友達だから
岡崎の家の前に立つと、深呼吸をした。岡崎の知り合いの姿はまだ見えず、辺りは閑散としている。
家の中に入ろうとした知美を「知り合いが来るまでは」と岡崎が制した。
その時、家の中で何かが壊れる音がした。
二人は家のほうに視線を送る。
駆け出そうとした知美の腕を岡崎が掴んだ。
「何か音がするよ」
「今はまだ危険だ。わたしの知り合いが来るまで待とう」
「泥棒かもしれないよ」
岡崎は釈然としない表情を浮かべ、鍵を玄関に差し込んだ。鍵の開く音がし、岡崎は扉に手を伸ばす。だが、彼はそのまま動きを止め、顔を引きつらせていた。
「扉が開かない」
内側から金属のすれ合う音が聞こえた。施錠されたのだとわかる。
「どうして?」
驚いた知美が玄関に手を触れると、滑るように扉が開いた。
「開いた」
そう言い振り返った瞬間、背後から何かに全身をつかまれ、家の中に引きずり込まれる。
そして、知美の正面でガラスが震えた。
扉に触れても微塵も動かない。
「校長先生」
思わず扉を叩くが、ゴムを叩いているかのような感触が両手に残るだけだ。
「どこでも良い。窓を壊してもいいから、外に出なさい」
外から扉を叩く音とともに、岡崎の声が響く。
知美が家の中から出口を探そうと振り返ると、すぐ背後にマリーが立っていたのだ。
「わたしを置いてどこに行っていたの? わたし達友達だよね?」
全てを知る前なら、彼女を怖れ、冷たい言葉を発したかもしれない。
だが、今の知美には彼女に対してそうした態度を取る事は出来ない。
「マリー」
だが、彼女にどう声をかければいいのか分からなかった。
彼女の過去を知ったと言えば、彼女のつらい記憶を呼び起こすだけかもしれないし、岡崎の忠告が知美の言葉を飲み込んだ。
マリーの隣に輝くような栗色の髪の毛をした少女がたっているのに気付く。それは夢の中で見た少女だ。美佐と同じ年だった少女……。
長い間、姿が変わらず、成仏も出来ず、どれだけ苦しんだのか、知美には思いを馳せる事しかできない。
知美の感情があふれ出し、岡崎の忠告が一気に消し飛んでいた。
「友達だよ。それなのに、酷い事を言ってごめん」
マリーは冷めた目で知美を見つめていた。愛らしかった彼女を何がここまでそうさせたのか知美には分からなかった。だが、美佐が約束を破ったことにより、彼女は心に深い傷を負ったのだろう。
彼女のためにももうその日々を終わらせたいと思っていた。
強制でなく、彼女にも納得する形でここから去って欲しかったのだ。そのための方法を知美は一つだけ思いついた。
マリーは知美と二人だけで生きることを望んでいたのだ。
「二人で遠くに行こう」
小学生の自分に生活力などない。遠くに行っても近いうちに死が訪れるだけだとも分かっていた。
だが、それでもマリーの願いを一時的に叶えることで、彼女も満足できるかもしれない。
知美はマリーに手を伸ばすと、そっと抱きしめた。
無機質で、人の体のように熱を帯びることもない。だが、病気がちだった彼女には、理想とも思える体だったのかもしれない。
白い指先が知美の首を這った。
その指は氷のように冷たい。
「嘘なんでしょう? 適当なことばをいって、その場を取り繕って、母親みたいに別の男と結婚をするつもりなんでしょう。わたしを忘れて、邪険にして、消えてほしいと願って、物置の奥においやるに決まっている」
知美はマリーを最初に見つけた状況を思い出していた。
「そんなことしない。ずっと一緒にいる。だってわたしもマリーの気持ちが分かるもの」
「そんなの信用できない。もうここで殺してあげる。もともとそのつもりだったのだから、構わないでしょう?」
「マリーがそれでいいならいいよ」
それは知美の偽りのない本心だった。
「そんな強がり、どこまで続くかしら?」
その指が知美の首が締め上げられる。知美は息苦しさを感じ始めていた。
いっそのこと、一気に殺してほしいとは思うが、それが麻里の抱き続けてきた苦しみだろうと考え、拒まないことにした。
不意にマリーの力がゆるみ、知美はマリーを見た。
