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マリー  作者: 沢村茜
21/21

愛しているから

 冷たくなった風が知美の頬を撫でていく。

 知美が息を吐くと、白い息が口元を覆い隠した。

 もう季節は、冬がすぐ傍まで迫っている。今日は一際寒い。


「そろそろ良い?」


 知美は窓を閉め、辺りを見渡す。

 部屋の外に出ると、長袖のシャツを着た将と目が合う。


「すみません。大丈夫です」


 知美は辺りを見渡し、短く息を吐いた。

 知美は以前住んでいた家に来ていた。だが、今までのように頻繁にくることはもうできなくなる。

 今日は正真正銘、この家に来る最後の日だ。

 母親に心の中で別れを告げると、黒のスニーカーをはき、家の外に出た。

 扉から少し離れた場所に立っていた細みの男性が知美と目が合うと、軽く会釈をした。

 以前知美が住んでいた家を管理している不動産屋の従業員だ。


 将は知美に続いて家の外に出ると、軽く頭を下げ、言葉を交わす。

 そして、持っていた鍵を彼に託した。


 知美はそのやり取りを視界に収めつつ、もう一度入口を見る。


 将とともに礼を言うと、男性に別れを告げ、階段をおりることにした。

 そして、一階まで降りると、再び十二年間住んだ家を見上げ、目を細めた。


「本当に残しておかなくてよかった?」

「大丈夫です。もうここに帰ってくることはないから。今までありがとうございました」


 知美はあの学校に卒業まで通うことになった。二学期になり、知美の環境も随分と変わった。

 学校では円満とはいかないまでも、優子をはじめとし、何人かとは会話ができる状態だ。今となっては知美に嫌がらせをする人はほとんどない。


 優子の言葉を借りれば、そんな度胸のある親も、そこまでして面白がる子もいないはということだ。

 優子は率先して知美をいじめていたのに手のひらを返したためか、嫌がらせをされるまではないが、何人か友達を失っていたようだ。もっとも当の本人は反省はしているようだが、自業自得だと気にしていない。


 二人は駐車場に戻ると、車に乗り込んだ。そして、知美は助手席に座る。

 振り向くと、段ボールが三箱だけ後部座席に重ねられている。これがここに残された美佐の最後の荷物だ。残りは向こうに既に運んでしまっている。

 彼女の荷物の分類を手伝ったが、美佐の周りには麻里を思わせるものがあの人形以外何もなかった。仲の良い二人の結末だと思うと、やりきれなさは残る。


 将はエンジンをかけ、車を走らせた。


 美佐が彼女の事をどう思っていたかは分からない。だが、知美にとっても麻里は友達だった。そして、夏に麻里のお墓の前で気付いた事が、美佐の荷物を整理した時に確信に変わる。全て知美の推測なので、その考えが合っているか分からない。だが、自分だったら嬉しいの一心で、勇気を込めると軽く拳を握った。


「伯父さんは来年も麻里ちゃんのお墓参りに行くの?」

「そのつもりだよ」

「その時は、わたしも連れて行って」


 彼は驚いたようだが、「分かった」というと目を細めていた。


 家の前に付くと、車を降りる。後部座席を開けようとすると、将に止められる。


「重いから僕が運ぶよ。知美ちゃんは中で待っていて」


 促され、一足先に家の中に入る。


 玄関に入ると、リビングに入る。そこにはまだ整理の終わっていない美佐の荷物が積まれている。

 伊代は知美と目が合うと手を止め、優しく微笑んだ。

 知美は彼女の右わきにある箱に手を伸ばす。そこには美佐の履いていた靴が収められている。


「これ、どこに片づけるの?」

「物置にお願い」


 彼女は細かく場所を指定し、知美は箱を抱えて二階にあがる。そして、開きっぱなしになっている物置に入り、その奥にある積み重ねられた箱の上に置いた。

 一息つくと、辺りを見渡した。


 最初にきた時よりは随分物が増え、狭さを感じるようになっていた。そのほとんどが知美と美佐の荷物だ。

 知美は捨ててもよいと言ったが、将と伊代が美佐の形見の品を残したがったのだ。

 彼らなりに失われた二十年近い時間を埋めたかったのかもしれない。


 部屋に荷物を置きに戻ろうとした知美の視界に、卒業年度が記された中学の卒業アルバムが目に留まる。知美は何気なくそれに手を伸ばし、ページをめくる。その中に自分と似た顔を見付け、苦笑いを浮かべる。

 知美は美佐と似ていると感じたことはなかったが、こうしてみると面影があるとすぐに分かる。そこには麻里の写真は当然ない。


 だが、麻里の写真自体は将に見せてもらった事がある。美佐と麻里が中学に入った時の写真だ。麻里は知美の知っている彼女より、細身で、肌が白く、髪に天使の輪のある美しい少女だった。


 知美がページをめくっていると、知らない人の中で見覚えのある人を見付けた。そこには古賀和子と書かれていた。ふっくらとした体つきの面影は今はない。だが、口元にあるほくろと、顔つきですぐに誰かは分かった。


