すれ違った運命と幻
青々と茂る緑に、水の流れる音が潤いをもたらす。
知美は窓の外に繁る植物を、緑茶を片手に見とれていた。
「悪いね。セールスの電話だったよ」
岡崎の言葉に我に返り、座布団のある場所に戻る。
「相変わらずすごいですね」
「わたしの数少ない趣味でね」
彼は満足げに笑うと、腰を下ろす。
知美はあれから白井家に戻る事になった。
伊代は手紙を見てショックを受けていた。伊代は自分の謝罪の手紙を書き、知美の手紙をそのまま送ったほうがよいのではないかと提案した。だが、知美は手紙を書き直しをし、再び友人に送る事になった。
写真は誰がとは一言では言い表せないらしい。伊代自体はその現場を見ていないが、後々将に聞いた話によれば、美佐の部屋にあったものもあれば、宛先のない封筒に入れられ、家のポストに投函されていたものもあったそうだ。そして、捨てる事ができずに今に至る。
優子は知美に何も言わずに完全に無視した態度を取っている。岡崎か伊代から何か言われたかもしれないが、知美には知る術がない。
近所の目は気になるが、今までとは変わらない生活を送っていた。
「白井さんは今日退院だよね」
「そうですね。お昼だから、まだ時間があると思います」
まだ太陽が一番高い位置に上るには早い時間だ。
伊代は知美も病院に行こうと誘ってくれたが、優子に遠慮をし、岡崎に用があると言い断ることにした。
もっとも言い訳自体は嘘ではない。
「元気そうで安心したよ」
「おかげさまで」
知美は気恥ずかしくなり、照れた笑みを浮かべる。
あの日と同じ時が流れているとは思えない程、穏やかな時間だ。
「結局、どこまでが麻里ちゃんの関わっていたことで、どこからが事故だったんでしょうね」
知美は夏休みの間、岡崎の家に頻繁に訪れるようになった。そして、過去の話をもっと詳しく聞かされた。全て彼女のせいだといえば、そう思えなくもない。中には原因が別にあるのではないかと思われるものも少なくないと知る。
「それはわたしにも分からない。きっと、彼女しか知らないだろう」
知美は彼の言葉に頷いた。
知ったつもりになっても、完全は難しい。
知美には知らないことがたくさんあった。その一部を岡崎が教えてくれた。
一つが伊代のことだ。彼女が以前言っていたこの場所を離れたと言っていたのには麻里の件が絡んでいたらしい。
知美が麻里と別れ際に見た幻の話を岡崎に話してみた。
彼は苦い表情を浮かべながらも、あのときぼかしたことを今度ははっきりと教えてくれた。
雨の中で待つ麻里に根も歯もない事を吹きこんだのは、知美のクラスメイトの前田の母親の姉とその友人の古賀という少女だった。前田の母親は結婚してから姓が変わり、もともとは樋口という名字だったらしい。
ただ、当時は確証もなく、伊代が二人と麻里が話をしていたというのを聞いたという事らしい。
伊代が棘のある態度を取っていた理由に自ずと気づく。
伊代は麻里が送り届けた後、その話を聞き、彼女たちの家に行き、直接文句を言ったらしい。とぼけた二人に手を挙げた事で、問題が大きくなった。彼女は翌年の大学入学を機に、ここを離れたのだ。
彼女の父親も転勤願いを出していたらしく、伊代が大学三年の時にこの地を去った。伊代の結婚は現在の家に住むという件で、両親に強く反対されたらしい。
知美はそこまで聞いた時、ぴんときた。
麻里に会いに行こうとした母親に嘘を吹きこんだ人物と同じなのかと尋ねると、岡崎は苦い表情をしたまま否定をしなかった。
そして、母親と二人の少女の仲が良かったことを付け加える。
なぜ麻里にそんな事を聞いたのかを聞いてみたが、彼は困った顔をして分からないと言った。
知美は何も言えなくなり、岡崎に「教えてくれてありがとう」と伝えたのだ。
知美は空になったコップを受け皿の上に乗せる。
「夢を見たんです」
知美はつい先日見た夢を彼に語って聞かせた。
彼は悲しそうな顔をしながら、その夢の話を聞いていた。
