マリーと名乗る少女
手の指先に水滴を含んだコップが触れる。その水滴が新しい居場所を求めているかのように知美の指先に吸い付くと、そこから離れようとしなかった。水滴を無視し、オレンジ色に染まったコップを今度は両手で包むように持ち上げると、口に含ませる。
目の前には笑顔を失った将と、愛想笑いかもしれないが少し疲れた笑みを浮かべている伊代の姿があった。
この部屋に通されたとき将に「悪魔」の意味を聞いたが、彼は顔を強張らせたまま気にしなくていいと言っていた。しかし、あのように敵意をあからさまにされ、気にするなというのは難しい。
リビングではしんと静まり返っている。
伊代が立ち上がると、台所の奥に消える。
知美は難しい顔をした将を見ると、水を飲み続けた。
そのコップが空になった時、目の前に白い食器が差し出される。そこには具だくさんのシチューが入っている。その脇にはオレンジジュースだ。
知美は目を輝かせ、伊代を見る。
彼女は頷くと笑みを浮かべた。
「お腹いっぱい食べてね」
伊代はそうつけ加えた。
空腹には耐えられず、知美は目を輝かせて食器に手を伸ばす。
「おいしい?」
知美は口を空にするのがもったいない気持ちがし、将の言葉にうなずくだけだった。
「僕も食べようかな」
将は知美に一人で食べさせないためか、お腹が空いていたからか定かではないが彼も一緒に食べていた。そんな他愛もないことにも知美は喜びを隠せなかった。美佐は決して知美と一緒にごはんを食べようとしなかったからだ。他の人と一緒に食べるシチューは学校の給食を思い出し、いつもよりおいしく感じた。
知美はごはんを食べると、お風呂に案内された。自分で洗わなくて良いお風呂は久しぶりだった。湯船も広く、足を伸ばしても余裕がある。外見は趣のある家だが、内装は随所にリフォームがされたのか、まだ新しさを感じる部分もある。
お風呂をあがると、部屋まで案内された。部屋の前まで来たとき、案内してくれた伊代が隣は優子の部屋だと教えてくれたのだ。悪魔と言われた言葉を思い出し、身震いする。しかし、彼女達の娘である優子のことを悪く言いたくなかった。できるだけ不安ににた気持ちをおくびに出さないように心がける。
部屋の扉を開けると、新品の机やベッドが目に飛び込んできた。
そして、机の上に二つ箱が置いてあった。
「あの箱は?」
「開けてみて」
伊代に促され、知美は箱のリボンを解き、包装を外す。
大きな箱に入ったのは黒の薄手のカーディガンだ。そして、小さな箱にシルバーのチェーンの腕時計が入っている。
「これは」
「随分遅くなったけど、知美ちゃんの誕生日プレゼントよ」
「二つも? ありがとう」
知美は嬉しさから笑顔を浮かべるが、伊代は少し困ったように笑っていた。
「伯父さんにもお礼を言ってくるね」
伊代と一緒にリビングに戻る。知美はテレビを見ている将の隣に立つ。
「プレゼントありがとう」
将はああ、と笑顔を浮かべる。
「大事にしてくれよ」
知美は将の言葉に何度もうなずいた。
「明日は私と一緒に学校行きましょう」
まるで御伽噺の世界に迷い込んだ気持ちになり、彼女の言葉に何度もうなずいていた。
部屋に戻ると、ベッドに横になる。それからは何かを考える間もなく、眠りに落ちていった。
知美は真っ暗な空間に立っていた。辺りを見渡そうとしても、真っ暗で何も見えない。それでも出口を探して彷徨っていると、その空間が光に切り裂かれる。その強い光に耐えられなくなり、思わず両目を覆う。だが、そんな強い光もあっという間に消失し、残ったのはほんのりと明るい光だった。
光が弱くなったことを感じ取り、手を動かす。すると目の前に煌びやかな色をした髪の毛があるのに気づく。その髪の正体は金の瞳をした少女だった。その瞳を長いまつ毛が縁取っている。透るような肌をしていたが、その唇は血色が悪いのか青ざめて見えた。
「こんにちは」
