新生活への期待と悪魔の存在
引越しの日は新しい旅立ちを祝うかように晴れ渡った空だった。学校へは何度か顔を出し、挨拶などはすませていた。その際にクラスの子から別れを告げられ、この場所から離れることに対する実感が沸き、焦燥感を覚える。
だが、悲しいことばかりではない。今日から将の家で暮らすことになるのだと思うと、悲しみを和らげてくれた。
知美がアパートの外に出ると、ワゴン車が停まっていた。車に積まれているのはほとんどが知美の荷物で、美佐のものはあまり載っていない。それはとりあえず彼が知美の荷物を運び、時期を見て美佐の荷物を運ぶことを決めたからだった。
「大きい荷物は後から送ってもらうから」
知美は将の言葉にうなずいていた。
将の家とこの家がそこまで離れていないこともあり、後から来て家を引き払うらしい。そのため、ゴミや荷物もまだ部屋には残っている。
名残惜しい気持ちで古いアパートを見つめる。
「最後に家の中を見てみるかい? 何か欲しいものがあれば言ってくれれば、それは持っていくよ」
知美はうなずくと、アパートの中に戻る。最初に見たのは自分の部屋だった。残っているのは何もなく、埃の跡があった。
ざわついた心を抑え、リビングを見渡す。
だが、ごはんを食べるためだけに利用したリビングは部屋に比べると、特に愛着がわくこともない。
知美の視線はその奥にある部屋で止まる。
何度も覗くなといわれていたが、そう叱責した彼女はどこにもいない。
そう考えたとき、知美の足は自然とその場所に向かっていた。
その前に立ち、深呼吸をすると、金属製のノブに手を伸ばしていた。
冷たい感触がしっかりと手のひらに伝わってきた。
カーテンの隙間からわずかな光が漏れているだけの暗い部屋が視界に飛び込んでくる。
知美は胸を高鳴らせながら、部屋の中を見渡す。本が数冊置いてあるだけの机と、その机を照らすためにおいてあったと思われるスタンド式の電灯、そして本棚だった。その本棚にはカバーのかけられた本が数冊あるだけだった。
母親の亡きあとから使っていないと思われる三つ折りの布団がビニール袋に入れられている。
何もない部屋。
それが知美のこの部屋の感想だ。
彼女が何を考え、この部屋で日々を過ごしたのか。
彼女の人生にふと思いを馳せる。だが、結論が出ることはなかった。
もう車に戻ろうとしたとき、クローゼットから物音が聞こえた。
知美は不思議に思い、クローゼットを開ける。そこにはブルーのごみ袋が置いてある。
中身を確認すると、古めかしい洋人形が出てきた。
まるで生きているかのような澄んだ金の瞳に、煌びやかな茶色の髪。
知美は一瞬で心を惹かれた。
同時に彼女がこうしたものを持っていたのに、驚きを隠せない。
知美はその金の瞳をした人形に手を伸ばす。ビニール製の髪がちくりと知美の肌に触れた。
決して抱きしめてくれることのなかった美佐の匂いがその人形からする気がした。
古ぼけた印象はあるが、洗えば綺麗になると思うと、その人形も玄関に置いてある段ボールの荷物の中に入れておく。
車に乗りきらなかった知美の荷物で、後から伯父が運んでくれることになっていたものだ。
「知美ちゃん。準備はいい?」
その言葉とともに、玄関の扉が開く。
将は知美の目の前においてある箱に目を向ける。
「これも乗りそうだから、運んでおくか」
彼は家の中にあがると、戸締りをチェックする。そして、二人は家を出ることにした。最後に詰めた荷物は将が抱えてくれた。
車に乗ると、すぐに動き出す。知美は身を乗り出すようにして、窓の外で流れる景色を見つめていた。
その度にシートベルトが知美の体を締め付けるが、苦しくない程度に顔を窓の外に向けていた。
それでも窓の外を頻繁に覗く姪を心配したのか、将に注意される。
そのたびに身を車の中に埋めるが、好奇心とともに彼女の体は前方に乗り出していく。車に乗った経験が少ないのも、好奇心を刺激した一因だった。
「車にはあまり乗ったことない?」
頬を掠めるような言葉にうなずいていた。
