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terzo movimento(第3楽章)-b

久しぶりに会った花はあふれた涙そのままに、去っていった。なすすべもない一希はただ逡巡する。

はてさて、どうなることやら。

 一希はしばらくなすすべもなく立ち尽くしていた。花の消えた階段を黙ってみつめていた。

 花の抱えた大きな荷物は小さな背中をすっかり隠してしまうほどだった。 

 一希の申し出をそっと手で押し返し、走っていった彼女にどんな言葉をかければよかったのだろう。

 マンションを出てスマホを確認する。事務所と監督、ストリングスをお願いしているいつものヴァイオリニストからの新着メールが確認できた。花の名前は、ない。

 電車と地下鉄を乗り継いで、街まで出た。

 コーヒーショップに立ち寄り、エスプレッソを注文する。

 席について斜めがけのバッグから五線譜ノートとタブレットを取り出す。

 五線譜に散らばるスラッシュに縦棒や羽を付け加え、なんとなく音符っぽくしてみる。覚書のような、人に見せない楽譜にすることのないのだが、今日はなんとなく鉛筆で体裁を整えていく。スラッシュを楕円にもしてみる。

 ♪=125など、頭に入っているテンポもわざわざ書き加える。何をしているんだろうと一希は思う。

 花は痩せていた。細身の体がさらに小さくなっていたように見えた。

 笑ったり怒ったり、コロコロ変わる豊かな表情が特徴だった。しかし久しぶりに会った彼女は静かで、伏し目がちの瞳は何かが光って見えた

 花に何が起こっているのだろう。自分には知る由もないが、重い何かがのしかかっているに違いない。

 不甲斐ない自分に腹が立つ。一希が倒れた時、花がいてくれた。心折れそうなときも、花がいた。当たり前のように彼女が笑って、背中を押してくれていた。

 なのに自分は何もできない。今まで自分の存在が、花に役に立つことがあったろうか。幼いころのトラウマで、誰かと接することに恐怖が拭い切れないのは自覚している。踏み込みすぎないようにと距離を起きがちなのもわかっている。しかしそれが理由になるわけもない。あの人のためにできることは、沢山あったはずだ。尻込みしていたのは自分だ。怯えていたのは自分自身だ。ずっとこの距離を維持していれば、関係は切れること無く続くのではないかと思っていたのではないか。

 卑怯だな。

 僕は卑怯だ。

 音楽しかないと、それにばかり打ち込んでいた。彼女のために曲を書き、やがて仕事になった。自分から音楽をとってしまったら何も残らないと思っていた。

 でももし花がいなくなってしまったら。

 彼女に何かあったのなら。

 そこに何があるのか。自分自身すら残らないのではないか。

 自分は空っぽなのだと気づいた。

 彼女のいない世界など空っぽにすぎないと。

 運ばれてきたエスプレッソは、苦かった。


 

「何」

「何って」

 ドアをくぐると、一希の姉、瑞希は開口一番そう言った。マンションに帰る気になれず、気づけば姉の家へ足を向けていたのだ。

 もう夜だが留守かもしれない、と思ったが今夜は自宅に戻っていたようだ。

 奥から義兄が顔を出してにっこりしている。ヨクキタネーとか叫んでいる。

「こんばんは、義兄さん」

「その前に、『こんばんは姉さん』」

「姉さんこんばん……ば、ぐ、ぐぅ」

 義兄に抱きしめられて最後まで発声できなかった。北欧出身である義兄は実にフレンドリーで、とにかく人を歓迎し、抱きしめる。愛嬌と包容力のある男だ。

 でなければ、瑞希の夫は務まらない。

「何しにきたの」

「これ」

 淡いイエローをした、市松模様の紙バッグを手渡す。中に入っているのは渡せなかったバウムクーヘンだ。

「僕、食べないから。よかったら義兄さんに」

「オオーゥ! 一希ハ、気ガキクネ! イタダイテシマウヨー」

「どうぞ」

 大柄な体を揺すりながら、キッチンに消えていく義兄を一希は苦笑しながら見送った。

「義兄さんはいつも元気だね」

「元気じゃなくても元気なのよ。で、何? 呼びもしないのにあんたが来るなんて。花ちゃんどうかしたの? 連絡はついたの」

 直球な姉の質問に、一希は言葉もなかった。

 促されてリビングのソファに体を沈める。イタリア製のしなやかな革でできたクッションは、一希の背中を優しく支えた。

「オオ、ケーキネ、ケーキ! コレ、見タコトアルネ。コウスレバ美味シイト教エテモラッタネ!」

 一希の義兄は、ボウルとナイフを持って戻ってきた。入れ違いに瑞希がキッチンへ向かう。

「コウジャナクテ。コウ切ルトイイネ。横ニ、スライスネ。乱切リネ。生クリームモ載セルネ!」

 スライスしたバウムクーヘンを、ブルーベリーが描かれた白い皿に載せ、生クリームぞ添えて一希の前に置く。

「甘イモノ、元気出ルネ。一希ハモット、コユモノ食ベナキャ駄目ネ」

 最初に食べないからと伝えて手渡したのに、彼はわざわざこうして勧めてくる。疲れているように見えるのか、それとも。

「オイシイネ、一希。コレ、オイシイネ」

 自分の分には山程の生クリーム。本当に美味しそうに食べる。

 義兄のいいところだ。いや、この人にはいいところしかないんじゃないだろうかと、一希は思う。

「おい、悟空。手伝って、重い」

「オット、任セナ!」

 大きなポットとカップを持っている姉に義兄は駆け寄り、トレイを受け取る。

「ゴクウ?」

「ドラゴンボール見タネ! 悟空、強イ」

「ああ、強いですよね……」

 義兄はハマったヒーローの名前で呼ばれるのを好む。この間は義経だったし、今は悟空なのかと、一希は微笑ましく思う。そして義兄はヒーローとして扱ってもらえる嬉しさのあまり、何を頼んでもOKしてしまうというお人好しっぷりを発揮する。

