Interlude~花 g
花ちゃん、会社の先輩に告白されて戸惑っています。彼はとても良い人。一緒になってもきっと幸せになれる。
だけど。
花ちゃんの頭のなかはいろんなことがぐるぐるしています。
「ああ、そのヴァイオリン。いいよ触ってくれても」
あれは何度目だったろう。三月田の家に寄って、リビング(コンサート室とも呼ばれてた)においてあったヴァイオリンを眺めていた時だ。随分と深みのある色をしたもので、ピアノと同じく相当高価なものだというのは一目でわかった。弓の光沢も、花には初めてだ。あえて例えるなら、どこかのお城の漆塗りの古い家具のような。奥行きのある色。
「え、だって」
「楽器って見るもんじゃないし。弾くものでしょ」
一希は飲み物か何か持ってくるね、とコンサートルームを出て行った。
花は幼いころ、まだ母が存命だった頃にほんの少しヴァイオリンを習っていた。なので基本的な扱い方は知っている。
くるくると弓を調節する。強すぎず、弱すぎず。馬のしっぽでできているという弓は、松脂が十分になじませてあり柔らかな光を放つ。
ヴァイオリンのネックを左手で持ち上げる。
「肩当て、ないのか。そうか、そうだよね」
そのまま左肩と左顎ではさむ。足は少しだけ開いて。
4本の弦をそれぞれ人差し指で押さえて離す。小さく音が響く。
「う……、わ」
周囲を見回す。世界が変わったように感じたのだ。小さな小さなその音だけで。
「 」
花は喉の奥からAの音を引き出す。正確に、A。
ヴァイオリンの弦は高い方からファーストポジション(フラットな状態)でEADGである。調律するときは右から2番めのAからはじめる。
Aの音を喉に響かせながら、右手の人差し指で弦を弾きつつ、いったんゆるめ、強め、微調整する。
続いて弓を弦にあて、下げる。
こんなものかな、と次に花はE線との2本に弓を当て、軽く上げ、ゆっくり下げる。数度繰り返し、ほんの少し弦を調節。A線とD線、D線とG線と各弦を合わせ、最後にダウンボゥ(下げ弓)で一番低い音から高い音まで、つまりG線からE線まで一気に奏でる。構造上一度に2本分しか弓がカバーできないためだ。
この調律をさせてもらっただけで十分だ、と花は満足気に胸から息を吐き出して振り向くと、飲み物を持った一希が後ろで呆然と立っていた。
「カズく……?」
「いや、姉さん以外で初めてみた。自分の声でチューニングする人」
「え、え、だってピアノ鳴らすより速いし手軽だし、え?」
勝手に人様のピアノ触るのに気が引けただけなんだけど、ウチでもめんどくさいから大抵こうしてなんでも調律してたんだけど、そんなにおかしかったかしら。花は慌てた。
一希は満面の笑みで嬉しそうにドリンクをテーブルに置いた。
見たこともない笑顔だった。
「ねえ、何を弾こうか。高遠野さん、ヴァイオリンでは何を弾ける?」
一希は腕時計を外し、グランドピアノの蓋を開けた。
随分あとにになってから、花は一希の事件で指が不自由になった瑞希はピアノに一切触ず、ヴァイオリンやヴィオラのチューニングを声でするようになったこと知った。いつも罪の意識に苛まれていた一希は、花の何気ない行動に救われたのよと瑞希は礼を言った。一希は自分の身に起こったひどく悲しいことは、一切、花に話すことはなかったから。
彼はいつもいつも、言葉を選んで人に接している。そんな気がした。
窓を閉め、カーテンを閉じ、隣室の迷惑にならないよう小さな音でスピーカーから音楽を流す。明かりはベッドサイドだけ。
考えても考えてもどうしようもない。
「君の歌がとても素敵だ」
「君の声が、とても好きだ」
なんどその言葉をもらったろう。その意味も承知しているつもりだ。
三月田のファミリーコンサートには何度も参加した。彼らほど楽器に精通していない花は聞き手に回るか、様々な歌をうたった。
ヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」、バッハのクラヴィーアの「アヴェ・マリア」、童謡「おぼろ月夜」ビートルズにカーペンターズ。そして滝廉太郎の「花」
一希の両親も、花の声を大層気に入ってくれた。特別上手いわけではないはずだ。音をはずさないってだけで、それほどの力量はない。
「花さんの声って、人を笑顔にさせますね。素晴らしいです」
一希の父親にそう言われて、顔が火照ったことを思い出す。ここんちの親子揃って、褒めるときは直球なんだなと。
楽しかった。
すごく楽しかった。
今でも瑞希をはじめ、一家との交流はある。一希が実家に帰るよりも頻繁に、特に女性陣には会っていると思う。母を失っている花には、年上の女性は憧れであり、彼女らは尊敬に値する存在だった。
甘えていたんだ、と花は省みる。
あの人達の善意に甘えすぎていたのかもしれない。きっとそうだ。
息子の、弟の高校時代のクラスメイトにすぎないのに。
いつまでもこうしてはいられないのはわかってるのに。
いつまでもこうしていたい。
ずっとこのままでいたい。
知らぬ間に、顔が涙で濡れていた。
「バカみたい、わたし」
タスクに昼間、あんなことを伝えられただけでこんなに動揺するなんて。
あやふやにしていたたくさんのこと、ちゃんと見つめないといけない時がきただけなのに。
タスクはいい人だ。
多分、とてもいい人だ。
立派な男性だと思う。既婚者だと思い込んでいたのは、落ち着いた立ち居振る舞いのせいだったのかもしれない。
彼の奥さんは幸せだろうなと思ってた。
彼みたいな人と一緒になれる人は幸せだろうなって。
それが自分になる可能性があるなんて考えたこともなくって。
今すぐ決めなきゃいけないことじゃあないかもしれない。
でも、それは決めないといけないこと。
明日も仕事だ。
泣いてしまったせいで頭が痛い。
でも眠らなきゃ。
明日も仕事だ。
花は布団にもぐりこみ、両手で顔を覆った。
涙は止まらなかった。
続きは近々。




