Interlude~花 f
毎日お仕事充実の25歳花ちゃん。このまま日々が過ぎて行くと思いきや、イケメンのデキる先輩に告白されてしまいました。
どうしたらいいかな。どうすればいいのかな。
花ざかりの花ちゃん、困ってしまっています。
返事は保留。
と、いうことになった。
花は回ってきたデータを背厚が12センチはあるであろう英独辞書を引きながらチェックをしていた。古い辞書で手早く調査するスキルも仕事上必要なのだ。デジタルで全てがわかる時代ではまだない。
紙の辞書でも慣れれば大体の狙いをつけ、2.3度ページをめくれば該当ページにたどり着くことは可能である。それを何度も何度も繰り返す。周辺に並んでいる言葉もついでに覚えてしまう。そんな暇はないはずなのに、目が行く。
「花ちゃん」
ユウナが花のデスクにカップを置いた。アールグレイ、ミルク入り。
「おつかれ」
「ありがとうございます」
花は軽く頭を下げて、カップを手にした。温かい。
柑橘系のやわらかい香りが鼻孔をくすぐる。脂肪分の多い牛乳で、紅茶のシャープな味が丸くなり、心が落ち着く。花はこのアールグレイ・ミルクティが好物だ。
「花さんたらタスクに告られてたようですが、どうなさるのかしら?」
「ゴホッ」
ストレートすぎるユウナの言葉に花はむせた。慌てて周囲を見回すが、いつのまにかオフィスはユウナと花のふたりきりだ。
「あれ? みんなは」
「ん、それぞれ御用があるようで、出て行きましたよ。タスクは部長のとこ。あそこのメンバーは第1会議室。かっちゃんとみどりちゃんたちはトライアングル社に……」
「はぁ……」
オフィスに人がいなくなっていることにも気づかなかったなんて。花は少し落ち込む。
「まあ、多少の動揺は仕方ないわよね。どうでもいい、蹴ってゴミ箱にって男だったらどうでもいいけど、タスクだもんね。あいつってばいい男でしょう?」
「いい男っていうか」
花は頭をデスクに打ち付けた。
「わたし、タスクさんには奥さんがいらっしゃると思ってましたよ……」
「えええええっ? どっからそんな話に!」
迂闊だった。
妻帯者だと信じていたからこそ、気さくに話ができたのだ。愛妻家だと思っていたから気を抜いていたのかもしれない。
花は比較的男に声をかけられるタイプで、そんな自分がいやで、大学時代はよく左手の薬指にリングをはめていた。これだけでも気の弱い男なら引く。それに、誰かに声をかけられても断りやすい。
いつだって「決まった男がいる」設定だった。道を歩いているだけで、知らぬ男に後をつけられることもままったため、人を巻くのがどんどん上手くなった。目が合った瞬間に、すれ違った瞬間に、「ヤバイ男」とそうでないものの判断もつくようになった。
そうなるまで、いろいろあったわけだが、ここでは割愛する。
そんな花のアンテナにタスクは引っかからなかった。ただの同僚でしかなかった。
妻思いの男なんだなあ、と本当に信じていた。
「なんでだろ。なんか、素敵な奥さんがいらっしゃるんだろうなあってイメージがすごくあって」
「なにそれ。めっちゃウケル」
「て、なんで知ってるんですか。聞き耳立ててたんですか」
「だってここオフィスだしぃ。オフィス内で告られてたら気付かないわけないじゃん。読唇術ってわけじゃあないけど、雰囲気でわかるわそういうの。わたしだってまだ女子だもん。女捨ててないもんねー」
「うっわ、じゃあ他の人にもバレてる?」
「それはない」
「マジですか」
「多分」
「多分って」
「あの時他に誰もあんたたち見てなかったから多分」
「お局様の眼力ですか」
「局いうな」
笑いながらユウナは引き出しからヴィタメールのフィナンシェを二つ取り出し、花に差し出した。
「バニラとチョコ、どっちがいい?」
「チョコ」
「オッケ」
花の手に、黒褐色の焼き菓子を乗せると、ユウナは黄金色のまさに「フィナンシェ」の入った袋を破り、取り出した。
「おいしいよ?」
「はい、いただきます」
湿気たようなやわらかさはバターのせい。鼻にに抜けるこの香りは卵のせい。ほのかに残る苦味はチョコレートのせい。
花はゆっくり味わった。
「タスクは昔えらい豪快な振られ方をしてね」
しばらく間を置いて、ユウナは続けた。
「何年つきあってたのかなあ。仲良しだと思ってたんだよねわたしも。あれはいい夫婦になるだろうなあ、みたいな? 奴は素直でいい子だしね。他人思いで気が効くし、真面目だし融通きくし。おまけに高給取りと来た。いい男だよね。でも振られた」
「……なんで」
「んー、最初っから腰掛け的な? 女にとっては暇つぶしの相手だったみたい。アクセサリー・ペット的な? つまんなかったのかな。優しすぎるところあるしね。タスクは結婚とか考えてたみたいだけど、どっかの御曹司? 政治家の一族で、大金持ちで室町時代から続く名家みたいなとこにさっさと嫁いでいったのね。ある日突然ぷっつり連絡取れなくなったと思ったらそれよ」