「悟空なんですね」

「ソダヨー。悟空ダヨー。オ茶ダヨー」

 青い目を細めてニッコリする。大きな手のせいで、ティーカップが子どものおもちゃのように見えた。

「……で? 花ちゃんでしょ。あんたが仕事のことでここに来るとは思えないし」

「花チャン! 花チャン、コナイダ来タネ! 花チャンイツモカワイイネ!」

「来たの、高遠野さん」

「来たわよ。っていうか前から時々来るわよ。パーティには大抵誘ってるし、そんなこと抜きにしても遊びに来てくれてるわよ」

 そう、なのか。

 一希は大きく息を吐いた。

 花は、ここには来るんだ。

「まあ、いいんだけどね。花ちゃんには会えなかったの? どうせこれ、あの子に持って行こうと思ったんでしょ」

 切り分けられたバウムクーヘンを指しながら、瑞希は言った。

 一希は黙ってティーカップに口をつけた。

「女の子には甘いものとか、ほんっと単純。花束とケーキは女の子に対して地雷になることがよくあるんだからね。気をつけなさいよぉ」

「え」

「男は単純バカだから、花とケーキで簡単に女の機嫌を取れるとか考えてるのよね。見え透いてて気が萎えるわ」

「エエエ、瑞希ハケーキ嫌イダッタノ! 僕、ヨク買ッテキテルケド、イヤダッタノ!?」

「やあね。あなたはわたしの大好きなものを一生懸命選んで買ってきてくれるでしょう? その気持ちが嬉しいの。すごく嬉しいのよ?」

 瑞希が悟空(仮)の頬を撫でる。てのひらに愛おしさがにじみでてると、一希は思う。いい夫婦だと思う。うらやましいほどに。

「そうじゃなくってね、これさえ与えてりゃいいだろって魂胆がムカつくのよ」

「……レコーディングの差し入れでよくいただくから、これがいいかなって思ったんだ……」

「あんたのことだもの、そんなもんよね。はいはい上出来です」

 女性スタッフたちが、「◯◯のバウムクーヘンだぁぁぁ!」と、毎度騒ぐものだから、てっきりこういうものがいいと思い込んでいた。間違っていたのだろうか。

「まあ花ちゃんはなんでも喜んでくれると思うけどね。で、これを持ってきたってことは、会えなかったのね?」

 一希はゆっくりと首を振った。

「会えた……というか、すれ違った。彼女、急いでて」

 泣いてたとは、言えなかった。

 瑞希と悟空は顔を見合わせた。

「そう」

 悟空はまたキッチンに走り、イチゴとラズベリーを持ってきて一希の皿に加えた。

「僕は」

 一希は思い切って口を開いたが、言葉が続かなかった。なにをどう伝えていいのかわからない。花のこと、自分のこと。 

 瑞希はカップにジャムを入れ、紅茶をもう一杯淹れて、ゆっくり香りを胸に吸い込んだ。

「一希」

 いつの間にか、大柄な義兄は席を立っていた。

「わたしも、彼も、あんたたちになんか言えるような立場じゃないわ。ありがたい事に花ちゃんは、わたしを姉のように慕っていろいろお話をしてくれてる。わたしだってあの子を妹のように思っているわ。大好きよ。これから先、なにがあってもそれは変わらない」

 一希の皿にのせられたイチゴを一つ、つまむ。

「一希。ねえ聞いて。あなたはあと少しだけ、足を踏み出してごらんなさい。姉さんも、悟空(仮)も、母さんも父さんも、いつだって一希の味方。あと少しだけ、信じてみてもらえないかな。

 勇気を出してみて。

 世界は多分、あなたが思っているよりもう少し広い。踏み出すだけの価値はあると思うの。堕ちそうになっても、そのときは私達がいるから。それは甘さでも迷惑でもなんでもない」

 イチゴは一希の唇に押し付けられた。驚いて受け入れる。

「私達は、あなたが弟だからじゃない、あなただから好きなの。それは誇りに思いなさい。滅多にないことなんだから」

 また、一希は言葉を失う。

 姉の強い言葉に。その意味に。

 義兄はまた遠くから顔をのぞかせている。

「今度ハ花チャント、オイデヨ」



 花は今頃どうしているだろう。

夜道を行きながら、一希は考える。まだ涙を浮かべているだろうか。

電話をしようか、メールをしようか。

いや、彼女は連絡をするといってくれた。それを信じて待つべきか。答えは見つからない。

 人との接し方が正直分からない。幼いころの記憶が、邪魔をする。あの夜の恐怖が蘇る。

 ああ、それも言い訳かもしれない。

 バッグからタブレットを取り出し、イヤホンを差す。

 イヤーピースは左耳に。

 流れるのは花の歌声。高く低く、澄んだ声で一希を包む。

 この美しい音楽を失いたくない。

 両の掌を見つめる。

 この手は彼女の涙をふきとるためのものでありたい。

 いや、自分の音楽で彼女を泣かせないようにしたい。彼女の苦しみを取り除ける存在でありたい。強く強く、そう思う。

 見上げた夜空は青く黒くグラデーションを描く。

「君が、好きだ」

 誰にも聞こえない声で、一希は呟いた。

 


不器用な恋人たちをもう少しの間、見守って下さい。

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