広まる母の噂
翌朝、知美は食器を流し台に持っていくと、ソファの傍に置いていた鞄を手にした。
もう既に優子は家を出た後だ。
伊代に学校に行ってくると告げ、玄関に歩きかけた知美の足が止まる。
振り返ると伊代を見た。
「郵便局って近くにありますか?」
「手紙、書き終わった?」
伊代の言葉に知美はうなずく。
知美は昨夜のうちに手紙を書き終えた。
親しい友人だったため、書きたい事はたくさんあった。だが、この学校については触れる気にはならず、差し障りのないことを綴っていた。
「今週中で良かったら、出しておくわよ」
「ありがとう」
知美は伊代の言葉に甘え、鞄から封筒を取り出すと伊代に渡す。
そして、家を出た。
眩い太陽の光に目を細め、天を仰ぐ。
友達からの手紙に心は癒されたが、学校に行かないといけないと思うと、心が重くなる。
悪い子ばかりではない。だが、何人かに悪意をあからさまにされることに、精神的な苦痛を覚えていた。
知美は信号を渡った時、前方に見慣れた姿を見つけた。見知った集団の中に、一人だけ名前が分かる人がいた。門田一恵だ。
その脇には昨日、知美に挨拶をしてくれた女子生徒の姿もある。他に顔と名前が分からない人も幾人かいたが、挨拶くらいなら良いかもしれないとその集団に近寄っていく。
だが、聞こえてきた一恵の声に知美は足を止める。
「まだぐずぐすしてるの? このままならわたしの勝ちだよね」
「そうなんだけど、岡江くんとか笠井さんとか怖いし」
「別にあんな子たち怖くなんてないわよ。ただ、声が大きいだけじゃない」
ショートカットの生徒に対し、鼻を鳴らす一恵に、周りの女生徒が苦笑いを浮かべる。
「でも、悪魔って本当なのかなあ」
「さあね。でも、賭けの対象にはもってこいでしょ?」
「一恵はそういうの好きだよね」
その言葉に一恵は得意げに笑う。
知美には彼女たちの話の全貌が分からなかった。だが、彼女が好意を持って親切にしてくれていたわけでないことを悟る。
知美は近くの民家の塀の陰に身をひそめると、彼女たちの姿が見えなくなるのを待って学校に行くことにした。
教室に入ると、いつものように教室内が静まり返る。岡江の怪我の効力は一日限りだったのだろう。
心を無にして、自分の机まで行く。既に岡江や笠井の姿はあるが、前田はまだ来てないようだ。
ホームルームのチャイムと共に高田が教室に入ってくる。
「前田君、休みなのかな?」
「さあね」
笠井と岡江の会話が耳に入って来るが、知美にはあまり興味がなかった。
淡々と授業が進み、午前の半分の授業を終えた時、一恵が黒板にいる高田のところに行く。彼女は高田に何かを言うと、教室を出て行った。
昼休みを半分終えた頃、教室の後ろの扉が開き、前田が入ってきた。
「遅かったな。風邪?」
岡江が前田に話しかけるが、前田は反応しなかった。
話しかけるのを諦めた岡江が元の席に向き直った時、前田が顔をこわばらせたまま彼の肩をつかんだ。
「お前の見たのって、茶髪の女?」
「女だと思う。金の目をした」
前田の表情が凍りつく。
「お前、それ、呪われたんだよ。川瀬に」
はあ?と大げさに言う岡江の肩を叩く。
「俺の母親が言っていたんだ。こいつの母親のときも茶髪の女が目撃されていたんだって。関わった人が女に突き落とされたり、首を絞められたって」
「ほんとかよ」
「嘘つく理由なんてないよ。それに俺の伯母さんはこいつの母親に殺されたって聞いた」
教室の各所から悲鳴が起こり、刺すような視線が教室中から知美に突き刺さる。
否定しようとした言葉も、視線に飲み込まれる。
「まじかよ。俺、殺されるのか?」
「分からない」
前田がちらりと知美を見た。
「悪いな。そんなつもりじゃなかったんだ。もう何も言わないから、勘弁してくれ」
知美は否定しようとするが、唐突な話で何をどう言ってよいのかも分からない。
感情の赴くまま、言葉を紡ごうとしたとき、低い声が静まり返った教室に響いた。
