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Il secondo movimento(第2楽章)-f

「ちょっとぉ! 調味料しかないってどういうことなの。ていうか、わさびと牛乳とバターしかないってあんたの冷蔵庫餓死するわよ!」

香田が怒鳴りながらリビングに戻ってきた。

「牛乳とバターあるじゃないですか」

「た、確かに前に来た時は辛子しか入ってなかったけどチューブの」

「成長したんです、僕」

「うるさいわ」

香田は一希の頭をチョップした。軽くめまい。

「……ちゃんと食べてますから。近所に定食屋もありますし、スーパーもコンビニもあるんです。あなたを心配させたりは、もう」

一希は笑ってみせた。

「しませんから」

ため息一つ、香田はソファに体を沈めた。

「いいわ、信じてあげる。そのかわり、あとで買い物に付き合いなさい。必要なものは買ってあげるから」

「あ! いや、そればかりは!」

この特殊メイクなガタイのしっかりした、どうみてもオカマにしか見えない男と、肩を並べてスーパーで買物ってどんな罰ゲームだ。あとでヒソヒソされるのは一希だ。

「いやだったら今度から冷蔵庫を充実させておくことね。さっさと仕事片付けちゃいましょ」

あっさりと受け流し、香田はフューシャピンクのバーキンからA5の書類を取り出した。

一方、一希はスーパーに行くことは決定事項なのかと青くなっている。

「監督さんから連絡をいただいたの。コンサート形式のファンイベントを行う企画が立ち上がっているみたい。あんたがOKしたら進めていくけど。どうする?」

「……昨日、キャバクラで聞きました。監督、暴走してました」

「あいつ、またキャバかよ。だから離婚されるのよねぇ」

「奥さんいたんですか」

「捨てられたけどね」

あっさり言い捨てつつ、香田はテーブルに書類を並べる。

「やり手だけど、好きな子の心をつなぎとめるワザは持ってないのね。作品には女の子のファン多いのにね。妻に媚びろよ」

「うわあ、場所、もう押さえてあるんですか」

「あんたはそんなヘマすんじゃないわよ。女の子ってギリギリのところであっさり心が萎えてしまうからね」

「Bunkamuraって書いてありますよ。大丈夫なんですか。アニメ音楽でアニメファンくるんですよ。ここってそういうのOKだったんですか」

「器が大きくて、あんたのこと大好きな女の子がいればいいんだけどねぇ」。

「小さいころ、よくN響聴きに行きましたよ、Bunkamura」

「そんな子いないの? ほんとマジで」

「……っていうか、ここで僕の曲を? どういうことです」

「話を聞けぇぇぇぇ!」

こんどは頭に横チョップをくらった。鬼の形相の香田に、ひるまず一希は応戦する。

「聞けったって、今は仕事の話でしょう」

「仕事とプライベートは紙一重なのよ!」

香田は胸ぐらを掴んで一希を振り回し始めた。膂力が半端ない。

「芸術家ってのはナァ、感性勝負なんだよ。私生活が破綻したら作品に現れるんだよ!」

「いや、芸術家って私生活破綻してたり必ずしも人格者ではないかtp……」

「そういう奴は端っからそういう人間なの! 元からそれで成り立ってる人なの!  あんたみたいにがんじがらめのクッソ真面目が破綻したら、ラリった音楽しか生まれなくなるだろうよ!」

ドスの利いた声である。ポンとソファに投げられた一希は軽くむせた。

「あんた、最近追いつめられてるでしょうがクソ真面目ヤロウが」

「?」

「なんであたしがわざわざ来たか、わかってる? 事務所に呼びつけりゃあ仕舞いの話なのに、あたしがここまで足を運んだ意味」


   ☆



真夜中、一希はモニターに向かっている。

小さな鈴の音、太鼓の音。

電子の歌姫の三重唱。

ヘッドフォンに流れる音は実にシンプル。


香田がどういう経緯で事務所を立ち上げたか、噂でしか知らない。

彼の人生が順風万端だったとは思えない。おそらく、一希などには想像もつかないほど様々な経験をしてきたのだろう。

彼の卓越した芸術センスは誰もが認めるところだ。


そんな香田が自分の作った楽曲に何を感じてここに来たのか。一希は考えた。


心のわだかまりは感じている。

これはいつ生まれた?

3年前? 5年前? 高校を出た時?

それとも、10年前?


