マリーの過去
知美の顔に影が伸びる。知美は人の気配と、まぶしい光にまぶたを叩かれ目を開ける。すると、しわのある男性が覗き込んでいた。彼が誰かはすぐに分かる。
「校長先生? どうして?」
知美は今の事情が呑み込めず、今まで自分が何をしていたのか思い出そうとする。
崖から身を投げた事を思いだし、辺りを見渡した。知美は和風の、壺や掛け軸などの置いてある畳の部屋にいた。その部屋に敷かれた布団で今まで眠っていたようだ。着ていた洋服も泥まみれのワンピースではなく、見た事のない白いシャツと短パンに変わっていた。
「枝に引っかかってたのを、通りかかった人が見つけてね。気が付いて良かったよ」
「マリーは?」
そう急く様子で言葉をつむぐ。
「あの人形のことか。無事だよ」
その時、ふすまが開き、長い髪の毛を一つに結った目鼻立ちのはっきりとした女性が立っていた。
「気づいたんだ。良かった」
女性は弾む言葉を口にし、知美の近くに来ると、額に触れた。
知美は警戒心から体を震わせるが、彼女はそんな知美の反応を気にした様子はない。
「大丈夫だと思うけど、医者に気になるなら見せたほうが良いかも。知り合いに聞いてみようか」
「白井さんに連絡を取ってからにするよ」
「それがいいかもね。お父さんから呼び出しがあって帰るけど、何かあったら呼んでね」
だが、彼女は身動きせずに、知美の頭を撫でた。
「気分は悪くない?」
「大丈夫です」
「今度ゆっくりお話しようね。わたし、おいしいケーキ屋さん知っているんだ。おごってあげるよ」
知美は思いがけない言葉に黙り込んだ。
彼女は黙った知美に嫌そうな顔をせずに、ぽんと知美の頭を軽く叩いた。
そして、またね、というと今度こそ立ち上がり、部屋を出て行った。
岡崎と目が合い、知美は苦笑いを浮かべた。
岡崎は困ったような笑みを浮かべている。
「わたしの姪で、人懐こい子なんだよ。あまり深くは気にしないでいいよ。ここには女物の洋服がないから、持って来てもらったんだ」
姪という言葉に、自分と将の関係を連想した。
「洋服、あの人のなんですか?」
「着ないからもらってもいいし、捨てても良いと言っていたよ」
彼女の笑顔を思い出し、知美は頷いた。
だが、マリーのことが脳裏を駆け巡り、反射的に体を起こそうとした。
「わたし、行かなきゃ」
「どこに?」
「遠くに。そうしないとみんな死んじゃうかもしれない」
知美の言葉に岡崎は眉根を寄せる。
知美の肩に大きな手が置かれる。岡崎は穏やかな瞳で知美を捕らえていた。
「何があった? ゆっくりでいい。話してくれ」
「でも、校長先生に何かあるかもしれない」
彼は目を見張り、首を横に振る。
「君のお母さんがこの町を出て行くときに、最後に会ったのはわたしなんだ。ずっと悔やんでいたよ。彼女に悪い噂が立っているのは知っていた。だけど、その時、わたしには何もできなかった。もう、あの時のような後悔をしたくないんだ」
彼の優しい瞳は、知美の周りで不審なことが起こっても変わらなかった。
彼なりに知美のフォローをしてくれていたことは知っている。
彼が全てを知り、蔑みの表情を浮かべるかもしれない可能性も考えた。
だが、それ以上に彼が変わらないと信じたかったのかも知れない。
知美は単語をつなげながらも今までに起こったことを彼に伝えることにした。話が進むにつれ、岡崎は時折相槌を打ちながら、唇を噛み締めていくのが分かった。次第にその顔色が話に生気を吸い取られていくかのように青ざめていく。
「そうだったのか。だから、君のお母さんは」
彼の悟った表情は知美の知らない事実を知ったのだと感じさせる。
「教えて下さい。どうしてあの人形が話をするのか、どうして人を傷つけたり」
知美は言葉を噛み締める。その喉につっかえた言葉をどうにかして体の外に押す。
「殺そうとするのか」
岡崎は天を仰ぐ。そして、短く息を吐いた。
「体のほうは?」
「大丈夫です」
「わたしはマリーという名前を知っているし、思い当たることはある。だが、証拠はないし、間違っているかもしれない」
「それでも知りたい。お願いします」
彼は知美の懇願に折れたのだろう。ため息を吐くと、辺りを見渡す。
「今からちょっと出かけるけど、ついて来れるかい?」
知美はうなずく。
「マリーは? 置いたままにしていたら危ない」
岡崎は穏やかな口調で言った。
「大丈夫だ。この家にはわたし一人しか住んでいないしね。それにすぐに帰ってくる」
岡崎に説得され、知美は家の外に出る。