「あなたにチャンスをあげる。わたしのことなんてどうでもいいって言いなさいよ。わたしなんか友達じゃない。消えてほしいって。そうしたら、あなたの前から消えてあげる」
「わたしが死んだら、マリーは、麻里さんは少しは楽になるんだよね。だから、いいよ。このまま殺しても」
「そんな気なんてないのに、嘘ばっかり」
「嘘じゃないよ」
「死にたくないんでしょう。わたしの事なんかどうでも良いっていえば、消えてあげる。言いなさいよ。あの女みたいに」
言葉の表現程、きつさは感じない。あの女という表現からも、彼女がその鋭い言葉を知美に向けていないのは分かった。
それが恐らく美佐であることも。
「わたしは生きたいと思ったことなんてなかったよ。マリーも見ていたでしょう? 伯父さんたちはお母さんはわたしを大事に思っていたというけど、今でも実感なんてない。お母さんにはすぐに怒られて、邪魔者扱いされていた。ここに来てからはおじさんは優しくしてくれたけど、他の人はわたしのことなんて嫌っていた。真美だけは優しくしてくれたけど、クラスメイトには悪魔だと言われて、いいことなんて全くなかった。そんなんだから、生きたいとは思わない。だから、わたしが死んだら今度こそ本当の友達になろう。そして、二人で真美にちゃんと謝ろう」
その時、麻里の目元が心なしか光っている気がした。
「泣いているの?」
そう問いかけた知美の目に雨が見えた。空には黒々とした雲が広がる。
知美は身動きが出来ず、目の前のショートカットの二人の少女を見つめていた。
傘をさした切れ長の目をしたきつい印象の少女。その隣にはふっくらとした体つきをした少女が嘲るような目をして立っていたのだ。
「わたしさ、美佐と仲良いから聞いちゃったんだ。あんたと友達でいるのにうんざりなんだってさ。今日も、約束していきたくないって愚痴っていたよ」
きつい目をした少女の言葉に、ふっくらとした少女が笑う。
「そんなことないよ」
弱々しい声が背後から聞こえる。そこに立っていたのはピンクのワンピースを着た麻里だ。彼女の目には涙が浮かんでいた。
「だって来ないじゃない。美佐だって、暇なお嬢様には付き合ってられないのよ。まあ、そのうち来ると思うけど。お嬢様を怒らせると面倒だもんね」
ふっくらとした少女はふふっと笑う。
「何でいつもそういう事ばかり言うの? 美佐ちゃんはそういう子じゃないよ」
「じゃ、本人に聞いてみたら? いつもみたいに怖くて聞けないんだよね」
「雨、ひどくなるんだって。体弱いんだから、家に帰ったら?」
切れ長の目をした少女は話をやめ、鞄から折り畳み傘を取り出した。
「そういえばこんなの入ってたな。この傘、古いから捨てようと思っていたんだ。だからといってあんたなんかに貸してあげないけど。じゃあ、お元気で。そのまま風邪でも引いて、いつもみたいに寝込めば? 本当にか弱いなら、そのまま熱を出して死んじゃえばいいかもよ。そうしたら美佐も自由になれるじゃない」
切れ長の目をした少女がそう告げると、二人は目を合わせて愉快そうに笑い、その場を去っていく。
麻里は二人の後姿を見ながら、涙を浮かべていた。
雨脚が強まり、視界が霞んでも、彼女は泣き止まない。
「言えないけど、きっと来てくれるよ。約束したんだよ」
何度も繰り返し、そう告げる。
「友達だもん」
「麻里ちゃん? どうしたの?」
叫び声が届き、ロングヘアの少女が麻里の肩をつかんだ。優しい目を見て、伊代だとすぐに分かった。
麻里は彼女を見て、寂しそうに笑った後、その場に倒れた。
伊代は麻里の額に触れ、顔を引きつらせた。
「熱あるじゃない」
彼女は麻里を抱き寄せると、辺りを見渡していた。
目の前の雨が止み、辺りが晴れる。そこにいたのは麻里と、もう一人。
知美は相手の顔を確認して、ドキッとする。その少女の顔は知美に良く似ていたのだ。
彼女はソフトクリームを頬張り、笑みを浮かべる。
「美佐ちゃんは樋口さんと古賀さんと仲良いよね」
「まあ、話は良くするね」
「そうだよね」
麻里は何かを言いかけ、口を噤む。
「友達になりたいの?」
「うんん。聞いただけだよ」
麻里はそういうと、寂しそうに笑っていた。