 知美は優子の言っていた言葉の意味を理解して、アルバムを閉じた。



 部屋に戻ると、持っていたショルダーバッグを机の上に置いた。

 そこには部屋の脇にある本棚には洋人形が座っている。

 知美は名前のつけられない人形に微笑みかけると、今度は勉強道具を机の上に出し、大きなバッグに詰める。

 そして、下に降りていく。


 玄関先には段ボールが三箱積まれていたが、将はリビングにもいなかった。


「置いてきたよ」

「ありがとう」


 彼女はノートを束ね、段ボールに詰めていた。


「これも持とうか?」

「これは重いから良いわよ」


 知美はソファに鞄を置くと、伊代の傍に座る。

 先程将に麻里の話題をした時に、なぜかと聞かれなかったように、伊代も将も麻里の存在を知美が知っていることは知っている。もちろん、母親と仲の良い友人としてだ。岡崎も知美との約束を守り続けてくれていた。


「何で麻里ちゃんはあの二人に嫌われていたんだろうね」


 知美はアルバムの写真を思い出し、そうつぶやいた。

 伊代は困ったような笑みを浮かべた。


「嫉妬だと思うわ。麻里ちゃんを可愛いっていう人がいっぱいいたのよ。でも、そういうのを快く思わない人もいたのよね。あの二人がそうだったんだと思う。あること、ないこと言いふらしていたのは知っていたから。それに、あの二人のどちらかが将さんに告白して振られて、その腹いせをしているんじゃないかって話もきいたことあった」

「でも、麻里ちゃんよりも、伯母さんのほうが仲良かったんじゃないの? 結婚したんだもん」


「子供のときは良く遊んでいたけど、そのうち疎遠になったし、わたしはそうでもなかったよ。会えば挨拶はするだけの関係で、結婚するなんて考えたこともなかった。将さんと麻里ちゃんとは、良く一緒にいるのは見かけたし、本当に仲が良さそうだった。あんなことさえなかったら二人は結婚していたんじゃないかと思うわ。それに大人しくないわたしは標的にならなかった気がするかな」


 彼女は寂しさをにじませながらも、笑顔を浮かべる。

 彼女は麻里が大好きだったんだろう。


 麻里は彼女だけ最後まで直接的な標的にはしなかった。知美にとって効果的でなかったのか、別の感情があったのかは分からない。話を聞く限り、麻里をストレートにかばったのは彼女だけだったようだ。


 夏は分からないことだらけだったが、時間の経過とともに少しずつ分からないことが埋まっていく。だが、その中心部分は空洞で、決して埋まらない。

 玄関の開く音がし、段ボールを抱えた将がリビングに戻ってくる。



 彼はそれを知美の傍に置く。

 伊代は手を伸ばし、箱の中身を確認する。


「これはそのままでいいわね。全部物置に入れて大丈夫かしら」

「いつでも出せる状態にしておけば構わないと思うよ。それか、両親の使っていた部屋に運んでも良いと思うよ。今は半分物置になっているしね」


 知美は伊代のあけた箱の中に、美佐がいつも仕事に持っていくときに使っていたバッグがあるのに気づき、手を伸ばした。


 バッグの内ポケットの部分に厚みがある。不思議に思いチャックを開けると、そこには薄い小型の国語辞典があるのに気づいた。大人になってもこういうのは必要なのだろうかと不思議に思い、手に取る。その中に一枚の写真があるのに気づく。驚き、目を離せないでいると、将が覗き込む。

 彼は目を細めた。


「見当たらないと思ったら、こんなところに入れていたのか。その写真は僕が美佐に送ったんだよ。勝手に知美ちゃんの写真を撮ってね。見つかって良かったよ」


 そこに映っていたのはまだ生まれたばかりで、肌触りのいい素材に体を包まれた頃の知美の姿だった。


「この写真、アルバムに」

「このままでいい」


 知美は唇をそっと噛むと、その写真をもとに戻す。


「分かった」


 知美は母親のバッグを元に戻した。

 一通り片づけを済ませると、日が傾きかけていた。

 その時、チャイムが鳴る。


「美琴さんかもしれないわね」


 伊代がインターフォンに応じると、凛とした明るい声が聞こえた。

 岡崎の姪の岡崎美琴だ。あれ以来、彼女はわけあってこの家を何度か訪問していた。


「和室を借りるね」

「あとでお菓子を持って行くわね」


 知美はバッグを和室に運ぶと、玄関の扉を開けた。

 だが、そこには美琴ともう一人。


「知美ちゃんをもういじめてない?」


 知美が美琴の言葉にあたふたすると、優子は顔を引きつらせながらも頭を下げた。

 今日、優子は友達の家に遊びに行くといっていたが、帰ってきたのだろう。


「もうしてないよ。だいたい美琴さんが頻繁にここに来るから、誰もびびって手出ししないと思うよ」

「そうなの? わたしって有名だね」

「自覚あるくせに」


 いつもより一オクターブ高い声で言う美琴に対し、優子は半眼で唇を尖らせる。

 知美は漫才のような二人の会話に思わず吹き出す。

 そのとき、二人は知美の存在に気付いたようだ。

 彼女は知美と目が合うと挨拶をする。


 優子が有名といったのはお世辞でも嫌味でもない。

 岡崎があの広い家に一人で住んでいたように、彼らの家はこの辺りの大地主だった。その名残で周りに異常に顔が利く。また、彼女の父親である岡崎敏は市会議員をやっているため、周りの人は一歩置いた目で接しているし、親世代であればより気を遣う。彼女自身も勉強も運動も出来、人当たりの良い性格で周りからも好かれていたらしい。


