冷たい目の母親の死
川瀬知美は手元のプリントを眺めていた。そこには授業参観のお知らせと記されている。今日、学校で配布をされたものだった。
親に見せるようにと学校で言われたが、見せた後の結末は容易く想像できる。
その後の光景を想像して、ため息を漏らす。
このまま捨ててしまおうかとも考えていたが、万が一、彼女が誰かから授業参観のことを聞けば面倒なことになる。
だから、知美に残された選択肢は一つしかない。
時計を見ると時刻は七時を示していた。知美は空腹を感じ、テーブルの上に置かれているパンに手を伸ばした。
今日は遅くまで起きておかないといけないと再びため息を吐いた。
辺りの気配が静まり返る十時半頃に、玄関の扉が開く音が聞こえる。
今日も同じだ。知美は欠伸を噛み殺すと、机の上に置いていたプリントを手に取る。
彼女に会うのは朝と夜の二択だ。だが、朝はいつも慌ただしく、こういったものは夜に見せるのが無難だと経験上理解していた。
リビングの電気がつく。それから手を洗ったり、洋服を着替えたりする。
物音が静かになったタイミングを見計らって、部屋の外に出る。
彼女はソファに項垂れている。疲れているとは分かったが、気にしないことにした。
「お母さん」
母親である川瀬美佐に呼びかけた。彼女の体が動き、顔だけこちらを見る。射抜くような鋭い視線に身じろぎをしながら、プリントを差し出した。
彼女の視線がプリントの上を滑るのを確認する。
だが、彼女は何も言わない。
しびれを切らした知美が先に言葉を発する。
「授業参観があるの」
彼女はひったくるようにそのプリントを奪うと、その場で丸め、床にたたきつけた。紙が床の上を転がる。
知美はあっけにとられ、その紙の行方を眺めることしかできなかった。
わざとらしいためいきが聞こえる。
川瀬美佐はいつもよりも鋭いまなざしで知美を見つめる。
「行けるわけないでしょう。仕事があるのよ」
その言葉に体を震わせる。別に彼女にそんな態度を取られた事は初めてではない。
だが、何度言われても慣れることは決してない。
言われるたびに、心の奥がえぐられるような痛みを覚えていた。
知美は目頭が熱くなるのを感じながら、口を結ぶ。
「ごめんなさい」
頭をさげると、自分の部屋に戻る。何も考える気がせずに、ベッドに身を投げる。
飛び込んだ反動で体が一度浮かび上がったが、再び沈む。
知美は寝転んだまま、脇にある布団に手を伸ばす。
布団で胸から下を覆うと、電灯から伸びている紐をつかむ。
ぱちんという音の後、辺りが闇に包まれる。入り口からリビングの明かりが漏れているのを確認しながら、布団を顔の上まで引き上げた。
薄っすらと覗き見ることができた室内が何も見えなくなり、胸の奥の閊えが取れたかのように楽になる。
これがこの家の日常だ。その日常は祝いの言葉で溢れる誕生日でさえも変わらない。知美は美佐から誕生日を祝われたこともなかった。つい数日前に終わった今年の誕生日でさえも、例外ではない。
知美にとって親は川瀬美佐ただ一人だ。正確には血を分けたただ一人の存在だった。
父親は彼女が産まれた頃にはこの世にいなかったのだ。
父親である川瀬慎一がいつ亡くなったのかもしらない。
理由を聞こうとすれば、先ほどのような仕打ちが待つ。だから聞いたこともほとんどない。
ただ、通学路の途中にある桜が色鮮やかに彩る時、川瀬慎一の法事が行われる。
だから、彼はその時期に亡くなったのだろうということだけは分かっていた。
一家の家計を支えているのは母親だった。
仕事が忙しいのか、いつも帰宅するのはこの時間で、疲弊しきっている。
彼女は再婚どころか、恋人を作ったり、贅沢をすることもなかった。
自分を生んだことを悔いている。
幼い頃からそう感じ取るほど、美佐は知美を邪険に扱っていた。
その証明のように、知美が産まれて十二年の間、まともに会話が成立したことはない。
友達の家の母親の話を聞くと、あまりの違いに恨めしい気持ちを抱くことさえある。
だが、その度に、知美は自分の心を戒め、こう言い聞かせた。
自分の親はあの人だけで、今はあの人に頼るしかない。
知美は首を横に振ると、暗い気持ちを振り払い、眠りに就くことにした。
眠りに落ちる知美の耳元を雨音が掠めていった。
まぶしい光が部屋に差し込んでくる。知美は重い体を起こし、ベッドから身を起こす。
学校に行かないといけない。そう思ってから、今日は休みだと気づく。
昨日は美佐にプリントを見せる事ばかり考えていたが、良く考えると今日でも良かったのだ。
自らが取った早とちりな行動を思い出し、ため息をついた。
今日は母親も仕事が休みのはずだ。
昨日の今日で母親と顔を合わせる気はしなかったが、そんな理由で一日中寝ていても意味がない。
重い体を突き動かすように立ち上がると、軽い眩暈を覚える。
それでも何とか部屋の扉を開けた。
だが、リビングはしんと静まり返っている。
母親は休みの日にあまり出かけることはなく、ごはんを作るとき以外は部屋に閉じこもっている。
知美はリビングの奥にある母親の部屋をノックした。だが、返事はない。
ノブに手をかけて、首を横に振る。勝手に開けて叩かれたこともあるので、扉だけはあけないようにした。トイレやお風呂にも彼女の姿はない。
最後に玄関に行く。いつも母親が履いているスニーカーがなかった。散歩にでも行ったのだろう。