背後で微かな音がし、知美は我に返る。
目の前には寂しそうに笑う麻里の姿があった。
知美は今見た映像を思い出していた。あれは過去の麻里の記憶なのだろうか。
「わたしとあなたは『同じ』気持ちだったんだね。実際は違うんだろうけど」
マリーがそう言うのと同時に背後で扉の開く音がした。
「川瀬さん?」
岡崎が家の中に飛び込んできて、知美に駆け寄る。
知美が辺りを見渡すが、麻里らしき少女はどこにもいない。胸に抱いた人形を見るが、彼女が動くこともない。
「麻里?」
やっと言葉を搾り出す。
そのとき、岡崎とも違う大きな手が差し出される。そこに立っていたのは頭を丸めた目元のはっきりとした男性だった。彼は岡崎と同じ歳頃に見える。
「あの子が選んだ道だ。邪魔をしてやるな」
知美はその言葉に頷いた。
「その人形をこっちに渡しなさい」
知美はマリーを彼に手渡した。マリーを赤子のように抱かかえる。
「あなたは?」
「わたしの知り合いのお坊さんだよ」
彼は杉田と名乗ると、知美の頭を撫でた。
「マリーはどうなったの?」
彼は家の奥を見やると、小さく頷いた。
「少しだけ時間をもらえるかな。この人形はこちらで譲り受けます」
知美は彼の洋服の裾をつかんでいた。
「その人形をどうするの?」
「供養してしかるべき場所に送り届けます。人形は寺のほうで預かります」
「麻里ちゃんを供養できたら、わたしが引き取りたい。だって友達なんだもん」
「少し考えてみると良い。麻里じゃなくて、この人形を引き取ることを」
彼の目には大地に根付く木のように、人の心を不思議と和ませる何かがあった。
知美は今度は彼の顔を見て、うなずいていた。
彼を見送ると、岡崎は知美を先ほど眠っていた布団の場所まで案内してくれた。心臓の動きも正常時に近づいてきていた。
岡崎は知美に少し待つように言い残すと、部屋を出て行った。
少しして、麦茶を入れたコップを持ってくる。
静かな家の中に電話の音が鳴り響く。岡崎は知美に断ると、再び部屋を出て行く。五分ほどで、彼は戻ってくる。
「白井さんは大丈夫だそうだ」
「本当に?」
知美の言葉に、岡崎は力強く頷いた。
「良かった」
知美の目から大粒の涙があふれ出す。岡崎は知美の肩を叩くと、何も言わずに泣き止むまで傍にいてくれた。
「君は家に帰りなさい」
岡崎は知美が泣き止んだ頃、彼女の肩を叩き、そう告げた。
「でも、わたしは」
もうマリーのことは大丈夫なのだろう。だが、将を傷つけ、周りから忌み嫌われている自分がここに残ってはいけないと思ったのだ。マリーが成仏しても、彼女が犯した罪は決して消えないのだ。
「きっと君の伯父さんも伯母さんも悲しむよ」
「伯母さんは、伯父さんが引き取りたいというから面倒を見ただけだと思います。だから、どこか別の場所に行きたい。施設に入れるなら、そっちで暮らしたほうがいい」
「何かあったのかい?」
岡崎は知美を見つめると、優しく問いかけた。
やはり彼は何でも見抜いてしまうと実感する。
今の状態で隠すのも気が咎め、母親の写真の件を含めて、彼にすべてを話した。
彼は全てを聞き終わった後、短くため息を吐いた。
「君の伯母さんはそんなことをしていないと思うよ」
「でも、わたしは確かに見たんです。だから、帰れません」
そのとき、チャイムが鳴る。
「迎えに来たみたいだな」
岡崎は腰を上げながら、そう告げる。彼の言葉に嫌な予感を全身で感じていた。
「誰がですか?」
「君の伯母さんだよ。きっと君の伯母さんも悲しむよ。わたしは、君のお母さんが失踪してからずっと彼女と連絡を取っていたんだ。彼女にとってどれほど君達親子が大きな存在だったのかも知っている。どうでもいいなら、今、白井さんが持ち直したとはいえ予断を許さない状況でこの家には来ないと思う。それこそ、わたしにでも君の世話を頼むか、どこか君を預けてくれる場所を相談してくるはずだよ」
彼の言葉は正論だった。言い返す言葉もない。だが、簡単には信じる事は出来ない。
「君の目で直接見て確かめればいい。本当に彼女が君をどうでも良いと思っているのか」