 彼女は岡崎に知美の家を聞きだし、良くやって来るようになった。優子の話によれば、知美のクラスメイトの親と会った時には、挨拶がてらに知美の話題を出していたらしい。もちろん、彼女が知美に良い印象を持っているという意味を込めてだ。


 岡崎によるとそれは建前でなく、本音だと言っていたが、知美には本当のところは良く分からない。ただ、自分を庇ってくれているのは自覚していた。それから、知美に対する嫌がらせはあっさりとなくなった。

 そのことを美琴に言えば、「人はそんなもんだよ」と、笑って返していた。



 美佐が悪魔と罵られても将がこの辺りに住み続けてこられたのは、岡崎と親しかったこともあったのかもしれない。


「優子も勉強したいなら見てあげるよ。この前、テストの点悪かったんだってね。55点だとか。知美ちゃんは90点だったのに」


 優子は知美を睨む。


「わたしじゃないよ」

「伊代さんから聞いたよ」

「お母さんに文句言ってやる。勉強なんて受験のときだけやればいいの」


 彼女はそのまま家の中に飛び込んだ。威勢のいい優子の声が聞こえてくる。


「上がってください」


 美琴はビニール袋を知美に差し出す。そこにはケーキの箱が入っていた。


「あとで食べようか。わたしのおごり。おじさんたちの分もあるよ」


「ありがとうございます」


 知美は少し電車で離れたところにある私立中学を受ける予定になっていた。受かるかは分からないし、知美自身そのまま上がっても問題ないような気はしていた。

 ただ、そこまで話せる人が多くないのと、伊代や将が心配していたため、二人の気持ちを汲み取り、受験を決めたのだ。優子も受けたらどうかと言われていたが、彼女は勉強が苦手らしく断固拒否していた。


 受験が決まり、知美は独学で勉強しようと考えていたが、美琴がその学校の出身らしく、教えたいと言い出したのだ。そして、成り行きで、勉強をたまにだが教えてもらうことになったのだ。


 笑い、未来を意識するたびに、知美の頭にはここに来てからの出来事が過ぎる。


 もっと早く岡崎に打ち明けていたら、マリーはもっと早くに解放され、真美は今でも知美の友達として一緒にいてくれたかもしれない。

 その前に美佐が生きている時に部屋に入り込み、マリーを見付けていたら、彼女は自ら命を絶つことはなかったかもしれない。

 自分が生まれなければ、美佐は川瀬慎一と一緒に暮らし続けることができたのだろうか。


 過去のこうしておけばと思う部分を抜きだし、悔やむことはいくらでもできる。


 知美が辛い気持ちを身近な人に打ち明ければ、被害になった人たちの事を頭に思い浮かべながら、「気にすることはない」と言ってくれるだろう。


 でも、そうすべきではないと思ったのだ。


 彼らがずっと悩み苦しんできたように、自分で答えを見付けないといけない。それが残された自分のすべきことだと思ったのだ。


「頑張ろうね」


 家の中に入った美琴は靴を脱ぎ、遅れて家の中に入った知美の頭を撫でる。彼女は明るい笑みを浮かべる。


 知美ははにかんだ笑みを浮かべ、頷いていた。



**


 その日の夜、知美は夢を見た。


 昔住んでいたあの家の夢。まるで映画を見ているように全てのシーンがクリアに見えた。


 扉を開けると美佐が入ってきた。彼女は足音を殺し、眠っている知美に歩み寄る。知美の枕元に立つと、手を差し伸べようとする。だが、二人の距離を半分ほどの縮めたとき、その手を引っ込める。


「大嫌いだったわ。やっとあなたから逃げられると思うとせいせいする」


 吐き捨てるようなセリフを言った美佐の目から涙がこぼれていた。いつも知美に見せていた鬼のような形相ではない。触れるだけで壊れてしまいそうなほど儚げだった。


 彼女は辺りを見渡すと、そっと知美の頬に触れる。壊れ物に触るような優しい手つきだった。


「大嫌いだった」


 その言葉が引き金のように涙がこぼれていた。


 恨みつらみを重ねている美佐の台詞に重なるように声が響く。



 ごめんなさい。私が死ねば全てが終わる。今まで、一度も抱きしめてあげられなくてごめんね。あなたの幸せをただ願っている。このままじゃ、あなたも奪われてしまうんじゃないかって思うと、怖くてたまらない。だから、わたしがいなくなる。こんな形でしか守ってあげられなくてごめんなさい。兄さんの言う事を聞いて、元気で過ごすのよ。ずっと大好きだった。この世で一番愛しているから。


 美佐は唇を噛み締めると、知美の部屋から出て行った。



**


                   終


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