彼は車を出してくれた。その車に乗り込むと、エンジンをかける。後部座席には知美の鞄が置かれていたが、マリーの姿はない。
知美は今の状況が呑み込めないながらも、岡崎を信じることにした。
彼は無言で車を走らせる。車が止まったのは洋館の前だ。その近くには見渡すばかりの田んぼと野原が広がっている。一見物語に出てくる城を連想させるが、その建物自体は古ぼけて見えた。
庭の木々は自由に伸び、芝生は手入れをされていないのか伸びきっていた。建物を見渡せば、窓や扉にも蔦が巻き付いており、人が住んでいるようには見えなかった。
知美はその家を見て、小さな声を漏らす。以前伊代と買い物に行こうとしたとき、車から見た家だ。
「ここはわたしの教え子の家だった」
彼は悲しみに沈んだ目でその家を見つめていた。
「少女の名前は橘麻里。彼女の母親が外国の人で、栗色の髪に薄い金の瞳の綺麗な子だったよ」
「麻里って」
知美の脳裏に浮かんだのが、ここに来た時に夢の中で見た、マリーと名乗った少女だった。マリーと麻里。名前があまりに似ていたのだ。
岡崎はゆっくりとうなずいていた。
「人形の持ち主だよ」
岡崎は鍵を取り出し、門の鍵を開ける。低いうなり声が辺りに響く。彼は知美を招き入れ、玄関の扉を開けた。
光が遮断されており、目を凝らさないとどこに何があるのか分からない。かび臭い臭いが鼻をつく。
「家の人は?」
「麻里の亡き後この場所を去ったが、この家は結局売らなかった。娘の思い出の残った場所だから、残しておきたかったのだろう。わたしは彼女の父親と古い付き合いでね、鍵を預かっているんだ。外観だけはと、出来る限りは手入れをしてきたが、なかなか難しいね」
知美は寂しい外観を思い出し、何も言えない気持ちになる。
「君のお母さんはその子のことをマリーと呼んでいたんだ」
知美は目を見張り、岡崎を見る。
彼は知美が問いかける前に、「まずは麻里の部屋に行こう」と伝えた。
二階の一番奥にある部屋に連れて行かれた。その部屋にはベッドや本棚などがそのまま置かれている。それらはほこりをかぶり、長い間放置されていたのが分かる。
知美の視界に机の上に置いてある本が映る。
岡崎はその本を手に取ると、知美に渡した。
「これがその子のつけていた日記だよ」
知美が最初に開いたのはページがよれていたところだ。そこに書いてある文字を見て、胸のあたりがつかまれたような息苦しさを覚える。
皆嫌い。皆大嫌い。
そう乱暴な字で書かれていたのだ。
知美は岡崎を見ると、彼は頷いた。
読めと言いたいのだろう。
知美はページを遡っていくと、文面が一転する。そして、そこには柔らかな文面で、ある女の子の名前が記されていた。
その名前を見て、息を呑んだ。岡崎を見る。
「麻里さんとお母さんは仲が良かったの?」
彼はゆっくりと頷いた。
美佐と遊びに出かけたこと、彼女が病気がちな麻里を心配してよく家に顔をだしていたこと。仲の良い友達の関係が綴られていた。その中で目を引いたのが美佐が麻里に「麻里に似ている」と言い洋人形をプレゼントしたということだ。
「彼女は体が弱くてね、あまり学校にも来られなかったんだ」
楽しさをにじませる文章が悲しみに変わったのは一週間の間だ。
楽しい文章の最後には、美佐と天体観測に行くと書かれている。
知美はその部分を岡崎に見せ、問いかけた。
「お母さんは行かなかったの?」
「結果的にはそうだね。彼女自身も悪気があったわけじゃない。ただ、物事にはタイミングがとても大事だ。あの時も、もっと早く」
知美には岡崎が何を言おうとしているのか分からなかった。
彼は咳払いをして、すまないと告げる。
「白井さんは中学で陸上部に入っていた。その日も部活に出て、彼女を迎えに家まで行くと約束していたんだ」
知美は頷いた。
「橘さんはそれをすごく楽しみにしていて、その日、体調が良かった事もあって、彼女が中学校の帰りに必ず通る道で待っていようとしたんだよ。でも、夏の天気は変わりやすい。待ち合わせの二十分前になって雨が降り出した。白井さんは傘を持っていなかったこともあり、雨が止むまで友達と学校で待っていたんだ。家に迎えに行く予定だったから、少しくらい遅れても平気だという気持ちもあったんだと思う。すぐ止むと思っていたし、まさか橘さんが家から程遠い場所で自分を待っていたことなんて知らなかった」
「麻里さんは?」
「雨に当たって体調を崩していたらしい。君の今の伯母さんに当たる白井伊代さんが通りかかって、彼女を家まで連れて帰ったと聞いた」
「伯母さんも麻里さんを知っているの?」
「年齢が離れていたけど、顔と名前くらいは知っていたはずだよ」