そう結論付けると、冷蔵庫の中に食べ物がないか探すことにした。
彼女が帰ってくる前に食事を済ませておきたかったのだ。
甲高い音が室内に響き渡り、知美は冷蔵庫に歩きかけた足を止めた。
電話が鳴ったのだ。
その足でリビングの奥にある電話まで行く。
「はい。川瀬です」
電話口で息を呑む音が聞こえてきた。だが、すぐに猫なで声のような優しい声が響く。その声は今まで聞いたことない、少し年老いた男性のものだった。
「警察の者です」
テレビの中で聞いたことがある台詞に、心拍数が早くなる。
知美に迷う余地を与えないかのように言葉が続く。
「お家の人はいないのかな?」
「今、お母さんが出かけていて」
ああ、とため息混じりの声が響く。
「お父さんは? それか近くに親戚の人はいないかい?」
親戚の人と聞いて思い出すのが伯父さんのことだった。
一度だけ会ったことのある、母親とは全く違うタイプの優しげな人だ。
「伯父さんがいると思いますけど」
「連絡先を教えてくれないかい?」
「連絡先はお母さんしか分かりません」
電話の向こうから困惑したような声が聞えてくる。
「何かあったんですか?」
知美は彼の意味深な言葉が気になり、単刀直入に問いかける。
受話器の向こうで再び言葉を呑む音が聞こえた。
長い沈黙の後、再び彼が口を開いた。
「君のお母さんが亡くなったかもしれなくてね。身元の確認を頼みたいんだが」
彼の言葉が何度も頭で響く。意味をすぐには理解することができなかった。
そのとき、玄関のチャイムが鳴る。
「来客かい? 待っているから出てもいいよ」
知美はお礼の言葉を絞り出すと、玄関に向かう。
もしかすると母親が帰ってきてくれたのかもしれないと考えていたのだ。
期待に胸を膨らませ、扉の中央にあるレンズを覗き込む。
そこには黒髪の男性が立っていた。彼は眉をひそめ、扉が開くのを見計らっているような気がした。
知美はその人を知っていた。ノブを回すが、鍵がかかっていた。
今度は鍵をあけ、ノブを回す。
彼は知美と目が合うと、笑みを浮かべていた。
「急に悪いね。おじさんのことは分かる?」
知美は頷いた。
彼はほっとしたような笑みを浮かべると、知美の頭を撫でた。
「お母さんは?」
「分からないけど、警察の人から電話がかかってきたの」
その言葉に白井将の顔が強張る。彼は知美に自分の部屋に戻っておくように告げた。
笑みを失った将の表情を伺い見ながら、自分の部屋に戻ることにした。
将は顔を合わせることは少なかったが、お菓子やおもちゃなどを知美に送ってくれていた。
そのたびに母親が文句を言っていたのも知っている。そんな彼を困らせたくなかったのだ。
ベッドに座り、息をひそめていると、将の声が聞こえた。
「分かりました。伺います」
受話器を置く音が聞こえ、すぐに部屋の扉が開いた。そこには将が暗い顔をして立っていた。
「お母さんが亡くなったそうだ。身元の確認をしてほしいと言われた」
「わたしも行く」
「知美ちゃんは家で留守番をしていてくれ」
彼は知美をそっと抱き寄せる。その温かさを感じ、知美は小さく頷いた。
白井将が帰宅したのはそれから三時間ほど後だった。彼は詳しいことは何も語らず、「お母さんだった」と険しい表情で告げた。
それからのことは伯父である将が全てしてくれた。知美は母親がなくなり、あれほど怖れていたのにも関わらず、胸にぽっかりと穴が空いたような気分だった。
泣くこともなく、ただぼんやりと机に伏せたり、ベッドで眠ることが増えていた。
そんな知美を気遣ってか、将はほぼ連日知美の家に寝泊まりをしていた。
お葬式は知美と将の二人で行った。土気色の肌をした美佐を見ていると、この間まで酒を飲んで怒鳴り散らしていたことが愛しくさえ思えてきた。
時折、将の目には涙が浮かぶが、知美はなくことはできなかった。
母親との間に良い思い出がないためないのか、母親の死を実感できていないのか、その理由は彼女にも分からなかった。
火葬場から帰ってきた将は、知美の手を握る。
彼の目は血走り、睡眠不足なのが伺える。美佐がなくなってから、ほとんど眠っていないのだろう。
「大丈夫か?」
うなずくより前に、彼の手が知美の額の少し上を撫でる。
「僕の家で一緒に暮らそう。学校は転校しないといけないけど。中学はこの辺に全寮制の学校もあるから、こっちに戻ってきても構わなないよ。もちろん、僕の家から通えるところを探しても良い」
知美にとっては彼の話に現実味はなかった。
だが、子供が一人で生きていけないことは分かっている。
「お母さんは帰ってこないんだよね?」
将は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるとうなずいていた。彼の表情を帯びている悲しみがより強いものになる。
はっきり自分の言葉で表現して、視界がじんわりと滲む。
知美は彼の問いかけに答えを示すべく、小さく頷いた。
その後の手続きは将がほとんどやってくれた。
「お母さんの部屋は?」
彼は目を細めると、知美の頭を撫でる。
「それは僕がしておくよ。知美ちゃんは自分の部屋を掃除したらいいよ」
あまり物持ちがよくないこともあり、知美の荷物の整理はすぐに終わった。
時間の経過とともに母親がいないことを実感して、心が痛む。だが、伯父の存在が知美の心を元気づけてくれたのだ。