「本当に仲が良かったよ。橘さんの人形を預けた寺に、彼女の墓があってね、白井さんは今でも橘さんの命日にはお墓参りをしていたんだ」
あの時の妹だと言っていた彼の様子が頭を過ぎり、胸が痛む。
彼は麻里の死をどのような気持ちで受け止めていたのだろうか。
「麻里さんの墓はここにあるんですか?」
「父親の両親の墓もあるし、いろいろなことを考えてそうなったんだ」
「命日っていつなんですか?」
「今日だよ」
立ち上がろうとした知美を制した。
「だから今日呼んだんだ。さすがに白井さんは無理だと思うから、君が行けばいい。今日、人形も渡してくれるそうだよ」
「ありがとうございます」
岡崎は部屋の奥から花束を白い百合の花束を持ってきた。
「これは」
「彼女の墓に供えようと思って買ってきたんだ」
岡崎がお茶を飲み終わるのを待ち、二人は家を出た。
車で坂道を上ると、辺りの森がより深くなる。知美が窓の外を覗こうとすると、岡崎から注意される。
彼の車は山道の途中で止まった。坂に分け入るように簡易な線が引かれた駐車場がある。そして、その奥にある階段をあがると静観な建物が目の前に広がる。
知美は辺りを見渡ながら、岡崎の後をついていく。
「先に人形を受け取ろうか」
知美が頷くと、二人は寺の本堂に入ることになった。靴を脱ごうとしたとき、年配の女性が顔を覗かせ、岡崎と言葉を交わす。そして、彼女は「待っていてほしい」と言い残すと、奥に消えた。
再び戻ってきた女性に奥にある和室に案内される。
時間を置いて間衣を来た男性が入ってきた。顔を見て、杉田という男だと気付いた。
彼は洋人形を大事に抱きかかえたまま、知美の前に来ると膝をついた。
「麻里ちゃんは?」
「もう大丈夫。あの子としてでなく、この人形を大事にしてあげてくださいね」
知美は人形を受け取り、頷いた。
「一つだけ良いですか?」
知美の問いかけに、杉田は首をかしげる。
「一日だけ一緒に星を見たいの。それもダメですか?」
杉田の目線が人形に向く。
「今夜だけなら大丈夫ですよ。晴れると良いですね」
「ありがとうございます」
知美は笑顔で人形を抱き寄せた。
岡崎と一緒に本堂を出ると、麻里のお墓に行く事になった。
「星のことはずっと考えていた?」
「勝手なことを言ってごめんなさい。でも、わたしが約束を叶えたら、少しは楽になるのかな、と考えたの。もう麻里ちゃんはここにはいないかもしれないのに」
「きっとその気持ちは彼女に伝わるよ」
知美は笑顔で頷いた。
だが、岡崎の目が墓地に釘づけになっているのに気づく。
彼の視線を追うと、墓地には見慣れた人影がある。
「伯父さん」
知美は思わず彼に駆け寄った。
彼は驚いたようだが、知美の後ろに立つ岡崎を見ると納得したような笑みを浮かべる。
「少しだけ寄ってもらったんだよ。伊代達は買い物があるからと」
「そうなんだ。退院おめでとう」
「ありがとう」といった将の目線が人形に釘づけになる。
「知美ちゃん、それ」
「お母さんの遺品です」
将や伊代にこの人形のことを聞かれた時は、そう言おうと岡崎と相談して決めた。
将は優しいながらも、物憂げな表情を浮かべる。一瞬、彼の口元が緩んだ。
「どうかしたんですか?」
人形から目を逸らした彼に問いかける。
「不思議な夢を見たんだ。やけにリアルで、夢かどうかも怪しいけど」
彼の目は知美を引き取るといってくれた時のように、儚げで優しいものだった。
真っ暗な病室の中で栗色の髪の女の子が泣いていたらしい。将はその子に駆け寄ろうと思ったが、怪我か夢か分からないが、体が動かなかったらしい。
女の子は目に涙を溜めながら寂しそうに微笑むと
ごめんなさい、と言ったらしい。
何度も。
そのときに知美や美佐の名前も出てきていたような気がするとのことだった。
次に将が気付いたときには朝になっていたそうだ。病院の人に彼女のことを聞いても、そんな子はしらないし、入院患者にもいないという返事が返ってくるだけだった。
