第十三話 アベイル平原の陣(前編)
緑の宝物庫、命の草原とも呼ばれ、はるか昔からオルデン王国の生活を支えてきたアベリア平原。いつもは小動物が走り回っているこの場所も、今日に限ってはその姿を見ることはない。
平原を埋め尽くすように向かい合う、白と黒の塊。王国軍と帝国軍はアベリア平原にて対峙していた。お互いの間にわずかな距離を置き、睨み合っている。馬で駆ければものの数十秒という距離であろう、弓の射程圏には十分すぎるくらいだ。
一触即発。どちらかが矢の一本でも放てば戦は始まる。平原には異様な静けさが蔓延していた。
一陣の風が嘲笑うかのように、両軍の間を吹き抜ける。青々とした草の絨毯が風に靡き、青臭い臭いを放った。
やがて風は止む。再び静けさを取り戻した平原に、弓をつがえる音が響く。
口火を切ったのは王国軍であった。
一斉に弦の弾かれる音が聞こえたと思うと、帝国軍の頭上に矢の雨を降らせる。
数拍遅れて、帝国軍も動き出す。目には目を矢には矢を。負けじとこれに応戦する。
降り注ぐ矢雨の中、一人、また一人と兵士が倒れて行き、平原を両軍の血で真っ赤に染めあげる。
ついに戦いの幕が切って落とされた。
「撃ち方止め! 帝国騎馬隊、俺に続け! 王国のザコどもを蹴散らしてくれる!」
ハリルはそう叫ぶと、馬の腹を蹴り、まだ矢雨の止まぬ前線に飛び出した。彼を鏃として騎馬隊が後に続く。
ぐんぐんと近くなる敵の先方。ハリルは湧き上がる興奮を抑えきれずにいた。
ハリルは武骨派の将軍である。力こそ全て。相手を大きく上回る兵力をもってして、完膚なきまでに叩き潰す。そうして武功を積み重ねてきた。それは将軍まで上り詰めた今も変わらない。
そんなハリルにとって今回の戦は非常に気楽なものだ。圧倒的戦力差、しかも向こうの司令官は能無しのど素人。万に一つもハリルが敗れる要因が見当たらない。
「一瞬で終わらせてやるぜ! おうらああ!」
ハリルの振り回した巨大な馬上槍が敵の先方を吹き飛ばす。勢いそのままに敵陣に食い込む。ハリルの開けた穴に次々と後続の騎馬隊がなだれ込み、穴を広げた。
荒れ狂う軍馬の前に立たされた王国兵たちは恐れをなしたのか、碌に反撃もできないまま次々と討ち取られていく。
全く持って張り合いが無い。
戦いには私情を持ち込むなと言う輩がいる。もちろんハリルも情けなどかけるつもりはこれっぽっちもない。だが、私欲は別だ。今は無性に戦いを欲している、命を賭けたやりとりを。
ハリルは立ち止まると、槍を高く掲げ、大音響で叫ぶ。
「よく聞け! 俺こそが帝国軍総大将ハリル将軍だ! 武勲を挙げたい奴はかかって来い!」
その豪腕をして、塞がれつつある前方を強引に開く。ハリルは鬼人のごとく暴れ周り、次々と首を狩った。
「か、囲め! あいつを討ち取れば――ぶふっ」
声を上げた王国兵は、馬の蹄鉄に額を割られ血の海に沈む。
帝国の第一波は成功した。王国軍の陣形は崩れ、明らかに戦況がこちらに傾きつつある。
「よし、歩兵隊が追いついたな! 帝国騎馬隊、いったん引け! 帝国歩兵隊と入れ替わるぞ!」
ハリルは馬を翻して、自らで開いた道を駆けた。騎馬隊と入れ替わるようにして、黒の鎧に身を包んだ歩兵隊が突入。たちまち混戦となった。
兵力で勝る帝国軍はさらに第二波、第三波と部隊を投入し、戦場を蹂躙した。
目に見えて王国側の兵力が少なくなってきている。ハリルは本日二十人目の王国兵を屠ると、ぐいっと額の汗を拭った。
カーンカーンカーン
王国軍の陣営から陣鐘の音が鳴り響く。
「た、退却だ! いったん引くぞ!」
「うわああ、置いてかないでくれえ!」
王国軍は口々にわめき散らしながら死に物狂いで退却を始めた。
「はっはっは、所詮付け焼刃では我が軍には適わんのだ! 全軍これより追撃戦に移行する、一人足りと逃すでないぞ!」
獲物を狩る虎。そう称するにふさわしい。帝国軍は砂塵を巻き上げ、王国軍に追いすがる。
騎馬隊を先頭に一直線になった帝国軍は、あっという間に距離を詰め、いざ噛み付かんと虎口を開く。逃げ惑う王国兵を嘲笑うかのように、その背後から噛み付き肉を喰らう。
