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terzo movimento(第3楽章)-c

コンサートが近づいてきました。

花との連絡はまだ取れていません。

恋に臆病な一希は、ある決心をします。強くなりたい彼は、歩み始めます。

 ブックシェルフには楽譜。

 棚の半分はピアノスコアである。一部、自分が担当したドラマやアニメのサントラを簡易にスコア化し、一般発売されているものもあるが、殆どは幼い頃から馴染んでいるクラシックのピアノスコアである。

 下半分は観音開きになっており、幼稚園時から使っていた小さな楽器を入れている。赤と青の「カスタネット」 ハーモニカ。鍵盤ハーモニカ。ソプラノリコーダー・アルトリコーダー。小さめのガムランや、オタマトーンもここに仕舞ってある。

 一希はアルトリコーダーを取り出し、左の第1指から第4指まで使って穴をふさいだ。これでC、つまりドの音がでる。ほんの少し、高い。ヘッドを回し、音孔のあるボディとの空間を少し広げる。いつか花がしていたチューニングそのままに。

 朧月夜を吹き奏でる。指は音を覚えている。意識しなくとも、勝手に動いて月夜を描く。


『僕から音楽とったら何が残るのかな』

『ん?』

『残らないかもしれないなって思って、保険で一応名の通った大学に入ったし、教職も取ったんだけど。そういうのもなんだかなあ、なんだけどさ』

『ふうん、そんなこと考えてたんだ』

 いつだったか、花とそんな話をしたことがあった。一希のつぶやきに、花はあっさり答えた。

『カズくんが残るじゃない』

『え』

『カズくんが残りますよ?』

 眩しかった。

 彼女はいつだって眩しかった。

 あの時、言葉の意味はよくわからなかった。ただ嬉しかった。

 後に真意に気づいたが、そんな都合のいい解釈はないだろうと言葉をそのまま心の棚にしまっておいた。

 そうであってほしいという希望と、そんなわけがないという恐れと。

 臆病と恐怖は男の行動を縛る。



 何度目かのコンサート打ち合わせの日だ。

 珍しくキャバクラではなかった。アニメ会社の会議室で行うらしい。

 キャバクラは騒々しく、無駄に気を遣ってしまい正直疲れるだけなので、一希にはありがたい。

 誰が来るんだろう。監督とプロデューサーと……キャラデザの人たちは来ないのかな、来ないだろうな。クッションになってくれるのが上手くて、全体の話を回すのが上手い人たちなんだけどな。

 いつもの斜めがけバッグにノートPCとグリッドノート、筆記用具を入れて一希は部屋を出た。

 スマホ画面を確認したが、新着メールはなかった。


 アニメ製作会社の受付を済ませ、会議室へ向かう。ほぼ雑居ビルといった体だが、おそらく予算の都合で手近な部屋を見繕ったらここになったということなのだろう。監督のキャバクラ通いで予算枯渇してきたのかな、と不謹慎なことを考えつつ失礼します、と扉を開けると正面に監督、その横にピンクがいた。

「香……、いや所長……?」

 ピンクジャケットにピンクの口紅。一希の所属する事務所所長が、香田がそこにいた。

「なにしてるんですか」

「打ち合わせだからぁぁ、来ちゃった☆」

 来ちゃったじゃないですよ、とか言いながら仕方なしに彼の隣に着席する。

「だってあたしが来たほうが話がスムーズでしょぉ? 音響やら音の手配はうちでやるんだから。この場ですぐに対処できるのって素敵じゃないの!」

 ノリがこうなので、どうでもいい物事のように聞こえるが、美術芸術イベントにおける香田の手腕はなみなみならにものがある。彼……彼女の判断でイベントの可否すら決まってしまうのだ。

「あの子たちも来るっていうからさ、一応ね」

 香田が耳打ちした。あの子、というのはおそらく一希に言い寄ってきている歌手や新人の声優のことだろう。香田はいい弾除けになる。ガタイのいいピンク色のオネェという存在はかなりインパクトがある。

「あんたが来る前に監督と大体曲目の打ち合わせをしてたんだけど、こんな感じでどうかしら」

 印刷された紙に曲目とメモ書き。ああ、よく把握してくれている、と一希は感心している。

アニメのストーリーに沿いながらも、決して単調にならない曲順になっている。曲紹介とソロとそれから。

「で、ここと……ここに書き下ろしのを入れたらどうかしら。あと何かある?」

 一希はひとつ、提案をした。



 会議が終わり、ビルを出ると香田が用意していたタクシーが待っていた。二人で乗り込む。

 女の子たちは残念そうにこちらを見ている。

「あんた本気で狙われているわね。才能あるイケメンって大変ねえ」

「やめてください」

 ドアが閉まると車は静かに出立した。

「さっさと身を固めちゃったら? そしたらしばらくは大人しくなるわよ」

 タクシーは道を右へ折れる。事務所へ向かうんだな、と一希は合点した。

「まあまだ若いってのはわかるんだけどね。アイドルじゃないんだから結婚したら人気落ちるとかないし。いや、そろそろ顔出ししていくことになるだろうから、その前に手を打っておいたほうが賢明だわよね」

 作品にルックスがつきまとう前に、ということである。並程度の顔立ちに才能が加わればイケメン扱いになるのが夜の常である。一希は両親のいいとこを引き継ぎ、並ではすまない外見をしている。事務所が望まなくとも、今度のコンサートをきっかけに外見が流出するのは想像にかたくない。

