけたんだけど出てくれなかったから』
気づかなかった。
『死んでるんじゃないかって思った。また一晩中ずっと曲を作っていたんでしょ』
「うん、ごめん。死んでないから」
『無理はしちゃあだめよ。死んじゃったら曲が作れなくなっちゃうのよ。わたしだってあなたの新しい曲がきけなくなるのいやだからね』
「うん……それから、昨日はごめん」
『なに』
「メッセンジャー、途中からスルーしてた」
ハハハ、と花は笑った。
『ひらめいたんだな、何か降りてきたんだなってわかってるからいいわよ。いつものことじゃない』
「(いつものことなのか……いつも僕、こんなことしてたのか)」一希は落ち込んだ。
『うまくいったの?』
「できたと思う。ちゃんと」
『それは、よございました』
電話越しでも花の笑っている様子がよくわかる。
「高遠野さんこそ、仕事大丈夫なの。昨日は随分ご立腹だったけど」
『ああ、あれ? ごめんごめん。心配させちゃったかな。もう終わったことだからいいの。まだまだたくさんお仕事はありますし、済んだことにこだわってる暇はないわ』
それならいいんだ、と一希はうなづいた。
『んー、じゃあ、なんか曲ができたっぽいお祝いと、心配させたお詫びに、今度食事に行こう』
「え」
『臨時収入が入ったからね。あんまりいいとこへは行けないけど。空いてる日があったら教えて。じゃあ、そろそろ休憩終わるから切るね。今日はゆっくり寝るのよ?』
「は、はい」
『じゃ!』
音声が切れた。
不思議と疲れがすーっと抜けていく。肩の重みがなくなってゆく。
体が、軽く、楽になる。
風呂に浸かるより、ベッドで横になるより、ずっと。嘘みたいに。
暗くなったスマホ画面をしばらく眺め、ポケットに。
もう少し。
もう少ししたら休もう。
この曲にOKが出たら、細かいスケジュール調整ができる。
スタジオを押さえて、いつものストリングスを頼んで。
そうすればオフの日を作れるだろう。
彼女と、過ごす一日を。
続きは近々。よろしければtwitter @khronos442 をのぞいてみてください。バカなこと呟いてますけど。