ただ消えたくて
知美は震える右手を左手で握りしめる。その知美の手を伊代が包み込む。彼女は顔を強張らせながらも、ゆっくりと頷いた。
彼女も将の安否を案じているに違いないのにと考えると、知美の目頭が熱くなってくる。
廊下を駆けてくる足音が聞こえ、髪の毛を二つに結んだ少女が知美と伊代の目の前で足をとめる。彼女がどれ程急いでここにやってきたのかは、彼女の乱れた呼吸が教えてくれていた。
「お父さんは?」
そんな短い言葉でも切れ切れになる。
「大丈夫よ。少し待ちましょう」
伊代はため息混じりに呟く。
優子は知美を睨む。彼女の視線は今まで知美に向けたどんなものよりも鋭く、苦しげに見えた。
「あなたのせいよ」
優子の体は震えていた。
「あなたがいるからお父さんがこんな目にあったのよ」
「止めなさい。優子」
いつもよりも鋭く言い放つ伊代の言葉に何かを感じたのか、彼女は唇を強く結ぶと、知美を睨む。
知美は唇を噛み、立ち上がる。
家族ではない自分はここにいてはいけないのだと分かったのだ。
「ごめんなさい」
知美はそれだけを言い残すと、伊代の呼びとめる声も振り払い、その場から足早に立ち去っていた。
なぜこのようになってしまったのだろう。自分の存在が真美の命を奪い、知美を引き取ってくれた将の命さえも奪おうとしている。
自分が消えればいいんだ。
生きたい気持ちも、この世に未練もどこにもない。
その間に事故にでも遭えば、それはそれでいい。
だが、知美の脳裏を栗色の人形が過ぎる。
マリーを残しておいたら、他の人に危害を加えてしまうかもしれない。そう考えると、彼女の足は将の家に向かっていた。
家に近づくと、あの事故現場が視界に入る。
車は駐車場まで移動されているものの、道路にはガラスの残骸が散らばっていた。その破片が太陽の光を浴びるたびに輝き、事故の記憶を思い起こさせた。
知美は深呼吸をして家の前に立つ。ノブに手をかけると、するりとドアが開く。
鍵を持っていなかったため、扉が開いてたことに胸をなでおろす。
だが、心なしか家の空気がいつもと違う気がした。
知美はわずかに入る太陽の光を頼りに、自分の部屋まで戻る。深呼吸して扉を開けると、彼女は頬に血痕をつけ、机の上に座っていた。
知美は唇を噛む。
「あなたがやったの?」
「どう思う?」
マリーは笑いながらそう言葉を綴る。
「真美を殺したのもあなたなの?」
マリーは答えなかったが、答えないことが答えのような気がしていた。
「優子の首を絞めたのも、岡江君を突き飛ばしたのも、全部あなたのせいなの?」
太陽光の反射を受け、彼女の瞳が時折煌めく。
知美は体の熱が一瞬で奪い去られるような寒気を覚え、肩の付け根の部分を抱いた。
「もう止めて。お願いだから誰も傷付けないで」
「わたしは一人なの。あなたもこれからをずっと一人で過ごすなら考えてあげる。友達も、恋人も家族も作らないなら」
脳裏に蘇ったのは将の言っていた美佐の話だ。
彼女は人を遠ざけていた、と。
彼女にはマリーの声が聞こえていたのだろうか。
知美は唇を噛み締めると、マリーを空いていた鞄の中に突っ込む。
覚悟を決めたの? 良い心がけね
その言葉は耳にではなく、脳に直に文字を刻むように届いていた。
知美は家を飛び出すと走り続けた。一刻も早くこの場所から離れないといけないと思ったのだ。
だが、自分の影が薄くなったのに気付いて、足を止める。
先ほどの刺すような鋭い光がすっかり消失していた。その原因は空に現れた黒い雲だ。青空を黒いうねりのある雲が覆い尽くしていく。
雲から雨が毀れ、知美の頬を濡らす。
突然の雨に戸惑う間に、辺りの景色が霞む。
「このまま雨に溶けれたら良いのにね」
知美はマリーが入ったかばんを握りしめる。
知美は前に歩き続ける。歩く時間に比例して体が重くなっていく。夏なのに手足が冷え、息が上がる。
霞む視界に崖が浮かぶ。奥には青々とした森が連なっていた。
知美はその場所に引き寄せられるように、歩を進めた。
森の入口には私有地につき立ち入り禁止という看板が立てられている。だが、知美はその看板を無視して、森の中に入る。
足を踏み出した知美の足を、潤った大地が呑みこもうとする。足元が滑り、顔や手足に泥が付着する。だが、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
立ち上がると、今度はしっかりと歩を進める。どの方向に行けば目的の場所につくか分からない。だからこそ、ただ前へと歩き続ける。そのたびに、決意を募らせる。
誰ともかかわらずに生きようと思っても傷つけてしまうかもしれない。
だから、マリーの望みをかなえるためには死を選ぶしかないと自覚したのだ。
「どこに行くの? そっちにいっても崖しかない」
「崖があるでしょう」
知美はそういうと、目を細めた。
「冗談だよね? 何を考えているの?」
マリーの声を雨と風の音がかき消していく。
それが妙に心地よく、知美はマリーの言葉に返答しなかった。
その代わり、脳裏にある女性の姿を思い描く。
「お母さん、もうすぐ会えるね。今度は怒らないでくれる?」
今までどんなに悲しいことがあろうと、彼女を思って涙を零したことはなかった。だが、いまだけは素直に涙が出てくる。
目の前からかけてくる雨を含んだ風が、この迷路は長くないと告げてくれていた。
暗闇の森をわずかな光が照らしだす。知美は歩くスピードを速めた。そして、視界を覆っていた森があっという間に消失した。知美の体には先ほど森を殴っていた風がダイレクトに届く。だが、その先は何も見えない。
知美はその場所に歩を進める。下から強い風が吹き上げ、知美の髪の毛を揺らした。
眼下にあるのは青々とした芝生だ。そこにはごつごつとした岩が転がっている。飛び降りれば頭から落ちる事は知っていた。この場所はマンション三階分の高さの差があるので、助かる可能性は低いだろう。この先に楽になれる、誰も傷つけない方法を確信した。
「ちょっとそんなところに居たら危ないでしょ。何しているのよ」
「わたしはこれから本当に一人になる。これでいいよね。友達だもん。わたしが死んだら、成仏してね」
そう手に持っていたバッグをなぞる。バッグからマリーの声が聞こえてきたが、その長い言葉を理解する余裕が知美にはなかった。
「ごめんね。真美、伯父さん」
真美が庇ってくれ最初の友達になってくれたのに、彼女の命を奪ってしまったことによる後悔の念。
将は近所の目などがあるにも関わらず、知美を招きいれてくれ、今までの事情を知ってもあんなに優しく接してくれた。
伊代も手紙の件から察するに知美を良く思っていたわけではないだろう。それでも将の事故後も優しく接してくれたこと。
様々な気持ちが入り乱れるが、今しようと思っている行動は正しいと言い聞かせる。
「知美、わたしは」
言葉が短かったからだろう。その言葉を理解することはできた。
「マリー、一緒に消えよう」
知美は深呼吸をすると、風の煽る場所に歩を進めた。