「こればかりは相手あってのことだからどうしようもないけどねぇ」

 ホーウ、と香田がため息をついた。

「……何かすっごく言いたいことがありそうな雰囲気を感じます」

「うふん、ス・マ・ホ」

 え? と一希はスマホを取り出す。プラスチック製の無地カバーをつけているだけのシンプルなものだ。

「スマホのチラ見。好きな子からのメールか電話を待ってるんじゃないの? LINEはやってないって言ってたしね」

「な!」

「なんかよく見てるなあとは思ってたのよね。で、ぴーんときちゃった☆」

「友人や実家からちょくちょく来ますからね、メール」

 香田はニヤリと笑った。人差し指で一希の額をこづく。

「顔。顔見ればわかるわよ。特別な子からの連絡待ってるんだなあって。あんたのあんな表情、あたし初めて見た。感激しちゃったわぁ」

「香田さん!」

「ああ、あたしも昔はそうだったわぁって。……で? 連絡ないの? 振られたの?」

 金色のつけまつげがチカチカするなあ、どこでこんなの手に入れるんだ所長はと一希は眉を寄せた。

「忙しいみたいですよ」

「あ! やっぱり好きな子のメール待ってたんだ!」

「ひっかけましたね!!」

 こんなんに引っかかるほうがどうかしてるわ、香田はニヤニヤしながら一希の背中を叩いた。

「あんたも男の子だったのね。弟に彼女ができたみたいで嬉しいわあ!」

「うるさいです。いつあなたの弟になったんですか僕」

「連絡ないの?」

「だから忙しいみたいでって」

「ほんと?」

「本当です!」

 タクシーは制限速度を守り、粛々と事務所へ向かう。

 運転手は香田ご指名で、必要最小限しか話さず口が固いが、こんな会話を聞かれているというだけで一希には赤面モノだ。

「ああ……」

 一希は頭を抱える。

 感情と思考がぐるぐると彼の内側をめぐり、波立つ。何から手を打っていけばいいのか。とりあえずは香田の相手だろうか。

「まあ、追々そこらへんはお話してちょうだいね。で、さっきの話なんだけど」

「はい」

「1曲どうしても出したいのがあるって。どういうことかしら」

 先ほどの会議で一希が申し出たことだ。話の変化が早すぎる。有能な人の会話は大抵こんなものだとわかってはいるのだが。

「10分っていうのはなかなか長いわよ」

「コンチェルトとして、その。10分弱にまとめますので」

 提案をした際の、監督の渋そうな顔を思い出す。

「作品のイメージを崩すことはしません。なんとか入れられませんか」

「……押しこむことはできなくはないけれど。それ見合った品質かどうかね。あんたのことだ、下手な音楽でお茶を濁すわけはないとは思うけれどね。で、管弦楽でしょう? ストリングスの手配は済ませてあるけれど、トランペットのソロで上手な人を探すとなると、スケジュール的に間に合うかどうかなのよね」

「なりませんか」

 香田は窓の外、天井、次に一希を見つめた。

「まずは聴かせなさい。あたしが満足したらGOサインをだしてあげる。なんとかしてみせるわ。だからあんたも覚悟を見せなさいよ」

 一希は大きく頷いた。

 これは自分自身に対する勝負だ。

 と、スマホが震えた。

 香田に目で促され、ホーム画面を確認する。


      『高遠野さん』


 メールの差出人名が表示された。

 しばらく指が止まってしまい、画面は黒くなった。慌ててまた起動させる。

 タイトルは「花です」

 香田は窓へ目を遣っている。こちらを見ないようにしているのだ。

 一希はメールを開く。


    カズくんへ


    長く連絡しないでごめんなさい。

    きっとたくさん心配してくれたんだと思う。


    あの日、来てくれてありがとね。お話できなくってごめんなさい。

    すごく嬉しかった。

 

  花からの言葉をひとつひとつ噛みしめる。

  


    お仕事で色々あって、本当に色々あって、

    カズくんの声を聞いたら、心が甘えて折れてしまいそうな気がして


    ずっと連絡しないでごめんなさい。

 

    わたしのワガママで心配かけてごめんなさい。


    やっと

    やっと落ち着きました。


    不摂生がたたって、ちょっとまだあなたには会えないけれど


    またいつか、会っていただけますか。

    声をきかせてもらえますか。


    こんな自分勝手なわたしだけど

    もし、よければ

    またいつか。



 一希は何度も何度も画面の上下スクロールを繰り返した。

 花の言葉をなんども刻んだ。何も謝ることはないのに。なんでも話してくれていいのに。いつか、なんてそんなこと言わないで欲しい。今すぐでいいのに。

 自分勝手なんてこと全然ない。

 だって花は。

 花はいつでも一希を思ってくれて、行動してくれていて、それを知っていながら気づいていながら動けなかったのは一希の方なのに。

 今度こそ自分がしっかりしなくては。勇気を持たなければ。

 過去の恐怖や、生じた苦痛も怯えも臆病さも振り切って。

 握りしめたスマホはブルーライトを放ち、一希の瞳の奥を刺激する。


 どこからか天の音楽が降りてきた。

 トランペットの、静かな空の祈りが。

 二人で聴いた、いつかのあの曲が。


 タクシーは静かに交差点を渡っていた。


次回、最終話です。どうぞお楽しみに。

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