美佐も免許を持っていたようだが、車に彼女を乗せてくれることはなかった。
「これからは好きなだけ乗せてあげるよ。遠慮なく言って構わないから」
知美はそんな将の言葉に何度もうなずく。
彼は表情を和ませた。
「伯父さんの家には妻と知美ちゃんと同じ年の女の子がいてね。学校も同じだよ」
学校という言葉に、もうここには戻ってこないと聞かされた気がして、身が引きしまる。新しい学校には明日から通うことになっていた。
だが、新しい友達が出来るという期待もある。将の娘に対してもそうだ。彼の娘となら良い友達になれるだろうという確信があったのだ。
「仲良しになれるかな」
将は目を細める。
「きっとなれるよ」
二人は目を合わせて笑っていた。
知美の住んでいるところは商業地で家々が連なるように並んでいた。だが、この場所は田畑も至る所にあり、家々の距離が離れている。
将の車は細い道に入ると、コンクリート製の塀のある和式の一軒家の前で止まる。家の佇まいから、年季を感じる。
自分の家であることを告げ、知美を家の前でおろす。
そして、車を家の脇にある駐車場に入れる。
知美は初めて見る家を好奇心からただ眺めていた。昔ながらの和風の家という建物が実際の築年数よりも古い印象を与えたのかもしれない。
そのとき少し香ばしさの感じる臭いが鼻先を突く。その風味のある香りを聞くと、匂いの正体がシチューだと分かる。
手が肩に乗る。顔を上げると将がこちらの顔を覗くように見ていた。
彼は知美に目配せをすると歩き出す。行く手を遮る門の前に来ると、手を押し出して門を開けた。
甲高い音が閑静な住宅街に存在を主張する。彼が門をくぐったのを確認し、後を追うように家の前にある門をくぐる。
木製の扉の前に来ると深呼吸をした。
だが、そんな深呼吸が終わる前に将は扉を開けてしまった。そのとき先ほど嗅ぎ取った匂いがより強くなり、知美の鼻先まで届く。
その匂いと将の手招きに引かれるようにして家の中に入る。
その匂いにかどわかされるようにお腹に手を当てた。
「あら、あなたが知美ちゃん?」
知美の耳にそんな弾んだ声が届く。その人はすぐに分かる。細長い廊下に細身の女性が立っていたからだ。
その人は小走りに玄関までやってくる。そして、目を細めていた。
髪の毛をショートカットにした女性で、その笑顔から優しい人かもしれないという期待に胸を膨らませる。
「私は伊代といいます。よろしくね」
彼女は腰を屈めると、知美に手を差し出す。
知美はその手の温かさを実感する。
「お腹が空いているみたいだから、ごはんを頼むよ」
将の言葉に伊代は優しく微笑んでいた。
彼女の白く細い指先がスリッパをつかむ。そして知美の目の前に並べる。
顔を上げると、伊予はまた微笑んでいた。
慣れない体験に、胸の奥が温かくなるのを感じた。
知美の足先がスリッパに届こうするタイミングを計ったかのように、足音が聞えてきた。
将の家族は三人家族であることを知っていたので、その子が彼の娘だと分かった。
知美はスリッパに足を通すと、顔を上げた。
階段の中段ほどに、腕を組んで立ち尽くしている女の子がいた。
艶のある黒髪の毛を耳元で切り揃えた彼女は、知美を射抜くような鋭い視線で見つめる。
凍るような視線を感じながらも、彼の娘がそんな態度を取るわけがないと言い聞かせる。そして、仲良くなりたいという一心で話しかけた。
「私は川瀬知美といいます」
「この子が悪魔の子供?」
その子は吐き捨てるように言った。その言葉には抑揚がなく、淡々と決められた台詞をつむいていた。
「悪魔?」
知美は思わずそう呟いた。その理由を知りたい気持ちで先ほどの少女を仰ぎ見る。
彼女は相変わらず冷たい目で知美を見つめる。
彼女の唇が震え、次に向けられる言葉に体を震わせたときだった。
静まり返った空気を一掃するかのような将の強い言葉が響く。
「止めなさい。優子」
その子は将を睨むと、階段を駆け上がっていった。
その軽い足音が知美の心の奥に痕跡を残していく。