だが、知美は彼が見た少女はマリーだと確信した。
「彼女」
将が言葉をそっと置く。
「昔の知り合いに少し似ていた気がするんだ。もうこの世にはいない子なのに。その子も似た人形を持っていたんだ」
将の瞳が潤むのが分かった。その言葉で思い出したのが、マリーと最後に話した日の夜に見た、まだ幼く、その後に起こる悲劇など知らない頃の夢。
「その事故に遭った日に、幻かもしれないけど、彼女の人形を見た気がするんだ」
掛け違えたボタンは定位置に戻ることはなかった。
知美は岡崎を見た。彼はゆっくりと頷く。
岡崎と話し合い、このことは一部の人間の心に秘めようと決めた。
今まで知ることができたすべての事を考えて、下手に人に聞かせていいものではないと思ったのだ。
「きっと、幻だったんですよ」
知美は視界が潤んだのに気付かれないために、精一杯笑う。
「そうだね。少しだけ、掃除をしようか」
「白井さんは無理をしないでください。わたし達でしますから」
動こうとした将を岡崎が制す。
知美は人形をバッグの中に入れると、地面に置く。
そして麻里のお墓の前で手を合わせた。
知美の眼前にあった枯れた花がすっと抜かれる。それを抜いたのは優しい目をした岡崎だった。
「水を入れてきますね」
知美は岡崎に水道の場所を聞くと、花瓶を手に立ち上がる。
その時、将と目が合い、笑みを浮かべる。
水を汲んで岡崎に渡すと、彼は花瓶をお墓に収めた。
「その時計」
知美は左腕を掲げてみせた。
「お母さんからのプレゼントだったんですよね。伯母さんから聞きました」
「そっか。美佐も渡せて喜んでいると思うよ」
引越しの日に知美は誕生日プレゼントを二つ貰った。その一つは母が買っていたのにも関わらず、渡せなかったものだと伊代から少し前に聞いたのだ。
「岡崎さんの前でこういうことを聞くのも悪い気がするけど、本当に学校転校しなくて大丈夫?」
同じことを数日前に伊代からも聞かれた。彼女は将が夏休み中に退院できるので、しばらくは自分が引っ越しても構わないと言っていたのだ。
幼馴染が亡くなり、妹に疑惑をかけられ、両親を失った彼にとってここは住み場所ではなかっただろう。岡崎も彼を気にかけて続け、就職を機に彼が出て行くものだと考えていたそうだ。だが、将は出て行かなかった。
岡崎がその理由を将から聞いたのは少し経ってからだった。岡崎はその理由を知美に教えてくれた。
「美佐がいつか自分に子供が出来た時には、ここに連れてきたいって言っていたんです。両親がいて、友達がいた時は、大好きな場所だった、と。それまでこの家を守りたい。僕が溶け込めば、いつか美佐の話を過去にしてくれるかもしれない。甘いとは分かっているんですけどね」
彼ははにかみながら、そう岡崎に語ったそうだ。
最初は仮定の話だった。だが、その話にいつしか知美という具体的な名前がついた、と。
状況は変わらないかもしれない。むしろひどくなる可能性もある。でも、自分の大切に思う人が生まれ育ったこの地で、もう少しだけ頑張ってみたいと思ったのだ。
「もう少しだけ、頑張ってみます。でも、無理だと思った時には、話をします」
必ずと言い切る事は出来ない。そして、勝手にいなくなったりもしない。
それが知美なりの決意だった。
彼はどこか心配そうに知美を見つめていた。
「中学校も通えそうなところがあれば調べておくよ」
岡崎は花を生けると立ち上がった。
白い百合が優しく佇む。
「出来る限りは力になるので言ってくださいね。どうしても力不足なところはあるかもしれませんが」
知美は岡崎の言葉に頷いた。
「いつ伯母さんと待ち合わせをしたの?」
将は腕時計で時間を確認する。
「あと二十分後くらいかな」
「よかったらわたしが送りますよ。川瀬さんを家まで送る予定だったので」
将は伊代に電話をする。知美は麻里の眠る墓を見つめていた。
「どうかしたんですか?」
「お母さんはここに来たことあるの?」
「ないと思うよ。美佐はずっと避けていたし、この町を出てからは、一度も帰ってきてないから」