それでも構わず王国軍は逃げる。幾度と無く帝国軍に追いつかれるも、その度にトカゲのごとく最後尾を切り離し、距離を稼ぐ。まるで、最初から逃げることに決めていたかのような見事な退却。開かれた口が閉じないよう必死で支えていた。
帝国軍総大将ハリルが追撃を命じてから、いかほどの時間が経ったであろうか。帝国軍の陣形は表すならば一本の矢。鏃の騎馬に箆の歩兵、計らずしてこの形になったのは吉とするべきか、正面の敵を叩くには最善のものであった。ただ、帝国軍総大将ハリルは知らない、これが敵の謀ったところであると。
「「「うおおおおおおおおおお!!!」」」
突如、帝国軍の横手から怒声が鳴り響いた。砂煙をあげ白の軍団が突っ込んでくる。その勢いに地面が揺れ、空気が振動する。
ハリルは目を凝らす。ところどころに獅子の旗を掲げているのが窺える。
「ふ、伏兵です! 王国軍およそ一万! ……いや、それ以上!?」
「ば、馬鹿な! そんな大軍どこに隠していた!?」
「わ、分かりません! 急に視界に現れました!」
「……クソっ! おそらくアダマースに侵攻したはずの部隊であろうが……。王国のやつどもめ、最初から俺たちをおびき出すのが目的だったか!」
ハリルは急いで追撃を止めさせる。しかし、一度付けた勢いは急には殺せない。突如現れた王国軍は、帝国軍の横腹を食い破り、部隊を二分した。
カーンカーンカーン
再び陣鐘の音が戦場に鳴り響く。
今の今まで逃走を図っていた王国軍が身を翻し、ハリルたちを挟み込んだ。王国兵の目は、怒りで燃えている。闘志をむき出しにし、襲い掛かってくる彼らは、先ほどまでとは打って変わったかのように手強い。圧倒的有利だった立場が一転し、窮地に立たされる。
風向きが変わった。戦場の中でのみ感じられる勝利の風、帝国軍の背中を押し続けてきたそれは今や王国軍の背中を押し、ハリルたちの前に暴風のごとく立ち塞がっている。
まずいな……
戦経験の豊富なハリルだからこそ分かる。今の帝国軍が勝利への気概を失いつつあることを。
戦況というものは絶えず流動的に変化する。その中でいかに効果的な一撃を相手に加えられるかで勝敗が決まってくる。
主導権を握ったのは自分だと思っていた、実際王国兵を退却に追い込んだのだから。しかしそれは勘違いであった。全てはこの挟撃のための布石であったのだ。
こうなれば、一度立て直すしかあるまい。
「ぐう……しかたない。退却だ! 引け! 分断された部隊と合流する、騎馬隊は道を開け!」
ハリルは騎馬を走らせ、帝国軍を分断している部隊に斬りかかった。しかし、戦の利は向こうにあるのか、先ほどまでのようになかなか崩せない。他の騎馬隊も苦戦しているのか、徐々にその数を減らしつつあった。
「ん? なんだこの異臭は……」
血生臭い臭いとはまた別物、よもや不快感はそれ以上。どこからともなく漂って来る。
これは……腐臭? そうだ肉の腐った臭いに似ている
「うぎゃあああ! ば、化け物!」
「く、来るなあああ!」
後続部隊から悲鳴が上がる。
何事かと、高い視点で戦場を見渡す。帝国軍の背後に何かの集団が取り付いている。
「し、死人だと!?」
ぼろぼろの服を着た、“人であったもの”が帝国軍に襲い掛かっていた。腐った臓器や眼球が飛び出していることから間違いないだろう。
ハリルもこのような類の本が好きで、暇なときによく読んだりしたものだ。しかし、それは想像上の話。現実では起こり得ないことだ。それなのに――
「あ、ありえん……」
ハリルは馬上で棒立ちになり、底冷えするような恐怖に襲われる。
化け物から離れているハリルでさえこうなのだから、襲われている兵士たちの心境は計り知れない。実際、化け物に退路を立たれた兵士たちはパニックに陥っている。中には泡を吹いて倒れる者まで現れた。
しかも、驚くべきことは、その集団が見事に統率の取れた動きをしていたということだ。複数で集を作り、個にあたっている。それぞれがお互いをカバーしつつ、帝国兵を一人、また一人と屠っていく。
帝国軍に、冷静に化け物に対処できるものなどいなかった。後ろに下がりたい者、化け物から遠ざかりたい者とで衝突してしまう始末である。
後編は明日の21:00投稿です。