思わず声の主を確かめたくなるような澄んだ声だった。その声には力強い意志が感じ取れる。
彼女はにこりと微笑む。思わず見惚れてしまう程の、愛らしいものだった。
「あなたは誰?」
好奇心から彼女の名前を問う。
「マリーよ。友達になりましょう」
綺麗な子にそんなことを言われ、知美の心は弾んでいた。
白く細い腕が知美に向かって投げ出される。知美が彼女の指先に触れると、ひんやりと冷たいことに気づく。どうしてそんなに体が冷えているのかを問いかけようとしたとき、目の前から少女の姿が消えていた。
強い光がまぶたを叩く。目を開けると、窓のカーテンの隙間から太陽光が射し込んでいたのに気づく。
知美は手の平を凝視する。夢の中の出来事を思い出していた。夢だったはずなのに、知美の手には冷たい感触が残っていたのだ。
ふと、我に返り、首を横に振る。
今日から学校に行くのを思い出し、今日の洋服を探す。
部屋の入り口にはダンボールが五箱横に並べてあった。眠る前にはなかったので、眠っている間に将か伊代のどちらかが運んでくれたのだろう。
中身を確認するために一番ベッドに近い場所に置いてある箱を開ける。
そこには前の学校で開いてくれた簡素なお別れ会のときにもらった色紙が入っていた。
前の学校での楽しい思い出が頭を過ぎり、思わず視界がかすむ。
だが、仕方ないと言い聞かせ、涙を拭う。
きっとこっちでも良い友達が出来るだろう。
寂しさを紛らわせるため、隣の箱を開けた時、栗色の髪の毛が目に留まる。昨日、美佐の部屋で見つけた人形だ。
その人形と夢の中の少女の姿が重なり合う。同時に彼女が自分の名前を教えてくれたのではないかとも考えていた。
そんな気持ちを抱いたとき、その人形の名前が必然的に決まる。
「あなたの名前はマリーね」
その人形を机の上に置くと、着替えを済ませ、部屋を出た。
リビングに行くと、味噌汁の匂いが知美を出迎えてくれた。そこには笑顔の伊代の姿があった。
「おはようございます」
まだ夢から覚めない思いで、その匂いをかいでいた。
そのとき、椅子と床が擦れる音が響く。音のした方向に顔を向けると、昨日見た将の娘の姿を見つける。
彼女は白のサマーニットに膝丈のデニムのスカートをはいていた。彼女は知美を一瞥すると顔を背ける。
「まだ残っているわよ」
伊代のたしなめるような声が響く。
「いらない。こんな女と一緒の部屋でごはんなんか食べられない」
「優子」
強い口調の伊代の声が届くが、彼女は物怖じすることさえなく、ソファの上に置いてあるショルダーをつかむとリビングから出て行く。
すぐに玄関が閉まる音が聞こえてきた。
彼女は知美のことを思った以上に嫌っている。そんな彼女となかよくするなど夢物語だった。
そして、冷たい優子の行動は美佐を思い出させた。
新しい居場所だと思ったこの家も自分がいてはいけないのだということを突きつけられた気がした。
伊代の視線が知美に向くのが分かった。とっさに、伊代も優子と同じことを言い出すのではないかと思ったのだ。
怯える気持ちが先行し、伊代から目を逸らす。呼吸が乱れ、脈拍が上がる。
「わたし、帰ります。だから、あの」
謝ろうとした言葉を呑み込む。知美自身、どこに帰れば良いのか、何に謝ろうとしているのかも分からなかったのだ。
そのとき、知美に体に影が掛かる。その影の正体を確認する前に、肩に手が置かれるのを感じ取る。
伊代が悲し気に微笑んでいたのだ。
「ここはあなたの家なのよ。だからそんなことを気にしないで。優子のことはわたしたちで説得するから。普段はそんなわがままを言う子じゃないのよ」
誘惑のような言葉だった。美佐を失い、一人になった知美はその言葉を信じてみたくなり、うなずいていた。自分の居場所を欲していたからかもしれない。
「伯父さんは?」
「仕事に出かけたわ。学校まではわたしが一緒に行くから、大丈夫よ」
知美はもう一度、伊代の言葉に頷いた。