彼はそれを言い残すと、部屋を出て行った。
伊代が岡崎に案内されて部屋に入ってきた。彼女は入ってくるとすぐに知美との距離を詰める。知美は伊代の顔を見る事が出来なかった。目を逸らしたとき、背中の肩甲骨に温もりが宿る。伊代は知美を抱きしめていた。
「一緒に帰りましょう」
泣いているのではないかと思うほど、弱い声だった。そんな声を出す伊代を今まで知美は見たはなかった。知美の固い決意を揺るがすには十分だった。
だが、心を鬼にして、唇をそっと噛みしめる。
「迷惑がかかるから、帰らない」
「誰が迷惑だって言ったの?」
「周りの人がみんな言っているじゃない。それに伯母さんだって」
知美が涙を喉に詰まらせる。
岡崎は知美の肩に触れると、彼女が語った事を全て代弁してくれた。
「そんなことしてないわよ。わたしはポストに入れたもの。知美ちゃんがそれを持っているの?」
「部屋にある」
「ごめんなさい。何かを勘違いしていたのかもしれない」
彼女は知美の頬に手を当てた。
「でも、これだけは信じて。知美ちゃんまでどこかに行ってほしくないの。美佐ちゃんがいなくなったときのような気持ちを二度と味わいたくない。周りが気になるなら、この町を出ても構わないと思っている」
伊代の手に導かれ、彼女を見た。伊代の目は涙で潤み、儚げに見えた。
岡崎の言っていた自分の判断が正しいのかは分からない。ただ、知美の目には彼女が嘘をついているようには見えなかった。
知美が頷くと、伊代は再び知美を抱きしめ、激しく泣き出した。
滲んだ知美の視界には僅かな笑みを浮かべる岡崎の姿がある。
そして、知美の目からは一筋の涙が流れ落ちた。
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栗色の髪の女の子が河原に腰を下ろしている。その傍には男の子と女の子が軽い口げんかをしていた。
そんな二人を栗色の髪の少女が見つめ、優しく微笑んでいた。それは長い睫毛をした少女で、その奥には吸い込まれそうな金の瞳が覗いている。
「うらやましいな」
彼女は艶のある、キーの高い声でそう呟いた。彼女の言葉が聞こえたのだろうか。二人は言い争いを止めて少女を見る。
少女は、まさか二人が反応すると思わなかったのか、慌てて言葉を加えた。
「ごめんなさい」
「身体悪いの?」
少女は心配そうにその女の子を見た。
「そうじゃなくて、お兄ちゃんがいて羨ましいなって。わたしは一人っ子だから」
二人は気まずそうに目を合わせると、黙ってしまった。
兄弟のいない、この少女の前で喧嘩をしたことを後悔していたのかもしれない。
「麻里ちゃんだって妹みたいなものだよ」
あどけない顔をした顔立ちの割には低い声で少年が言う。
栗色の髪の少女は驚いたようにその男の子を見ていた。彼女の金の瞳が光を帯び、より澄んだものになる。
「そんなつもりじゃなくて。ごめんなさい」
少女は自分がそう言わせたと思ったのだろう。うつむくと、唇を噛んだ。
「麻里ちゃんに気を使っているわけじゃなくて、そう思っているよ」
優しい不安を全て拭い去ってくれそうな声だった。彼の声は昔から変わらないのだ、と感じる。
少女はもう一度顔を挙げ、彼を見た。彼女の金の瞳には先ほどより強い光が集まっている。罪悪感から泣いたのだろうか。それとも嬉しくて泣いたのだろうか。そう問いかけるが答えは分からない。
「本当に?」
少年は少女の前でかがみこむと、少女の頭を撫でた。
「嘘は吐かないよ」
少女の顔が明るくなった。そして、彼女は目の前の男の子に抱きついた。
「ありがとう。お兄ちゃん」
「お兄ちゃん、顔が赤くなってる。いやらしい」
妹はそんな言葉とは裏腹にからかうような笑顔を見せる。
少年の顔が一層赤くなるのが分かった。
「麻里ちゃんが抱きつくからだよ」
だが、少年は相変わらず、少女を引き離そうともしなかった。
「美佐ちゃんもお兄ちゃんも大好き」
そう言うと、栗色の髪の少女は笑っていた。
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