間奏では、電子の声をさらに無機質に加工し、言葉であって言葉でない、遠い世界の言語に聴こえるよう細工した。

波のように。

全てを数値に置き換えられる音に。

宇宙の音で心がゆらぐように。



   ☆



香田がトイレに行っている間に、一希は素早くメールをチェックした。

『明日の夜はどう』

花からのメールだった。食事をご馳走したいと言う、あの話だった。

監督から無茶な誘いがなければ大丈夫だろう。

だから今夜中に作りかけのボカロ曲を仕上げておこう。

一希がスマホをポケットに仕舞ったのと、香田が戻ってきたのは同時だった。

「あんた、トイレ掃除まで行き届いてるわねぇ。男にしとくのもったいないわ。あ、これはフリーの男って意味でね。あたしの男になるならいつでも歓迎よ。あたしのかわいい仔猫ちゃんに申し訳ないから下僕ってことになるけれど」

「ひどいこと言いますね」

「褒めてるのよ」

一希は黙って書類を手にした。

コンサート形式のファンイベント。一希の作った劇伴数曲とOP主題歌・ED曲。あとは書き下ろしで1曲。これは歌付きで。生演奏。

「僕にこれが、できると思いますか」

Bunkamuraの会場配置。チケット価格(仮)。出演メンバー(仮)。

「あんたはどう思うの」

香田が所長判断でハネなかったということは、一希にできると判断したからだ。多少の背伸びは必要かもしれないが、不可能ではないと。

「僕は……」

初めて自分の音楽を人にきいてもらったのは高校1年の時。

多くの人に聞いてもらったのも高1の時。動画サイトだった。

身を隠して、名前を秘して、アップした。

その後は作曲コンクールやコンペに出した。出しまくった。すべて生活費大学入学費を稼ぐためだった。

表彰式には何度も出たが、指揮棒を振ったことはない。

スタジオで音をとったり拍子をとることはしている。指揮まがいのことはしている。

それだけだ。

それ以前に。

「所長……、香田さん」

「ん? なあに?」

「僕は」

企画書から目を離し、一希は遠くを見た。

「僕はちゃんとやれてるでしょうか」

「え?」

「僕は、男として人間として、ちゃんとやれてますか」

少し、声が震えていた。

「何言い出すかと思ったらこの子は……、もう!」

香田は一希の頭を自分の胸に抱きしめた。

「あたしなりに、あんたがどうやって生きてきたか知ってる。でもね、あんたはちゃんとやってるわ。そんじょそこらの人間よりずっと。だから不安定な芸術の世界でやっていけてる。あたしのマネージメント成果だけじゃない、あんたの才能と努力で成り立ってる」

彼はおそらく、一希を引き抜く前に徹底的に調べあげていたはずだ。

一希が生きてきた、その際に出遭ってしまった沢山のことも。

「香田さん」

「あんたを見つけた時、うれしかった。こんな才能、そうそうない。潰れる前に、摘まれる前に見つけることができて本当に嬉しかった」

香田の腕に、力がこもる。苦しい。

「ガス止められてるわ、水は公園から汲んできてるわ、どんな貧乏かと思ったらすごいお坊ちゃんだったってのには驚いたけどねぇ」

「金持ってるのは親であって僕じゃあありませんから」

「その心意気がいいのよ。惚れちゃいそう」

何不自由なく育った。両親に愛され、姉に愛され、十分過ぎる教育を受けた。衣食住にしても贅沢に過ごしていたと思う。その甘えがまだどこかに残ってはいないか。一希は恐れている。この歳になってもまだ自立できていないのではないか。

「あんたはちゃんとやれてる。あたしが保証する。それじゃあ足りない?」

「香田さん」

「どこに嫁に出しても恥ずかしくないわ」

「香田さん」

「あんたはあんたで自信をもって歩いて行きなさい。他に質問はある? お願いごとはある? あんたの言うことならなんでもきいてあげるわよ」

「香田さん、腕、ゆるめて。息が……できな」

ヒヤァァァ!と脳天に響く声で叫びながら香田は一希から離れた。

「死ぬかと思いました……」




    ☆



余計な音はいれないでおこう、最小限でも表現できるはず。

ボーカロイド音楽に携わるときはいつだって冒険をする。

自作のボカロ曲がネットで評判になったとき、いくつか仕事の依頼が来た。応えていればもっと早くに作曲家として世にでることができたかもしれない。水道を止められるまでのことはなかったかもしれない。しかし一希はそれを選ばなかった。

誰にも自分が作ったと知られたくなかった。花だけでよかった。

何があっても、ここだけは誰も知らない大切な場所。

ここだけは心が解放される場所。

何の制約もなく、音にひたることのできる場所。


明日はこれを持ってでかけよう。


彼女は気に入ってくれるだろうか。OKが出るだろうか。

それとも、いつかのように、「これはちょっと」と言われるだろうか。



自分は、彼女に音楽をきいてもらえるだけの価値のある男だろうか。


「君と、僕は」



そこから先の言葉はまだ、見つからない。


次からしばらく、花ちゃんサイドのお話です。

お楽しみに。

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