「今の話、本当なの?」
声の主は一恵だ。彼女は一度教室を出たきり、戻ってきていなかった。心なしか朝よりも顔色が悪い。
知美は今朝きいた会話を思い出し、身を縮こまらせた。
「俺の母親が言っていたから、間違いないと思う」
「保健室で寝ていたら、首を絞められたのよ。茶髪の女に」
彼女は知美を鋭い視線で捉える。
「その女はどこに行った?」
「気づいたらいなくなっていた」
一恵は肩を抱く。
「わたし、知らない」
「でも、その人は言っていたのよ。知美を酷い目に合わせたら許さないってね。それでも無関係だと言えるの?」
教室内が一瞬で凍り付いた。
「わたしは何も」
弁解しようと歩みかけた知美の体を、一恵は手の甲ではたく。
「近寄らないで。良かった。あなたみたいな人と席が離れていて」
彼女は冷たく言い払うと、自分の席に戻っていく。
「前、つめてよ」
笠井が前の席に座っている女生徒を促し、席を詰めさせる。
周辺の人達との距離が倍になる。そして、次の授業の開始時に高田は前田に席の移動を指示していた。
オレンジ色の光がどこかから漏れ入るように入ってきていた。知美は部屋に入ると、鞄を入り口付近に置いた。ベッドに倒れ込むように横になる。
ストレスから眠気を覚え、抗うことなく夢に落ちる。
「何かあった?」
優しい言葉に顔をあげると、そこにはマリーが立っていたのだ。
「学校で嫌な事があったの」
マリーは寂しそうに微笑む。そして、知美の後頭部に手を回すと、そっと抱き寄せた。
「気にしないほうがいいのよ。あの人達は可哀想な人なの。誰かをいじめて優越感に浸っているだけ。理由なんて何でもいいの。あんな人達と一緒にいて傷つくだけ無駄なのよ」
知美は目を閉じ、頷いた。
その言葉は知美の体にすんなりと入ってくる。
「わたしがずっと傍にいるから、相手にしたらダメよ」
マリーの手が離れ、知美は彼女を見て頷いた。
「ありがとう」
辺りに立ち込めていた光の空間が消え、いつの間にか見慣れた自分の部屋が目の前にある。
「夢、か」
だが、首筋や頬に僅かな温もりが残っていた。
知美はマリーを探す。彼女の姿はいつものように机の上にいた。
マリーと目があった気がして、夢の日の出来事を思い出していた。心が安らぎを覚え、自然と笑みが浮かぶ。
学校の人たちと特に親しくしなくても構わない。マリーが友達でいてくれるし、昔の学校の友人もいる。理不尽なクラスメイトの態度をそうかたづけることにした。
その日以降、マリーは知美の願いを叶えるように、頻繁に夢に出てくるようになった。その夢に出てくる彼女は愛らしく、とても優しい。
知美は夢の中で彼女と語ることだけが楽しみになり、時間があるときはベッドに身を埋めることも増えていく。
学校でもあの話以降、明らかな嫌がらせは減った。だが、より誰も知美に関わろうとしなくなった。それは担任である高田でさえそうだった。だが、時折、知美の事を言っているのだろうと思う陰口が耳を掠める。
それから、知美は学校に行き、授業を受けるだけの日々を送っていた。
彼らを気にするのはやめにした。無駄なことは分かっていたからだ。
そう思ったのはマリーが言っていた可哀想な人間の話に同調したためだ。
優子を含めて人の文句を言う人間はそんな星の下に生まれ育ったのだろう。そんな気持ちでいると不思議と苛立ちも、悲しみも覚えることはなかった。
だが、それでも将や伊代に対しては申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
彼らが気を遣い何度も話しかけてくれるし、休みの日には一緒に出かけようとも言ってくれた。知美は出来る限り彼らの誘いに応じるが、マリーのことは誰にも話をしないことにした。
マリーと話をすると嫌なことなんてすぐに忘れられる。彼女がずっと友達でいてくれるならそれでよかった。