「権力とかお家柄とか好きな女性だったってことですか」
「良く言えば、上昇志向の強い女だったんでしょうね。あんな家とくらべたら、タスクの稼いでくるのなんて子どもの小遣い程度だろうし、なにせ彼の家はフツーのリーマン」
それって上昇志向っていうんだろうか。花は考える。おんぶに抱っこの見栄っ張りなだけではないか。
「難しい家らしいし、嫁に行って苦労してるだろうけど。彼女もフツーの自営の子だったしね。まあでも結構我の強い子だから、意地でも居座るでしょうねえ」
「お詳しいですね」
「うん、わたしら大学からずっと一緒だったから。落ち込みようはすごかったねぇ。あれは痛々しかった。」
そういえばタスクとユウナが同窓だというのは聞いたことがあった。
「なんで妻帯者だと思ったかしらないけど。温和で落ち着いて見えるからかな? 悪いやつじゃあないよってことは伝えておいてあげようってね。どっちかっていうといい男よ。タスクの友人として、あんたの先輩として口出しさせていただきました。」
「…………」
「まあ無理強いはしないわよ? あんただって考えるところはあるだろうし。だって誰かいるんでしょ?」
体がこわばった。フィナンシェを口にくわえたまま、花の手が震えた。
「たまにスマホでメールチェックしてるとき、花ちゃんすっごく嬉しそうな顔してるからさあ。あんな顔できるのって子猫見てるか好きな子からのメール見てるかどっちかじゃない」
「せんぱ……」
「お局の眼力なめんな」
ユウナはウインクをした。
帰り道、花はゆっくり歩いていた。左手バッグには沢山の資料。右手にはスーパーの惣菜の入った袋。今夜は何も作りたくなかった。簡単に済ませたかった。
すこしだけ、グリーンの混じった7センチヒールのブラックパンプスはほとんど音を立てない。瑞希のヒール姿が美しく、カツカツ音も立たないのを不思議に思った花が、彼女に歩き方を習ったのだ。音を立てて歩く女は品がない、いや、がさつな音を立てる女は概して品がない。女が立てていい音は音楽だけよ、と瑞希は言った。楽器を奏でる、歌をうたう、そういうのではなく、
「例えば、包丁でネギを刻む音だとか、泡立てる音だとか。髪を梳くきこえない音だとか、笑い声だとか。そんな幸せな音をたくさん奏でることができるのがいい女なのよ」
と言った。
花は瑞希の言葉に感銘を覚えた。花の母は早くに亡くなり、男手で育てられた。年上の女性によるアドバイスを受ける環境になかった。瑞希たちの言葉はいつも花には刺激的だった。
ふと立ち止まって空を見る。欠けた月が、雲のない夜空に浮かんでいた。
「たくさん、たくさん、考えなきゃいけないなぁ」
ほんの小さな小さな声。
時間は流れる。誰もがあらがえない。
こどものままではいられない。
少女のままでもいられない。
花はまたゆっくりと足を踏み出した。
花のアパートは小ぶりな1DKである。
引っ越しの手伝いにきてくれた瑞希の夫は、
「Oh! So cute!」
と叫んでいたが、ただ狭いだけである。
玄関を入ってすぐにキッチン。奥に寝室。兼リビング。
小さなデスクとベッド。本棚。
デスクには開いたままのノートPC。電源を入れてから顔を洗いに行く。
せっかく買ってきた惣菜は冷蔵庫へ。今夜は何も食べる気になれない。
生成りのコットンネグリジェに着替えてPCの前に座る。いくつか操作すると、部屋の角に備え付けたスピーカーから音楽が流れた。一希の書いた曲だ。市販されているものもあれば、彼が彼女のために書いただけの未発表曲もある。
花が部屋にいるときはずっと音楽が流れている。高校1年生の時からずっと。
もう、10年。ずっと。
「わたしたち、もう25だよ。四捨五入したら30なんだよ……」
バッグにつめた資料を出す気にもならない。仕事は実際そこまで緊急性のあるものでもないし、明日の通常業務に加えればいいだけのことだ。
両手で足をぎゅっと胸に引きつける。
何も考えていなかったわけじゃない。
自分の将来のこと。生き方。選び方。
学生の頃は楽だった。勉強して、就職すればいい。考えることは基本、それだけでよかった。
今は違う。
仕事さえしていればいいわけじゃない。
生きることを考えなければならない。
人生を歩んでいることを自覚せねばならない。
一人で生きていくのもいいだろう。
このまま、当たり障りなく生きていくのもいいだろう。
だけれど、それは自分の願った道なのか。
花はたった一言だけをずっと望んでいた。
10年前からずっと。
ただの一言だけ。それだけを。
次回もどうぞ、お楽しみに。




