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マリー  作者: 沢村茜
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母親を嫌う人たちと嫌がらせ

 知美が感じた異質な感覚は気のせいではなかった。授業の終了の鐘が鳴ると、顕著になる。知美を興味深く眺める人はいても、知美の視線がその主を追いかけると、途端に目を逸らされる。偶然と最初は言い聞かせていたが、その回数が重なるにつれてそう考えざるしかなくなっていた。



 そのとき、聞き覚えのある笑い声が響く。


 顔を上げると、一人の少女の姿が目に飛び込んでくる。彼女に浴びせられた言葉が一言一句違わずに脳裏によみがえる。



 昨日と同じように肩の下まである髪の毛はしっかりと結われていた。


 知美はなぜクラス内でこうした扱いを受けるのが分かった気がした。優子とクラスメイトを同一視したのだ。


 知美は教室の外に出ると、息をつく。人気のない廊下に出ると、やっと異世界から今の場所に舞い戻ったような安らぎがある。


 前の学校の友達を親しく思い、唇を噛んだ。


 だが、彼女の心の安らぎは響き渡るチャイムによって再び打ち砕かれる。


 この場所から逃げ出したい。そう思っても、教室に戻るしか術がないことを理解していた。


 深いため息を吐き、ドアに手を掛けたときだった。ドアの奥から人の話し声が聞える。


「ねえ、あの子って優子の家にいるのでしょう?」

「一応ね」


 彼女の心情を如実に表しているような、低い呻くような声だ。


「怖くないの?」


「仕方がないでしょう。親父たちが勝手に連れてきたからさ。関わらないようにするよ」


「かわいそう。あんな子、母親と一緒に死んじゃえばよかったのにね」


 優子と話している人の顔も名前も知らない。だが、知美を傷つけるには十分だった。


 知美の瞳から一筋の涙が零れ落ちる。彼女はその涙が床に落ちないように右手の甲で拭っていた。



 放課後、足早に教室を出ることにした。胸につまっていたものが抜け落ち、胸を撫で下ろす。


 だが、一番乗りとはいかずに、クラス内で見かけた顔を見つけ、できるだけ人と目を合わせないように廊下を歩き、足早に昇降口を後にする。

 知美は昇降口を出てから学校の門をくぐるまで、伊代の姿を探し求めるが、彼女の姿は見当たらない。


 迎えに来てくれるといった彼女の発言が嘘だとは思いたくなかった。


 待ち合わせ場所も時間も決めていなかった。だからこそ、何か用事があるか、この時間に終わると知らなかったのだろうと言い聞かせた。


 知美は記憶力には自信がある。だから、今朝の記憶を頼りに家に戻る事にした。きっと伊代や将が温かく迎えてくれると考えたのだ。


 途中、曲がり角を曲がった時、思わず知美の足が止まる。今朝、二人組を見た場所だったのだ。

 そして、朝の状況を再現するかのように、そこには朝見た小太りな女性が立っていたのだ。だが、隣に立つ女性は知らない人だ。

 知美は飛び出してきたばかりの曲がり角に身を潜める。


「今朝、見たのよ。あの女の子供」


 そう言われた人も眉根を寄せ、怪訝そうな顔をした。


「どうしてあんな子を引き取ったんでしょうね」


「いい人ぶりたかったんじゃない? 身内は白井さんの家だけだし、放っておくこともできなかったのかもしれないけど」


「あんな子供の面倒を見るなんて絶対に嫌よね。伊代さんも断ればよかったのに。でも、六年生よね。うちの子と学年が違っていてよかったわ。あんな子と同じクラスだなんて、学校に通わせるのも嫌だから。優子ちゃんは良い子なのにね」


