連なる嫌がらせと母の面影
教室の前に来ると、手提げ袋をそっと抱き寄せた。
朝、目覚めると知美はマリーを抱きしめていた。知美は人形のマリーと話をする夢を見て、そこで彼女を学校に連れて行くと約束したのだ。
夢は夢でしかない。そのため、実際に連れて行くべきか迷ったが、やけにリアルな夢が印象に残り、知美はマリーとの約束を守る事にした。
深呼吸をして扉を開けると、教室内のざわめきが消えた。
自分の机に行くと、目が熱を帯びるのが分かった。机が不自然な白さになっていたためだ。誰かが黒板消しをはたいたのだろう。
知美はそのまま教室の外に出た。
廊下に出た後、教室内からは笑い声が響いていた。
知美は手洗い場を見つけると、バッグから雑巾を取り出す。この学校では雑巾を二枚持っていくことになっているらしく、持たせてくれたのだ。
バッグを青のタイルの上に置き、蛇口をひねる。雑巾で水しぶきを受け止めようとした。
「これ、使っていいよ」
その声と共に、少し汚れた雑巾が差し出される。
それを差し出したのは両サイドで三つ編みを結った女の子だ。
見たことがあると感じたが、名前はまだ出てこない。
彼女は蛇口を開けると、雑巾を濡らし、両手で絞る。
「その新しいので後から空拭きしたらいいよ。一つは先生に渡さないといけないから」
そういえば伊代が一つは高田に渡すようにと言っていたのを思い出す。
「ありがとう」
歩きかけた彼女にお礼を言う。
「門田一恵だよ」
彼女は頬を赤らめながら、自分の名前を名乗った。そして、もう一度笑うと、教室の中に入っていく。
あの雰囲気の中で教室の外にいるのに、知美に話しかけるのには勇気が行っただろう。知美は彼女の優しさに感謝したくなった。
教室に戻ると、またざわめきが消えた。だが、先ほどのように気にする気持ちはなくなっていた。彼女に言われたように先に彼女の雑巾で机を拭き、自分の雑巾で後から水気を拭き取る。
もう一度洗面所まで行き、彼女の雑巾を洗おうとしたとき、彼女の雑巾に茶色のシミがついていたのに気づく。水で何度も洗っても、汚れは落ちない。
知美の体に影が重なる。
「どうかしたの?」
そう聞いてきたのは一恵だった。
「あの、雑巾が汚れてしまってごめんね」
一恵は知美が差し出した雑巾を見て、目を見開いていた。だが、すぐに笑顔になる。
「いいよ。仕方ないし。気にしないで」
一恵は雑巾を受け取ると、先に教室に戻っていく。素っ気ないやりとりであったが、それでも知美には嬉しいできごとだった。
教室内では誰も知美に話しかけることはなかったが、昨日のような重苦しさは感じなかった。
昼休みを終え、授業が始まると、担任の高田が入ってきた。
知美は高田から借りた教科書とノートを机の上に並べる。
昨日、知美に怯えた様子を見ていたが、今日の彼は至って普通に見える。
チャイムが鳴った直後、斜め前の席の岡江が急に立ち上がる。
「先生、教科書がありません」
「ありませんって、忘れたのか?」
「いえ、さっきまであったんですけど」
クラスから笑い声が起こる。岡江はその笑い声に恥じることなく、自身も笑っていた。
知美は彼らの会話に興味を持てず、窓の外を眺めていた。
どうやら彼は自分が忘れ物をしたわけではないと主張をしているようだった。
突然、知美の座っている机が強い力で叩かれる。机の上に置いていたペンが軽く跳ねた。
知美は体をびくつかせる。
彼の洋服の裾に白い粉がついているのに気づき、遅れて叩いた本人を見た。
「お前が取ったんだろう」
知美の顔を覗き込み、断言した岡江に嫌な予感を感じる。
知美は昼休みの給食を食べた後、教室の外にいたのだ。
「岡江、人を泥棒扱いするのは良くないぞ」
そう言いながらも高田は愉快そうに笑う。
「何でわたしがあなたの教科書を取らないといけないのよ。新しい教科書がもらえるのに」
心臓はいつもより早い鼓動を奏でる。
彼らが知美の荷物に入れた可能性が頭を過ぎったのだ。
「机の中のものを見せてみろよ」
岡江は知美の机に手を入れようとした。
だが、彼の目線は知美の鞄を一瞬見た。彼の目が見張り、鞄のチャックを締めていなかったことに気づいた。
「これ」
「あれじゃない? 教科書」
そう口にしたのは笠井の前の先の湯川だった。彼女は年頃の少女にしては大きな指先で楕円を描くようにして、教室の後方にある荷物を入れる事が出来る棚を指差していた。
その岡江の場所に算数の教科書が一冊置いてある。
岡江は跳ねるようにそこまで行き、それを確認していた。
「あ、俺のだ、何でこんなところにあるんだろう」
「自作自演じゃねーの?」
「違うよ。俺は確かにこいつの」
だが、彼は言いかけた言葉を噤んだ。
岡江はぶつぶつ文句を言っていたが、それ以上知美に責任を擦り付けることはなかった。
岡江が座るのを待ち、高田が授業を始めていた。
放課後になり帰りのホームルームが始まった。だが、最低限の進行で放課後になる。