美佐を幼馴染といっていた伊代が知っていてもおかしくない。
だが、彼女の日常を綴った日記がそこで終わっているのを思い出す。
岡崎は知美の気持ちを悟ったのか、小さく頷く。
「彼女の体には堪えたんだろう。それからしばらく寝込んで、白井さんからもらった人形を抱きしめたまま、亡くなったと聞いた」
「じゃあ、二人は約束したのが最後だったの?」
彼はもう一度頷いた。
「お母さんは約束を破ったままお見舞いにも来なかったの?」
「白井さんも家には何度か来たらしい。でも、彼女は母親と病院にいて留守だったんだ。白井さんも気になっていたようだが、その時、通りかかった友人に橘さんは家族と旅行で家を空けていると教えられたと君の伯父さんから聞いた。電話もつながらないし、彼女が信じるには無理もなかったんだと思う。だから、彼女は真に受けて、時間をおいて彼女に連絡を取ろうとしたんだよ。橘さんの両親は彼女がなくなってしばらくは、誰にもその事を言わなかった。わたしが彼女の状態を聞いたのも、彼女がなくなってしばらくしてからだった」
「それってお母さんの友人はわざと嘘を吐いたの?」
「だと思う」
歯切れの悪い言葉に胸が痛んだ。
知美の脳裏には不意に今までの自分の姿が蘇る。知美はいつも美佐を待っていた。仕事で忙しいときも自分を忘れないでいてくれるように、理由を作って話しかけようとしていた。
冷たくあしらわれても、自分のことを忘れて欲しくなかったし、いつかは自分を受け入れてくれるのではないかと思っていた。だが、期待して失望しての連続だった。
麻里も同じような気持ちでいたのではないかと感じたのだ。
「橘さんの両親は、酷く悲しんでいたよ。二人共年を取ってからの子供だったから、その分可愛がっていた。特に、彼女の母親は精神的に堪えたんだろう。彼女が亡くなった後も、娘のごはんを作り、彼女の送り迎えをするために学校へも幾度となく足を運んでいた。そして、いろいろあって、橘さん夫婦はこの地を去ったんだよ」
その時の状況を思い描き、唇を噛んだ。
「校長先生は麻里ちゃんがマリーだと考えているんですか?」
彼はゆっくりと頷く。
「すぐには受け入れがたい面はあるが、そう考えれば納得はできる」
彼は短く息を吐いた。
「わたしの知り合いにそういうのに詳しい人がいてね、何もそう珍しいことではないと言っていた。いつからあの人形がそうなったのかは定かではないし、どうして白井さんがそれを持っていたのかは分からない。ただ、君の母親がこの地を去るときにもその人形を持ったままで、自分を探さないで欲しいと告げたんだ。今の君と同じように、ね」
「麻里ちゃんはお母さんをそんなに恨んでいたの?」
「正直なところ分からない。さっきは言わなかったけど、彼女は白井さんを待っている時にクラスメイトに会ったんだ。その時に、美佐さんについてあることないことを吹きこまれていたらしい。彼女がそれを信じたままだったら、その矛先が美佐さんに向かってもおかしくないのかもしれない」
現状を知る人間はここには一人もおらず、全てが推測でしかない。
麻里の寂しい気持ちが恨みに変わり、美佐を憎んだ。そして、彼女が亡くなった事で、その憎しみの対象が知美に変わったとしたら彼女の気持ちがほんの少しだけ分かる気がした。
岡崎は走り出そうとした知美の腕をつかむ。
「君はもうあの子に会わないほうが良い。家には帰りにくいなら、わたしの姪の家に少しだけお世話になればいい。わたしから事情を話をしておく」
知美は彼がかばんを持たせた理由に気付いた。彼は家を出た時に結論を既に決めていたのだろう。
「どうして? だって、マリーはわたしと同じなの。放っておけない」
「しかし、わたし達の仮定があっていたとして、君がもう一度彼女に会えば、また同じことを繰り返すかもしれない。それが君と彼女にとって良いこととは思えない」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
知美は彼に腕をつかまれたまま涙をこぼす。
「供養をして、しかるべき場所に彼女を辿りつけるようにすべきだと思う。それを伝えたくて、君をここまで連れてきたんだ」
彼の言う事は分かるし、納得もできる。知美は涙を拭うと、必死に呼吸を整えようとした。
「分かった。でも、もう一度だけ、マリーに会いたい。酷いことを言っちゃったから謝りたい」
岡崎は戸惑いを隠せない表情を浮かべながらも、自分の知り合いを呼ぶことを条件に知美にあの家に戻ることを許可していた。