首を振った岡崎の代わりに答えたのは携帯を手にした将だ。
「そっか」
知美は答えてくれた将にお礼を言う。
彼は岡崎に断ると、その場を離れた。
知美は一つの仮説が浮かんだが、うまく内容をまとめられずにいた。
「もう下の駐車場まで来ているらしいので」
「そうですか。下まで一緒に行きましょうか。川瀬さんはわたしが送りますよ」
知美が困っているのを察したのか、岡崎はそう笑顔で告げる。
三人は寺を出ると、表から出る。そして、ぐるっと迂回する形で先程の駐車場に戻る。
そして、車にもたれかかっていた優子と目があった。
岡崎が挨拶をして、つられる形で優子も挨拶をする。
岡崎は車の近くにいた伊代と言葉を交わし、知美についてくるように促した。
「一緒に乗って帰らないの?」
意外な人の問いかけに、知美はぎょっとして振り返る。
優子は知美から目を逸らし、唇を尖らせる。
「校長先生に送ってもらう」
無視できない性分なため、それだけを言い、岡崎の後をついていこうとした。
だが、彼は知美の肩を軽く叩く。
「今日は一緒に帰りなさい」
渋る知美に岡崎は、「大丈夫」だと言うと車まで送り届けた。
知美が乗り込むと車が走り出す。将と知美が後部座席に座り、優子が助手席に座る。
優子と同じ車にいるのはあまり嬉しくないが、両親の前で何かを言ってくることはないだろう。
時折、将と知美が会話をするだけで、会話らしい会話が殆どなく家についた。
優子が将を連れて先に家の中に入る。知美は伊代を待つ形で車を降りる。
ポストを覗き込んだ伊代が目を見張る。そして、花柄の封筒の裏面を確認すると知美に渡した。知美は宛先を見て、誰から届いた手紙が一目でわかった。
「返事、良かったね」
「ありがとう」
知美は笑顔を浮かべる。
部屋に戻ろうとすると、部屋の前に優子がいた。
知美は手紙を思わず鞄に隠し、顔を背ける。
「何か用?」
「謝っておこうと思って。ごめんなさい」
「何を?」
「いろいろ言ったこと。校長先生や、お父さん、お母さんから聞いたの。過去にあったこと」
知美はどういっていいか分からずに頷いた。
ただ、彼女に聞きたいことはあった。伊代や将は決して教えてくれないことだ。
「誰から『悪魔』の話を聞いたの? この辺ではそんなに有名な話だった?」
「子供の時に何人か言っている人はいたけど、そこまでは。言いふらしていたのは前田くんのお母さんとおばあさん、あと」
優子は唇をそっと噛んだ。
「真美のお母さん。真美自体はお母さんに文句言っていたし、関係ないんだよ」
「真美のお母さんがどうして……」
あの時のまなざしから快くなく思われているのは分かっても、発端になっているとは思えない。
「分からないけど、昔、あんたのお母さんと仲良かったんだって。喧嘩したんじゃないかって言っている人がいたの」
彼女はもう一度謝ると、自分の部屋に消えていく。
岡崎は優子の心境の変化を知っていたのだろう。彼らが何を語ったのかは分からなかった。
窓を開けると、空を仰ぐ。
空には星が瞬いている。
「外に行こうか」
知美は人形を抱きかかえて、窓を閉めると階段を下りていく。
まだリビングには明かりがともっている。
知美がドアを開けると、将と目があった。
「ちょっと庭に出てくるね」
不思議そうな顔をする将に「空が見たい」と伝える。
知美はサンダルを履いて、庭に出る。そして、空を見上げた。
部屋で見るよりも空が広く、瞬いている星の数が多い気がした。
「綺麗だね」
知美は人形を抱き寄せる。
その時、玄関が開き、将が外に出てきた。
「大丈夫なの?」
「大丈夫だよ」
彼は知美の抱きかかえた人形を見て、目を見張る。そして、優しく微笑んだ。
「怪我がなければ、もっと見晴しのよいところに連れていけたんだけどな」
「でも、ここでも十分満足だと思います。こんなに星がたくさん見えるんだもの」
将は知美の頭を撫でると優しい声で「そうだね」と告げた。