その途中、岡江と前田が知美を見ながらひそひそ話をしていたのが目に入る。
だが、出来るだけ彼らと目を合わせないようにする。
あいさつが終わり、生徒が教室から出て行く。
知美も教室を出ようと鞄に手を伸ばしたとき、背中に軽い衝撃が走る。
知美の手から鞄が離れ、床に転がる。
「ああ、悪いな」
岡江のやけに甲高い声が耳に届く。
だが、知美の関心は床に落ちた鞄に向かう。鞄から茶色の髪が飛び出していたのだ。
知美は慌てて鞄を拾い、マリーを鞄の奥にいれる。
「先生、川瀬さんの鞄に何か入ってます」
前田は手を天井に向かって真っすぐに伸ばすと、知美を得意げな目で挑発する。
だが、陽気な二人のクラスメイトとは異なり、高田はあからさまに嫌そうな顔をする。
騒がしかった教室が一気に静まり返る。
「何か入っているのか?」
「入ってません」
とっさに嘘が出てくる。だが、嘘を吐いてしまったことに後から気づき心臓が破裂するのではないかと思うほど、胸が高鳴っていた。
「そういうことだ。これで終わりだ」
「それってひいきじゃないですか? この前、僕の持っていたカードを取り上げたくせに」
前田はふてくされた顔で高田を睨む。
高田はため息を吐いくと、知美を見る。
クラスメイト中から好奇の視線が集まる。高田の出方を伺っているのだろう。
高田は立ち上がると、知美に近づいてきた。彼の顔は怪訝としているわけでも、教師としての威厳で満ちているわけでもない。眉をひそめながらも唇を軽く噛んでいた。
「とりあえず岡江のこともあるから、鞄の中身をちらっと確認するだけだ」
言い訳めいた言葉を並べた高田の手が知美の鞄に伸びる。
知美は思わず鞄を胸元で抱いた。
高田の目が光る。
「何か入っているのか?」
高田が知美の鞄をつかみ、引き寄せた時、彼の顔が引きつった。
「何も入っていないから、お前たちは帰れ」
岡江と前田は不満そうな顔をしながら、知美を睨む。
高田が知美に鞄を押しつけると、教卓に戻る。
彼がなぜ嘘を吐いたのか、本当に中身を確認したかは分からなかったが、知美は今のうちに学校を出ることにした。
だが、教室を出た知美の肩を追ってきた岡江がつかむ。
「お前、何か入れてるだろう。茶色の何か」
知美は鞄を抱き走り出す。このまま見つかれば、マリーを奪われると思ったからだ。
「待てよ」
岡江の怒鳴り声が響くが待つわけもない。
階段を下り、一階まで行く。途中、どこかのクラスの集団にぶつかりそうになるが、向こうから顔を引きつらせながら知美を避けてくれた。
靴箱でもクラスメイトが避けたため、知美は靴に履きかえると学校を飛び出した。
学校を出て、振り返る。だが、そこに物凄い剣幕で追ってきた彼の姿はなかった。
家に帰ると、マリーをバッグから出し、机の上に置いた。
今日は帰りがけに誰かに会うこともなかった。
「マリー、学校はどうだった? 落としてしまってごめんね」
マリーは心なしか笑っているように見えた。
知美は彼女が喜んでくれた気がして、表情を和ませていた。
伊代に呼ばれリビングに行くと、将の姿はどこにもない。その代わり、香ばしいスパイスが鼻腔を刺激する。知美の気持ちに気づいたのか、伊代はまだ仕事から帰ってないと伝える。
今日の夕食はカレーと半分ほどの器に盛られたサラダだ。レタスがトマトを引き立てていた。
知美がカレーを食べようとしたとき、リビングの扉が開いた。将が帰ってきたのかもしれないと期待に胸を膨らませた。だが、そこに立っていたのは彼よりも一際小さな少女だった。
「優子も食べる?」
伊代は顔をほころばせていた。
優子は口角をあげ、舐めるように知美を見ている。
「今日、岡江君が怪我をしたのよ」
「どうかしたの?」
伊代は目を見開くと優子を見た。そのときの優子の表情には先ほど知美にみせた嘲笑うかのような表情はすっかり消えていた。眉をひそめると、右手を顎に伸ばす。
「どっかの誰かさんを追いかけているときに転んだみたい。本人は誰かに押されたと言っているの」
「でも、走っている人を押すなんてそんなことできるのかしら」
伊代にはそちらのほうが気になったのだろう。首をかしげ、難しい顔をしていた。
優子はあてが外れたのか、太く短いため息を吐く。
「普通はできないけど、悪魔ならできるかもね」
その顔に伊代の顔が引きつる。
「優子」
優子は愉快そうな笑みを浮かべると、知美を舐めまわすような目で見る。
「冗談にきまっているじゃない」
彼女はそう言い残すと、自分の部屋に戻っていく。
知美は唇を噛む。
「気にしないでね。あの子、近所の人が話をしていた変な噂を信じてしまったみたいなの」
伊代の言葉にうなずくことしかできなかった。
部屋に戻ると、ため息をつく。
知美は机の上にあるマリーを抱き寄せる。
美佐の匂いがした気がして、彼女を抱きしめる手を強めた。
「お母さん」
なぜ、美佐がそこまでこの町の人に忌み嫌われているのか分からず、殆ど笑う事のなかった彼女の横顔を思い出していた。