 あんな子というのが知美のことを指しているのはすぐに分かる。


「六年何組になったのかしら。うちの子は二組なのよね」


 あの中に彼女の子供がいると知り、その言葉に胸の奥が抉られるような気持ちだった。


「心配ね。やっぱり校長に直談判しましょうよ。あんな子を受け入れるなって」


「でも、岡崎さんは誰にでも優しいからね。それにあの家に逆らうのはちょっと。白井さんの家に言ったほうが良くないかしら」


「あそこは伊代さんが」


 そのとき、知美の肩に手が触れた。


 体を震わせ、振りかえると、岡崎が立っていたのだ。


「どうかした?」


 知美は唇を噛む。


「何でもないです」


「あら、校長先生」


 さっきまで陰口を叩いていた声より一オクターブ高い声が響く。知美が振り返ると、そこには先ほどの女性たちがいた。彼女たちの顔があからさまに引きつる。


 二人は一瞬、知美を嘲るような表情を浮かべた。


「失礼します」


 知美は堰をきったように、その場から立ち去ろうとした。


「川瀬さん」


 彼に呼び止められ、知美は恐る恐る振り返る。


「あなたの家の近くで用事があるので、途中まで一緒に行きましょう」


 知美に弁解する間も与えずに、岡崎は知美の傍まで来る。


 そして、先に歩き出した彼の後を追うように、知美は歩き出した。


「学校はいいんですか?」


「大丈夫ですよ」


 その時、道の向こう側から呼吸を乱して走ってくる女性の姿が見えた。


「ごめんね。遅れちゃって」


 伊代は知美に前に来ると、頭を下げた。


 彼女はサマーニットにジーンズとラフな格好に着替えている。


「わたしはこれで」


 岡崎は笑みを浮かべると、来た道を引き返した。

 岡崎は自分を庇ってくれたのだろうか。

 そう思いながらも、口に出すことはできずに彼を見送る。


「学校はどうだった?」

「普通かな」


 お世辞でも楽しいや、なじめそうといった言葉を口にはできなかった。


 伊代は少し寂しそうに笑うと、知美の頭を撫でた。


「何かあったらいつでも言ってね。できる限り力になるわ」


 彼女の言葉を嬉しく思いながらも、今日、他の人から浴びせられた言葉や態度が目まぐるしく頭の中を駆け巡っていた。


 母親はなぜ、そこまで嫌われているのだろう。


 知りたいと思っても、その答えにたどり着く方法が分からずにいた。




 家に帰り、部屋に戻ろうとした知美を伊代が呼び止める。


 伊代はリビングに入った知美に、数枚の写真を差し出した。


「お母さんの写真はもう少し待ってね。でも、これが知美ちゃんのおじいさん、おばあさんだよ」


 色あせた写真に優しそうに微笑む男女が映っていた。女性は赤ん坊を抱き寄せている。


「これは伯父さん?」


 伊代は頷いた。


「今から三十年程前よ。客間で撮った写真だと思う」


 二人を見た知美に第一印象は優しそうな人だ。そして、男性に美佐の面影を感じていた。


「ありがとう」


 知美が写真を返したとき、階段をあがる音が聞こえてきた。


 優子だろうか。


 伊代に悪いと思いながらも、今日のやり取りを思い出し、胸が痛んだ。


 伊代が優子を呼び止めなかったため、ほっと胸をなでおろす。


 知美はお菓子を食べると、自分の部屋に戻ることにした。


 だが、ドアを開けてぎょっとする。


 草や枝が部屋に散らばっていたのだ。こんな事をするのは一人しか思い浮かばない。


 知美は隣の部屋にいる彼女を恨めしく思いながらも、部屋に散らばったものをまとめてゴミ箱に捨てることにした。


 日が落ち、お風呂に入って部屋に戻ると、ため息を吐いた。


 優子があのような発言をしたためか、優子と知美がはちあわせをしないように将も伊代も気遣ってくれた。優子と伊代が一緒にご飯を食べていたため、将と知美が少し時間をずらして食事を食べることになったのだ。


 明日、学校に行けば、また今日のような目で見られるのだろうか。


 そう思うと知美は心が重くなる。


 ベッドに寝転ぶと電気を消した。


 寝てしまえば明日の朝には少し心が落ち着くだろう。

 今までずっとそうやって生きてきた。

 その日々がただ続くだけだ。


「知美」


 微かな声が耳に届く。


 知美は記憶を辿りよせるように、その声に意識を向けた。


 月の光が窓から差し込み、部屋の中をうっすらと照らしている。


 知美はその光を頼りに声の主を探した。


 だが、誰もいない。



 夢を見ていたのだろうか。


「わたしよ」


 知美の心の声を否定するかのように、人の声が耳に届く。


 だが、知美はその声の主がどこにいるのか分からないでいた。


「どこを見ているのよ。ここよ」


 知美は体を起こし、部屋の中をうろつく。


 まるでかくれんぼをしているような気分だった。


 だが、虫一匹見当たらない。


「机の上にいるじゃない」


 その言葉に導かれるように机を眺める。そこにあるものを見て、息を呑む。


 悪戯かもしれないと逸る気持ちを抑えゆっくりと歩み寄っていく。


 丁度腕を伸ばせば手の届く位置に達したときに足をとめる。金の瞳にとらわれているような錯覚を覚える。だが、彼女は身動き一つしない。


 失望と、安堵する気持ちが入り乱れた状態で知美は口を開く。


「マリーなの?」


 返事は聞こえない。

 人形が話をするわけがない。そう言い聞かせながら、マリーに手を差し伸べた。

 その時、知美の指先を冷たいものがかすめたのだ。


「そうわたし」


 突然の回答に驚きながらも、先程まで聞こえてきた声が、夢の中で聞いたものと一緒だということに気付いたのだ。


「大丈夫? 学校で酷いことを言われたのよね」


 その言葉に知美の視界が滲んだ。

 知美は涙ぐんだまま頷いた。


「ここに住む人たちの多くはろくな奴らじゃないのよ。わたしはずっとあなたの味方よ。あなたを守ってあげる」

「どうやって?」

「わたしを学校に連れて行って」

「でも、先生に見つかったら」

「大丈夫」


 何も言わずに心を慰めてくれたからか、彼女の言う事を信じてみたくなった。

 知美は「分かった」とマリーに返事をした。


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